本報告書は、戦国時代の武将、甘利虎泰(あまり とらやす)について、その出自、武田信虎・信玄父子への臣従と武功、人物像、さらには彼の子孫や関連史跡に至るまでを詳細に調査し、論じるものである。甘利虎泰は、甲斐武田氏の重臣として、特に武田信玄の勢力拡大期において板垣信方と共に「両職」と称される最高幹部の地位にあり、武田家の軍事・政治両面にわたり重要な役割を担った人物である。
本報告の構成は、まず虎泰の出自と甘利氏の歴史的背景を概観し、次いで信虎時代、信玄時代それぞれにおける虎泰の事績と評価を追う。特に、信玄初期の信濃攻略における主要な参戦譜、とりわけ彼の最期となった上田原の戦いについては詳細に記述する。さらに、諸史料に見られる虎泰の人物像や逸話を紹介し、その多面的な評価を試みる。最後に、虎泰死後の甘利氏の動向と、彼に関連する史跡や顕彰の状況について触れ、総括として甘利虎泰の歴史的意義を考察する。
調査にあたっては、『甲陽軍鑑』、『高白斎記』(『甲陽日記』とも)、『甲斐国志』などの基本史料に加え、関連する古文書や近年の研究成果を参照し、多角的な視点から甘利虎泰の実像に迫ることを目指す。特に『甲陽軍鑑』の記述については、その史料的価値に関する議論を踏まえ、慎重な扱いを心がける。
甘利虎泰が属した甘利氏は、甲斐源氏の系譜を引き、武田氏の庶流、あるいは一門に連なる名族とされる 1 。その本貫地は、甲斐国巨摩郡甘利荘(現在の山梨県韮崎市旭町上條北割に所在する大輪寺周辺と比定される)であった 3 。この地名は、甘利氏の歴史的基盤を示すものである。
甘利氏の祖とされるのは、甲斐源氏の棟梁・武田信義の子である一条次郎忠頼である 2 。忠頼は治承・寿永の乱において源頼朝に呼応して活躍したが、元暦元年(1184年)6月、鎌倉において頼朝の刺客により謀反の疑いで誅殺された 2 。この事件は、勢力を拡大する甲斐源氏に対する頼朝の警戒感の表れと見られている 6 。忠頼の子である行忠も父に連座して常陸国に配流され、翌元暦2年(1185年)4月に殺害されたと伝わる 6 。
忠頼・行忠父子の死後、甘利荘は幕府に接収され、鎌倉時代後期には北条氏得宗領となった 6 。しかし、南北朝時代の訴状史料である「八坂神社記録」所収の社家記録裏文書には、甘利荘が「忠頼の子孫」に返付されたという先例が記されており、一時的に甲斐源氏の一族の手に戻った可能性が示唆される 7 。ただし、この「忠頼の子孫」が具体的に甘利行忠の系統を指すのか、あるいは忠頼の従弟で一条氏の名跡を継いだ一条信長の系統を指すのかは判然としない 6 。この一連の出来事は、甘利氏が名門の出自でありながらも、その歴史の初期において大きな試練を経験したことを物語っており、こうした背景が戦国期における甘利虎泰の武田家への忠誠心や、家名再興への強い意識に影響を与えた可能性も考えられる。また、甘利荘が一度は北条氏の支配下に入りながらも、後に甲斐源氏関連の者に返付されたという事実は、鎌倉時代から南北朝期にかけての甲斐国内における権力構造の複雑な変動と、その中での甘利氏(あるいは関連一族)の潜在的な影響力の存在をうかがわせる。
一条忠頼・行忠父子の誅殺により、甘利氏の系譜は一時的に史料上から不明瞭となる。戦国時代に甘利虎泰が登場するまでの間の具体的な系譜については、『続群書類従』所収の「武田系図」によれば、甘利行忠の子・行義の後は、頼高、頼行、宗信と続くとされるが、それ以降の詳細は不明である 6 。甘利虎泰の直接の父については諸説あり、例えば『甲斐国志』では虎泰の父は不明とされている 8 。このように、虎泰に至るまでの甘利氏の具体的な動向や系譜には、史料的な制約から未解明な点が多い。
甘利虎泰は、武田信虎の時代から武田家に仕えた重臣である。信虎の初陣から側近として従軍し、当時内乱状態にあった甲斐国の統一事業に大きく貢献したとされている 2 。この時期の活躍が、後の虎泰の武田家中における地位を築く礎となったと考えられる。
