王直は明の海禁政策下で密貿易を主導し、日本の平戸を拠点に海上王国を築いた。明に捕らえられ処刑されたが、日中で評価が異なる国際人。
「倭寇の首領」「売国奴」――16世紀の東アジア史にその名を刻む人物、王直(おうちょく)、またの名を五峰(ごほう)には、長らくこのようなレッテルが貼り付けられてきた。彼について一般的に知られる概要は、「はじめ中国・明の貿易業者であったが、明の禁海政策に抵抗して海賊行為に走り、中国沿岸などを荒らし回った。のち謀略により帰国、殺された」というものである [ユーザー提供情報]。この理解は、歴史の一側面を捉えてはいるものの、彼の活動の全貌と、その行動が内包する複雑な歴史的意義を解き明かすには不十分である。本報告書は、この一面的な人物像を超克し、王直という存在を、当時の東アジア世界を動かした巨大な構造変動の中に位置づけ、その実像に多角的に迫ることを目的とする。
王直が生きた16世紀は、東アジア海域が歴史的な転換点を迎えた時代であった。この時代は、三つの巨大な力が衝突し、新たな秩序が形成される過渡期として特徴づけられる。第一に、陸地の大帝国・明朝が堅持する、国家が貿易を独占し民間人の海上活動を一切禁じる「海禁」という名の静的な秩序。第二に、その国家統制の隙間で活発化し、国境線を無化するダイナミックな環シナ海交易ネットワーク、すなわち「後期倭寇」に代表される私貿易勢力の勃興。そして第三に、大航海時代の波に乗り、東アジア世界に到達したポルトガル人をはじめとする西欧勢力の出現である。
王直は、まさにこの三つの歴史的潮流が交錯する結節点、あるいは巨大な地殻変動が生んだ断層の上に現れた人物であった。彼の行動は、単なる個人の利害追求や反乱に留まらず、これら三つの力が織りなす緊張関係そのものを体現していた。したがって、彼を単に「倭寇」という枠組みの中だけで語ることは、その歴史的本質を見誤ることに繋がる。
本報告書では、王直の生涯を時系列に沿って丹念に追うことで、彼の行動原理、歴史的意義、そして現代に至るまで日中間で相克を続ける評価の分岐点を、史料に基づき重層的に解き明かす。第一章では、王直を育んだ明の海禁政策と徽商(きしょう)文化、そして後期倭寇の実態を概観し、彼が登場する歴史的舞台を明らかにする。第二章では、一介の商人であった彼が、いかにして東シナ海の覇者「五峰船主」へと変貌を遂げたのかを追跡する。第三章では、彼の活動の重要な拠点となった日本の平戸・五島に焦点を当て、現地の戦国大名やポルトガル人との関係性を分析する。第四章では、明朝の総督・胡宗憲との宿命的な対決と、その悲劇的な最期に至る謀略の過程を詳述する。そして第五章では、中国と日本で大きく評価が分かれる現状を分析し、なぜ彼が「国賊」と「英雄」という両極端なイメージを背負うことになったのかを考察する。
これらの分析を通じて、王直を時代の制約の中で自己の生存と理想を追求した一人の国際人として再評価し、彼が東アジア史に残した複雑な軌跡の全体像を提示することが、本報告書の最終的な目標である。
西暦 |
和暦/元号 |
王直の動向 |
明朝の動向 |
日本の動向 |
ポルトガル・欧州の動向 |
不明 |
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安徽省徽州府歙県にて誕生 1 。 |
海禁政策を国是とする。 |
戦国時代。 |
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1540年 |
天文9年 |
塩商に失敗後、仲間と密貿易を開始 3 。五島に来住したとされる 3 。 |
嘉靖帝の治世。海禁は依然として厳しい。 |
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1542年 |
天文11年 |
平戸領主・松浦隆信の招きで平戸に移る 3 。 |
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1543年 |
天文12年 |
種子島に漂着したポルトガル船の通訳(筆談)を務めた「五峰」が王直とされる 7 。 |
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種子島に鉄砲伝来。 |
ポルトガル商船が日本に初来航。 |
1548年 |
天文17年 |
明の官僚・朱紈による双嶼港掃討を逃れ、海賊集団を組織 3 。 |
浙江巡撫・朱紈が双嶼港の密貿易拠点を攻撃。 |
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1549年 |
天文18年 |
