生駒一正(いこま かずまさ、弘治元年(1555年) - 慶長15年(1610年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、讃岐高松藩の二代藩主である。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という天下人に仕え、激動の時代を巧みに生き抜いた。本レポートでは、現存する史料に基づき、生駒一正の生涯、特にその軍功、政治的判断、そして高松藩主としての治績を詳細に検討し、歴史における彼の位置づけを明らかにすることを目的とする。ユーザー提供の概要(豊臣家臣、二代高松藩主、関ヶ原での父子別行動)を踏まえつつ、より多角的な視点から一正の実像に迫る。
表1: 生駒一正 略年表
年代 |
出来事 |
関連資料 |
弘治元年(1555年) |
生駒親正の長男として誕生 |
1 |
天正5年(1577年)頃 |
織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどで活躍 |
1 |
天正10年(1582年)以降 |
羽柴(豊臣)秀吉に仕える |
1 |
天正19年(1591年) |
従五位下・讃岐守に叙任 |
1 |
文禄・慶長の役(1592年-1598年) |
朝鮮出兵に参加、蔚山城の戦いなどで活躍 |
1 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦いで東軍に属し武功を挙げる。父・親正は西軍に属したが、一正の功により生駒家は安堵、加増される |
1 |
慶長6年(1601年) |
家督を継ぎ、讃岐高松藩の二代藩主となる |
1 |
慶長8年(1603年) |
豊臣姓を下賜される |
2 |
慶長13年(1608年) |
妻子を江戸屋敷に居住させ、徳川秀忠より忠義を賞される |
1 |
慶長15年(1610年) |
死去。法泉寺に葬られる |
1 |
この略年表は、生駒一正の生涯における主要な画期を概観するものであり、以降の詳細な記述を理解する上での一助となる。特に、仕えた主君の変遷や、彼のキャリアにおける重要な転換点となった戦役への参加時期を把握することは、その生涯を歴史的文脈の中で捉えるために不可欠である。
生駒一正は、弘治元年(1555年)、織田家の家臣であった生駒親正(いこま ちかまさ)の長男として誕生した 1 。生駒氏は美濃国土田(現在の岐阜県可児市土田)の出身とされ、父・親正は織田信長に仕えた後、豊臣秀吉の下で戦功を重ね、最終的には讃岐一国を与えられ高松城を築城するに至る人物である 5 。
親正が織田家臣としての地位を既に確立していたことは、一正が若くして信長に仕える上で有利に働いたと考えられる。親正は永禄9年(1566年)に信長の美濃攻めに際してその臣下となっており 7 、その後も秀吉付属の武将として金ヶ崎の戦い、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加し、着実に実績を積み重ねていた 5 。このような父の武将としての実績や築き上げた人脈は、一正が武家社会でキャリアをスタートさせる際の重要な足掛かりとなった可能性が高い。一正の生涯を理解する上で、父・親正の存在とその影響力は無視できず、親正の立身出世の過程が、一正自身の価値観や行動規範にも影響を与えたであろうことは想像に難くない。
一正は、初め織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどで武功を立てたと記録されている 1 。紀伊雑賀攻めは、天正5年(1577年)に織田信長が雑賀衆に対して行った大規模な軍事行動である 8 。雑賀衆は、鉄砲を巧みに操る傭兵集団として知られ、石山本願寺を支援するなど、信長の天下統一事業にとって大きな障害となっていた。
この重要な戦役に参加し、軍功を挙げたことは、若き一正にとって武将としての能力を初めて公に示す機会であったと言える。父・親正もこの雑賀攻めに参加しており 6 、親子で信長の軍事行動に貢献していたことがうかがえる。雑賀攻めのような過酷な戦場での経験と、そこで認められた武功は、一正の軍事的能力を初期の段階で証明するものとなった。これは、後の豊臣政権下でのさらなる活躍の基盤を築く上で重要な意味を持った。信長という厳格な指導者の下で戦功を立てた経験は、単に武勇を誇るだけでなく、当時の最先端の戦術や軍団統制を学ぶ貴重な機会となり、後の彼の判断力や指揮能力を涵養する上で大きな役割を果たしたと考えられる。
