紀伊国衆・玉置小平太(永直)は、豊臣秀吉の紀州征伐で手取城を失う。関ヶ原で西軍につき改易されるも、大坂の陣で豊臣方に加担。その後、徳川家康の命で尾張藩士となり、家名を再興した。
戦国時代の紀伊国にその名を刻んだ武将、玉置小平太(たまき こへいた)。彼の生涯を理解するためには、まず彼が属した玉置一族の特異な出自と、その権威の源泉を解き明かす必要がある。玉置氏の歴史は、紀伊と大和の国境にそびえる霊峰・玉置山と分かちがたく結びついている 1 。この山に鎮座する玉置神社は、初代神武天皇が東征の際に十種神宝を鎮め「宝玉を置いた」ことにその名が由来するとされ、修験道の開祖である役行者や真言宗の開祖・空海も修行したと伝わる聖地である 2 。古くから熊野三山の「奥の院」とも称され、山岳信仰の要として絶大な宗教的権威を誇っていた 3 。
玉置氏の家伝は、一族の祖を壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の平資盛の子とし、彼が熊野に逃れ、玉置神社の神官となったことに始まると伝える 1 。これは、在地領主が自らの家系の権威付けのために貴種を称する典型例であるが、一族の精神的支柱を形成する上で重要な役割を果たした。
史料上、玉置氏が歴史の表舞台に明確に現れるのは室町時代である。彼らは、時の将軍に直属する武力集団「奉公衆」として活動していた 1 。奉公衆は、在地にあって強大化しがちな守護大名を牽制する役割も担っており、玉置氏は紀伊守護であった畠山氏にとって厄介な存在であった。文安元年(1444年)、玉置氏の惣領が管領・畠山持国の邸宅で殺害される事件が起きており、その理由は「国に於て野心ある故なり。公方奉公の者なり」と記されていることから、両者の深刻な対立関係がうかがえる 1 。
やがて玉置氏は、大和国十津川の拠点から紀伊国日高川流域へと進出する。山間部を拠点とする「山地玉置氏」(鶴ヶ城拠点)と、日高川を下って平野部に進出した「和佐玉置氏」(手取城拠点)に分かれ、小平太はこの和佐玉置氏の嫡流にあたる 10 。彼らは在地の川上氏を攻略して手取城を築き、日高川流域の支配者としての地位を確立した 7 。
このように、玉置氏の権力基盤は、熊野の山岳信仰に根差した地域社会での精神的権威と、室町幕府奉公衆としての中央政権との直接的な結びつきという、二重の構造を持っていた。この構造は、安定期には大きな強みとなったが、中央の権威が揺らぎ、実力が全てを支配する戦国乱世においては、常に厳しい選択を迫られる脆弱性をも内包していた。この構造的ジレンマこそが、後に玉置一族を襲う悲劇の遠因となるのである。
玉置小平太の父、玉置直和(たまき なおかず)の時代、玉置氏は紀伊国日高郡において、一つの頂点を迎えていた。兵部大輔を称した直和は、紀州最大級の山城と謳われる手取城を本拠としていた 8 。この城は東西約500メートル、南北約250メートルにも及ぶ広大な城郭で、本丸跡からは日高平野を一望でき、ライバルであった湯川氏の居城・亀山城の動向さえも窺うことができたという 9 。
当時、紀南地方で玉置氏と勢力を二分していたのが、亀山城を拠点とする湯川直春であった。直和は、この湯川直春の娘を正室に迎えることで同盟関係を構築し、日高地方における勢力の安定を図った 16 。この婚姻同盟は、地域の平和を保つための典型的な政略であり、永禄5年(1562年)の教興寺の戦いでは、直和は湯川氏らと共に紀伊守護・畠山高政方として三好長慶軍と戦うなど、両氏は共同歩調をとっていた 16 。
しかし、織田信長が天下統一への道を突き進むと、紀伊の国衆を取り巻く環境は激変する。旧来の守護・畠山氏の権威は失墜し、国衆たちは親織田か反織田かで激しく揺れ動いた 8 。玉置氏と湯川氏が築いた婚姻同盟は、あくまで紀伊国内の勢力均衡を目的とした地域レベルの枠組みであった。豊臣秀吉という、外部からの巨大な軍事的・政治的圧力に直面した時、この同盟がいかに脆いものであったか、彼らはやがて知ることになる。天下統一という巨大な奔流は、地域秩序を根底から覆し、それぞれの家が存亡を賭けた選択を迫られる時、かつての同盟がいとも容易く崩壊する運命にあることを、この後の歴史が証明することになる。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉は10万を超える大軍を率いて紀州に侵攻した。根来寺、太田城といった紀北の抵抗拠点を次々と攻略した秀吉軍が紀南に迫ると、玉置氏と湯川氏の運命は決定的な岐路に立たされる 1 。
