最終更新日 2025-06-07

生駒親正

「生駒親正」の画像

生駒親正:戦国乱世を駆け抜け、讃岐高松の礎を築いた武将

はじめに

本報告書は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将、生駒親正(いこま ちかまさ)について、その出自、経歴、業績、人物像、そして歴史的評価を多角的に掘り下げ、詳細に明らかにすることを目的とします。

生駒親正が生きた時代は、応仁の乱以降、百数十年にも及ぶ戦乱が続き、旧来の権威が失墜し、実力主義が横行する、まさに激動の時代でした。織田信長、そして豊臣秀吉という二人の天下人が登場し、武力による全国統一事業を推し進める中で、多くの武将たちが自らの存亡と栄達をかけて鎬を削りました。親正もまた、そのような時代に翻弄されつつも、巧みに時勢を読み、武将として、また領国経営者として確かな足跡を残した人物です。

親正の生涯を紐解くと、単に戦場での武勇に優れた武将という一面に留まらず、近世的な城郭である高松城の築城、城下町の整備、そして領国経営といった、統治者としての多岐にわたる能力を発揮していたことが浮かび上がってきます。これは、戦国時代から近世へと移行する過渡期において、武士の役割が単なる戦闘者から、行政や経済をも担う統治者へと変化していく時代の要請に応えるものであったと言えるでしょう。本報告書では、現存する資料に基づき、生駒親正の多面的な実像に迫ります。

第一章:生駒親正の出自と初期の経歴

第一節:生駒氏のルーツと親正の誕生

生駒氏の出自については諸説ありますが、一般的には大和国平群郡生駒(現在の奈良県生駒市)を本貫とし、藤原北家良房流、あるいは藤原時平の曾孫・信義が生駒庄司となったことに始まるとされています 1 。室町時代、応仁の乱(1467年~1477年)の戦禍を避けるため、生駒家広の代に尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)に移住したと伝えられています 2 。この尾張への移住は、後に生駒氏が織田信長と結びつく上で重要な布石となったと考えられます。

生駒親正は、大永6年(1526年)に美濃国土田(現在の岐阜県可児市土田)で生まれたとされています 3 。父は生駒親重といい、美濃の国人として一定の勢力を有していました 6 。親正が生まれた頃の美濃国は、守護であった土岐氏の権勢が衰え、斎藤道三が「油売りからの成り上がり」として頭角を現し、下剋上によって国主の座を奪い取ろうとする、まさに動乱の最中にありました 6 。このような不安定な環境は、親正の幼心にも深く刻まれ、その後の彼の生涯を象徴するかのようであったと、後年の彼自身が述懐する形で記された記録も存在します 6

幼少期の親正は、父・親重から「この世は強き者が弱き者を制する世。されど、力のみにあらず、智恵こそが武士の真の力」であり、「いかに正しくとも、滅びては何にもならぬ。時に応じて身を変じるは、武士の恥にあらず」といった教えを受けたとされ、これが後の親正の現実的な処世術や、状況に応じて柔軟に対応する能力の基盤を形成した可能性が指摘されています 6 。美濃という実力本位の土地柄と、父の教えは、親正が激動の時代を生き抜く上で大きな影響を与えたことでしょう。

生駒氏が元々大和国の有力者でありながら、戦乱を避けて尾張へ移住し、そこで武士としての新たな地位を築いたという経緯は、一族の持つ適応能力の高さを示唆しています。この経験は、後に親正が織田信長に仕える際に、尾張に地理的な近さだけでなく、在地勢力との繋がりを持つ上で有利に働いたと考えられます。実際に、織田信長が生駒屋敷に出入りするようになったという記述もあり 2 、美濃出身でありながら尾張にも縁故があったことは、信長の美濃攻略の際に重要な役割を果たす素地となった可能性があります。

第二節:美濃国時代と織田信長への仕官

親正が十代の頃、美濃国の情勢は依然として流動的でした。土岐頼芸と斎藤道三の権力闘争は続き、国人たちはその間で翻弄されていました 6 。弘治2年(1556年)には、斎藤道三とその嫡子・義龍との間で骨肉の争いである長良川の戦いが勃発し、道三は敗死します。この時、親正(あるいは生駒家)は義龍方に与したとされますが、内心では常に周囲の情勢を注視し、変化に備えていたと言われています 6

やがて尾張国から新たな実力者、織田信長が台頭し、美濃への侵攻を開始します。永禄7年(1564年)頃から本格化した信長の美濃侵攻に際し、多くの美濃国人が去就に迷う中、親正は斎藤氏の将来性を見限り、織田方への帰属を決断したとされます 6 。信長の稲葉山城攻略(永禄10年/1567年)に際しては、密かに情報を提供し、内応したという伝承も残っています 6 。この決断は、美濃の国人領主としての生き残りをかけた現実的かつ戦略的な選択であり、彼の時勢を読む能力の現れと言えるでしょう。

永禄9年(1566年)、生駒親正は正式に織田信長の家臣団に加えられました 7 。この時期、親正は四十代半ばに差し掛かっており、家臣団の中では年長者の部類でしたが、美濃国衆としての地の利を活かし、軍の先導役や兵糧の補給手配などで重宝されたと記されています 6

親正が信長に仕えたのは、信長が美濃を平定し、天下統一事業へ本格的に乗り出す重要な時期と重なります。このタイミングで信長の家臣団に加わったことは、親正にとってその後の飛躍の大きな基盤となりました。そして、特筆すべきは、親正が織田信長の命により、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)付属の武将に任じられたことです 7 。これが彼のキャリアにおける決定的な転機となり、後の豊臣政権下での重用へと繋がる道を開くことになります。

第二章:豊臣秀吉政権下での躍進

第一節:羽柴秀吉の与力として

織田信長の家臣となった生駒親正は、程なくして信長の命により、当時まだ木下藤吉郎、あるいは羽柴秀吉と名乗っていた後の天下人、豊臣秀吉の与力(配下武将)となりました 7 。これは親正の経歴における極めて重要な転換点であり、彼のその後の運命を大きく左右することになります。