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フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸、キリスト教布教を開始 10 。 |
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1550年 |
天文19年 |
ポルトガル船を平戸に誘致 6 。 |
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平戸にポルトガル船が初入港。 |
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1552年 |
天文21年 |
平戸で国号を「宋」、自らを「徽王」と僭称 1 。舟山諸島を拠点とし「浄海王」とも称す 2 。 |
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1553年 |
天文22年 |
明の総兵・兪大猷の攻撃を受け日本へ敗走 1 。太倉などを襲撃 3 。 |
兪大猷が王直の拠点・烈港を攻撃。 |
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1554年 |
天文23年 |
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胡宗憲が浙江巡按監察御史に任命される 1 。 |
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1556年 |
弘治2年 |
胡宗憲の招撫工作に応じ、配下の毛海峰らを先に帰国させる 1 。 |
胡宗憲が総督に就任。王直への招撫工作を本格化 13 。 |
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1557年 |
弘治3年 |
胡宗憲の誘降に応じ、舟山列島へ入港 3 。 |
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ポルトガルがマカオの居住権を獲得 10 。 |
1558年 |
永禄元年 |
杭州にて逮捕、投獄される 1 。 |
朝廷内で王直の処遇をめぐり論争が起きる 2 。 |
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1560年 |
永禄3年 |
1月22日(嘉靖38年12月25日)、杭州官巷口にて斬首される 1 。 |
胡宗憲は王直の処刑を上奏。世宗皇帝が裁可。 |
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1562年 |
永禄5年 |
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胡宗憲の幕下で『籌海図編』が刊行される 14 。 |
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1567年 |
永禄10年 |
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隆慶帝、海禁を一部緩和(福建の月港を開港) 15 。 |
豊臣政権誕生後、日本の統一が進む。 |
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王直という稀代の人物を理解するためには、まず彼がその中で生まれ、活動し、そして翻弄された16世紀の東アジアという特異な時代環境を把握する必要がある。それは、巨大な大陸国家・明が掲げる理想と、海域世界に渦巻く現実との間に、深刻な乖離が生じていた時代であった。
明朝の対外政策の根幹をなしたのは、初代皇帝・洪武帝が確立した「海禁」政策であった 16 。この政策の目的は、第一に、建国当初から沿岸部を悩ませていた倭寇の活動を封じ込めること、第二に、国家間の関係を「朝貢」という一元的な儀礼秩序の中に組み込み、中華皇帝の権威を国際的に示すことにあった。具体的には、民間人の海外渡航や私的な海外貿易を厳しく禁じ、政府が発行する勘合符を持つ朝貢船のみに限定的な交易を許可する体制であった 16 。『大明律』には、「片板も海に入るを許さず」
[17, 18] とされ、違反者には家財没収の上、辺境への強制移住という厳しい罰則が定められていた 17 。
