本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて越後上杉氏に仕えた武将、甘粕景持(あまかす かげもち)について、現存する諸史料に基づき、その生涯、事績、評価などを多角的に調査し、詳細にまとめることを目的とする。甘粕景持は、特に上杉謙信の時代において、川中島の戦いでの勇猛な活躍や、「上杉四天王」の一人に数えられるなど、上杉家にとって重要な武将であった。しかし、その出自や一部事績については諸説あり、また同姓の武将との混同も見られるため、本報告ではこれらの点を整理し、可能な限り史実に基づいた人物像を提示する。
本報告書では、まず甘粕景持の基本情報と名称の整理を行い、特に混同されやすい甘粕景継との比較を通じてその人物像を明確にする。次に、甘粕景持の出自と初期の経歴に関する諸説を検討し、上杉謙信、上杉景勝の二代にわたる仕官と具体的な武功、特に第四次川中島の戦いでの活躍や新発田重家の乱での役割を詳述する。さらに、彼が城主であったとされる城郭、晩年と子孫、関連する史料と研究の現状について触れ、最後に甘粕景持の歴史的評価を試みる。
甘粕景持に関する情報を整理するにあたり、まずその基本的な呼称や生没年、そしてしばしば混同される同姓の武将との区別を明確にすることが肝要である。
甘粕景持は、史料によって「甘糟景持」とも表記されることがある 1 。また、通称として「近江守(おうみのかみ)」、別名として「長重(ながしげ)」が伝えられている 1 。この「景持」という名は、主君である長尾景虎(後の上杉謙信)から偏諱(「景」の字)を賜ったものとされている 3 。
戦国時代の武将において、姓の表記に揺れが見られるのは珍しいことではなく、「甘粕」と「甘糟」も音通によるものと考えられる。官途名である「近江守」は、景持の武将としての格式を示すものであり、「長重」という名は、主君から「景」の字を拝領する以前の実名であった可能性が高い。
甘粕景持の生年については諸説あり、正確な年は不明である 1 。これは、彼の武将としてのキャリア初期に関する記録が乏しいことを示唆している可能性がある。一方で、没年については比較的明確であり、慶長9年6月26日(西暦1604年7月22日)に死去したとされる 1 。この没年が明確である背景には、上杉家の米沢移封後の記録が比較的整理されて残存しているためと考えられる。
甘粕景持としばしば混同される人物に、同じく上杉氏の家臣である甘粕景継(あまかす かげつぐ)がいる。景継は天文19年(1550年)に生まれ、慶長16年(1611年)に没した武将で、通称は藤右衛門、官途名は備後守、初名は清長であった 4 。景継は登坂加賀守清高の子であり、甘粕氏を継いで護摩堂城主、五泉城主、庄内酒田城代などを歴任した 10 。景持と景継は遠縁であったとも伝えられている 4 。本報告書では、主に景持(近江守長重)の事績を対象とするが、両者の情報を明確に区別するため、以下の比較表を提示する。
項目 |
甘粕景持(近江守長重) |
甘粕景継(藤右衛門清長) |
生没年 |
不詳~慶長9年(1604年) |
天文19年~慶長16年(1550年~1611年) |
主な通称・官途名 |
近江守 |
藤右衛門、備後守 |
初名 |
長重 |
清長 |
主な役職・城 |
枡形城主、三条城主 |
護摩堂城主、五泉城主、酒田城代、白石城代 |
主な逸話・評価 |
第四次川中島の殿軍、「謙信秘蔵の侍大将」、上杉四天王の一人 |
登坂氏より甘粕氏継承、上杉二十五将の一人 |
出自関連 |
諸説あり(新田氏族、上田庄、猟師など) |
登坂加賀守清高の子 |
この二人の人物が混同される背景には、単に名前が似ているだけでなく、活動時期や所属が重なる点が挙げられる。景持は主に謙信時代からの武勇で知られ、景継は景勝時代にも城代を歴任するなど活躍が見られる 10 。これは、甘粕氏という一族が、謙信・景勝の二代にわたり、複数の有力な武将を輩出し、それぞれが上杉家内で重要な役割を担っていたことを示唆しているのかもしれない。一族全体として上杉家に貢献していたものの、後世の記録や伝承が個々の事績を混同した可能性が考えられる。特に、景持の「近江守」と景継の「備後守」という官途名や、それぞれの城主歴は明確に異なるが、「甘粕」姓の武将として一括りにされやすかった可能性は否定できない。