天正10年(1582年)、本能寺の変によって織田信長が非業の死を遂げると、生駒親子は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えることとなる 1 。秀吉が信長の後継者としての地位を確立していく過程で、一正も父・親正と共にその麾下で活動した。
秀吉の下で一正は数々の合戦に参加したとされているが 1 、九州平定や小田原征伐といった主要な戦役における一正個人の具体的な戦功に関する詳細な記述は、提供された資料からは限定的である 1 。しかし、父・親正は山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐といった秀吉の天下統一における重要な戦いに従軍し、戦功を挙げている 5 。これらの軍事行動に一正も帯同し、経験を積むと共に豊臣家への忠誠を示し、家中の信頼を得ていったと考えられる。
親正は秀吉に仕えて以降、近江国高島、伊勢国神戸、播磨国赤穂の領主を経て、天正15年(1587年)には讃岐一国を与えられ高松城を築城するに至る 5 。秀吉の晩年には中村一氏や堀尾吉晴と共に三中老の一人に任じられたともされるが、この三中老という役職の存在自体については後世の創作とする説もある 5 。いずれにせよ、生駒家が豊臣政権内で重用されていたことは確かであり、これは一正のキャリア形成にも大きな影響を与えた。一正の昇進は、父・親正の豊臣政権内での地位向上と密接に連動しており、個人の武功だけでなく、生駒家としての豊臣政権への貢献が評価された結果、後の讃岐一国拝領や藩主としての地位に繋がったと言えるだろう。
生駒一正は、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて行われた朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも参加し、特に蔚山城(ウルサンソン)の戦いなどで目覚ましい活躍を見せた 1 。蔚山城の戦いは慶長の役における屈指の激戦であり、慶長2年(1597年)末から翌年初頭にかけて、加藤清正らが守る蔚山倭城(蔚山城)が明・朝鮮連合軍の大軍に包囲され、日本軍は極度の兵糧不足と厳寒の中で苦しい籠城戦を強いられた 10 。
この絶体絶命の状況下で、一正が「活躍した」との記録 1 は、彼が困難な戦局において武将としての高い能力を発揮したことを示唆している。蔚山城の日本軍は、救援軍の到来によって辛うじて明・朝鮮連合軍を撃退することに成功するが 10 、その過程における一正の具体的な働きが評価されたものと考えられる。『南海通記』には、生駒雅楽頭(親正)と一正が朝鮮へ渡海する際に暴風雨に遭遇したが、親子は少しも臆することなく船上で指揮を執り、その勇壮な姿を吉祥として家紋(波引車)のデザインに取り入れたという逸話が記されており 11 、父子ともに困難な状況下での剛胆さを持っていたことがうかがえる。
朝鮮出兵、特に蔚山城の戦いのような過酷な戦場での経験と戦功は、一正の武将としての名声と評価を一層高めたに違いない。異国での大規模かつ長期にわたる戦闘経験は、彼の軍事的視野を広げ、指揮官としての資質を磨く上で貴重な機会となった。この国際戦での実績は、豊臣政権内における一正の評価を確固たるものとし、後の大名としての地位や、関ヶ原の戦いにおける彼の行動選択にも影響を与えた可能性がある。
天正19年(1591年)、生駒一正は従五位下・讃岐守に叙任された 1 。これは、豊臣政権における彼の地位が公的に認められ、一定の格付けがなされたことを意味する。
父・親正は、これに先立つ天正15年(1587年)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられ、高松城の築城に着手していた 5 。一正の「讃岐守」という官職名は、生駒家が実効支配する讃岐国と直接的に関連しており、単なる名誉職以上の意味合いを持っていたと考えられる。この叙任は、生駒家による讃岐支配の正当性を補強するとともに、豊臣政権が一正を次世代の讃岐における指導者の一人として認識していたことの表れとも解釈できる。また、将来的な家督相続を見据えた動きとして、生駒家の支配体制を安定させるための布石であった可能性も高い。この叙任は、一正が豊臣大名の一員として正式に認められ、生駒家の後継者としての地位を内外に示した重要な出来事であったと言えるだろう。
慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いとされる関ヶ原の戦いが勃発すると、生駒家は重大な岐路に立たされた。この時、父である生駒親正は在国し、西軍に与したとされる 1 。一方、嫡男である一正は、親正に代わって徳川家康に従い会津征伐に参加し、そのまま東軍に属して関ヶ原の本戦で武功を挙げた 1 。
親正が西軍に与した理由については諸説ある。豊臣家から受けた恩顧に報いるためであったという説 13 や、西軍決起時に親正が大坂に滞在していたため、石田三成らの圧力により西軍に加わらざるを得なかったという状況的要因を指摘する説、さらには、父子があえて東西両軍に分かれることで、どちらが勝利しても生駒家が存続できるように図ったという戦略的な判断であったとする説などである 7 。
この父子相分かれるという選択は、単なる意見の対立や偶然の結果ではなく、家の存続を最優先とした高度な政治的判断であった可能性が高い。どちらの勢力が勝利しても、一方の功績によって家が許されるという、いわば保険をかける戦略であったと考えられる。実際に、このような戦略は、真田家など他のいくつかの大名家でも見られた。歴史情報サイト「歴史人」の記事では、一正が「大坂にいる父・親正を窮地から救うためにも、ここでひと踏ん張りじゃ」と関ヶ原での奮戦に臨む心情が描かれており 14 、父子の連携や家を思う強い気持ちが背景にあったことを示唆している。この決断は、戦国乱世を生き抜くための非情かつ現実的な戦略であり、結果として生駒家の存続に大きく貢献することになった。一正の東軍における働きが、この戦略を成功に導く鍵を握っていたと言える。
生駒一正は東軍の一員として関ヶ原の本戦で武功を挙げたと諸資料に記録されている 1 。その具体的な戦功として、本戦に先立つ岐阜城攻めにも参戦した可能性が指摘されている 14 。岐阜城は織田信長の旧居城であり、関ヶ原の戦い当時は西軍の重要拠点の一つであった。この岐阜城の攻略は、東軍にとって緒戦における重要な勝利であり、戦全体の流れを東軍有利に導く上で大きな意味を持った。
「歴史人」の記事では「岐阜城攻撃にも参戦したが、これも恐らくは武功に数えられているに違いない」と推測されており 14 、具体的な戦闘の様相は不明ながらも、一正が東軍の勝利に貢献したことがうかがえる。関ヶ原本戦における「武功」 1 は、日本最大規模の野戦となった激戦の中で、一正が確かな働きを示した証であり、これがなければ父・親正の西軍加担という立場を完全に相殺し、家の安泰を勝ち取ることは難しかったであろう。一正の具体的な戦功は、生駒家の運命を左右するほど重要なものであり、彼の武将としての能力が、家の危機を救ったと言える。
関ヶ原の戦いが東軍の圧倒的勝利に終わると、戦後処理が行われた。西軍に与した大名の多くが改易(領地没収)や減封(領地削減)という厳しい処分を受ける中で、生駒家は一正の東軍における顕著な功績により、父・親正の西軍加担の罪を問われることなく、所領である讃岐一国を安堵された。そればかりか、さらに1万5千石の加増を受けたのである 1 。
この結果、生駒家の石高は17万石を超えることになった。資料によって若干の差異が見られるが、例えば『生駒親正』のWikipedia記事では、親正が当初与えられた讃岐国の石高は12万6千200石とされており 7 、これに1万5千石を加えると約14万1千200石となる。一方で、他の資料では生駒家の石高を17万3千石 6 や17万6千石 15 とするものもある。この差は、一正が家督相続後に行った領内の再検地とそれに伴う石高の打ち出し直し(高直し)によるものと考えられる 7 。
「1万5千石の加増」という具体的な数値は、徳川家康による明確な恩賞を示すものであり、一正の働きがいかに高く評価されたかを物語っている。当初の石高にこの加増がなされ、その後、一正が藩主として早速領国経営に着手し、検地と高直しを実施した結果、実質的な石高が17万石台として幕府に認められたと解釈するのが自然であろう。関ヶ原の戦いにおける一正の的確な判断と果敢な行動は、生駒家にとって最大の危機を乗り越えさせ、さらには徳川政権下での一層の発展の礎を築くという、最良の結果をもたらしたのである。