しかし、この厳格な理念とは裏腹に、現実は大きく異なっていた。広大な海岸線全域でこの禁令を徹底することは物理的に不可能であり、沿岸地域の官僚たちは密貿易業者と結託して賄賂を受け取り、その活動を黙認することが常態化していた 2 。さらに重要なのは、沿岸に暮らす民衆の意識である。土地が痩せ、農業だけでは生計を立てられない地域の人々にとって、海外との交易は生活の糧そのものであった。浙江省沖の密貿易拠点・双嶼港について、「三尺の童子すらも双嶼の衣食の父母たるを知る(幼子でさえ、双嶼港が我々の生活を支えてくれていることを知っている)」
[18] と記録されているように、彼らにとって密貿易は「悪」ではなく、むしろ「善」であり、それを取り締まる官憲こそが生活を脅かす「仇」と見なされていた。
このように、明の海禁政策は、国家が掲げる統制の論理と、海と共に生きる人々の経済的現実との間に、埋めがたい溝を生み出していた。この政策は、意図とは逆に、正規の交易ルートを閉ざすことで、かえって非合法な「影の市場」を巨大化させる土壌を提供したのである。国家が管理する秩序の外側に、法が及ばない広大な経済空間が生まれ、そこには独自の論理と力学が働いていた。王直は、まさにこの明朝が自ら作り出した矛盾の海から現れた、必然の存在であったと言える。彼の活動は、海禁という国策がいかに民意から乖離し、破綻していたかを物語る何よりの証左であった。
王直の出自を考える上で、彼が「安徽歙県柘林村」の出身であるという事実は、単なる地理情報以上の重要な意味を持つ 1 。この地は、明清時代を通じて中国全土で活躍した「徽商(きしょう)」の故郷として知られる徽州府に属する。徽商は、晋商(山西商人)と並び称される中国史上最も影響力のあった商人の一つであり、その成功の背景には独特の文化と精神性があった。
徽商の最大の特徴は、血縁・地縁に基づく強固な団結力と、儒教倫理を深く内面化した「賈而好儒(こにしてじゅをこのむ)」、すなわち「商売をしながら儒学を好む」という精神である 21 。彼らは単に利益を追求するだけでなく、その商業活動を儒教的な「義」の観念によって正当化しようと試みた。いわゆる「以義制利(義をもって利を制す)」という価値観であり、誠実さや信用を重んじ、不正な手段で利益を得ることを戒め、稼いだ富を故郷のインフラ整備や一族の救済といった社会貢献に還元することを理想とした 21 。
また、徽州は山がちで耕地が少なく、「十三、四にして外に一擲す(13、4歳で家の外に放り出される)」という言葉が残るほど、多くの若者が故郷を離れて商売で身を立てることを運命づけられていた 21 。このため、彼らは同郷者同士で強固なネットワークを築き、互いに資本や情報、人材を融通し合うことで、異郷での厳しい競争を勝ち抜いていったのである 24 。
王直の生涯を振り返ると、この徽商の精神性が彼の行動原理に深く根ざしていたことがうかがえる。彼が当初、同郷の葉宗満らと共同で事業を始めたこと 3 、そして後に明朝に対し、単なる密貿易の黙認ではなく、国家が公認する「互市(ごし)」の実現を執拗に要求したこと 1 は、その典型である。彼の要求は、単なる自己の安全や利益の確保に留まらない。それは、非合法な「海賊」の汚名を雪ぎ、公的な「義」のある形で「利」を得るという、徽商としての根源的な欲求の表れであったと解釈できる。日本において彼が「大明国の儒商」として振る舞ったという記録 1 も、この自己認識を裏付けている。王直の悲劇は、この徽商的な論理が、国家の論理と最後まで相容れることがなかった点に起因しているのである。
王直を語る上で避けて通れないのが「倭寇」という存在である。しかし、一般的に想起される「日本の海賊」というイメージは、特に王直が活動した16世紀の「後期倭寇」の実態とは大きく異なる。
歴史学上、倭寇は14世紀から15世紀にかけての「前期倭寇」と、16世紀の「後期倭寇」に大別される。前期倭寇が南北朝の動乱期にあった日本人を主体としていたのに対し、後期倭寇の構成員は、その大半が王直のような海禁政策下で生計の道を絶たれた中国の商人や沿岸民衆であった 8 。当時の記録によれば、後期倭寇の集団に占める日本人の割合は、一説には三割程度に過ぎなかったとされる 8 。彼らは日本の戦国大名や海賊と連携し、その武力を利用することもあったが、活動の主導権はあくまで中国人側にあった。
彼らの主たる目的も、単なる沿岸部での無差別な略奪ではなかった。その活動の中核にあったのは、当時の東アジアで最も利益率の高い交易ルート、すなわち日本の「銀」と中国の「生糸」を交換する中継貿易であった 8 。明朝は銀の国外流出と生糸の密輸出を厳しく禁じ、日本との直接交易も断絶していたため、この巨大な需要と供給のギャップを埋める役割を、後期倭寇が担っていたのである。彼らは、ある側面では沿岸を脅かす「海賊」であったが、別の側面では、国家の統制が及ばない海域で国際経済を動かす「武装商人」でもあった。
