本報告書は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を生きた武将、生駒利豊(いこま としとよ)の生涯、事績、そして彼が生きた時代背景を、現存する資料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、多角的に考察するものである。特に、尾張生駒氏の一員としての利豊の位置づけ、織田、豊臣、徳川という支配者がめまぐるしく変わる中で彼が如何に生き抜いたか、そして同族である讃岐生駒氏の動向との関連性にも光を当てる。
生駒利豊は、天正3年(1575年)に生を受け、寛文10年(1670年)に96歳という長寿を全うして没した武将である 1 。この長い生涯は、戦国乱世の終焉から江戸幕府による泰平の世の確立、そしてその安定期に至るまでの日本の大きな歴史的変遷を、彼自身が身をもって体験したことを意味する。利豊は尾張国小折城主、生駒家長の四男(あるいは五男との説もある)として生まれ、尾張生駒家の第5代当主となった 2 。この家系は、後に詳述する大名家としての讃岐生駒氏とは異なり、織田信長との縁故も深い尾張の国人領主の系譜に連なる。
利豊が生きた時代は、織田信長の台頭に始まり、豊臣秀吉による天下統一、関ヶ原の戦いを経て徳川幕府が成立し、社会構造が大きく転換した時期であった。武士にとっては、主家の盛衰が自身の運命を左右し、時には主家を変えることも生き残りのための選択肢となる、流動性の高い時代であった。利豊の生涯は、このような時代における武士の一つの生き様を体現していると言えよう。彼の96年という長寿は、単に個人的な強健さを示すだけでなく、激動の時代を乗り切るための優れた危機管理能力、時勢を読む洞察力、そして巧みな政治的判断力を有していた可能性を強く示唆している。戦国時代から江戸初期にかけては、主家の滅亡、合戦での戦死、改易など、武士にとって命の危険は常に付きまとっていた。特に豊臣秀次事件のような政争に巻き込まれながらも生き延び、その後も徳川の世で重用されたことは、単なる偶然では説明し難い。父である生駒家長もまた、織田信雄の失脚後に浪人するなど、浮沈の多い生涯を送っており 3 、こうした環境が利豊の処世術に影響を与えたことも考えられる。
本報告書では、まず利豊の出自と彼が属した尾張生駒氏の系譜を明らかにし、次いで彼の生涯と具体的な事績を辿る。さらに、同時代におけるもう一方の生駒氏である讃岐高松藩の動向、特に「生駒騒動」についても触れ、尾張生駒氏との対比を試みる。そして、利豊の晩年と彼が後世に残した影響について考察し、最後に結論を述べる。この構成を通じて、生駒利豊という一人の武将の生涯を深く掘り下げるとともに、彼が生きた時代の特質を浮き彫りにすることを目指す。
生駒利豊の理解を深めるためには、彼が属した尾張生駒氏の歴史的背景と一族の構成を把握することが不可欠である。
尾張生駒氏は、その出自を藤原氏とし、大和国生駒郷(現在の奈良県生駒市周辺)に居住したことから生駒の姓を称するようになったと伝えられる。その後、尾張国丹羽郡小折村(現在の愛知県江南市小折町)に移り住み、この地を拠点とした 5 。生駒氏は、灰(染物の原料などに用いられた)や油を商う馬借(馬を利用した運送業者)として財を成し、土豪としての経済的基盤と勢力を築いたとされる 6 。この商業活動によって培われた経済力は、後の織田信長との関係構築においても重要な役割を果たしたと考えられる。彼らは小折城(小折の生駒屋敷)を拠点として活動した 2 。
尾張生駒氏の存続戦略は、単に武力や領地規模の拡大のみを追求するのではなく、中央の有力者との姻戚関係の構築、商業活動による経済力の確保、そして何よりも時勢に応じた柔軟な仕官先の選択に重点を置いていたように見受けられる。これらの要素が複合的に作用し、大大名化こそしなかったものの、尾張藩の重臣として幕末まで家名を安定して保つ結果に繋がったと言えよう。