秀吉の指揮下で、親正は数々の重要な戦役に参加し、武功を重ねていきました。主なものとしては、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いにおける撤退戦、天正3年(1575年)の長篠の戦い、長期にわたった石山本願寺攻め(天正元年~8年/1573年~1580年)、そして紀伊国雑賀攻め(天正5年/1577年など)などが挙げられます 7 。また、元亀元年の姉川の戦いでは、信長軍の一員として浅井・朝倉連合軍と戦い、戦場の混乱の中で冷静さを失わず、陣立ての調整や伝令の任を果たしたとされています 6 。これらの戦いを通じて、親正は武将としての経験を積み、秀吉からの信頼を着実に得ていったものと考えられます。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変により織田信長が明智光秀の謀反で横死するという衝撃的な事件が発生します。主君信長の突然の死は、多くの織田家臣にとって動揺と混乱をもたらしましたが、親正はこの危機的状況において、迅速かつ的確な判断を下しました。中国地方から驚異的な速さで京へ引き返した羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討つと、親正は迷うことなく秀吉に合流したと伝えられています 6 。この迅速な行動は、彼の時勢を読む能力と決断力を示すものであり、信長死後の混乱期において、最も有力な後継者と目された秀吉にいち早く従うことで、自らの地位を確保し、さらなる発展の機会を掴むことに繋がりました。その後も、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いなど、秀吉が織田家内での覇権を確立していく上で重要な戦いに参加しています 4

秀吉は、親正の長年にわたる忠勤と実務能力を高く評価していたようです。ある記録には、秀吉が親正に対し「年長者として若き者を導くべし。わしは汝の経験と知恵を買うておる」と語ったと残されています 6 。これは、親正が単なる武勇だけでなく、その豊富な経験に裏打ちされた判断力や統率力、そしておそらくは美濃国衆としての地の利を活かした情報収集能力や領地経営に関する助言なども含めて、秀吉から多角的に評価されていたことを示唆しています。信長時代から秀吉の指揮下で数々の戦役を共にしてきた古参としての立場は、秀吉が勢力を拡大していく中で、新参の者たちとは異なる深い信頼関係を築く上で有利に働いたと考えられます。

第二節:各地の所領変遷

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の下での生駒親正の働きは、所領の変遷という形で具体的に報いられていきました。彼の石高と領地の場所の移り変わりは、秀吉政権内における彼の評価と期待される役割が徐々に高まっていったことを如実に示しています。

当初、親正は近江国高島郡に2万3千石の所領を与えられたと記録されています 4 。その後、伊勢国神戸(かんべ) 5 、そして播磨国赤穂へと所領を移し、赤穂では6万石の領主となりました 4 。近江高島から播磨赤穂への石高の増加は顕著であり、これは親正がより重要な地域と大きな責任を任されるようになったことを意味します。

これらの所領地は、いずれも当時の戦略的、経済的に重要な位置を占めていたと考えられます。近江国は京都に近く、交通の要衝でした。伊勢国神戸もまた、伊勢湾に面し、海上交通の拠点となり得る場所です。播磨国赤穂は瀬戸内海に面しており、水運の利便性が高く、西国への抑えとしても機能し得る戦略的な要地でした。

このような所領の変遷は、秀吉による全国統治体制の構築プロセスの一環として理解することができます。秀吉は、征服した地域や戦略的に重要な地点に、親正のような信頼できる武将を配置することで、支配体制を強化し、中央集権的な統治を推し進めようとしました。親正の配置もその一環であり、彼に期待される役割が徐々に大きくなっていったことの証左と言えるでしょう。また、親正自身にとっても、これらの地域での統治経験は、多様な地理的条件や経済構造を持つ領地を運営する能力を養う上で貴重な機会となり、後の讃岐国という広大な領国を統治するための重要な糧となったと考えられます。特に、赤穂のような瀬戸内海沿岸の所領での経験は、後に彼が讃岐国で高松城を海城として築城し、水運を重視した領国経営を行う上での知見に繋がった可能性も指摘できるでしょう。

第三節:主要な平定戦における役割

豊臣秀吉の天下統一事業において、生駒親正は数々の主要な平定戦に参加し、重要な役割を果たしました。これらの戦役への継続的な参加は、親正が秀吉軍の中核的な武将の一人として、安定した地位を築いていたことを物語っています。

天正13年(1585年)、秀吉は四国平定に乗り出します。親正はこの征討軍に従軍し、四国の雄であった長宗我部元親の降伏に関与しました 6 。この四国平定への貢献は、親正にとって極めて重要な転機となり、後の讃岐国主への道を開く直接的な伏線となりました。ある記録では、秀吉が親正に対し「汝の忠義に報いん。四国の地を統治せよ」と述べたとされています 6

続いて天正15年(1587年)、秀吉は九州平定を敢行します。親正はこの戦役にも従軍し 8 、戦後、その功績により讃岐一国、具体的には17万石余(資料により15万石余とも 4 )を与えられ、大大名の仲間入りを果たしました 4 。これにより、親正は秀吉から四国統治の適任者の一人と見なされたことが明確になります。

さらに天正18年(1590年)、秀吉は関東の北条氏を屈服させるため小田原征伐を行います。この戦役において、親正は伊豆韮山城の攻撃軍に加わりました。具体的な編成を見ると、筒井定次、蜂須賀家政、福島正則らと共に中軍に名を連ねており、2,200人の兵を率いていたとされています 13 。一部の記録では高齢を理由に後方支援に回ったとも記されていますが 6 、この具体的な部隊編成からは、一定の軍事的役割を担い、戦闘に関与した可能性が高いと考えられます。小田原征伐の後、親正は改めて讃岐17万石の知行を安堵されました 6