慶長6年(1601年)、父・生駒親正が関ヶ原の戦いの責任を取る形で隠居したことに伴い、生駒一正は家督を相続し、讃岐高松藩17万石余の二代藩主となった 1 。これは、関ヶ原の戦いの論功行賞が生駒家に有利に働いた直後のことであり、一正は新たな徳川の世における藩主として、幕府との関係を構築しつつ、藩政を運営していく重責を担うことになった。
藩主としての一正の最初の大きな仕事は、関ヶ原の戦後の混乱を収拾し、加増された新たな石高に見合う統治体制を確立することであった。その一環として、領内の再検地と石高の打ち出し直し(高直し)を行い、藩の公式な石高(表高)を17万3千石とした 7 。これは、藩財政の基礎を固め、家臣団への知行配分や軍役負担を再編する上で極めて重要な政策であった。
父・親正は天正15年(1587年)から高松城の築城を開始し 9 、城下町の整備を進めていたが、一正もこれを引き継ぎ、藩政の安定と発展に努めたと考えられる。史料『南海通記』には、親正と一正が相談して西讃岐の要害として丸亀にも城を築き(慶長2年(1597年)説)、また領内の農業用水確保と治水のために国分村の関池や笠居村の苔 PostgreSQL 池といった大規模な溜池を築いたとの記述があり 11 、父子共同で領国経営にあたっていた一端がうかがえる。これらのインフラ整備は、領国の防衛力強化と農業生産力の向上に大きく寄与したであろう。
秋田県由利本荘市のウェブサイトには、生駒氏4代の治政について「治政の上にもみるべきものが数多くあった」と総括的に評価する記述が見られる 15 。しかしながら、一正個人の藩主としての具体的な政策や法令に関する詳細な記録は、提供された資料の中では限定的である 15 。それでも、検地や城郭・溜池の整備といった基本的な領国経営は着実に遂行していたことが推察され、父から受け継いだ藩の基盤を固め、徳川政権下での安定的な藩経営を目指していたと言える。
生駒一正は、武功によって家の安泰を勝ち取っただけでなく、巧みな政治的立ち回りによって、新たな支配体制である徳川幕府との良好な関係構築にも意を砕いた。その最も象徴的な行動が、慶長13年(1608年)に妻子を江戸屋敷に居住させたことである 1 。
当時、大名の妻子を江戸に住まわせることは、幕府への忠誠を示す極めて重要な意味を持っていた。これは後の参勤交代制度における江戸常駐(人質)の原型とも言えるものであり、幕府に対する反逆の意思がないことを明確に示すための措置であった。一正のこの行動は、徳川幕府への恭順の意をはっきりと示し、外様大名である生駒家の立場を安定させるための戦略的な一手であった。この忠義の表れに対し、二代将軍徳川秀忠は一正を賞賛したと記録されており 1 、一正のこの策が幕府に好意的に受け止められ、生駒家の安泰に寄与したことを示している。これにより、生駒家は外様大名でありながらも幕府からの一定の信頼を得て、藩の長期的な安定を目指すことができたのである。
慶長8年(1603年)、生駒一正は豊臣姓を下賜されている 2 。この事実は、一見すると徳川幕府への忠誠と矛盾するように見えるため、注目に値する。なぜなら、この慶長8年は、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた年であり、徳川の治世が名実ともに始まった時期にあたるからである。
既に一正は関ヶ原の戦いで東軍として戦い、徳川への忠誠を示し、その功績によって加増まで受けていた。そのような状況下で、なぜ豊臣姓を下賜されたのか、その経緯や意図については慎重な解釈が求められる。この時期、豊臣家は大坂に依然として存続しており、一大名としての地位を保ってはいたものの、その政治的影響力は大きく低下していた。この下賜は、豊臣秀頼からの形式的なもの、あるいは一正が過去に豊臣家に仕えた功績に対する追認といった意味合いであった可能性が考えられる。
また、徳川家康自身も、この段階では豊臣家を完全に敵視する政策を採っていたわけではなく、一定の配慮を見せていた時期でもあった。そのため、この豊臣姓下賜を家康が黙認したか、あるいは大きな政治的意味合いを持たないものと判断した可能性もある。いずれにせよ、この出来事は、豊臣家がまだ一定の影響力を保持し、徳川幕府の支配体制が完全に確立する以前の、過渡期の複雑な政治状況を反映していると言えるかもしれない。一正にとっては、過去の主家との繋がりを示す名誉であると同時に、徳川幕府との関係においては慎重な対応が求められるものであっただろう。