利豊の父は 生駒家長 (いこま いえなが)である。家長は、織田信清に始まり、織田信長、織田信雄、豊臣秀吉、徳川家康、そして家康の四男である松平忠吉と、目まぐるしく変わる時代の権力者に仕えた武将であった 3 。彼の経歴は、当時の武士が置かれた流動的な主従関係を色濃く反映している。家長の特筆すべき点は、その妹である 生駒吉乃 (きつの)が織田信長の側室となり、信忠、信雄、そして徳姫(松平信康室)の生母となったことである 4 。この信長との姻戚関係は、生駒家、特に尾張生駒家の地位を飛躍的に向上させ、織田政権下での活動基盤を強固なものにした。家長自身も、小牧・長久手の戦いでは織田信雄方として長島城代を務め 3 、信雄失脚後は一時浪人するも、豊臣秀吉に仕えて小田原征伐に従軍した 3 。秀吉の死後は徳川家康に接近し、松平忠吉が尾張清洲城主として入府する際にはその案内役を務め、そのまま忠吉の家臣となって1954石を知行した 4 。家長は慶長12年(1607年)1月7日に死去している 3 。
利豊の母は、神野民部少輔の娘とされている 2 。
生駒家長と神野民部少輔娘の間には、利豊の他に男子として平蔵、善長(よしなが)、女子として慈光院(蜂須賀家政室)などがいた 2 。
兄である 生駒善長 は、当初家長の家督を継いだとされるが、後に弟の利豊に家督を譲った 3 。この家督継承の順序や経緯については、資料によって利豊が四男とも五男とも記されており 2 、単純な長幼の序ではなかった可能性が示唆される。善長はその後、妹の慈光院が嫁いだ阿波徳島藩主蜂須賀家に客将として招かれ、その子孫は阿波生駒家として続いた 3 。この背景には、善長自身の意思、蜂須賀家からの強い要請、あるいは当時の生駒家の状況などが複雑に絡んでいたのかもしれない。小牧・長久手の戦いの後に利豊に家督が譲られたとの記述もあり 9 、この時期の政治情勢の変化が影響した可能性も考えられる。
利豊の妻は、正室として津田藤右衛門の娘、継室として遠山友政の娘がいた 2 。子としては、娘が一人おり、肥田忠重に嫁いでいる 2 。
利豊には男子がいなかったため、家名断絶を避けるべく、この娘と肥田忠重の間に生まれた外孫の 生駒利勝 (いこま としかつ)を養嗣子として迎えた 2 。江戸時代の武家社会において、家名の存続は至上命題であり、直系男子がいない場合に血縁の近い者から養子を迎えることは一般的な慣行であった。利豊が外孫を養子としたことは、女系ながらも血の繋がりを保ちつつ家を絶やさないという強い意志の表れであり、この選択によって尾張生駒家は存続し、利勝以降、宗勝、致長、致稠と代を重ね、最終的には4000石を知行する尾張藩の重臣として明治維新まで家名を繋いだ 5 。
以下に、生駒利豊を中心とした尾張生駒氏の主要な系図を示す。
表1:尾張生駒氏 主要系図(利豊周辺)
関係性 |
氏名 |
備考 |
高祖父 (推定) |
生駒家広 |
応仁・文明年間に大和より尾張小折へ移住 |
|
… (省略) … |
|
祖父 |
生駒家宗 |
吉乃・家長の父 |
├─ 伯母 |
生駒吉乃 |
織田信長側室。信忠、信雄、徳姫の母 |
└─ 父 |
生駒家長 (4代) |
織田信雄、豊臣秀吉、松平忠吉等に仕える。1954石。慶長12年没 4 |
└─ 母 |
神野民部少輔娘 |
|
├─ 兄 |
生駒善長 (3男) |
初め家督を継ぐ。後、阿波生駒家の祖となる 3 |
├─ 本人 |
生駒利豊 (4男/5男) |
本報告書の主題 。尾張藩士。2000石。寛文10年没 2 |
│ ├─ 正室 |
津田藤右衛門娘 |
2 |
│ └─ 継室 |
遠山友政娘 |
2 |
│ └─ 娘 |
(氏名不詳) |
肥田忠重室 2 |
│ └─ 外孫 (養嗣子) |
生駒利勝 (6代) |