これらの大規模な平定戦への参加は、親正が秀吉の天下統一事業において、信頼される中堅武将として確固たる地位を占めていたことを示しています。特に四国や九州といった西国での戦役経験は、その地域の地理や統治のあり方を学ぶ貴重な機会となり、後の讃岐統治や、瀬戸内海を意識した高松城の築城構想にも大きな影響を与えた可能性があります。秀吉の主要な統一戦争に軒並み参加している事実は、彼が秀吉軍の信頼できる構成員であったことの証左と言えるでしょう。

第四節:文禄・慶長の役への関与

豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち文禄・慶長の役(1592年~1598年)は、当時の秀吉配下の大名にとって避けては通れない国家的な大事業でした。生駒親正もその例に漏れず、この戦役に関与しています。

文禄元年(1592年)に始まった文禄の役において、親正は福島正則、長宗我部元親、蜂須賀家政らと共に第五軍に編成され、朝鮮半島へ渡海しました 14 。具体的な兵力としては5,500人を率いたと記録されています 15 。一方で、親正自身が語る形式の記録では、高齢(当時60代後半)を理由に直接の出陣は免れ、兵站や物資の提供といった後方支援で戦を支えたとも記されています 6 。これらの記述の差異は、戦役の時期(文禄の役か慶長の役か、あるいはその両期間中の役割の変化)や、実際の役割分担の複雑さによるものかもしれません。あるいは、渡海して部隊を指揮しつつも、兵站の確保にも大きな責任を負っていた可能性も考えられます。いずれにせよ、海上輸送が極めて重要であったこの戦役において 16 、兵站の維持は勝敗を左右する重要な任務でした。

この朝鮮出兵に関連して、生駒家の家紋「波引車(なみひきぐるま)」の由来となった興味深い逸話が伝えられています。朝鮮へ渡る際、船上で使用していた陣幕の紋「丸車」が玄界灘の荒波をかぶり、半分海水に浸かってしまいました。しかし、その後戦功を挙げたことから、秀吉がその様子を吉兆と捉え、「波の上で勇ましい半分の車模様を家紋にするよう」勧めたとされています 2 。これ以降、生駒家は半円形の「波引車」を正式な家紋として使用するようになったと言います。この逸話は、親正が秀吉から一定の評価や配慮を受けていたこと、そして戦役における何らかの功績(あるいはそれに準ずる評価)を象徴的に示すものとして興味深いものです。

文禄・慶長の役が秀吉の死によって終焉を迎えた後、親正は大坂城の留守居役を務めたという記録もあります 8 。これが事実であれば、戦役後の政権中枢において、彼が依然として信頼されていたことの証左と言えるでしょう。朝鮮出兵という困難な戦役への関与は、親正にとって大きな経験となると同時に、豊臣政権の国際的な野心とその挫折を間近で体験することでもありました。

第三章:讃岐国主としての統治と業績

第一節:讃岐十七万石余の大名へ

天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定の後、生駒親正は長年の功績を認められ、讃岐一国を与えられました 4 。その石高は17万1800石 1 、あるいは15万石余 4 とされ、これにより親正は大大名の一員となります。これは、親正が秀吉から高く評価され、四国、特に瀬戸内海に面する戦略的要衝である讃岐の統治を任せるに足る人物と見なされたことを示しています。親正のキャリアにおける頂点であると同時に、秀吉による四国支配体制の確立における重要な一手でした。

讃岐に入封した当初、親正は国の東端に位置する引田城(現在の香川県東かがわ市)を居城としました 10 。しかし、引田城は領国全体を支配するには地理的に偏っており、不便を感じたためか、程なくして中部の聖通寺城(現在の香川県綾歌郡宇多津町)へ移ったとされています 18 。それでもなお、より効率的な領国支配と、瀬戸内海交通の要衝を掌握するという戦略的な観点から、最終的に讃岐国中央の平野部、香東郡篦原(のはら)荘の海浜に新たな城を築き、そこを本拠地とすることを決意します。この決断が、後の高松市の発展の原点となりました。

第二節:高松城の築城

生駒親正の讃岐国主としての最大の業績の一つが、高松城(別名:玉藻城)の築城です。天正16年(1588年)に築城が開始され 6 、約2年の歳月をかけて天正18年(1590年)にほぼ完成したと伝えられています 18

築城地として選ばれたのは、当時「篦原(のはら)」と呼ばれていた港町でした。親正はこの地を、古く屋島の南にあった高松郷の名にちなんで「高松」と改めました 11 。高松城は、海運の利便性を最大限に活かした海城として計画され、瀬戸内海に直接面する形で築かれました 18

その縄張(設計)については、築城の名手として知られる黒田官兵衛 11 や藤堂高虎 12 、あるいは細川忠興 12 らが助言したという説があります。特に藤堂高虎とは縁が深く、高虎は後に親正の曾孫にあたる高松藩4代藩主・生駒高俊の後見人も務めています 21 。これらの築城の名手たちの関与が事実であれば、高松城が当時の最新技術と戦略思想を結集して計画された、完成度の高い城郭であったことを示唆しています。

高松城の最大の特徴は、海水を引き込んだ水堀を幾重にも巡らせた、日本三大水城の一つに数えられるその構造です 6 。堀には瀬戸内海の海水が直接引き込まれ、潮の干満によって堀の水位が変化するという、防御面でも優れた仕組みが取り入れられていました 6 。また、城内には舟入(ふないり)と呼ばれる港湾施設が設けられ、大型船を直接城内に引き入れることが可能であり、水軍の基地としての機能も有していました 8 。これは、豊臣政権の西国支配、特に朝鮮出兵を睨んだ兵站基地としての役割も視野に入れていた可能性を示唆します。

天守については、三重の構造で、一重目(初層)が天守台の端からはみ出して造られる「南蛮造(唐造)」と呼ばれる珍しい形式であった可能性が指摘されています 21 。築城当初の天守や櫓は、黒い板張りの外観であったと推測されますが、江戸時代に入り松平氏の時代になると、白い漆喰塗りに改修されたと考えられています 18