湯川直春は一族を集めて軍議を開いた。この席で、玉置直和や白樫氏、神保氏らは、秀吉の圧倒的な軍事力を前にして恭順(降伏)を主張した。しかし、直春は「一戦も交えずに降るは末代の恥辱、先祖の名を穢す」として、徹底抗戦を宣言する 1 。ここに、長年の同盟関係にあった両氏は決裂した。直和は時代の流れを読み、一族の存続のために秀吉への恭順を表明したのである 8 。
娘婿である直和の「裏切り」に、湯川直春は激怒した。同盟者から一転、敵となった直和を討つべく、直春は手取城へと軍勢を差し向けた 1 。天正13年3月25日、両軍は坂ノ瀬(さかのせ)で激突する(坂ノ瀬の合戦)。玉置勢は奮戦するも衆寡敵せず敗れ、手取城での籠城を余儀なくされた。三日三夜にわたる攻防の末、城は湯川勢によって焼き払われ、直和は落ち延びた 7 。
この悲劇には、いくつかの逸話が残されている。一つは、直和に嫁いでいた直春の娘の物語である。父である直春から離縁して実家に戻るよう勧められたが、彼女は「夫に添い遂げる」とこれを一蹴し、燃える城と運命を共にする覚悟を示したという 21 。また、落城の際に城から避難する玉置一族の幼子が恐怖のあまり泣き叫んだことから、その峠道が「泣き児ガ峠(なきごがとうげ)」と呼ばれるようになったという伝承も残っている 7 。
秀吉に恭順したにもかかわらず、同族の手で城を焼かれ、領地を蹂躙された玉置氏の立場は複雑であった。戦後、直和は秀吉の弟である豊臣秀長に仕えることになり、手取城も返還された 15 。しかし、その所領はかつての一万石から三千五百石(一説に三千石)へと大幅に削減されるという厳しい処遇であった 16 。
この結果に不満を抱いた直和は、家督を子の 小平太 に譲り、高野山へ出家してしまう 15 。この時、小平太は名を
永直 (ながなお)と改めたとされ、若くして一族の命運を背負い、歴史の表舞台に立つことになった 19 。
父・直和の「恭順」という現実的な判断は、結果として「同族との戦闘」「落城」「減封」という三重の苦難を招いた。この理不尽とも言える結末を目の当たりにした小平太永直の胸中には、いかなる思いが去来したであろうか。父が選んだ豊臣への臣従という路線を継承し、新たな主君の下で忠勤に励むことで、いつか一族の栄光を取り戻すという強い意志を抱いたとしても不思議ではない。この紀州征伐における「喪失」の記憶こそが、彼のその後の人生における行動原理、特に豊臣家への忠誠心と、失地回復への執念を形成した重要な原体験となった可能性は極めて高い。
家督を継いだ玉置小平太永直は、父に代わり、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の家臣となった 22 。当時の秀長は、大和・和泉・紀伊の三国にまたがる100万石超を領する大大名であり、「大和大納言」と称される豊臣政権の重鎮であった 24 。永直は、この秀長の家臣団の一員として、その本拠地である大和郡山城(奈良県大和郡山市)に拠点を移し、新たなキャリアをスタートさせたとみられる。郡山に現存する秀長の墓所(大納言塚)は、この地が秀長家臣団の中心であったことを物語っている 22 。
しかし、永直の新たな門出は、主家の相次ぐ不幸によって早くも揺らぐことになる。天正19年(1591年)、秀吉にとって唯一無二の補佐役であり、政権の安定の要であった秀長が病死する 25 。家督は養子の秀保が継いだが、その秀保もわずか4年後の文禄4年(1595年)に17歳の若さで早世してしまった 28 。
主君とその跡継ぎを相次いで失った秀長家臣団は、事実上解体され、再編を余儀なくされた。永直もまた、新たな主を探すか、豊臣家の直臣となるかの選択を迫られた。史料によれば、彼は「のちに秀吉の家臣となった」とあり、豊臣家の直参として仕える道を選んだようである 22 。
秀保の死後、大和郡山城主となったのは、豊臣政権の五奉行の一人、増田長盛であった 29 。永直が秀吉の直臣となった後も、旧主の領地であった大和郡山を治める増田長盛とは、地理的にも立場的にも何らかの関係があった可能性は高い。この関係が、後の関ヶ原の戦いにおける彼の行動に影響を与えたことも十分に考えられる。