軍記物である『甲陽軍鑑』には、天文7年(1538年)に諏訪氏や小笠原氏が甲斐へ侵攻したとされる「韮崎の戦い」において、虎泰が二番合戦で手柄を立てたと記されている 3 。ただし、この韮崎の戦いについては、他の確実な史料からは確認されておらず、その史実性については慎重な検討が必要である 3 。
信虎の時代、甘利虎泰は板垣信方、飯富虎昌、小山田昌辰(あるいは飯富虎昌の弟である山県昌景とする説もある)らと共に「武田四天王」の一人と称されたと伝えられている 1 。この「武田四天王」という呼称は、後代の顕彰的な意味合いが強い可能性も指摘されているが 3 、少なくとも虎泰が信虎政権下において、板垣信方らと並び称されるほどの武勇と将才を認められ、武田家の中核を担う武将として認識されていたことを示唆している。信虎時代からの重臣としての経験と実績は、疑いなく後の信玄時代における「両職」という最高位への抜擢の基盤となった。特に、甲斐統一戦における貢献は、虎泰の武田家中における地位を確固たるものにする上で極めて重要であったと言えるだろう。
天文10年(1541年)、武田家において大きな転機が訪れる。当主であった武田信虎が、嫡男である晴信(後の信玄)らによって駿河へ追放され、晴信が新たな国主として擁立されたのである。この政変において、甘利虎泰は板垣信方らと共に中心的な役割を果たしたとされている 2 。『甲陽軍鑑』には、虎泰が信虎追放の際に一時的に迷いを見せたものの、最終的には晴信に味方したという記述がある 12 。この記述の真偽はともかく、主君押込という重大事に際して、譜代の重臣である虎泰が晴信方についたことは、クーデターの成功に不可欠であり、その後の晴信政権における彼の地位を決定づける大きな要因となった。
武田晴信の治世が始まると、甘利虎泰は譜代家老として重用され、板垣信方と共に「両職(りょうしき)」と呼ばれる武田家の最高職に就いたと伝えられている 4 。この「両職」の具体的な職務内容や権限については、残念ながら詳細を記した一次史料に乏しい。しかし、諸記録から推察するに、軍事指揮権のみならず、国政の重要事項にも関与し、総大将である信玄を補佐する極めて重要な立場であったと考えられる 18 。
近年の研究では、柴辻俊六氏による「武田氏の「両職」と「両在所」―武田氏の家臣団編成に関する一考察―」(『戦国史研究』70号、2015年)や、同氏の著書『武田氏の家臣団と家臣』などが、「両職」を含む武田氏の家臣団編成について詳細な分析を行っている 20 。これらの研究は、「両職」が武田家の統治システムにおいて、単なる名誉職ではなく、実質的な権能を持った特異な地位であった可能性を示唆している。板垣信方と甘利虎泰という、信虎時代からの経験豊富な宿老二人を最高職に据えることで、若年で家督を継いだ信玄の政権基盤を安定させ、軍事・内政両面での円滑な運営を目指した武田家の集団指導体制、あるいは譜代重臣による合議制の一端を反映していたのかもしれない。
表1:武田家主要役職比較(推定を含む)
役職名 |
推定される職務内容・権限 |
代表的な人物(史料に見える例) |
根拠史料例 |
両職 |
家中の最高職。軍事・政治両面で当主を補佐し、広範な権限を有した可能性。総大将に準じる立場。 |
板垣信方、甘利虎泰、原昌胤(信玄晩年、山県昌景と共に) |
11 |
侍大将 |
一定規模の兵力を指揮する上級武士。合戦における部隊指揮官。 |
飯富虎昌、小幡虎盛など多数 |
2 |
足軽大将 |
足軽部隊を指揮する武将。 |
山本勘助(『甲陽軍鑑』)、横田高松など |
3 |
公事奉行衆 |
民政・訴訟など、領国統治における行政実務を担当。 |
(具体的な虎泰の関与は不明だが、両職として広範な政務に関与か) |
15 (役職名として記載) |
勘定奉行衆 |
財政・経理を担当。 |
跡部勝資(勝頼期に筆頭)など |
15 (役職名として記載、跡部勝忠は勝頼期) |
御旗奉行衆 |
合戦における軍旗の管理・守護を担当。 |
(史料に具体的な人物名散見) |
15 (役職名として記載) |
御鑓奉行衆 |
合戦における当主の馬廻りや、鑓隊の指揮など。 |
(史料に具体的な人物名散見) |
15 (役職名として記載) |