高松城の築城は、単なる居城建設に留まらず、瀬戸内海の制海権と水運を重視した親正、そして豊臣政権の戦略的意図を色濃く反映したものでした。軍事拠点であると同時に経済拠点としての機能も果たし、その後の高松の発展の礎となったこの城は、近世城郭のあり方として、軍事・政治・経済の複合的機能を持つ拠点形成の先駆けとも評価できるでしょう。

第三節:城下町の整備と領国経営

生駒親正は、高松城の築城と並行して、城下町の整備にも精力的に取り組み、その後の高松の繁栄の基礎を築きました 6 。彼の領国経営は、高松城を中心とした計画的な都市開発と、領国全体の安定化を目指すものでした。

城下町の町割(区画整理)は、武士、町人、職人といった身分に応じて居住区域を定めるなど、計画的に進められました 11 。城の南から西にかけては重臣の屋敷が配置され、さらにその外側には侍屋敷、そして東北部から南部にかけては商人や職人を集住させ、商業・手工業の発展を促しました 6 。丸亀から移住させた商人たちのために「丸亀町」が作られるなど、具体的な都市計画の様子がうかがえます。

また、豊臣秀吉による全国的な検地政策に従い、親正は讃岐国内でも検地を実施しました。これにより、領内の石高を正確に把握し、年貢徴収の公正化と財政基盤の確立を目指したと考えられます 6

讃岐国は、一方で水害に悩まされ、他方で水不足にも苦しむという地理的特性を持っていました。親正もまた、高松城築城の際に香東川の水害に悩まされた記録が残っており、川筋を改修するなど治水事業にも取り組んだことが伝えられています 22 。これは、民生の安定と農業生産の向上を目指した、領主としての責任感の表れと言えるでしょう。

後の高松藩の特産品となる砂糖(和三盆)の製造や塩田開発といった産業振興については、親正の時代にどこまで進んでいたかは必ずしも明確ではありませんが 19 、領国経営の一環として、何らかの産業奨励策が講じられた可能性は否定できません。

親正によるこれらの高松の都市基盤整備と領国経営は、その後の松平氏の時代における高松藩のさらなる発展の揺るぎない土台となりました。特に、城と城下町の一体的な開発は、高松を讃岐国の政治・経済・文化の中心地として確立させる上で決定的な役割を果たしました。彼の統治は、戦国武将から近世大名へと移行する過渡期における領国経営の一つのモデルケースとして評価することができます。

第四節:丸亀城・引田城の築城・改修

生駒親正の讃岐統治は、本城である高松城だけでなく、領内の戦略的要衝に支城を配置することによって、より確固たるものとされました。特に重要なのが、西讃の丸亀城と東讃の引田城です。

丸亀城(現在の香川県丸亀市)は、讃岐国の西の抑えとして、親正とその子・一正によって慶長2年(1597年)から5年の歳月をかけて築城されました 4 。亀山という小山を利用して築かれたこの城は、石垣の美しさで知られ、後の時代にも改修が重ねられて重要な拠点であり続けました。

一方、引田城(現在の香川県東かがわ市)は、親正が讃岐に入封した当初に居城とした場所です 10 。元々は土塁の城であったものを、親正が石垣造りの堅固な城へと改修し、東讃における支城として機能させました。瀬戸内海に面した断崖絶壁に位置し、海上交通の要地でもありました。

これらの支城の配置は、高松城を中央の本拠としつつ、讃岐国を東西から挟む形で支配拠点を整備するという、巧みな戦略的意図に基づいていたと考えられます。これにより、領内全域への影響力を確保し、有事の際の防御体制を強化するとともに、効率的な領国統治を目指したものでしょう。

元和元年(1615年)に江戸幕府によって発令された一国一城令以前の豊臣政権下では、このように大名が領国内に複数の城を持つことは一般的でした。親正によるこれらの城の整備は、当時の大名領国における標準的な防衛・統治システムの一例と言えます。これらの城の存在は、生駒氏による讃岐支配の安定化に大きく寄与した一方で、それぞれの城に家臣を配置することから、後の生駒騒動の一因ともなり得る家臣団内部の勢力基盤の形成に繋がった可能性も、歴史の皮肉として指摘できるかもしれません。

第四章:豊臣政権における地位

第一節:三中老の一人として

豊臣秀吉政権末期において、生駒親正は堀尾吉晴、中村一氏と共に「三中老(さんちゅうろう)」の一人に任命されたと一般に伝えられています 3 。三中老は、小年寄あるいは小宿老とも呼ばれ、その役割は、豊臣政権の最高意思決定機関であった五大老と、実務行政を担当した五奉行との間で意見が対立した場合に、その仲裁役を務め、政務に参与することであったとされています 26

この三中老への任命は、親正が単なる一地方領主ではなく、豊臣政権の中枢においても一定の信頼と高い地位を得ていたことを示すものと考えられます。もしその役割が実際に五大老と五奉行の調停役であったとすれば、秀吉死後の政権運営の円滑化に貢献することが期待された重要な立場であったと言えるでしょう。ある分析では、親正が豊臣家臣団の中で武断派と文治派の双方とコミュニケーションを取れる貴重な人材であり、そのバランス感覚や調整能力が評価されて三中老に選任されたのではないか、と推測されています 28

しかしながら、近年の一部研究においては、この三中老という役職の存在自体について疑問が呈されています。一次史料において、彼らが三中老として明確に活動した記録が乏しいことなどを理由に、後世に形成された呼称である可能性も指摘されています 29 。この点については、今後の研究による更なる検証が待たれるところです。

仮に三中老という役職が実在し、親正がその一員であったとすれば、それは彼のキャリアの頂点を示すものであると同時に、豊臣政権の終焉を間近で経験する立場にあったことを物語っています。秀吉亡き後の政権安定化という重責を担うことが期待された役職であったかもしれませんが、結果的に徳川家康の台頭を抑え、豊臣政権の分裂を防ぐことができなかったことから、その権限や影響力には限界があったとも考えられます。いずれにせよ、親正が豊臣政権末期において重要な役割を担う立場にあったことは、彼の長年の功績と秀吉からの信頼の厚さを物語るものと言えるでしょう。