また、「遠縁」という記述 4 は、両者が同族ではあるものの直系ではなく、甘粕氏の分家や異なる系統の存在を暗示している。後述する甘粕氏の出自に関する諸説の多様性と合わせ考えると、越後国内に複数の甘粕氏の系統が存在し、それぞれが上杉氏に仕えていた可能性も浮上する。景持の系統と、登坂氏から養子に入った景継の系統は、元々異なる家系であったか、あるいは早い段階で分かれた支族であったのかもしれない。
甘粕景持の出自については、複数の説が存在し、未だ確定的なものはない 7 。これらの説の並立は、景持の初期の記録が極めて乏しいこと、あるいは「甘粕」という氏族自体が複数の系統から成り立っていた可能性を示唆している。
これらの出自に関する諸説が並立している状況は、景持個人の出自が元々不明瞭であったか、あるいは「甘粕」を名乗る複数の集団が存在し、景持がそのいずれかの出身であったものの、後世に情報が混同されたり、より高貴な出自に結びつけられたりした結果とも考えられる。例えば、 12 は武蔵国の小野姓甘粕氏、相模国の平姓甘粕氏、そして景持の系統とされる越後国の源姓甘粕氏を挙げており、甘粕姓の広がりを示している。景持の家系がこれらの甘粕氏と直接的に繋がるのか、あるいは独立した系統なのかは、これらの説だけでは断定が難しい。
景持の初名は「長重」であり、後に主君である長尾景虎(上杉謙信)から「景」の一字を賜り、「景持」と改名したとされる 3 。戦国時代において主君から一字を拝領することは家臣にとって大きな名誉であり、主従関係の強化を意味する。この改名は、謙信(景虎)の家臣団における景持の地位がある程度確立されたことを示すものと言えよう。
永禄2年(1559年)、上洛から帰国した景虎を祝して越後の諸将が太刀を献上した際、景持は「披露太刀之衆」の一人として名を連ね、金覆輪の太刀を進呈している記録がある 7 。この事実は、この頃には景持が謙信の側近としてある程度の地位を占めていたことをうかがわせ、前述の偏諱の事実と合わせると、この時期までに景持が謙信の信頼を得ていたことは確実視できる。これはその後の重用への伏線となっている。
また、江戸時代の書物である「信濃のさざれ石」には、天文16年(1547年)10月、長尾景虎が信濃の髻山城(もとどりやまじょう)を築く際に、その完成までの仮の砦として、景持が三日城(現在の長野県長野市豊野近辺)を築いたという伝承が記されている 7 。この伝承が事実であれば、景持は謙信の信濃侵攻の初期から軍事行動に関与していたことになるが、あくまで江戸時代の記録であり、同時代の史料による裏付けが必要である。
甘粕景持に関する同時代の一次史料が少ない可能性は否定できず、その人物像の多くが後世の解釈や伝承に依拠している危険性も念頭に置く必要がある。これらの記述を扱う際には、史料批判的な視点が不可欠である。
甘粕景持は、上杉謙信の家臣として数々の戦功を挙げ、特にその武勇は高く評価されていた。
永禄3年(1560年)、謙信(当時は長尾景虎)が関東管領・上杉憲政を奉じて行った関東出兵に、景持は従軍している。この遠征では、北条氏康が籠る小田原城の攻撃にも参加した 4 。
翌永禄4年(1561年)、謙信が関東管領職と上杉の名跡を継承し、名を上杉政虎と改めた。この際、鎌倉鶴岡八幡宮で行われた就任の儀式において、甘粕景持は宇佐美定満、柿崎景家、河田長親と共に御先士大将(おんせんじたいしょう、先陣の将)という重責を担った 4 。関東管領就任という上杉謙信のキャリアにおける極めて重要な儀式で先陣の将を務めたことは、景持が単に武勇に優れるだけでなく、謙信から厚い信頼を寄せられ、上杉軍の中核を担う人物であったことの明確な証左である。
甘粕景持の名を最も高らしめたのは、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いにおける殿軍(しんがり)としての奮戦である。この戦いで上杉軍は武田信玄軍と激戦を繰り広げた。