生駒一正は、高松藩主として藩政の基礎を固め、徳川幕府との関係を安定させた後、慶長15年(1610年)に死去した 1 。その亡骸は、高松市内の法泉寺に葬られたと伝えられている 1 。
興味深いことに、父・親正の墓所は同じく高松市内の弘憲寺にあるが、この弘憲寺は一正が父・親正の菩提を弔うために、綾歌郡飯山町にあった旧法勲寺を移築し、親正の法名(海依弘憲大禅定門)に因んで寺号を改めたものである 16 。これは、一正の父に対する篤い追慕の念を示すものと言えるだろう。
一正の死後、家督は長男である生駒正俊(いこま まさとし)が継いだ 1 。正俊は父の築いた基盤の上に、高松藩の三代藩主として藩政を担っていくことになった。
表2: 生駒一正 家族構成表
続柄 |
氏名 |
備考 |
関連資料 |
父 |
生駒親正 |
初代高松藩主 |
2 |
母 |
高木正資養女 |
|
2 |
正室 |
堀秀重娘 |
|
2 |
長男 |
生駒正俊 |
三代高松藩主 (1586-1621) |
2 |
子 |
生駒正房 |
於夏(山下氏)の子 |
2 |
子 |
生駒正信 |
(?-1615) |
2 |
子 |
入谷盛之 |
|
2 |
女子 |
山里 |
猪熊教利室。のち津守氏に再嫁。さらに生駒将監に再嫁 |
2 |
女子 |
近藤政成正室 |
のち佐々木高和室 |
2 |
養女 |
生駒将監娘 |
|
2 |
この家族構成表は、一正の血縁関係や婚姻関係を概観するものであり、当時の武家の家督相続や他家との繋がりを理解する一助となる。特に正室が堀秀重の娘であることは、他の大名家との姻戚関係を通じて、生駒家が政治的なネットワークを構築していた可能性を示唆している。
生駒氏は、一正、正俊と続いた後、四代藩主・高俊の時代に「生駒騒動」と呼ばれる深刻な御家騒動が発生し、結果として寛永17年(1640年)に改易(領地没収)という厳しい処分を受けることになった 9 。高俊は出羽国由利郡矢島へ1万石で移され、大名としての生駒家の本流は事実上ここで途絶える。
生駒騒動の原因としては、藩主高俊の若年と指導力不足、江戸家老の前野助左衛門や石崎若狭といった新参家臣の専横、それに対する国家老の生駒帯刀ら譜代家臣の反発といった家臣団内部の深刻な対立、そして藩財政の困窮などが挙げられている 20 。具体的には、騒動勃発の直接的なきっかけの一つとして、前野らが借金返済のために、初代藩主・親正が高松城の要害として伐採を禁じていた石清尾山の松林を伐採したことが、家中の憤慨を招いたとされている 19 。これは、藩財政の逼迫と、創業者の意思や藩の伝統を軽視する新参家臣の姿勢が、深刻な対立を引き起こしたことを示している。
一正の治世から約30年後に発生したこの騒動の直接的な原因は四代高俊の時代にあるものの、その遠因が一正の時代に全くなかったとは断言できない。例えば、関ヶ原の戦後の加増 1 や、それに伴う高直しによる石高の増加 7 は、藩の規模を拡大させた一方で、家臣団の再編成や知行地の配分、さらには藩財政運営の負担増といった新たな課題を生じさせた可能性がある。これらの課題への対応が不十分であった場合、将来的な財政難や家臣間の勢力争いの火種となった可能性は否定できない。生駒騒動の一因として「新参衆」と「譜代衆」の対立が指摘されているが 22 、このような家臣団内部の構造的な問題が、一正の時代、あるいはその後の藩政運営の中で徐々に形成されていった可能性も考慮すべきである。また、江戸時代中期以降の一般的な傾向として、商品経済の進展に伴う支出増大が多くの藩で財政難を引き起こしており 23 、生駒藩もその例外ではなかったかもしれない。
一正は家の存続と発展に大きく貢献したが、その後の藩政運営において、彼が築いた基盤を維持・発展させることができなかった、あるいは新たな時代の変化に藩の統治システムが対応できなかった結果が、生駒騒動という形で現れた可能性がある。一正の時代の家臣団構成や財政状況に関するより詳細な史料が存在すれば、この点の考察をさらに深めることができるであろう。
生駒一正の人物像を史料から読み解くと、いくつかの側面が浮かび上がってくる。
まず、 武将としての高い能力と勇気 である。紀伊雑賀攻め 1 、朝鮮出兵における蔚山城の戦い 1 、そして関ヶ原の戦い 1 での活躍は、彼が優れた軍事指揮官であり、困難な状況下でも臆することなく戦う勇猛さを持っていたことを示している。特に『南海通記』に記された朝鮮渡海時の逸話は、父・親正と共に嵐の中でも冷静に指揮を執ったとされ、その剛胆さを物語っている 11 。