小平太永直の豊臣政権下でのキャリアは、頼みとした主君の相次ぐ死によって、常に不安定なものであった。秀長家臣団という強力な「派閥」の消滅は、政権内における彼の立場を相対的に弱体化させたであろう。このような経験は、彼に豊臣家という巨大組織の一員として埋没するのではなく、あくまで「紀伊国衆・玉置家の当主」としての自己認識を強く持ち続けさせたのではないか。彼の忠誠の対象は、豊臣家という組織そのものよりも、直接恩義を受けた秀長や、その血を引く秀頼という「個人」に、より強く向けられていたと推測される。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展した。この歴史的な決戦において、玉置永直は西軍に属して戦うことを決断する 16 。
彼の決断の背景には、いくつかの要因が複合的に絡み合っていたと考えられる。第一に、豊臣秀長・秀吉から受けた恩顧に報いるため、豊臣家の正統な後継者である秀頼を守る西軍に与するという、武士としての義理があった。第二に、旧主の領地・大和郡山城の主であった増田長盛が西軍の首脳の一人であったことから、その指揮下に入るのは自然な流れであった。そして第三に、もし西軍が勝利すれば、紀州征伐で失った旧領の回復、あるいはそれ以上の加増が期待できるという、一族再興への強い動機があった。
関ヶ原の戦いにおける永直の具体的な動向を示す直接的な史料は見当たらない。しかし、彼が属した可能性が高い増田長盛は、西軍の総大将・毛利輝元と共に大坂城の西の丸に詰めて、城の守備にあたっていた 32 。このことから、永直もまた、大坂城の守備兵力の一部として、秀頼の身辺警護や城の防衛という重要な任務を担っていた可能性が考えられる。
しかし、この時、主君である増田長盛は西軍に与しながら、裏では徳川家康に石田三成らの挙兵計画を密告するという二心的な行動をとっていた 33 。この主君の裏切りが、永直の立場や戦後の処遇にどのような影響を与えたかは定かではないが、彼が極めて複雑な状況下に置かれていたことは想像に難くない。
関ヶ原での西軍の敗北は、永直の運命を再び暗転させた。彼は西軍に与した他の多くの大名と同様に「改易」、すなわち領地をすべて没収され、大名としての地位を失ったのである 16 。これにより、南北朝時代から紀伊国日高郡に根を張り、戦国の世を生き抜いてきた国衆・玉置氏の歴史は、事実上、一旦の終焉を迎えた。
永直の西軍参加は、彼の経歴と立場を考えれば、ほぼ必然的な選択であった。そして、この「改易」という結果は、彼から大名としての地位、領地、家臣という物理的な拠り所をすべて奪い去った。残されたのは、「玉置家当主」という名と、旧領への断ちがたい想い、そして豊臣家への恩義だけであった。この「すべてを失った」という状況こそが、彼を浪人として、最後の望みをかけて大坂城へと向かわせる直接的な原因となる。関ヶ原での没落は、彼の物語の終わりではなく、最終章である大坂の陣への序曲に過ぎなかったのである。
関ヶ原の戦いで全てを失い、浪人の身となった玉置永直。しかし、彼の戦いはまだ終わってはいなかった。慶長19年(1614年)に大坂冬の陣、翌20年(1615年)に大坂夏の陣が勃発すると、彼は豊臣秀頼に仕えるため、再起を期して大坂城に入城した 16 。これは、関ヶ原で失ったものすべてを取り戻すための、文字通り最後の賭けであった。
永直が大坂方にとって価値ある存在だったのは、単なる一人の武将としてだけではなかった。大坂の陣と連動して、紀州では徳川方の新領主・浅野氏に対し、旧領主や土豪たちが蜂起する「紀州一揆」が発生していた 35 。永直は、この一揆において「旧領との関係から暗躍していた」とされている 19 。彼の役割は、大坂城内から紀州の旧家臣や支持者たちに連絡を取り、一揆を煽動・組織化することにあったと推測される。これは、彼が領地という物理的な基盤を失っても、かつての領主として地域社会に築き上げた人脈や名声という「社会関係資本」が、依然として戦略的な価値を持っていたことを示している。彼の「玉置」という名前そのものが、徳川方の後方を撹乱する「兵器」となり得たのである。