上杉軍が妻女山から八幡原へ移動し武田本隊と激突した後、撤退する際に景持は殿軍を務めた 1 。武田軍が「啄木鳥(きつつき)戦法」と呼ばれる作戦で妻女山の上杉軍を攻撃しようとした際、景持は約1000の兵を率いて千曲川の渡河地点(戌ヶ瀬・十二ヶ瀬と伝えられる)で武田軍の別動隊の進軍を巧みに防ぎ、その八幡原への到着を遅延させた。これにより、上杉本隊の撤退を大きく助けたとされる 1 。 1 の記述によれば、景持自身も半月のような大長刀を振るって武田勢を圧倒したという。
この時の景持の戦いぶりは凄まじく、敵である武田兵の多くが「謙信自らが指揮を執っているのではないか」と見間違えるほどであったという逸話が残されている 1 。この逸話は、景持の卓越した武勇と統率力、そしてあるいは謙信との容貌や戦いぶりが似ていた可能性、またはそれほどまでに謙信の信頼が厚かったことを示唆している。殿軍は撤退する本隊を守る極めて困難かつ重要な任務であり、武田の別動隊を遅滞させ本隊の安全な撤退を可能にしたことは、景持の部隊が単独で高い戦闘能力を維持し、かつ冷静に状況をコントロールできたことを意味する。この成功は、単なる武勇だけでなく、戦況を的確に判断し、限られた兵力で最大限の効果を発揮する戦術眼と統率力を持っていたことを示している。また、 1 や 1 には「山本勘助の啄木鳥戦法を見破る」という記述もあるが、これは景持個人というより上杉軍全体、あるいは謙信の戦略眼によるものかもしれない。しかし、その戦略を実行する上で景持が重要な役割を担ったことは確かであろう。「謙信と間違われた」という逸話は、景持の部隊が謙信本隊と見紛うほどの規律と士気を保っていたことも示唆している。
武田方の軍学書である『甲陽軍鑑』においても、甘粕景持の武勇は高く評価されている。「謙信秘蔵の侍大将、甘粕近江守(景持)はかしら也」 4 や、「近隣他国に誉めざる者なし」 1 といった称賛の言葉が見られ、敵方からもその武名が認められていたことがわかる。『甲陽軍鑑』は江戸時代初期の成立とされ、その記述の正確性については議論があるものの、敵将を称賛する記述は一定の事実を反映している可能性があり、景持の武名の高さを裏付けるものと言えよう。
甘粕景持は、上杉謙信から「秘蔵の侍大将の筆頭」と評されたと伝えられている 1 。この評価は、景持が単に武勇に優れるだけでなく、謙信が個人的に深く信頼し、重要な局面で頼りにしていた腹心であったことを示している。「秘蔵」という言葉には、単に大切にするだけでなく、奥の手として頼りにするというニュアンスが含まれる。謙信の戦術は神出鬼没とも評される独創的なものが多く、その意図を正確に汲み取り実行できる武将は限られていたと考えられる。景持がその一人であったことは、彼が謙信の戦術思想や軍事行動の意図を深く理解し、それを忠実に実行できる能力を持っていたこと、すなわち謙信の戦術的パートナーとも言える存在であった可能性を示唆する。
宇佐美定満、柿崎景家、直江景綱(あるいは後の時代に活躍した直江兼続と入れ替わることもある)と共に、「上杉四天王」の一人に数えられることがある 1 。
しかし、「上杉四天王」という呼称は、同時代の史料には見当たらず、江戸時代に軍記物などが広く読まれる中で成立した後世の創作である可能性が高いと指摘されている 26 。 15 では、上杉家臣団を描いた絵画『上杉九将図』にも四天王が描かれているとされるが、この絵画の制作年代や背景も詳細な検討が必要である。「四天王」のような呼称は、その集団を象徴する代表的な人物を選び出す行為であり 26 、景持がその一人として数えられているのは、彼の事績、特に川中島での活躍が後世においても高く評価されていたからに他ならない。呼称自体が後世のものであったとしても、景持が柿崎景家らと並び称されるほどの武将であったことは、諸史料の記述からも十分にうかがえる 1 。軍記物や講談などを通じて、彼の勇名は一般にも広まっていたと考えられる。