この後期倭寇という存在の二重性こそ、王直という人物の複雑さを理解する鍵となる。彼は、明朝の視点から見れば法を破り国家の権威に挑戦する「賊」であったが、海域世界の経済的現実から見れば、その物流を担う不可欠な「商人」であった。王直自身も、自らを「国家のために盗賊を追い払う者であり、盗賊ではない」と主張しており 1 、この自己認識の乖離が、彼の生涯を貫く根源的な矛盾となっていた。
一介の塩商の失敗から、東シナ海に君臨する「海上王」へ。王直の半生は、明朝の政策と海域世界の現実が衝突する中で、一個人がいかにして時代の寵児となり得たかを示す劇的な物語である。
王直の正確な生年は不明であるが、その誕生には非凡さを示す伝説が残されている。彼の母が、大きな星が懐に飛び込む夢を見て彼を身ごもったという逸話である 1 。これは後世の創作である可能性が高いものの、彼が早くから並々ならぬ人物と見なされていたことを示唆している。
史実として確認できる彼のキャリアの出発点は、故郷・徽州の商人が多く手掛けた塩の専売事業であった。しかし、この試みは失敗に終わる 3 。国家による厳しい統制下にあり、既得権益が絡み合う国内市場での挫折は、青年王直に大きな転機をもたらした。彼の目は、国家の規制が緩く、より自由で大きな利益が見込める「外」の世界、すなわち海へと向かうことになる。
嘉靖19年(1540年)頃、王直は同郷の葉宗満らと手を組み、広東で船を建造。硝石や硫黄、生糸、綿製品といった禁制品を積み込み、日本やシャム(タイ)、その他東南アジア諸国との密貿易に乗り出した 1 。当初、彼はまだ独立した勢力ではなく、浙江沖の双嶼港を拠点としていた許棟や李光頭といった先行する密貿易組織の配下として活動し、国際航海のノウハウや人脈を着実に蓄積していった 3 。この下積み時代が、後の飛躍の礎となったのである。
当時の東シナ海における密貿易の心臓部が、浙江省寧波府沖の舟山諸島に位置する双嶼港であった。この港には、王直のような中国人商人のみならず、日本の博多商人、そして大航海時代の波に乗って東漸してきたポルトガル商人までもが集い、一大国際交易センターとして未曾有の繁栄を謳歌していた 3 。王直もこの地で頭角を現し、特に日本人との信頼関係を築いていったとされる 3 。
しかし、この自由な交易の楽園は長くは続かなかった。嘉靖27年(1548年)、密貿易の根絶を期す明の官僚・朱紈(しゅがん)が、大艦隊を率いて双嶼港に大規模な掃討作戦を敢行した 1 。この攻撃によって港は壊滅し、リーダーであった許棟らは捕縛・処刑された。この危機に際し、王直は辛くも難を逃れ、散り散りになった密貿易商人たちを巧みにまとめ上げた。彼は、許棟らが築いた勢力基盤とネットワークを事実上継承し、独立したリーダーとして歴史の表舞台に躍り出ることになる。
この朱紈による双嶼港掃討は、明朝の意図とは全く逆の結果をもたらした。平和的(ただし非合法)な交易拠点を力で破壊したことは、商人たちに、生き残るためにはより高度な武装と、明の権力が及ばない、より安全な拠点が必要であることを痛感させた。この弾圧は密貿易を根絶するどころか、それをより先鋭化・大規模化させ、王直というカリスマ的な指導者の下に武装集団を結集させる強力な触媒として機能したのである。危機は、彼を単なる一商人から、自らの力で海に秩序を築く武装集団の首領へと変貌させる決定的な転機となった。
独立した勢力となった王直は、その力を急速に拡大させていく。彼の船団の規模は、「長さ120歩(約180メートル)、2000人を収容でき、甲板の上では馬を走らせることができた」と記録されるほどの巨大なものであった 1 。これは、彼が単なる海賊の頭目ではなく、一大海上勢力の支配者であったことを示している。
そして彼は、自らの権威を内外に示すため、驚くべき行動に出る。日本の平戸や薩摩を拠点としながら、国号を「宋」と定め、自らを「徽王(きおう)」と僭称したのである 1 。さらに後には、浙江沖の定海を拠点とした際に「浄海王(じょうかいおう)」とも名乗った 2 。彼は配下に官職を授けるなど、明の皇帝制度を模倣した擬似的な国家体制を構築しようとさえした 20 。
この「王」の僭称は、単なる誇大妄想や権力欲の表れとして片付けるべきではない。それは、明朝が海禁政策によって事実上統治を「放棄」した海域に、自らが新たな秩序をもたらす支配者であるという、王直の強い自己認識の表明であった。当時の東シナ海は、彼の許可なくしては航行できないと言われるほどであり、「海上之寇、非受(王)直節制者、不得存(海上の海賊は、王直の統制を受けなければ存在できなかった)」 1 とまで評された。彼は、法の及ばない無法地帯と化した海に、武力と経済力を背景とした独自の法と秩序(彼の基準による)を打ち立てたのである。明の皇帝が陸の支配者であるならば、自分は海の支配者である――。王直の僭称には、明朝の権威に正面から対峙する、もう一つの「王権」を海上に樹立しようとする壮大な意志が込められていたと解釈することができる。彼は、もはや単なる密貿易商人でも海賊でもなく、事実上の「海上王」として東シナ海に君臨していたのであった。