第五章:関ヶ原の戦いと生駒家の選択

第一節:親正の西軍参加とその背景

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との間で天下分け目の戦い、関ヶ原の戦いが勃発します。この時、生駒親正は西軍(豊臣方)に与しました 3

親正が西軍に参加した主な理由としては、長年にわたり仕えた豊臣秀吉への旧恩や忠義を重んじた結果であると考えられています 4 。豊臣政権下で讃岐十七万石余の大名となり、三中老の一人にまで任じられた親正にとって、豊臣家を見捨てるという選択は容易ではなかったでしょう。

西軍に属した親正の具体的な行動としては、丹波国に出兵したことが記録されています 4 。一部の資料では、丹波福知山城(城主は東軍の有吉立行、実際には細川幽斎が守る田辺城攻めに加わった小野木重勝の福知山城は留守のはずだが、情報が錯綜している可能性あり)の攻略に参加したとも伝えられています 11 。しかし、主力決戦場となった関ヶ原からは離れた地域での活動であり、これは生駒家全体の戦略の一環として、西軍への加担の度合いを慎重に調整し、万が一の敗北に備える意図があった可能性も否定できません。

また、関ヶ原の戦いの直前に親正は高野山に入ったとする説もありますが、これについては、西軍に与した責任を取るためではなく、むしろ東軍寄りの行動(例えば、嫡男・一正の東軍参加を黙認、あるいは画策したこと)の責任を問われることを避けるためだったとする異説も存在します 7 。これらの情報は、当時の親正が置かれていた複雑な立場と、単純な西軍一辺倒ではなかった可能性を示唆しており、彼の行動の背景には慎重な計算があったことをうかがわせます。

親正の西軍への参加と丹波での活動は、関ヶ原の戦いにおける諸大名の多様な動向の一つとして位置づけられます。彼の行動は、多くの豊臣恩顧の大名が直面したであろう、豊臣家への忠義と自家の存続という二律背反のジレンマを象徴していると言えるでしょう。

第二節:嫡男・一正の東軍参加と生駒家の存続戦略

関ヶ原の戦いにおいて、生駒親正自身は西軍に与しましたが、その一方で、嫡男である生駒一正は東軍(徳川方)に参加しました。一正は、父・親正に代わって徳川家康による会津征伐に従軍し、そのまま東軍に属して関ヶ原の本戦で戦い、武功を挙げたとされています 3

このように親子が東西両軍に分かれて参加するというのは、戦国末期から江戸時代初期にかけて、家の存続を図るためにしばしば見られた戦略でした 1 。どちらの軍が勝利しても、一方に与した者が他方の罪を軽減し、家名と所領を安堵されることを狙った、いわば「保険」をかけるような行動です。生駒家のこの選択は、長年乱世を生き抜いてきた親正の先見性と現実的な判断力、そして「時に応じて身を変じるは、武士の恥にあらず」という父祖からの教えを実践した結果とも言えるでしょう。

この戦略は功を奏し、関ヶ原の戦いは東軍の圧倒的な勝利に終わりましたが、一正が東軍で具体的な武功を挙げたこと 32 、そして積極的に家康に働きかけたこと 31 などにより、西軍に与した父・親正の罪は問われず、生駒家の讃岐国の所領は安堵されました。そればかりか、一正の功績により1万5千石が加増され、生駒家の所領は17万3千石(あるいは17万1800石のまま実質的な加増認定)となったと記録されています 7

生駒家のこの巧みな戦略は、当時の多くの大名が置かれていた不確実な状況下での合理的な選択であり、その成功例として注目に値します。親正自身は西軍に加担したものの、結果的に家康から許され、息子に家督を譲って穏やかに隠居するという形でソフトランディングできたのは、この周到な戦略と嫡男・一正の功績、そしておそらくは親正自身のこれまでの実績や築き上げてきた人脈なども影響した可能性があります。これは、戦国を生き抜いた老練な武将のリアリズムと戦略眼の表れと言えるでしょう。

第三節:戦後の処遇、隠居、そして高松での最期

関ヶ原の戦いが東軍の勝利で終結した後、西軍に与した生駒親正は、その責任を取る形で剃髪し、高野山に入ったとされています 7 。これは敗軍の将としての一般的な行動パターンであり、恭順の意を示すものでした。しかし、嫡男・一正が東軍で挙げた武功により、親正は程なくして徳川家康から許され、故郷である讃岐高松への帰還を許されました 3

慶長6年(1601年)、親正は家督を嫡男の一正に正式に譲り、隠居の身となりました 3 。これは、生駒家の安泰を確実なものとし、徳川政権へのスムーズな移行を示すための措置であったと考えられます。

隠居後も、親正は単に余生を送ったわけではなく、領内行政の整備や家臣団の再編、さらには自身が心血を注いで築き上げた高松城のさらなる拡張や城下町の整備にも関わったと伝えられています 6 。これは、彼が最後まで讃岐国の発展と生駒家の安寧に情熱を注いでいたことを示唆しています。

そして慶長8年(1603年)2月13日、生駒親正は、自身が築城した高松城内において、波乱に満ちた78年の生涯を閉じました 3 。当時としては長寿であり、まさに戦国時代から江戸時代初期への激動の転換期を生き抜いた武将でした。彼の最期は、自身が築き上げた讃岐高松の地で見届けられたものであり、讃岐国主としての彼の功績を象徴しているかのようです。親正の死は、生駒家による讃岐統治の一つの時代の区切りであり、彼が築いた基盤は、その後の一正、そして松平家による統治へと引き継がれていくことになります。

第六章:生駒親正の人物像と逸話

第一節:武将としての能力と統治者としての資質

生駒親正の人物像を考察する上で、彼は単なる勇猛果敢な武将という一面だけでなく、むしろ戦略的思考と実務能力に長けた、バランスの取れた武将であったと評価することができます。