上杉家の主要な家臣を描いたとされる『上杉九将図』にも、甘粕景持が含まれているとされている 15 。この図像史料は、後世における景持の評価を示すものの一つであるが、その制作年代、作者、所蔵先などの詳細情報が提供された資料からは不足しており 7 、具体的な図像や他の九将の顔ぶれと共に検討することで、より深い意味が見えてくる可能性がある。
上杉謙信の死後、甘粕景持はその後継者である上杉景勝に仕え、引き続き上杉家の中核として活動した。
天正6年(1578年)に上杉謙信が急逝すると、その後継を巡って謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争い、いわゆる御館の乱が勃発した。この内乱において、甘粕景持は景勝方に付いたとされている 1 。 28 には、甘粕景継の視点から「景継、迷いはないか?我ら甘粕家は景勝公にお仕えする」という父・景持の言葉とされる記述があるが、これは景持自身の動向を直接示す一次史料ではない点に注意が必要である。しかし、甘粕家が景勝を支持したことを示唆する伝承の一つとして捉えることができる。謙信死後の混乱期において景勝を支持したことは、その後の景持の上杉家中における地位を決定づける重要な選択であった。
天正10年(1582年)、恩賞問題に不満を抱いた新発田重家が景勝に背き反乱を起こすと、甘粕景持は三条城の城将に任じられた 1 。三条城は新発田領に近接する戦略的に重要な拠点であり、景持は木場城主の山吉景長らと共に新発田氏に対する最前線を守り、度々戦功を挙げたとされる。この三条城を任されたことは、景勝からの信頼の厚さを示すものと言える。
さらに、この新発田重家の乱の期間中、景持は鉄砲大将としても軍功を立てたと伝えられている 4 。これは、景持が伝統的な白兵戦の指揮に長けていただけでなく、当時普及しつつあった鉄砲という新しい兵器の運用にも対応できる柔軟性を持った武将であったことを示唆している。
軍事面での活躍に加え、甘粕景持は内政面でも手腕を発揮した。文禄4年(1595年)6月、上杉家の家老である直江兼続の命により、上松弥兵衛と共に検地奉行として蒲原郡出雲田庄、大槻庄、保内などの検地を行った記録がある 4 。検地は領国経営の根幹に関わる重要な役職であり、これを務めたことは、景持が武将としての側面だけでなく、行政官としての能力も有していたことを示している。また、直江兼続という景勝政権の中枢を担う人物の指揮下で活動したことは、景持が政権の中枢にも近い位置にいたことをうかがわせる。
景持の経済的基盤や軍事動員力については、当時の分限帳からある程度把握することができる。『文禄三年定納員目錄』および『越後分限帳』によると、甘粕景持(甘粕近江守名義)は三条衆に分類され、その知行は1717石4斗6升、軍役は120人、同心衆は12人(あるいは10人)であったと記録されている 4 。
その後、慶長3年(1598年)に上杉家が会津へ移封された後の『會津御在城分限帳』では、甘粕近江守の俸禄は3300石と記載されており、越後時代から大幅に加増されている 4 。この会津移封に伴う知行の増加は、景勝政権下における景持の重要性がさらに増したことを明確に示している。これは、長年にわたる軍功と忠誠に対する評価、そして新たな領地経営における活躍への期待の表れと考えられる。
謙信から景勝へと主君が変わる中で、景持が一貫して上杉家に仕え、特に景勝政権下で知行を加増されている事実は、彼が単なる武勇だけでなく、政治的な判断力や忠誠心においても高い評価を得ていたことを示している。御館の乱という困難な内乱を乗り越え、新体制下でも重用されたことは、その適応能力と信頼性の高さを物語っている。
甘粕景持の活動拠点として、いくつかの城郭の名が伝えられているが、その詳細は史料によって異なり、特に枡形城については伝承の要素も含まれる。
越後国三島郡枡形城(現在の新潟県長岡市越路地域)を本拠としたという説が広く知られている 1 。『温故の栞』、『越後古城記』、『飯塚村誌』、布施秀治著『上杉謙信伝』など、江戸時代以降の編纂物には、景持の居城であったという古くからの伝承が記されている 7 。