この表は、甘利虎泰が就いた「両職」が、武田家臣団の中でいかに高い地位にあったかを示している。
甘利虎泰は、単なる勇猛な武将としてだけでなく、優れた軍略家としても評価されている。青年時代の信玄に対し、合戦における駆け引きや戦術を指南したという伝承も残る 2 。この伝承が事実であれば、虎泰は信玄の軍事的才能の開花に少なからず影響を与え、後の「甲斐の虎」と恐れられた信玄の用兵術形成の一翼を担った可能性が考えられる。実際に虎泰が率いた甘利隊は精強で知られ、「戦わずして敵が逃げ出す」とまで評されるほどの武威を誇ったという 2 。これは、虎泰自身の卓越した統率力と軍事的手腕を物語るものである。
甘利虎泰は、武田信虎・信玄の二代にわたり、武田家の主要な合戦の多くに参加したとされる歴戦の将であった 4 。
武田晴信(信玄)が家督を相続して以降、本格化する信濃侵攻において、甘利虎泰は中心的な役割を担った。天文11年(1542年)の諏訪氏攻略戦では、諏訪頼重が籠る桑原城攻めなどに参加したと考えられている 23 。『甲陽軍鑑』には、この諏訪侵攻に関連して「瀬沢の戦い」での虎泰の奮戦が記されているが、この合戦の史実性については他の確実な史料による裏付けが乏しく、疑問視する説もある 3 。
続く佐久郡への侵攻においても、虎泰の具体的な役割を直接示す一次史料は限られている。しかし、信濃侵攻全体における彼の重要性を鑑みれば、佐久郡の諸城攻略(例えば天文8年(1539年)からの飫富虎昌らによる侵攻 25 や、天文9年(1540年)の板垣信方による臼田城・入沢城攻略と前山城築城 26 など)にも何らかの形で関与し、武功を挙げた可能性は高いと言えるだろう 14 。
天文15年(1546年)8月(資料により天文16年とも 27 )、武田信玄が信濃国佐久郡の志賀城主・笠原清繁を攻撃した際、関東管領上杉憲政が派遣した救援軍と武田軍が衝突したのが小田井原の戦いである。この戦いで甘利虎泰は、板垣信方らと共に武田軍の主力として上杉方の援軍を寡兵で迎撃し、これを大勝のうちに破ったと伝えられる 14 。虎泰はこの時、百騎の兵を率いていたとされる 4 。この勝利は、武田軍の信濃における勢力拡大を一時的に有利に進めるものであったが、翌年に訪れる悲劇の序章ともなった。
天文17年(1548年)2月14日(旧暦)、武田晴信は信濃国小県郡に侵攻し、北信濃の雄・村上義清と上田原(現在の長野県上田市)で激突した 3 。この戦いは、武田信玄の生涯における数少ない敗戦の一つとして知られている。
合戦の序盤は武田軍が優勢であったとの記録もあるが 30 、武田軍の先陣を務めた板垣信方が、油断からか、あるいは村上軍の戦術にはまり深追いした結果、反撃を受けて討死した 7 。板垣隊の崩壊は武田軍に動揺を与え、戦況は一気に村上軍有利へと傾いた。
この危機的状況において、甘利虎泰は主君・武田晴信の本陣(あるいは晴信自身)を守るため、才間河内守(才間信綱とも)、初鹿野伝右衛門らと共に奮戦したが、衆寡敵せず討死を遂げたとされる 3 。虎泰の正確な生年は不詳であるが、没年は天文17年(1548年)2月14日(西暦では3月23日)と記録されている 3 。
この上田原の戦いにおける敗北と、板垣信方・甘利虎泰という武田家最高幹部「両職」の同時戦死は、武田信玄にとって計り知れない打撃であった 7 。信濃攻略戦略に大きな見直しを迫られただけでなく、家臣団の再編や世代交代を促す契機ともなった。虎泰の戦歴は、信玄初期の信濃攻略の困難さと、それを支えた宿老たちの奮闘を象徴しており、彼の死は武田家の歴史における一つの転換点であったと言えるだろう。
表2:上田原の戦い概要
項目 |
詳細 |
根拠史料例 |
合戦年月日 |
天文17年(1548年)2月14日(旧暦) |
3 |
場所 |
信濃国小県郡上田原(現・長野県上田市) |
7 |
主要指揮官 |
武田方: 武田晴信(信玄)、板垣信方、甘利虎泰 |
3 |
|
村上方: 村上義清 |
7 |
兵力(推定) |
武田軍:約8,000~15,000(諸説あり) 村上軍:約5,000~7,000(諸説あり) |