武将としては、織田信長、豊臣秀吉の下で数々の重要な合戦に参加し、着実に武功を重ねています 7 。特に、姉川の戦いでは戦場の混乱の中で冷静に状況を判断し、的確な処置を施したとされ、その沈着冷静な指揮官としての一面がうかがえます 6 。武将としての能力は高く評価されていたようです 20

しかし、親正の真価は、むしろ統治者としての資質にこそ見出されるべきかもしれません。讃岐国主となってからは、高松城という大規模な海城とその城下町を計画的に整備し 6 、領国の経済的・軍事的基盤を確立しました。また、豊臣政権の政策に沿って領内で検地を実施し、公正な租税徴収と財政の安定化を図り 6 、さらには香東川の治水事業に取り組むなど 22 、民生の安定と領国経営に優れた手腕を発揮しました。

豊臣秀吉からは、その豊富な「経験と知恵」を高く評価され、年長者として若い者たちを導く役割を期待されていたと記録されています 6 。また、豊臣政権内において、石田三成に代表される文治派と、加藤清正らに代表される武断派との対立が深刻化する中で、親正はその両派とコミュニケーションを取ることができ、政権内での潤滑油のような役割も果たし得た貴重な人材であった可能性も指摘されています 28 。このことは、彼の人間関係構築能力やバランス感覚の鋭さを示唆しています。

これらの点から、親正は戦場での武勇のみならず、平時における統治能力、すなわち行政手腕や経済政策、都市計画といった多岐にわたる能力を兼ね備え、時代の変化に巧みに対応できる多才な人物であったと言えるでしょう。

第二節:処世術と先見性

生駒親正の生涯を貫く特徴の一つとして、その巧みな処世術と優れた先見性を挙げることができます。彼は、父・親重から受けたとされる「時に応じて身を変じるは、武士の恥にあらず」という教え 6 を、まさに体現するかのような生涯を送りました。

美濃の斎藤氏から織田信長へ、そして本能寺の変後は速やかに羽柴秀吉へと、時勢を的確に読んで主君を変え、自らの地位を確保し発展させていきました。これらの行動は、単なる日和見主義と見なすこともできるかもしれませんが、むしろ激動の戦国乱世を生き抜き、家名を存続させるための現実的な知恵であったと解釈すべきでしょう。

その処世術と先見性が最も顕著に現れたのが、関ヶ原の戦いにおける対応です。自らは豊臣家への旧恩から西軍に属しつつも、嫡男・一正を東軍に参加させるという、いわゆる「両属策」は、どちらが勝利しても生駒家が存続できるようにするための深慮遠謀であり、彼の先見性を示す代表的な事例と言えます 6 。結果としてこの戦略は成功し、生駒家は所領を安堵されるばかりか加増まで受けています。

また、ある逸話によれば、徳川家康から讃岐の情勢について問いかけを受けた際、親正は正確かつ詳細な報告を心がけたとされています 6 。これは、彼が単に武力や忠誠心だけでなく、情報収集と的確な情報提供の重要性を深く認識し、有力者との関係構築にも細心の注意を払っていたことを示唆しています。

親正のこれらの行動は、彼が冷静な分析に基づいて将来を予測し、それに基づいて戦略的な判断を下す能力に長けていたことを物語っています。彼の処世術と先見性は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将が直面した、主家の盛衰、天下人の交代といった絶え間ない不確実性の中で、いかにして自らの家を保ち、発展させるかという普遍的な課題への一つの解答を示していると言えるでしょう。

第三節:十河千松丸との関係(養育と毒殺説の真偽)

生駒親正が讃岐国主となった際、前国主であった十河存保(そごう まさやす)の嫡男・千松丸(せんまつまる、後の十河存英(ありひで)または政英(まさひで))を預かり、養育したという話が伝わっています 9 。これは表向きには、旧領主の子弟に対する配慮や温情を示す行為と受け取れますが、同時に、旧勢力の懐柔と監視という政治的な意図も含まれていた可能性があります。

しかし、この千松丸は後に不審な死を遂げたとされ、その死を巡って黒い噂が立ちました。豊臣秀吉の前で、親正の甥にあたる大塚采女(おおつか うねめ)らと共に千松丸が舞を披露した際に、生駒家側によって毒殺されたのではないか、という疑惑です 7 。この毒殺説の真偽は定かではありません。生駒家に敵対する勢力が、生駒家を貶めるために流した謀略であるとの説も存在します 7

いずれにせよ、新領主である生駒家にとって、旧領主の嫡男である千松丸の存在は、潜在的な脅威となり得たことは想像に難くありません。将来、彼を旗頭として旧臣たちが蜂起する可能性も皆無ではなかったでしょう。そのため、生駒家が彼の排除を望む動機があったとしても不思議ではありません。事実、生駒家はその後も、十河氏の母系である三好氏に連なる者たちを徹底的に弾圧し、旧勢力の復活の芽を摘もうとしたと伝えられています 7

この千松丸、すなわち十河存英は、その後成長し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において豊臣方として参戦し、摂津国尼崎で討死したとされています。これにより、十河氏の嫡流は断絶しました 20

十河千松丸の養育と、その死を巡る毒殺の噂は、生駒家の讃岐統治における影の部分を象徴する出来事と言えるかもしれません。たとえ毒殺が事実でなかったとしても、そのような噂が流布したこと自体が、生駒家の支配に対する一部の不満や抵抗感の表れであった可能性も考えられます。この一件は、戦国大名が新たな領地を安定的に支配していく過程で直面する、旧勢力との軋轢や、権力維持のための非情な側面を浮き彫りにしています。

第四節:家紋「波引車」の由来

生駒家の家紋として知られる「波引車(なみひきぐるま)」には、生駒親正の武勇と豊臣秀吉との関係を物語る興味深い由来譚が伝えられています。

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に親正が参陣した際のことです。朝鮮半島へ渡る船が玄界灘の荒波にもまれ、当時生駒家が使用していた陣幕の紋である「丸車(まるぐるま)」の紋様が、幕の下半分が波に隠れて見えなくなるほど海水に浸かってしまいました。しかし、親正の部隊はこの戦役で戦功を挙げました。その様子を見た豊臣秀吉は、波間に半分見え隠れする車紋をむしろ勇壮で縁起が良いと捉え、「その波に引かれる半分の車模様を家紋にするように」と親正に勧めたとされています 2