明朝の厳しい追撃を逃れた王直にとって、新たな活動拠点として選ばれたのが日本であった。当時の日本は戦国時代の動乱の最中にあり、中央の権力が弱体化していた。この政治状況が、王直のような国家の枠組みに属さない「非国家主体」にとって、格好の活動舞台を提供したのである。
明の官軍による双嶼港掃討後、王直は新たな安住の地を求めて東へ向かった。嘉靖19年(1540年)、彼は日本の五島列島に来住したとされ 3 、その後、嘉靖21年(1542年)には、肥前国(現在の長崎県)の平戸を治める戦国大名・松浦隆信(まつら たかのぶ)の招きに応じて、その本拠地を平戸へと移した 3 。
この両者の出会いは、互いの利害が完全に一致した戦略的提携であった。松浦隆信にとって、王直がもたらす莫大な富(貿易利益)と、鉄砲をはじめとする最新の軍事技術は、周辺のライバル大名との抗争を勝ち抜き、領国を拡大・安定させるためのまたとない切り札であった 6 。一方、王直にとって平戸は、明の司法権が全く及ばない安全な活動拠点であり、船団の補給や修理、そして交易品の集積を行うための理想的な基地であった。
この共存共栄の関係は、平戸の町に劇的な変化をもたらした。王直の強力なネットワークと仲介により、それまで一介の漁村に過ぎなかった平戸は、瞬く間にポルトガル船などが来航する国際貿易港へと変貌を遂げた 27 。王直自身も平戸の城下、現在の鏡川町に中国風の壮麗な邸宅を構え、その栄華を極めたと伝えられている 28 。この王直と松浦隆信の提携は、16世紀の東アジアにおいて、国家の統制の外側で「非国家主体」と「地方権力」がいかにして結びつき、独自の経済圏を形成し得たかを示す典型的な事例である。彼らは、明の海禁という共通の障壁に対抗するため、互いのリソース(王直の富と国際ネットワーク、松浦の領地と政治的庇護)を提供し合い、平戸を事実上の「自由貿易特区」として機能させたのである。
王直の活動を語る上で、ポルトガル人との関係は極めて重要である。特に、日本の歴史を大きく変えた「鉄砲伝来」において、彼が果たした役割は看過できない。
天文12年(1543年)、日本の種子島に一隻の中国船が漂着し、乗船していたポルトガル人によって初めて鉄砲がもたらされた、というのが通説である。この時、言葉の通じないポルトガル人と島主・種子島時尭との間で、砂浜に漢字を書いて筆談を行い、通訳を務めたのが「五峰」と名乗る明の儒者であったと、『鉄炮記』に記されている 9 。この「五峰」こそ、王直本人、あるいはその配下の有力者であったと考えられている 7 。この逸話は、王直がこの時点で既にポルトガル商人との間に深い繋がりを持ち、彼らの航海に同乗、あるいは案内するほどの関係を築いていたことを強く示唆している。
鉄砲伝来への関与は、彼が単なる密輸業者ではなかったことを物語っている。彼は、異文化・異言語間のコミュニケーションを仲介し、当時の最先端技術(鉄砲)とその情報(使用法や価値)を扱う、高度な「国際ブローカー」であった。彼はモノ(生糸や銀)を動かすだけでなく、ヒト(ポルトガル商人)、情報(航路)、そして技術(鉄砲)をも動かす、国際的なネットワークの結節点に位置していたのである。
この後、王直は自らのネットワークを駆使して、ポルトガル商人を積極的に平戸へと誘致した。天文19年(1550年)のポルトガル船の平戸初入港は、王直の手引きによるものであったとされ 6 、彼は名実ともに日本の南蛮貿易の扉を開いたキーマンとなった。
王直が日本、特に九州北西部に築いた拠点は、彼の海上王国にとって不可欠なものであった。彼の号である「五峰」は、彼が最初に拠点とした五島列島に由来するという説があり 7 、この地への彼の思い入れの深さがうかがえる。
彼の活動の痕跡は、今日でも史跡として長崎県の平戸市や五島市に残されている。「王直の屋敷跡」とされる場所は、彼が日本でいかに豪奢な生活を送っていたかを想像させる 28 。また、屋敷跡の近くには、日本の伝統的な井戸とは明らかに形状が異なる「六角井戸」が現存する 11 。この中国式の井戸は、五島列島の福江島にも同様のものが確認されており 35 、王直ら中国人海商がこの地に居住し、彼らの文化が持ち込まれていたことを示す貴重な物的証拠となっている。
これらの史跡は、王直の活動が単なる海上での交易に留まらず、日本の地域社会に深く根を下ろし、文化的な影響さえ与えるものであったことを物語っている。彼は日本の地にあって、故郷である明国の皇帝に比肩するほどの威勢を誇っていたのである。