35 (武田1万5千、村上7千) |
主な戦況 |
武田軍先鋒の板垣信方隊が緒戦で優勢も、深追いし反撃を受け壊滅。板垣信方討死。 |
7 |
|
甘利虎泰隊が武田本陣を守るため奮戦するも討死。 |
3 |
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武田本陣も危機に陥り、信玄自身も負傷したとの記録あり。 |
23 |
結果 |
武田軍の敗北。 |
11 |
主要戦死者 |
武田方: 板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門など多数。 |
3 |
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村上方: 屋代源吾、雨宮刑部、小島権兵衛など。 |
7 |
武田方への影響 |
信玄にとって初の本格的な敗北。宿老である板垣・甘利両職を同時に失う大損害。 |
11 |
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信濃国衆の反武田勢力の活発化。その後の信濃攻略戦略に影響。 |
31 |
甘利虎泰の人物像は、諸史料や軍記物を通じて、勇猛果敢な武将であると同時に、慎重さや部下への配慮も併せ持つ指揮官として描かれている。
虎泰は「剛の武者」として名高く 3 、その采配は敵からも恐れられていた 1 。『甲陽軍鑑』においては、武田家の名軍師と称された荻原常陸介(荻原昌勝)に劣らない「剛の武者」と評価されている 3 。また、戦場における彼の勇猛ぶりは「猛り狂う野牛を野に放つごとく」と形容されるほどであった 33 。
一方で、虎泰は単なる猪武者ではなく、慎重な戦いぶりで知られ、部下からの信頼も非常に篤かったとされる 35 。そのことを示す逸話として、上田原の戦いにおける甘利隊の奮戦が挙げられる。この戦いで虎泰自身は討死を遂げたものの、彼の部隊は指揮官を失った後も誰一人として敗走することなく、村上軍の猛攻を最後まで凌ぎきったという 35 。この逸話に触れた武田信玄は、「備前(甘利虎泰)による日頃の慎重な訓練がものを言ったのであろう」と評したと伝えられており 35 、虎泰が平時から部隊の練度向上に努め、部下との間に強固な信頼関係を築いていたことがうかがえる。こうした勇猛さと慎重さ、そして部下を思いやる心は、優れた指揮官としての虎泰の多面的な能力を示している。
『甲陽軍鑑』によれば、武田家の軍師として名高い山本勘助も、甘利虎泰の見事な采配ぶりや陣所での備えを見て感嘆したと記されている 3。これは、同時代(とされる)の軍略家からも虎泰の能力が高く評価されていたことを示唆する記述である。
ただし、NHK大河ドラマ『風林火山』(2007年放送)では、山本勘助が初めて武田家中の重臣たちと対面した際に、虎泰に対して「こいつ一人が厭な奴」という印象を抱き、両者の間に軋轢があったかのように描かれている 2。これはあくまでドラマ上の創作であり、史実とは区別して考える必要があるが、虎泰の武骨で威厳のある宿老としてのイメージを反映した演出と見ることもできるかもしれない。
虎泰は、信玄から素破(すっぱ、いわゆる忍者や間諜)を預けられ、諜報活動にも従事していたという伝承がある 12 。これが事実であれば、虎泰が単なる戦場指揮官に留まらず、情報収集や分析といった諜報面でも信玄から信頼され、重要な役割を担っていた可能性を示している。
合戦においては、いたずらに損害を出すことを避け、兵の消耗を少なくするよう配慮しながら戦いに臨んでいたという評価もある 12。これは、彼の慎重な一面を示すものと言えよう。
また、天文10年(1541年)の武田信虎追放の際には、板垣信方らと共にクーデターを主導したが、『甲陽軍鑑』には、虎泰が当初は躊躇し、迷った末に晴信(信玄)方についたという記述も見られる 12。この記述は、主君を追放するという重大な決断に至るまでの、譜代重臣としての虎泰の葛藤や苦悩を反映している可能性があり、彼の人間的な側面を垣間見せる。