利豊の家督を継ぐ。子孫は尾張藩士として4000石 5 |
├─ 姉妹 |
慈光院 |
蜂須賀家政室 2 |
└─ 兄弟 |
平蔵 |
2 |
この系図は、利豊の直接の血縁関係と、織田信長や蜂須賀家といった当時の有力者との姻戚関係を視覚的に示しており、彼の社会的地位の背景を理解する上で重要である。
生駒利豊の生涯は、豊臣政権下での活動に始まり、関ヶ原の戦いを経て、江戸時代には尾張藩士として安定した地位を築くに至る、まさに激動の時代を生き抜いた武士の軌跡であった。
以下に、利豊の主要な経歴を年譜として示す。
表2:生駒利豊 略年譜
年代 |
出来事 |
典拠 |
天正3年 (1575年) |
尾張国にて生誕 |
1 |
(幼少期) |
豊臣秀次に近侍 |
2 |
天正18年 (1590年) |
小田原征伐に従軍 (16歳) |
2 |
天正19年 (1591年) |
従五位下隼人正に叙任。「豊臣宗直」を名乗る |
11 |
文禄4年 (1595年) |
秀次事件。後、豊臣秀吉に仕える |
2 |
慶長5年 (1600年) |
関ヶ原の戦い。福島正則隊に属し東軍として参戦 |
2 |
慶長6年 (1601年) |
松平忠吉(尾張清洲城主)の家臣となる。知行2000石 |
1 |
慶長12年 (1607年) |
父・家長死去。松平忠吉没。徳川義直(尾張藩初代藩主)の家臣となる |
1 |
慶長15年 (1610年) |
徳川義直に従い清洲から名古屋へ移る(名古屋開府) |
1 |
(以降) |
尾張藩士として仕える |
|
寛文10年 (1670年) |
4月26日 死去。享年96 |
1 |
利豊は幼い頃から、当時豊臣秀吉の後継者と目されていた関白・豊臣秀次の側近くに仕えた 2 。これは将来の立身出世を視野に入れた配置であったと考えられる。天正18年(1590年)、16歳で秀吉による小田原征伐に従軍しており 2 、これが彼の初陣であった可能性が高い。翌天正19年(1591年)には、従五位下隼人正に叙任され、この時「豊臣宗直」と名乗った記録が残っている 11 。豊臣姓を下賜されたことは 2 、彼が秀吉・秀次政権と密接な関係にあったことを示している。
しかし、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて自刃するという「秀次事件」が起こる。この事件では多くの秀次近臣が粛清の対象となったが、利豊は幸いにもこの難を逃れ、その後は豊臣秀吉に直接仕えることとなった 2 。彼がこの政治的危機を乗り越えられた具体的な経緯は史料に乏しいが 12 、父・家長が築いた人脈や、彼自身の機転、あるいは織田家との縁戚関係などが何らかの形で作用したのかもしれない。いずれにせよ、この事件は利豊の人生に大きな影響を与えたであろうと推察される。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、利豊は東軍に与し、福島正則の陣に属して戦った 2 。この選択は、父・家長が既に徳川家康の四男である松平忠吉に接近していたこと 4 とも軌を一にしており、生駒家として東軍に加担するという方針があった可能性が考えられる。福島正則は東軍の主力の一人であり、その陣に加わることは戦功を挙げる好機であった。実際に彼がどのような戦闘に関与したかについては、白峰旬氏による関ヶ原の戦いに関する研究論文で「生駒利豊」がキーワードとして挙げられており 13 、その具体的な活躍ぶりが記されている可能性がある。この東軍への参加という的確な状況判断が、戦後の彼の運命を大きく左右することになる。
関ヶ原の戦いで東軍が勝利した後、慶長6年(1601年)、利豊は徳川家康の命により、新たに尾張清洲城主となった松平忠吉(家康四男)の家臣となった 1 。この時、2000石の知行を与えられている 6 。父・家長の知行1954石 4 と合わせ、尾張における生駒家の経済的基盤はより強固なものとなった。