日本を拠点に東シナ海の覇者として君臨した王直であったが、その存在を大陸の龍、すなわち明朝が許すはずはなかった。彼の勢力拡大は、そのまま明朝の威信失墜を意味したからである。事態を収拾すべく投入された一人の有能な官僚、胡宗憲との対決は、王直の運命を悲劇的な結末へと導いていく。
王直が日本に拠点を移し、その統制力が直接及ばなくなった中国沿岸部では、かえって倭寇の活動が激化の一途をたどった。これは「嘉靖大倭寇」として知られ、明朝を震撼させた 1 。北京の朝廷は、これを王直の命令によるものと断じ、彼の存在を国家に対する最大の脅威と見なした。
この国難ともいえる事態に際し、切り札として倭寇対策の総責任者(浙江総督)に任命されたのが、胡宗憲(こそうけん)であった 1 。彼は単に武力で敵を殲滅するだけの武人ではなく、地理学者の鄭若曽らを幕僚に集め、謀略、離間、懐柔といったあらゆる手段を駆使して目的を達成しようとする、冷徹な現実主義者であった 13 。彼の登場が、王直との間の壮大な心理戦の幕開けを告げる。
胡宗憲の戦略は巧みであった。彼はまず、王直の有力な配下であった徐海(じょかい)らに対し、偽手紙や愛人を利用した離間の計を仕掛け、彼らを同士討ちさせて自滅に追い込んだ 13 。一方で、本丸である王直本人に対しては、武力ではなく懐柔策、すなわち「招撫(しょうぶ)」をもって臨んだ。
その心理戦は、王直のアキレス腱を的確に突くものであった。胡宗憲は、中国本土に残されていた王直の母と妻子を捕らえながらも、殺害せずに手厚く保護した 13 。そして、使者として蒋洲(しょうしゅう)らを日本へ派遣し、家族が無事であることを王直に伝えさせた 1 。家族の安否を気遣う王直が、喜びのあまり涙を流したと記録されている 1 。さらに胡宗憲は、王直が長年渇望していた「互市(国家公認の貿易)」の開設を許可する用意があることをほのめかし、彼の帰順を促した。
家族の安全と、自らの貿易活動の正当化。この二つの魅力的な提案に、王直の心は大きく揺れ動いた。彼は使者に対し、「私はもともと乱を起こすつもりはなかったが、官軍が私を追い詰め、家族を捕らえたために帰る道を失ったのだ」と、自らの苦境を訴えた 1 。徽商としてのアイデンティティを持つ彼にとって、無法者の汚名を返上し、国家に認められた商として活動できるという見通しは、抗いがたい魅力を持っていた。熟慮の末、王直は胡宗憲の招撫に応じる決意を固める。
この一連の交渉は、明朝中央の硬直した「理念」と、現場責任者である胡宗憲の柔軟な「現実主義」との間の深刻な断絶を浮き彫りにしている。北京の朝廷にとって、王直は国家に反逆した許されざる「賊」であり、討伐すべき対象でしかなかった。しかし、現場で倭寇の脅威と直接対峙する胡宗憲は、王直が海を実効支配する「王」であることを誰よりも理解していた。彼にとって、王直を殺害して海をさらなる混沌に陥れるよりも、その絶大な影響力を利用して海上を安定させる方が、はるかに合理的で現実的な解決策だったのである 13 。胡宗憲の招撫は、王直をこの現実主義的な秩序再編のパートナーとして迎え入れるための、本心からの交渉であった可能性が高い。しかし、この両者の思惑は、巨大な国家の論理の前にもろくも崩れ去ることになる。
嘉靖36年(1557年)、王直は胡宗憲の約束を信じ、まず養子の王滶(毛海峰)らを先遣隊として帰国させた後、自らも日本を発ち、明への帰順のため舟山列島に入港した 3 。しかし、彼が杭州に到着した途端、事態は急変する。倭寇に対し強硬な姿勢をとる巡按御史の王本固(おうほんこ)が、胡宗憲の意向を無視して王直を逮捕し、投獄してしまったのである 1 。
王直の身柄が「現場(胡宗憲)」から「中央(朝廷)」の問題へと移管されたことで、彼の運命は決定づけられた。朝廷では、胡宗憲ら穏健派が主張する「王直を赦免し、その力を海防に活用する案」と、王本固ら強硬派が主張する「国賊として厳罰に処すべしという案」とが激しく対立した 2 。しかし、倭寇による被害に苦しむ江蘇・浙江地方の官民の間に渦巻く王直への憎悪は凄まじく、胡宗憲が賄賂を受け取って王直を赦免しようとしているという噂まで流れる始末であった 14 。この強大な世論の圧力の前に、胡宗憲もついに自らの主張を断念し、王直の処刑を上奏せざるを得なくなった 1 。
獄中の王直は、自らの潔白を訴える『自明疏』を書き上げ、「私はただ海で利益を求め、商品を売り、人々と利益を分かち合っただけだ。国家のために辺境を守り、賊を誘引して侵略したことなど断じてない」と堂々と主張した 1 。彼は最後まで自らの正当性を信じて疑わなかった。嘉靖38年12月25日(西暦1560年1月22日)、王直は杭州の官巷口にある刑場へと引き出された 1 。処刑の直前、彼は息子との最後の面会を許された。息子に抱きつき、金の簪を与えると、「不意典刑茲土!(まさかこの地で処刑されるとは!)」と嘆息したという 2 。その最期は、死ぬまで屈することのない、堂々としたものであったと伝えられる。