この秀吉の勧めを受け、生駒家は以後、上半分が円形で下半分が波模様となった「波引車」を正式な家紋として使用するようになったと言われています。この逸話は、生駒家の武功を称えるものであると同時に、主君である秀吉が親正に対して一定の評価と親愛の情を抱いていたことを示唆しています。また、困難な状況(陣幕が波に浸かる)を吉兆(戦功の験)へと転化させるという発想は、戦国武将特有の験担ぎの精神や、ポジティブな思考様式を反映しているとも言えるでしょう。

この「波引車」の家紋は、単なるデザインの変更に留まらず、生駒家にとって主君からの評価と戦功の記念という名誉な意味合いを持つものでした。この逸話が記録として残り、今日まで伝えられていること自体が、生駒家がこの出来事を非常に重視し、家の誇りとしてきた証左と言えます。海の要素を含むこの家紋は、後に親正が瀬戸内海に面した高松城を本拠とし、海を意識した領国経営を行った生駒家のイメージともよく合致しており、一族のアイデンティティを象徴するものとして、その後の歴史を通じて大切に受け継がれていきました。

第七章:生駒家のその後と親正の歴史的評価

第一節:生駒騒動

生駒親正が築き上げた讃岐高松十七万石余の生駒家は、親正から嫡男・一正、その子・正俊、そして正俊の子である高俊へと、四代にわたって継承されました 3 。しかし、四代藩主・生駒高俊の治世において、藩の存亡を揺るがす大規模なお家騒動、いわゆる「生駒騒動」が勃発します。

表1:生駒氏 高松藩主一覧(初代~四代)

藩主氏名

続柄

在任期間

主要事績・備考

典拠 (主なもの)

1

生駒親正

-

天正15年(1587年)~慶長6年(1601年)

高松城築城、城下町整備、讃岐統治の基礎確立、三中老

3

2

生駒一正

親正の子

慶長6年(1601年)~慶長15年(1610年)

関ヶ原の戦いで東軍に参加し所領安堵・加増、藩政継承

3

3

生駒正俊

一正の子

慶長15年(1610年)~元和7年(1621年)

大坂の陣参加、伊勢津藩主・藤堂高虎の娘婿

3

4

生駒高俊

正俊の子

元和7年(1621年)~寛永17年(1640年)

生駒騒動により改易、出羽矢島へ転封。客臣西嶋八兵衛による溜池造成( 3 では高俊の事績とされているが高俊の父・正俊の時代から関与の可能性あり)

3

騒動の遠因は、三代藩主・正俊が元和7年(1621年)に36歳の若さで早世したことに始まります。跡を継いだ高俊(幼名:小法師)は当時まだ11歳と幼少であったため、母方の祖父にあたる伊勢津藩主・藤堂高虎が後見人となりました 17 。高虎は藩政安定のため、藤堂家家臣である前野助左衛門や石崎若狭らを生駒家の江戸家老に据え、藩政に深く関与させました 19

しかし、この外部からの介入は、生駒家内部に深刻な亀裂を生じさせます。生駒一門であり譜代の家老であった生駒将監(しょうげん)・帯刀(たてわき)親子ら国許派の家臣たちは、新参の江戸家老である前野・石崎一派の専横に強く反発し、藩内は両派の対立によって激しく揺れ動きました 19 。さらに、藩主である高俊自身が成長するにつれて、藩政を顧みず遊興に耽るなど、藩主としての資質に欠けていたことも、家臣団の対立を助長し、騒動を深刻化させる一因となりました 19

寛永14年(1637年)頃から対立は表面化し、ついに寛永17年(1640年)、生駒帯刀らが幕府に対して前野助左衛門らの不正や専横を19ヶ条にわたって訴え出たことにより、騒動は幕府の知るところとなりました 11

幕府老中・土井利勝(高俊の正室の父でもある)らによる審議の結果、藩主・高俊は家中の騒動を抑えられなかった監督責任を厳しく問われ、讃岐高松十七万石余の所領は没収、出羽国由利郡矢島へ一万石で減転封という厳しい処分を受けました 3 。また、騒動の中心人物であった前野助左衛門(審議中に病死)や石崎若狭らは死罪または追放、訴え出た側の生駒帯刀も他家預かり(配流)となりました 27

この生駒騒動は、藩主の若年・暗愚、後見人による外部からの過度な介入、そして新参家臣と譜代家臣との間の根深い対立といった、江戸時代初期のお家騒動に典型的に見られる要因が複合的に絡み合って発生した事件でした。親正が心血を注いで築き上げた讃岐十七万石の生駒家が、わずか四代でその輝かしい地位を大きく失墜する結果を招いたこの悲劇は、江戸幕府による大名統制の厳しさ、特に外様大名に対する厳しい姿勢と、藩政運営の難しさを示す教訓的な事例として、後世に語り継がれることになります。

第二節:出羽矢島への転封とその後の生駒家

生駒騒動の結果、四代藩主・生駒高俊は、寛永17年(1640年)、讃岐高松十七万石余の所領を没収され、遠く出羽国由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町)へ一万石で移されました 1 。これは、事実上の改易に近い大幅な減封であり、生駒家にとっては大きな没落でした。

矢島では当初、一万石の大名としての格式を認められていましたが、高俊が万治2年(1659年)に没すると、その遺領は子らによって分知されたため、本家の石高は一万石未満となり、大名の資格を失い、交代寄合(参勤交代を行い将軍に謁見できる格式を持つ旗本)の身分となりました 1 。これにより、生駒家はかつての大名家としての面目を辛うじて保つものの、その勢力は大きく削がれることになります。