次に、 時勢を読む鋭い政治感覚と忠誠心 である。関ヶ原の戦いにおいて、父とは異なる東軍への参加を決断し、戦功を挙げたことは、徳川の世の到来を見据えた的確な判断であったと言える。さらに、慶長13年(1608年)に妻子を江戸に居住させたことは 1 、徳川幕府への明確な忠誠の意思表示であり、新たな支配体制への適応能力の高さを示している。
そして、 家に対する強い責任感 も見て取れる。関ヶ原での父子分離戦略は、何よりも生駒家の存続を優先した苦渋の決断であったと推察される。歴史情報サイト「歴史人」の記事にある「大坂にいる父・親正を窮地から救うためにも、ここでひと踏ん張りじゃ」という一正の言葉 14 は、家と父を思う心情をよく表している。また、父・親正の菩提を弔うために弘憲寺を建立(移築)したこと 17 も、儒教的価値観における孝の実践として、家への責任感の一端を示すものと言えよう。
生駒一正は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国乱世から江戸時代初期にかけての三人の天下人に仕え、激動の時代を生き抜いた武将である。特に、生駒家の存続が危ぶまれた関ヶ原の戦いにおいて、東軍に与して武功を挙げ、結果として家の安泰と加増を勝ち取った功績は極めて大きい 1 。この決断がなければ、生駒家は西軍に与した多くの大名と同様に、改易や減封の運命を辿った可能性が高い。
高松藩二代藩主としては、父の築いた基盤を引き継ぎ、検地や高直しによる藩財政の基礎固め 7 や、溜池普請などのインフラ整備 11 に努めたことがうかがえる。徳川幕府との関係構築にも成功し、藩の安定に貢献した。
一正の生涯を俯瞰すると、彼は理想論よりも現実的な判断を優先し、時には主家の変更や困難な戦略的決断(関ヶ原での父との分離)をも厭わなかった、現実主義的な人物として映る。その行動の根底には、自らの武功によって道を切り開き、何よりも「家」を存続させるという強い意志があったと考えられる。彼の行動は、戦国武将特有のプラグマティズムと、新しい時代への適応能力の高さを示している。
生駒一正は、単なる勇猛な武将としてだけでなく、激動の時代を生き抜くための知略と決断力を兼ね備えた人物として評価できる。彼の生涯は、戦国時代から江戸時代初期への大きな移行期における武士の生き様の一つの典型を示しており、その巧みな処世術と家への貢献は、歴史の中で特筆すべきものと言えるだろう。
生駒一正は、弘治元年(1555年)に生まれ、慶長15年(1610年)に没するまで、日本の歴史が大きく転換する激動の時代を駆け抜けた武将であった。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という三英傑の下で、その武功と巧みな政治判断によって、生駒家の存続と発展に大きく貢献した。
彼の生涯において最も重要な岐路となったのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いであった。父・親正が西軍に与する中で、一正は東軍に属して戦い、顕著な武功を挙げた。この決断と行動が、戦後の生駒家の運命を決定づけ、所領安堵のみならず加増まで勝ち取るという結果に繋がった。これは、彼の先見性と勇気、そして家に対する強い責任感の表れであったと言える。
讃岐高松藩の二代藩主としては、父・親正の築いた基盤を受け継ぎ、検地の実施や高直し、溜池の普請など、藩政の基礎固めに努めたことが史料からうかがえる。また、妻子を江戸に送るなどして徳川幕府への忠誠を示し、新たな時代における藩の安定を図った。
一方で、彼が活躍した時代から約30年後には、生駒家は御家騒動によって改易の憂き目に遭う。一正の治世にその直接的な原因があったとは言えないまでも、藩の規模拡大に伴う統治構造の変化や、家臣団内部の力関係などが、後の混乱の遠因となった可能性は否定できない。
生駒一正の生涯は、個人の武勇や知略が家の盛衰に直結した戦国乱世の厳しさと、新たな秩序が形成される江戸時代初期における武家の生き様を象徴している。彼は、武将としての勇猛さと、政治家としての冷静な判断力を併せ持ち、危機を乗り越えて家名を後世に伝えた人物として、歴史にその名を刻んでいる。彼の生き様は、変化の時代にいかにして適応し、組織を存続させていくかという普遍的な問いに対する一つの解答を示していると言えるかもしれない。