明朝の論理では、首領である王直を処刑すれば、長年の懸案であった倭寇問題は解決に向かうはずであった。しかし、現実は全く逆の方向へと進んだ。
王直の死の報が海上に伝わると、彼の養子である毛海峰は激怒し、人質として預かっていた胡宗憲の側近を惨殺して報復した 1 。そして何よりも、王直という絶対的な統制者を失った東シナ海は、彼の部下であった者たちや、彼によって抑えられていた小規模な海賊たちが、それぞれ勝手に行動を開始する、群雄割拠の無秩序状態へと陥った。結果として、倭寇による沿岸部への侵攻は、王直の生存時よりもかえって激化し、被害はさらに深刻化したのである 1 。
この事実は、極めて逆説的ではあるが、王直が単なる「問題の原因」ではなく、海上に独自のルールをもたらす一種の「秩序の担い手」であったことを証明している。彼は、無数の海賊・密貿易業者を統制する「重し」の役割を果たしていた。明朝は、この「影の秩序」を破壊しただけで、それに代わる新たな秩序を海上に構築する能力も意思も持ち合わせていなかった。したがって、王直の処刑は、問題解決どころか、状況を致命的に悪化させる最悪の選択であったと言わざるを得ない。
胡宗憲自身も、この結末を予期していたのかもしれない。王直の死後、彼は自ら海辺に出向き、その死を弔って慟哭したと伝えられている 1 。その涙は、自らの謀略によって一人の傑物を死に追いやったことへの悔恨か、あるいは、自らが描いた海上秩序再編の夢が、国家の硬直した論理の前に潰えたことへの絶望であったのだろうか。いずれにせよ、王直の死は、一つの時代の終わりと、より深い混沌の時代の始まりを告げるものであった。
王直の生涯は、その死後もなお、安息を得ることはなかった。彼の歴史的評価は、それを見る者の立場、すなわち国や地域によって180度異なり、現代に至るまで激しい論争の対象となっている。この評価の分岐は、王直という人物の客観的な功罪以上に、彼を評価する側のアイデンティティや歴史観を映し出す「鏡」として機能している。
中国における王直の評価は、時代と共に大きく揺れ動いてきた。明朝の公式見解を引き継ぐ伝統的な評価は、極めて厳しいものであった。彼は「倭寇を誘引し、国を裏切った売国奴」、すなわち「漢奸(かんかん)」として、歴史上の反逆者のリストに名を連ねてきた 1 。国家の秩序に背き、外国(日本)の勢力と結託して沿岸を荒らしたという行為は、中華の価値観において最も許されざる罪と見なされたのである。
しかし、20世紀後半、特に改革開放政策以降の中国において、この伝統的な評価に見直しの動きが現れる。市場経済化が進む中で、王直は、明朝の硬直した海禁政策という国家の規制に抵抗し、自由な交易を求めた「海洋企業家」あるいは「自由貿易の先駆者」として、肯定的に再評価されるようになったのである 39 。彼の活動は、閉鎖的な体制を打ち破ろうとする進取の気性に富んだ精神の表れとして、新たな光を当てられた。
この二つの相容れない評価は、現代中国において今なお生々しい対立として存在している。その象徴的な事件が、2005年に発生した「王直墓破壊事件」である。2000年、王直とゆかりの深い日本の長崎県五島市の有志が、彼の故郷である安徽省歙県の地に、日中友好の証として王直の墓を建立した 1 。しかしその5年後、「王直は中国の罪人であり、日本人が墓を建てることは中国への侮辱だ」と主張する二人の大学教員によって、墓石に刻まれた名前の一部が削り取られるという事態が発生した 1 。
この事件は、王直の評価が、単なる過去の歴史解釈の問題ではなく、現代中国のナショナリズムと複雑に絡み合った、極めて政治的な問題であることを白日の下に晒した。一方に、国家への忠誠を絶対的な価値とする伝統的な愛国史観があり、もう一方に、グローバルな経済活動を肯定する新たな価値観がある。王直という一人の歴史上の人物が、現代中国社会が内包するイデオロギーの断層を映し出す存在となっているのである。
中国における複雑な評価とは対照的に、日本、特に王直が活動の拠点とした平戸における彼の評価は、一貫して肯定的である。この地において、王直は「倭寇の首領」ではなく、町の繁栄の礎を築いた恩人、「大明国の儒商」として記憶され、称えられている 1 。
平戸の松浦史料博物館前には、今も王直の銅像が建てられており 1 、彼の功績を讃える記念行事も毎年行われている 2 。これは、彼の活動が日本側、とりわけ平戸の領主であった松浦氏とその領民に、経済的な繁栄という実利をもたらしたという紛れもない事実に根ざしている。日本の戦国大名にとって、彼は海外の富と技術をもたらしてくれる重要なビジネスパートナーであり、その出自や明朝との関係は二の次であった。