しかし、永直の最後の夢も、大坂夏の陣における豊臣方の敗北と大坂城の落城によって、無残にも打ち砕かれた 37 。彼が再起の望みを託した紀州一揆もまた、浅野長晟の軍によって鎮圧され、多くの参加者が処罰された 35 。大坂の陣は、永直にとって旧主への最後の奉公であると同時に、自らの持つ無形の資産を最大限に活用し、失われた領地を回復しようとする、国衆としての最後の、そして最も熾烈な戦いであった。
大坂城落城。二度にわたる天下を賭けた戦いで敗者となり、その生涯は尽きたかに見えた。しかし、玉置小平太永直の物語は、ここから驚くべき展開を見せる。彼は落城の混乱を生き延び、敵方であった徳川体制下で、新たな人生を歩み始めるのである。
伝承によれば、永直は徳川家康の十男・徳川頼宣が治める紀州藩、あるいは九男・徳川義直が治める尾張藩に仕官したとされる 19 。特に注目すべきは、尾張藩の記録に残る一文である。そこには、「紀伊国熊野の国人で、近江国蒲生郡で3000石を領していた
玉置小平太が家康の命で尾張藩に附属された 」と明確に記されている 39 。これは、彼の仕官が単なる浪人の自己売り込みによるものではなく、天下人となった家康自身の直接的な命令によるものであったことを示しており、二度も敵対した武将に対する処遇としては極めて異例であった。
なぜ家康は、豊臣方として最後まで抵抗した永直を助命し、あまつさえ御三家筆頭である尾張藩に附属させたのか。単なる温情とは考えにくい。そこには、家康の高度な政治的計算があったと推測される。一つは、永直が紀州一揆を煽動し得たように、彼が旧領に持つ影響力を危険視し、信頼の厚い尾張藩の監視下に置くことで、紀州の反徳川勢力を牽制・無力化する狙いがあった可能性。また、関ヶ原の際に主君・増田長盛が家康に内通していたことから、永直自身も何らかの形でその内通に関与し、情報提供の見返りとして戦後の身柄を保証されていたというシナリオも考えられる。彼の「再生」は単なる幸運ではなく、彼の持つ能力や情報、そして旧領への影響力という価値を、家康が巧みに利用し、新たな支配体制の中に封じ込めた結果であったのかもしれない。
尾張藩士となった玉置小平太(永直)の家(本家)は、残念ながら後に断絶したと記録されている 39 。しかし、分家して一時「津田」を名乗っていた一族の者が、尾張藩主・徳川光友付きの年寄に取り立てられ、後に再び「玉置」に復姓した 39 。こうして、玉置氏の血脈は尾張藩士として存続し、その名は江戸時代を通じて後世に伝えられることとなった。
玉置小平太永直の生涯は、紀州征伐、関ヶ原、大坂の陣という三つの大きな歴史の転換点において、常に敗者の側に身を置きながらも、その度に生き延び、ついには徳川の世で家名を再興させた、類い稀な強靭さと生命力を持つ武将の物語である。彼は、時代の激流に翻弄された一地方国衆の悲劇を体現すると同時に、いかなる逆境にあっても活路を見出し、家名を未来へ繋ごうとした、一人の人間の執念と驚くべき適応能力の証左として、歴史にその名を刻んでいる。
西暦(和暦) |
年齢(推定) |
出来事 |
所属・主君 |
身分・知行 |
関連史料 |
(生年不詳) |
0 |
紀伊国手取城主・玉置直和の子として誕生。初名・小平太。 |
玉置氏 |
城主の子 |
16 |
1585 (天正13) |
不詳 |
紀州征伐。父・直和が家督を譲り出家。家督を相続し永直と名乗る。 |
豊臣秀長 |
手取城主・3500石 |
15 |
1591 (天正19) |
不詳 |
主君・豊臣秀長が死去。 |
豊臣秀保→豊臣秀吉 |
豊臣家臣 |
22 |
1600 (慶長5) |
不詳 |
関ヶ原の戦いで西軍に属す。 |
西軍(増田長盛隊か) |
豊臣家臣・3500石 |
16 |
1600 (慶長5) |
不詳 |
西軍敗北により改易。浪人となる。 |
なし |
浪人 |
19 |
1614-15 (慶長19-20) |
不詳 |
大坂の陣で豊臣方として大坂城に入城。紀州一揆で暗躍。 |
豊臣秀頼 |
大坂方牢人 |
19 |
1615 (元和元) 以降 |
不詳 |
大坂城落城後、徳川家康の命により尾張藩に附属される。 |
徳川家康→尾張藩 |
尾張藩士 |
22 |
(没年不詳) |
不詳 |
尾張藩士として死去。本家は断絶するも、分家が玉置姓を再興。 |
尾張藩 |
尾張藩士 |
39 |