しかしながら、『甘粕近江守家系図』など一部の系図史料では三条城将であったとのみ記されており、枡形城を領有していた経緯やその真偽については不明な点も多い 7 。 17 では、枡形城が人里離れた場所に位置し、城の規模や構造から判断して、景持ほどの有力武将が恒常的な本拠としたとは考えにくく、彼自身が居住したというよりは、その管轄下にあった防御拠点の一つであった可能性が推察されている。
現在、城跡は桝形山自然公園として整備されており、主郭、二の丸、空堀、堀切などの遺構が残存しているが、公園化に伴う改変も見られる 17 。枡形城主であったという伝承は根強いものの、同時代の史料による直接的な裏付けは十分とは言えない状況である。景持ほどの武将の主たる居城としてはやや小規模であるという指摘 17 もあり、上杉家の領国支配体制の中で、彼が複数の城郭に関与していた可能性や、一時的な軍事拠点として利用した可能性も考慮すべきであろう。枡形城に関する伝承の根強さと、史料的な確証の乏しさのギャップは、甘粕景持という人物が地域において伝説化しやすい存在であったことを示唆しているのかもしれない。彼の武勇伝、特に川中島での活躍が、後世に様々な伝承と結びついた可能性が考えられる。
新発田重家の乱(天正10年/1582年勃発)の際には、甘粕景持は三条城(現在の新潟県三条市)の城将として派遣されたことが記録されている 1 。また、『甘粕近江守家系図』などの系図史料においても、三条城将であったと記されている 7 。
三条城は、史料によれば平安時代からの歴史を持つ可能性も指摘されており、上杉景勝や後の市橋長勝によって改修された記録が残る。城主としては、池氏、山吉氏、神余親綱、そして甘粕景持、堀直清などが名を連ねている 30 。
三条城将としての景持の活動は、新発田の乱という具体的な軍事行動と結びついており、枡形城主説と比較して史料的な確度は高いと考えられる。戦略的要衝である三条城の守備を任されたことは、景勝からの厚い信頼の証左と言えるだろう。これは、景持が特定の城に固定された領主というよりは、上杉家の軍事戦略全体の中で柔軟に配置される上級指揮官であったことを示唆している。
護摩堂城、五泉城、庄内酒田城代といった城郭については、主に甘粕景継(藤右衛門清長)の経歴として言及されることが多く 10 、景持(近江守長重)に関する記述としては、これらの城との直接的な関連を示す確実な史料は少ない。両者の混同に注意が必要である。
甘粕景持は、上杉家の度重なる移封に従い、最終的には米沢の地でその生涯を閉じた。
慶長3年(1598年)、上杉景勝が豊臣秀吉の命により、越後から会津120万石へと移封された際、甘粕景持もこれに随行した 1 。
その後、関ヶ原の戦いを経て、慶長6年(1601年)に上杉家がさらに出羽米沢30万石(後に財政難などから15万石に減封)に減移封された際も、景持は主家に従い米沢へと移った 4 。主家の度重なる移封、特に会津から米沢への大幅な減封という苦難の時期にも従い続けたことは、景持の上杉家に対する強い忠誠心を示すものである。多くの家臣が離散する可能性もあった中で、米沢まで付き従ったことは、彼の義理堅さを物語っている。
慶長9年6月26日(西暦1604年7月22日)、甘粕景持は米沢にて死去したとされている 1 。 14 の記述には「享年七十余」とあるが、景持の生年は不明であるため、この享年に関する確証はない。
甘粕景持の子孫は代々米沢藩士として上杉家に仕えたとされている 1 。
特に著名な子孫として、甘粕事件で知られる陸軍大尉・甘粕正彦(あまかす まさひこ、1891年 - 1945年)がいる。彼は景持の子孫であるとされ 7 、 33 によれば、正彦の父・甘粕春吉は旧米沢藩士である。戦国武将の子孫が近現代史上の著名な人物に繋がる事例は興味深く、甘粕家の血筋が時代を超えて存続したことを示している。旧米沢藩士という出自は、甘粕正彦の思想や行動に何らかの影響を与えた可能性も考えられる。
甘粕景持の生涯や事績を明らかにする上で、いくつかの主要な史料が存在するが、その解釈には注意が必要な点もある。
甘粕景持に関する情報には、いくつかの錯綜や解釈上の課題が存在する。