しかし、慶長12年(1607年)、主君である松平忠吉が嗣子なく若くして亡くなってしまう 1 。利豊は、次に尾張藩主として封じられた徳川義直(家康九男、尾張徳川家初代)に引き続き仕えることとなった 1 。慶長15年(1610年)には、義直に従って本拠地が清洲から名古屋へと移転する「名古屋開府」にも立ち会っている 1 。
以後、利豊は尾張藩士として生涯を送り、その子孫も尾張藩の重臣として幕末まで家名を繋いだ 3 。特に徳川御三家筆頭である尾張徳川家の家臣団に組み込まれたことは、利豊の家系に長期的な安定をもたらす極めて重要な転換点であった。これは、後に見る讃岐生駒家が辿った運命とは対照的であり、同じ生駒一族であっても、どの主君に仕え、どのような地位を築くかによって、その後の家の盛衰が大きく左右されることを示している。
利豊の通称としては因幡守が知られ 2 、他に大炊佐、隼人正なども用いられた 2 。官位は従五位下隼人正であった 2 。改名もしており、蜂須賀五郎八、豊臣宗直、長知といった名が伝わっている 2 。「蜂須賀五郎八」を名乗った時期や経緯は不明だが、彼の姉妹である慈光院が阿波徳島藩主蜂須賀家政に嫁いでいること 2 と何らかの関連があるのかもしれない。また、号として「露月」を用いており、これは彼の法名「覚海院殿空山露月居士」にも含まれている 2 。
生駒利豊が属した尾張生駒氏とは別に、戦国時代から江戸時代初期にかけて大きな勢力を持った同族の生駒氏が存在した。それが讃岐高松藩主となった生駒氏である。本章では、この讃岐生駒氏の興亡、特に藩の命運を揺るがした「生駒騒動」について概説し、利豊の家系との比較を通じて、当時の武家社会における家のあり方や藩政運営の困難さについて考察する。利豊自身はこの騒動に直接関与したわけではないが、同族の大きな変動は、彼にとっても無関心ではいられなかったであろう。
讃岐高松藩の藩祖は 生駒親正 (いこま ちかまさ)である。親正は美濃国土田(現在の岐阜県可児市土田)の出身で、利豊の父・家長とは同族とされるが、親正の系統は土田氏から養子(親重)を迎えて生駒姓を名乗ったとの記述もある 9 。親正は織田信長に仕えた後、羽柴秀吉の配下となり、各地の戦で武功を挙げた 3 。天正15年(1587年)、秀吉による四国平定後、讃岐一国17万3千石を与えられ、高松城を築城して初代高松藩主となった 5 。豊臣政権下では三中老の一人に数えられるなど、重用された 3 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、親正自身は西軍に与したが、嫡男の 生駒一正 (かずまさ)を東軍に参加させるという巧みな戦略を用いた 16 。これは、どちらが勝利しても家名を存続させるための、当時の武家によく見られた知恵であった。この戦略が功を奏し、戦後も生駒家は所領を安堵された。親正は慶長8年(1603年)に死去し 16 、跡を継いだ一正は関ヶ原での功により1万5千石の加増を受けている 17 。一正は慶長15年(1610年)に没した 17 。
三代藩主は一正の長男である 生駒正俊 (まさとし)で、父の死により家督を継いだが、元和7年(1621年)に36歳の若さで死去した 17 。
そして四代藩主となったのが、正俊の長男である 生駒高俊 (たかとし)である。高俊は父の死により、元和7年(1621年)にわずか11歳で家督を相続した 23 。幼少であったため、外祖父にあたる伊勢津藩主・藤堂高虎が後見人となった 23 。この幼君のもとで、後に生駒家の運命を大きく揺るがすことになる騒動の種が蒔かれることとなる。
「生駒騒動」は、寛永17年(1640年)に讃岐高松藩生駒家で発生したお家騒動である。この騒動は、藩主の資質、家臣団内部の深刻な派閥対立、後見政治の機能不全、そして藩財政の逼迫といった、江戸初期の藩が抱えがちな諸問題が複合的に絡み合って発生した典型的な事件であった。