しかし、生駒家の歴史はここで終わりませんでした。時代は下り、幕末の動乱期、十二代当主であった生駒親敬(ちかゆき)の代に、生駒家は再び歴史の表舞台に登場します。親敬は、戊辰戦争(1868年~1869年)が勃発すると、当初は奥羽越列藩同盟に加わったものの、やがて藩論を勤王に統一し、新政府軍に与して東北各地を転戦しました。この功績が新政府に認められ、戦後の高直し(石高の再評価)の結果、生駒家の所領は1万5200石と評価され、約230年ぶりに諸侯(大名)の列に復帰し、矢島藩を再立藩するという劇的な復活を遂げました 1 。さらに、軍功により賞典禄1000石を下賜され、讃岐守を称することも許されました 1

生駒家の矢島での歴史は、近世武家社会における家の浮き沈みを象徴しています。親正が築いた大名としての輝かしい地位は、お家騒動によって一度は失われましたが、旗本として家名を粘り強く繋ぎ、幕末の激動期に再び大名へと返り咲いたことは、家の存続にかける執念と、時代の変化に巧みに対応する柔軟性があったことを示しています。親正の血筋が、形を変えながらも明治維新まで続いたことは、彼が築いた功績が完全に無に帰したわけではなかったことを物語っていると言えるでしょう。

第三節:生駒親正の歴史的評価と現代への影響

生駒親正の歴史的評価は、多岐にわたりますが、主に讃岐国主としての善政、とりわけ高松城とその城下町の建設による地域発展への多大な貢献に集約されると言えるでしょう。

表2:生駒親正 略年表

年号(西暦)

出来事

典拠 (主なもの)

大永6年(1526年)

美濃国土田にて誕生

3

永禄9年(1566年)

織田信長に仕える

7

天正年間

羽柴秀吉の与力として各地を転戦(金ヶ崎、長篠、石山、雑賀など)

7

天正10年(1582年)

本能寺の変後、秀吉に従う。山崎の戦い参加

6

天正11年(1583年)

賤ヶ岳の戦い参加

4

天正13年(1585年)

四国平定に従軍

6

天正15年(1587年)

九州平定に従軍。讃岐国17万石余を与えられる

4

天正16年(1588年)

高松城築城開始

10

天正18年(1590年)

小田原征伐に従軍。高松城ほぼ完成

13

文禄元年(1592年)

文禄の役に従軍

14

慶長年間初頭?

三中老に任じられる

3

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦いで西軍に属し丹波に出兵。子の一正は東軍。

3

慶長6年(1601年)

隠居。家督を一正に譲る

3

慶長8年(1603年)

高松城にて死去。享年78

3

親正は、織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人に仕え、そして徳川家康が覇権を握る時代まで、激動の戦国乱世を巧みに生き抜いた武将として評価されます 6 。彼の最大の功績は、何と言っても高松城の築城とそれに伴う城下町の整備であり、これにより現在の香川県高松市の都市としての基礎が築かれたことから、「高松開発の祖」として、地元では特に高く評価されています 6

また、単に城を築いただけではなく、検地や治水事業を通じて領国経営にも手腕を発揮し、統治者としての優れた能力も示しました 6 。関ヶ原の戦いにおける生駒家の存続戦略に見られる先見性と現実主義的な判断力も、彼の武将としての資質を物語っています。

香川県の歴史において、生駒親正は極めて重要な人物として位置づけられており 17 、彼が築いた高松城(現在は玉藻公園として整備)は、国の史跡として今日まで大切に保存され、多くの人々に親しまれています 10 。その堀や石垣は、親正の時代の面影を今に伝え、彼の業績を静かに物語っています。

生駒親正の生涯は、戦乱の世を巧みに生き抜いた処世術と、新たな時代に対応する統治能力を兼ね備えた武将の姿を私たちに示してくれます。彼の業績は、単に過去の歴史としてだけでなく、現在の高松市の都市構造や文化にも、目に見える形、あるいは見えない形で影響を与え続けていると言えるでしょう。全国的な知名度では織田信長や豊臣秀吉のような傑出した人物には及ばないかもしれませんが、地方史において、また戦国時代から江戸時代への移行期における大名のあり方を考える上で、非常に重要な人物であることは間違いありません。

おわりに

生駒親正は、大永6年(1526年)に美濃国に生まれ、慶長8年(1603年)に讃岐高松でその生涯を閉じるまで、まさに戦国乱世の激動期を駆け抜けた武将でした。織田信長、豊臣秀吉という当代きっての天下人に仕え、数々の戦功を挙げるとともに、その巧みな処世術と先見性によって、幾多の困難を乗り越えてきました。

彼の最大の功績は、讃岐国主として高松城を築城し、城下町を整備したことにあると言えます。これにより、現在の香川県高松市の都市としての礎が築かれ、その後の発展の基盤となりました。親正は単なる武人としてだけでなく、優れた築城家、そして領国経営者としての側面も持ち合わせており、戦国時代から近世へと移行する時代の要請に応えることのできる、多才な人物でした。

関ヶ原の戦いという天下分け目の大戦においては、嫡男・一正を東軍に、自らは西軍に与するという大胆かつ現実的な戦略によって家の存続を図り、これに成功しました。この一点からも、彼の冷静な判断力と、家を第一に考える戦国武将としてのリアリズムを垣間見ることができます。

しかし、彼が築き上げた生駒家の繁栄は、その孫の代に起きた「生駒騒動」によって大きく揺らぎ、結果として讃岐高松の地を去ることになります。それでもなお、生駒家は出羽矢島で家名を繋ぎ、幕末には大名として復帰を果たすなど、その血脈は明治の世まで続きました。

生駒親正の生涯と業績は、戦国から近世への移行期における社会構造の変化、武士の役割の変容、そして地方都市の形成史といった、より大きな歴史的テーマへの理解を深める上で、多くの示唆を与えてくれます。彼が残した高松城とその城下町は、今日においてもその面影を留め、親正の遺産が現代にまで繋がっていることを静かに物語っています。彼の生き様は、個人の能力と時代の要請がどのように交差し、歴史を形作っていくのかを考察する上で、貴重な事例と言えるでしょう。

引用文献

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