甘粕景持に関する情報源が、一次史料(分限帳など)と二次史料(軍記物、編纂物)に大別され、特に人物像や逸話に関しては二次史料への依存度が高いことは、彼の評価が後世の価値観や物語性によって形成されてきた側面があることを示唆している。知行高などの客観的データは一次史料から得られるが 4 、一方で川中島の詳細な戦いぶりや「謙信秘蔵の」といった評価は『甲陽軍鑑』 4 やその他の軍記物に由来することが多い。江戸時代に成立した『温故の栞』や『上杉三代記』 7 などは、当時の歴史認識や英雄観を反映している可能性があるため、これらの史料群を比較検討し、それぞれの成立背景を考慮することで、史実としての景持と、伝説化された景持の姿を分離して考察する必要がある。
甘粕景持個人に焦点を当てた学術的な研究論文は、提供された資料の中からは多く見当たらない 40 。上杉謙信や上杉氏の研究、あるいは川中島の戦いに関する研究の中で部分的に触れられることはあるが、彼単独での詳細な実証的研究は今後の課題と言えるかもしれない。これは、彼が上杉謙信という巨大な存在の影に隠れがちであったこと、あるいは史料的制約から単独での研究が難しかったことを反映している可能性がある。しかし、上杉家臣団研究の一環として、あるいは地域史の中で再評価される余地は十分にあると考えられる。
甘粕景持は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、上杉謙信・景勝の二代にわたり、軍事・内政の両面で上杉家を支えた重要な武将であったと言える。
景持の武将としての器量は、特に第四次川中島の戦いにおける殿軍としての目覚ましい活躍によく表れている。この戦いでの奮戦は、単に個人的な武勇を示すだけでなく、卓越した指揮能力と冷静な判断力を有していたことの証左であり、上杉軍全体の危機を救ったと高く評価できる。
主君からの信頼も厚く、上杉謙信からは「秘蔵の侍大将」と称されるほどの寵愛を受け、その後の上杉景勝の代になっても引き続き重用され、知行も加増されている。これらの事実は、景持が一貫して上杉家の中核的な役割を担い続けたことを物語っている。また、新発田重家の乱の鎮圧や検地奉行としての活動は、景勝政権の安定と確立に大きく貢献した。
甘粕景持は、勇猛果敢な武将としての側面(川中島の戦いでの武功、鉄砲大将としての活躍など)と、内政における実務能力(検地奉行としての手腕)を併せ持っていた多才な人物であった。さらに、主家の危機的状況(御館の乱、度重なる移封、大幅な減封)に際しても忠誠を貫き通し、最終的に米沢の地でその生涯を終えた義理堅い人物像が浮かび上がる。彼の生涯は、戦国武将が主君や家に対して抱いた「忠義」という価値観と、時代の変動期を生き抜くための現実的な処世術(例えば、御館の乱での景勝支持)が交錯する様相を呈している。
「上杉四天王」の一人として後世にその名を残し、その武勇伝は軍記物などを通じて語り継がれた。子孫は米沢藩士として家名を保ち、近現代史において特異な足跡を残した甘粕正彦のような人物も輩出している。
一方で、史料的な制約や、同姓同名の武将である甘粕景継との混同など、その実像を明らかにする上での研究上の課題も残されている。しかし、これらの点を考慮しても、甘粕景持が上杉氏家臣団の中で特筆すべき存在であったことは疑いようがない。
甘粕景持の評価は、同時代的な記録(分限帳など)と、後世の編纂物や伝承(軍記物など)とで、その強調される側面が異なる可能性がある。史実としての功績と、物語として語り継がれる中で形成されたイメージとを区別しつつ、総合的に評価する必要がある。分限帳は客観的な地位や経済力を示すが、人物の性格や具体的な戦場での感情までは伝えない。対して軍記物は、読者の興味を引くために逸話をドラマチックに描いたり、特定の人物を英雄視したりする傾向がある。景持の「謙信と間違われた」逸話や「秘蔵の侍大将」という言葉は、後世の顕彰の中で特に強調された可能性も考慮すべきである。
甘粕景持は、戦国乱世の激動期において、類まれな武勇と揺るぎない忠誠心をもって主家を支え抜いた武将であり、その名は上杉家の歴史、ひいては日本の戦国史の一隅を照らす存在として記憶されるべきである。彼の生き様は、当時の武士の主従関係のあり方や、個人の選択の重要性を現代に伝えている。