このように、王直に対する評価は、彼がもたらした影響をどの立場から見るかによって全く異なる様相を呈する。明朝という国家の視点から見れば、彼は秩序を乱す反逆者であった。しかし、平戸という地方権力の視点から見れば、彼は富をもたらす英雄であった。この評価の分岐は、歴史が一つの絶対的な真実を持つのではなく、複数の、時には矛盾する「物語(ナラティブ)」の集合体であることを示している。
視点(国・地域) |
評価 |
キーワード |
根拠・背景 |
象徴的モニュメント・事件 |
中国(伝統的・公式見解) |
否定的 |
漢奸、売国奴、倭寇の首領 |
国家(明朝)への反逆。倭寇を誘引し沿岸部を荒廃させた。近代以降の国民国家意識とナショナリズム。 |
王直墓破壊事件(2005年) 1 |
中国(近年の再評価) |
肯定的 |
海洋企業家、自由貿易の先駆者 |
明の海禁政策への抵抗。閉鎖的な体制を打ち破ろうとした開拓者精神。改革開放以降の市場経済化と価値観の多様化。 |
- |
日本(特に平戸) |
肯定的 |
大明国の儒商、恩人、海商 |
平戸に国際貿易をもたらし、町の繁栄の礎を築いた。南蛮貿易のキーマン。地域にもたらされた経済的利益を重視。 |
松浦史料博物館前の王直像 1 |
この評価の対立構造を分析すると、それが王直自身の客観的な功罪を正確に反映しているというよりは、むしろ彼を評価する側の国家や地域が、自らの「現在の物語」を補強するための鏡として、王直という歴史を利用している構図が浮かび上がってくる。中国の「漢奸」という評価は、「外国勢力と結託して国家を裏切る者」を許さないという、近代以降に形成された強い国民国家の物語における典型的な悪役として王直を位置づける。一方、日本の平戸における「儒商」という評価は、「海外との交流を通じて繁栄した」という地域の歴史的アイデンティティを肯定し、それを観光資源としても活用するための物語における理想的な英雄として彼を描き出す。いずれの評価も、16世紀の価値観や文脈から王直を理解しようとするものではなく、現代の視点から彼を「再解釈」したものである。したがって、王直の評価をめぐる相克は、王直自身の問題というよりも、日中両国(あるいは地域)が、歴史をいかにして自らのアイデンティティの一部として構築し、利用しているかという、極めて現代的な問題を我々に提示しているのである。
本報告書で詳述してきたように、王直の生涯は、「倭寇の首領」という単一のレッテルでは到底捉えきれない、極めて多層的で複雑なものであった。彼は、単なる海賊でもなければ、単なる商人でもなかった。彼は、明の海禁という国家の統制が生み出した矛盾の海を舞台に、国境線を越えて活動し、東アジアの海に独自の秩序を築こうとした、武装海商集団の卓越したリーダーであった。
彼の行動原理は、常に複数のアイデンティティと欲求の間で揺れ動いていた。一つは、故郷の文化に根差した「徽商」としての自己認識。彼は非合法な活動に身を置きながらも、国家に公認された「義」のある交易を最後まで渇望した。もう一つは、国家の規制から自由になり、広大な海で利益を追求しようとする「商人」としての野心。そして、その願いが国家の硬直した論理の前に打ち砕かれた時、彼は明朝の権威に対抗する「海上王」として振る舞った。彼は、国家の論理と個人の経済活動が激しく衝突した時代の矛盾そのものを体現する存在であった。
王直の活動が歴史に与えた意義は大きい。彼の存在と抵抗は、明朝の海禁政策がいかに現実から乖離し、限界に達しているかを白日の下に晒した。皮肉なことに、彼の死からわずか7年後の1567年、明朝はついに海禁政策を一部緩和し、福建の月港を開港して民間人の海外渡航を限定的に認めるに至る 15 。王直という最大の抵抗勢力を排除したことで、逆に統制緩和へと舵を切らざるを得なくなったとすれば、彼の悲劇的な死は、歴史の転換を促す一つの遠因となったと評価することも可能であろう。彼は、国家主権がまだ海域にまで絶対的に及んでいなかった時代における、もう一つの「権力」の可能性を示したのである。
王直の物語は、500年の時を超えて、現代を生きる我々にも多くの普遍的なテーマを問いかけている。グローバル化が加速する世界における、国家による規制と自由な経済活動との相克。ナショナリズムと国際協調との間の緊張関係。そして、一つの歴史的事実が、それぞれの国の政治的・社会的文脈の中でいかに多様に解釈され、記憶され、時には政治的に利用されるかという問題。時代に翻弄され、英雄と国賊という両極の評価を背負い続けたこの国際人の肖像は、今なお我々に深い思索を促す、示唆に富んだ歴史のテクストであり続けている。