原因:騒動の根本的な原因は、藩主高俊が幼少で家督を継ぎ、成人してからも政務を顧みず遊興に耽ったことにあると広く認識されている 23。高俊は美少年を集めて舞わせるなどの遊びに興じ、「生駒おどり」と揶揄されるほどであったという 23。このような藩主の姿勢が、家臣団の統制を緩ませ、権力闘争の温床となった。
具体的には、藩政の主導権を巡り、藤堂高虎の家臣出身である前野助左衛門と石崎若狭ら「新参衆」が、高俊の若年と不明に乗じて藩の実権を掌握し、専横を極めた 23。彼らは後見役であった藤堂高虎(後にその子高次)の影響力を背景に権勢を振るい、これに不満を抱いた生駒一門の譜代家臣である生駒帯刀(たてわき)を中心とする「正義派」あるいは「譜代衆」との間で激しい対立が生じた。
さらに、藩財政の困窮も深刻な問題であった 29。寛永12年(1635年)に幕府から命じられた江戸城修築の手伝い普請の費用調達を巡り、前野らが藩の要害である石清尾山の松林を伐採して商人に売却したことが、譜代家臣たちの怒りを買い、対立を一層激化させる引き金となった 23。
経過 :寛永14年(1637年)、生駒帯刀らは前野・石崎派の不正や専横を19ヶ条にまとめ、藤堂家や幕府に訴え出た 23 。当初、藤堂高次らの仲介によって穏便な解決が試みられたが、家中の対立は収まらず、むしろ先鋭化していった 23 。寛永16年(1639年)には、幕府の評定所において両派の代表者による吟味(事実調べや審理)が行われたが、双方の主張は真っ向から対立し、容易に決着しなかった 23 。
結果:最終的に寛永17年(1640年)、幕府による裁定が下された。藩主・生駒高俊は、家中仕置の不行き届きを理由に改易処分となり、讃岐17万石余の領地は没収された。ただし、堪忍料として出羽国矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町)に1万石を与えられ、減転封となった 17。これにより、生駒家は大名の地位を失った。
騒動の中心人物であった前野助左衛門と石崎若狭らは切腹または死罪という厳しい処分を受けた 27。一方、訴えを起こした生駒帯刀らは、松江藩預かりとなるなど、比較的軽い処分で済んだ 27。しかし、帯刀は後に前野派の縁者によって仇討ちされ、命を落としている 32。
この生駒騒動は、幕府にとって豊臣恩顧の大名の勢力を削ぎ、幕藩体制をより強固なものとする上で、ある意味で格好の口実として利用された側面も否定できない。
讃岐生駒氏の改易という一大事件は、同じ生駒の姓を持つ尾張生駒家、すなわち利豊の家系にとっても、決して他人事ではなかったはずである。しかし、記録上、利豊らがこの騒動に連座したり、何らかの処罰を受けたりした形跡は見られない。これは、両家がそれぞれ別個の家臣団に属し、異なる主君(讃岐生駒氏は独立した大名、尾張生駒氏は尾張藩の家臣)に仕えていたため、直接的な責任が及ばなかったものと考えられる。
利豊の家系は、父・家長の代から徳川家との関係を築き始め、利豊自身も関ヶ原の戦いで東軍に与し、その後は尾張徳川家の家臣として着実にその地位を固めていた。この堅実な路線選択と、主家である尾張藩の安定性が、讃岐生駒氏が辿った波乱の運命とは対照的な結果を生んだと言えるだろう。生駒騒動の報は、利豊ら尾張生駒家の人々にとって、藩政運営の難しさ、家臣団統制の重要性、そして何よりも主君の資質が家の盛衰にいかに大きく影響するかを改めて認識させる、痛烈な教訓となった可能性がある。
讃岐生駒氏の改易と矢島への転封は、大名家としての権勢の失墜を意味したが、1万石の堪忍料を与えられて家名自体は存続を許された。これは、幕府による処断が純粋な懲罰一辺倒ではなく、生駒家代々の功績や騒動の複雑な背景を考慮した、ある種の温情や武家の面子を保たせるための配慮が含まれていたことを示唆している。矢島に移った生駒氏は、後に交代寄合旗本となり、幕末には戊辰戦争の功績などによって1万5200石の諸侯(大名)に復帰し、矢島藩を再立藩している 5 。