これらの逸話や評価は、『甲陽軍鑑』などの二次史料に依拠する部分が多く、その史実性については慎重な吟味が必要である。しかし、これらの記述が後世における甘利虎泰の人物像形成に大きな影響を与え、彼が信玄にとって信頼篤く、多岐にわたる任務をこなせる有能な重臣であったというイメージを形作ってきたことは確かである。
甘利虎泰の死後、甘利家の家督やその後の動向については、史料によって記述が異なったり、不明な点も多いが、以下に主要な子孫とされる人物とその事績を記す。
虎泰の嫡男とされ、父・虎泰が上田原の戦いで戦死した後、直ちに家督を継いだとされる 3。諱は「昌忠」のほか、「信忠」、「晴吉」など複数の名で記録されているが、永禄年間からは「信忠」を名乗ったという 40。
父に劣らぬ勇将であり、家臣思いで部下からも深く慕われたと伝えられている 2。初陣は天文16年(1547年)の「碓氷峠の合戦」で、戦功を挙げたものの、上杉憲政軍に包囲され、米倉重継によって救出されたという逸話が残る 41。父の死後、若年(天文2年/1533年生とすれば15歳前後)で侍大将となり、武田信玄の外交取次役として信濃の木曽氏を担当するなど、多方面で活躍した 41。特に上野国攻略戦では、永禄6年(1563年)の第一次岩櫃城攻めや、永禄9年(1566年)の箕輪城攻撃に参加し、箕輪城落城後には一時的に城代も務めている 41。『甲陽軍鑑』によれば、板垣信憲(板垣信方の子)と共に父たちの跡を継いで「両職」を務めたとも記されている 15。
昌忠の没年については諸説あり、『甲陽軍鑑』では永禄7年(1564年)に落馬が原因で31歳で死去したとされているが 8、永禄10年(1567年)以降に発給されたとされる書状の存在が指摘されており、それ以降に亡くなった可能性が高いと見られている 7。
虎泰の子で、昌忠(信忠)の弟とされる人物である 3 。兄・昌忠の子である信頼が幼少であったため、その後見役、あるいは陣代として甘利家を支えた可能性がある 3 。鉄砲衆を率いたとも伝えられる 15 。信康は天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで戦死した 3 。設楽原の戦場では武田軍の左翼隊に属し、天王山麓のダンドウ屋敷付近で奮戦したが、味方の村人が織田・徳川軍の馬防柵設営に協力したことに憤慨し、切腹したという壮絶な最期が伝承として残っている 43 。
昌忠(信忠)の子とされる 3。父の死後、幼少であったため、叔父の信康や家臣の米倉丹後守らが後見したと『甲陽軍鑑』などには記されている 3。信頼も長篠の戦いに従軍し、その後も武田勝頼に仕えて活動した 3。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡時の動向については、『甲乱記』に「甘利左衛門尉」という人物が、大熊長秀や秋山摂津守らと共に勝頼から離反したと記されており、この「甘利左衛門尉」が信頼を指す可能性が指摘されている 3。しかし、その後の信頼の具体的な消息は不明である。
信康の子とされる 7 。武田勝頼に仕えたとされるが、その具体的な事績は明らかではない。『当代記』によれば、天正4年(1576年)9月に遠江国小山(現在の静岡県駿東郡小山町か)の陣中で殺害されたとされている 3 。
戦国時代における甘利氏の主要な人物の多くが戦死や若死にを遂げ、武田氏滅亡という混乱期も重なり、その後の甘利氏の明確な系譜や動向を示す史料は乏しい 6。虎泰の死後、嫡男の昌忠(信忠)も比較的若くして亡くなり、その後の当主格の人物も相次いで戦死するなど、甘利家は武田家滅亡期にはかなり弱体化していた可能性が高い。こうした状況が、武田氏滅亡後の甘利氏の動向を追跡することを困難にしている一因と考えられる。
近現代においては、自由民主党の衆議院議員である甘利明氏が、甘利虎泰の子孫であることを自称している 6。歴史上の人物の子孫を称する例は他にも見られるが、その歴史的連続性を史料で厳密に跡付けることは、多くの場合困難を伴う。
甘利虎泰とその一族に関連する史跡は、主に本拠地であった山梨県と、最期の地となった長野県に残されている。