生駒親正が関ヶ原の戦いで自身は西軍に、息子の一正を東軍に属させた戦略は、家の存続を最優先する当時の武家の典型的な行動様式であった。この戦略は一時的に成功し所領安堵に繋がったが、その後の生駒騒動による改易は、いかに巧妙な対外戦略を用いたとしても、藩内部の統治の失敗が最終的に家の命運を左右しうるという厳しい現実を示している。これは、戦国の世を生き抜くための知恵と、泰平の世を治めるための能力が必ずしも一致しないこと、そして何よりも藩の内部固めがいかに重要であるかを物語っている。
生駒利豊は、戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代を96年という長きにわたり生き抜き、尾張藩士としてその生涯を閉じた。彼の晩年と、後世に残した影響について考察する。
利豊は、寛文10年(1670年)4月26日に96歳で死去した 1 。当時の平均寿命を考えると際立った長寿であり、戦国乱世の記憶を持つ最後の世代の一人として、また尾張藩内においても長老として敬われていた可能性が考えられる。なお、一部資料に見られる「幕末の1855年に亡くなっている」 33 や、異なる生没年の記述 34 は、本報告書の対象である生駒利豊とは別人に関する情報か、あるいは誤記であると判断される。
利豊の墓は、愛知県江南市小折町にある宝頂山墓地に現存する 2 。この墓は、石廟(せきびょう)形式という、石で造られた小規模な祠のような形態をしており、当時の墓としては珍しいものであると特筆されている 2 。この石廟形式の墓の建立は、単に珍奇であるというだけでなく、当時の尾張藩における生駒家の地位や経済力、そして故人に対する子孫の深い敬愛の念や、一族の仏教信仰や死生観を反映したものである可能性が高い。石廟は、一般的な五輪塔や墓石と比較して建立に多大な手間と費用を要するため、これを選択した背景には相応の理由があったと考えられる。父である生駒家長の墓も同じ宝頂山墓地にあり 3 、一族の墓所として代々大切にされてきたことが窺える。
利豊の法名は「覚海院殿空山露月居士」である 2 。ここに含まれる「院殿号」は、通常、大名やそれに準ずる高い身分の人物、あるいは寺院に対して多大な貢献をした人物に与えられるものであり、尾張藩内における彼の評価の高さを間接的に示していると言えよう。また、生前に用いた号である「露月」が法名にも取り入れられている点も興味深い。
前述の通り、利豊には男子がおらず、娘の子(外孫)である生駒利勝が養嗣子として家督を継承した 2。利勝以降、尾張生駒家は尾張藩の重臣として代々仕え、その知行も利豊の時代の2000石 6 から、安永2年(1773年)には4000石へと加増され、藩政の中枢にも関わるようになった 5。このことは、利豊自身が尾張藩主徳川義直との間に築いた信頼関係と、その後の子孫たちが藩に対して忠勤に励み、それが継続的に評価された結果であると言える。尾張藩は江戸時代を通じて比較的安定した藩の一つであり 36、その中で生駒家が重臣としての地位を維持し続けたことは、藩の統治機構に巧みに組み込まれ、貢献し続けた証左である。これは、お家騒動によって改易という憂き目に遭った讃岐生駒氏とは極めて対照的であり、藩内での立ち回りや藩主との関係構築の巧拙が、武家の長期的な安定にいかに重要であるかを示している。
生駒家は明治維新までこの地位を保ち、現代にもその家系は続いていることが、生駒家第19代当主・生駒英夫氏の講演に関する記録からも確認できる 37。
生駒利豊は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三つの時代を経験し、それぞれの政権の変遷に適応しながら家名を巧みに保った人物である。特に尾張徳川家の家臣として、その草創期から藩政の安定に寄与したと考えられる。しかしながら、彼の具体的な役職や詳細な功績に関する記録は、現在のところ限定的である 12 。尾張藩の分限帳や名古屋市史などには関連する記録が存在する可能性が示唆されるものの、多くは生駒家全体や後の時代の記述であり、利豊個人の具体的な活躍を詳細に示すものは少ない 6 。
この記録の少なさは、彼が派手な武功や政治的策謀によって歴史の表舞台で名を馳せたタイプの武将ではなく、むしろ実務能力や主君への忠勤によって信頼を得、家を安定させた堅実な人物であったことを示唆しているのかもしれない。目立つ武功や逸話が記録に残りにくい種類の貢献、例えば藩政における地道な実務処理、藩主側近としての補佐、家臣団内部の調整役など、縁の下の力持ちとして重要な役割を果たしていた可能性が考えられる。彼の長寿と家の安定は、波風を立てずに着実に職務を遂行することで得られた結果であり、それは戦国時代的な華々しい活躍とは異なる、江戸時代的な官僚的武士の一つの理想像を体現していたとも言えるだろう。
秀次事件が利豊の人生に大きな影響を与えたことは想像に難くないが 12 、その具体的な内容や彼がそれをどう乗り越えたのかについては、さらなる研究が待たれる。また、関ヶ原の戦いにおける彼の具体的な戦闘行動についても、前述の白峰旬氏の論文 13 などを通じて、より詳細な情報が得られることが期待される。
生駒利豊は、天正3年(1575年)から寛文10年(1670年)まで、96年の長きにわたり生きた武将である。尾張の国人領主である生駒家長の四男(または五男)として生まれ、織田信長との縁戚関係を背景に持ちつつ、豊臣秀次、豊臣秀吉、そして徳川家康へと主君を変えながら、戦国末期から江戸初期に至る激動の時代を巧みに生き抜いた。
関ヶ原の戦いでは東軍の福島正則隊に属して戦功を挙げ、戦後は尾張清洲城主松平忠吉に仕え、忠吉の夭折後は尾張藩初代藩主徳川義直の家臣となった。これにより、尾張藩士としての確固たる地位を築き、その家系は利豊の没後も外孫の利勝が継承し、代々尾張藩の重臣として4000石を知行し、明治維新まで続いた。
生駒利豊の生涯は、戦国時代から江戸時代初期への移行期における、中級武士の処世術と家の存続戦略の一つの典型を示している。中央の権力闘争、特に豊臣秀次事件のような政変に翻弄されながらも、時勢を読む洞察力と巧みな立ち回りによって危機を乗り越え、新たな支配体制である徳川幕府、そして尾張藩の体制に順応していった。
彼の家系が安定した地位を維持できたことは、同族でありながらお家騒動(生駒騒動)によって改易という波乱の運命を辿った讃岐高松藩生駒氏とは対照的である。この対比は、個人の選択と行動、主家との関係、そして藩内部の統治能力が、武家の盛衰にいかに大きな影響を与えるかを示している。利豊は、尾張藩草創期における藩政の安定に、一人の家臣として貢献したと考えられるが、その具体的な功績や藩内での詳細な役割については、なお不明な点も多く、今後の史料の発見と研究が一層待たれるところである。
今後の課題としては、尾張藩の一次史料(『名古屋市史』編纂過程で参照されたであろう藩の記録や、現存する可能性のある生駒家関連文書など)を博捜し、利豊の具体的な役職、知行の正確な変遷、藩政への関与の実態を明らかにすることが挙げられる。また、関ヶ原の戦いにおける具体的な戦闘行動の詳細 13 、そして豊臣秀次事件が利豊に与えた具体的な影響と、彼がそれをどのように乗り越え、その後のキャリアに繋げたのかについての詳細な分析も、生駒利豊という人物像をより深く理解する上で不可欠であろう。
本報告書の作成にあたり参照した主要な情報源は以下の通りである。
これらの情報源を総合的に分析し、本報告書を構成した。