紀伊国高野山は、戦国武将たちが戦没者の供養や自らの逆修供養(生前の供養)のためにしばしば利用した霊場である。高野山成慶院(現在は櫻池院に統合されている可能性あり)には、武田家に関連する供養記録として『武田家日坏帳』や甲州月牌帳(過去帳)といった史料が伝存しており、武田家臣の供養が行われていたことが確認できる 49。例えば、日向大和守の子・藤九郎昌成や、玄東宗朧首座といった武田家臣の供養記録がこれらの史料に見られる 49。
甘利虎泰自身や甘利氏一族に関する具体的な供養記録が高野山成慶院に現存するかどうかは、現時点の提供資料からは断定できない。しかし、武田家臣団の有力者であった中村氏(津金衆と関連)が逆修供養を依頼した事例があることから 49、武田家の重臣であった甘利氏についても同様の記録が存在する可能性は十分に考えられる。これらの寺社に残る記録は、甘利氏や武田家臣団の動向、さらには当時の武士の信仰や死生観の一端を明らかにする上で、貴重な史料となり得る。
甘利虎泰は、戦国時代の甲斐武田氏において、信虎・信玄の二代にわたり重臣として仕え、武田家の勢力伸張に大きく貢献した武将である。その生涯は、武田氏の甲斐統一から信濃侵攻初期という激動の時代と深く結びついている。
虎泰の出自は甲斐源氏の名門・甘利氏であり、その祖先は鎌倉幕府成立期に悲劇的な最期を遂げた一条忠頼に遡る。こうした背景は、虎泰の武士としての矜持や武田家への忠誠心に影響を与えた可能性も否定できない。信虎の時代から頭角を現し、「武田四天王」の一人に数えられるなど、その武勇は早くから認められていた。
武田信玄(晴信)の治世が始まると、虎泰は信虎追放と信玄擁立に中心的な役割を果たし、その功績によって板垣信方と共に武田家中の最高職とされる「両職」に任じられた。これは、信玄政権初期における虎泰の政治的・軍事的重要性を示すものである。「両職」の具体的な職務権限については史料的な制約から不明な点も多いが、信玄を補佐し、国政の枢機に関与する立場にあったことは疑いない。また、軍略家としても優れ、若き信玄に合戦の術を指南したという伝承は、彼の経験と知識の深さを物語っている。
虎泰の武功は、特に信濃侵攻において顕著である。諏訪攻略や佐久侵攻に関与し、小田井原の戦いでは上杉憲政の援軍を撃破するなど、武田軍の中核として活躍した。しかし、天文17年(1548年)の上田原の戦いで、信濃の雄・村上義清の軍勢と戦い、板垣信方と共に壮絶な戦死を遂げた。この敗戦は、信玄にとって初の大きな軍事的挫折であり、両宿老の同時戦死は武田家にとって計り知れない損失であった。この出来事は、その後の信玄の戦略や家臣団構成にも影響を与え、武田家の歴史における一つの転換点となった可能性がある。
甘利虎泰の人物像については、『甲陽軍鑑』などの軍記物に「剛の武者」としての勇猛さや、山本勘助をも感嘆させたという采配の巧みさが記されている。一方で、部下からの信頼が厚く、慎重な戦いぶりや損害を抑える配慮も見られたとされ、知勇兼備の将であったことがうかがえる。ただし、『甲陽軍鑑』の記述に関しては、その史料的価値について近年の研究で再評価が進んでいるものの、依然として慎重な史料批判が必要である。一次史料との比較検討を通じて、より客観的な虎泰像を追求する努力が求められる。
虎泰の死後、甘利氏は嫡男・昌忠(信忠)が継いだが、昌忠も比較的若くして没し、その後も一族の戦死が相次ぐなど、武田家滅亡期にはその勢力がかつてほどではなかった可能性が示唆される。
甘利虎泰は、武田信玄初期の覇業を支えた「双璧」の一人として、その武勇と忠誠、そして悲劇的な最期は、戦国時代の武将の生き様を象徴するものである。彼の存在と早すぎる死は、武田家の権力構造や戦略に影響を及ぼし、その後の歴史展開に少なからぬ影響を残したと言えるだろう。今後の史料研究の進展により、甘利虎泰に関するさらなる事実が明らかにされることが期待される。
(注:上記参考文献は主要なもの、および本報告書作成過程で言及されたものを中心に記載した。実際の学術報告においては、より網羅的かつ詳細な文献リストが必要となる。)