最終更新日 2025-07-24

生駒高俊

生駒高俊は讃岐高松藩主。幼少で家督を継ぎ、後見人介入と家臣対立で「生駒騒動」が勃発し改易。暗君と評されるも、時代の構造的要因が背景。その家は幕末に大名復帰。悲劇の藩主として再評価される。

生駒高俊 ― 「暗君」の烙印と名門の凋落、その生涯の再評価

序章:生駒高俊という人物像の再検討

江戸時代初期の大名、生駒高俊。その名は多くの場合、お家騒動の当事者として、あるいは「暗愚であった」という辛辣な評価と共に語られる 1 。父・正俊の早世により幼くして讃岐高松17万石余の広大な所領を継ぐも、家臣団の激しい主導権争いを抑えきれず、ついには領地没収のうえ出羽国へ配流された藩主。これが、生駒高俊について広く知られる人物像の骨子であろう。

しかし、この「暗君」という烙印は、果たして彼の個人的資質のみに帰すべきものなのであろうか。あるいは、彼を取り巻く複雑な政治力学が生み出した、あまりに単純化された「物語」ではなかったか。高松藩生駒家4代54年にわたる治世に終止符を打ち、戦国以来の名門を凋落させた「生駒騒動」は、一人の若き藩主の無能さだけで説明できるほど単純な事件ではない。

本報告書は、この通説的な高俊像に再検討を加え、より多角的な視点からその生涯を徹底的に調査・分析することを目的とする。具体的には、第一に、藩主を支えるべき権力構造そのものに内包されていた脆弱性。第二に、後見人という外部からの介入がもたらした権力バランスの歪み。そして第三に、確立期にあった徳川幕府の厳格な大名統制策。これら三つの視座から、生駒高俊という一人の人物と、彼が巻き込まれた歴史的事件の真相に迫る。これは、高俊個人の名誉回復を試みるものではなく、一人の人間がいかに時代の大きな構造の中で翻弄されていくかを解明する試みである。

第一章:名門生駒家の継承者として ― 栄光と脆弱性の同居

第一節:豊臣政権下の栄光と徳川政権への適応

生駒高俊が継承した生駒家は、決して成り上がりの家系ではなかった。その祖は、大和国生駒荘を本貫とする藤原氏の一族とされ、戦国時代に尾張へ移った 3 。高俊の祖父にあたる生駒親正は、織田信長に仕え、後に羽柴秀吉の与力となって数々の武功を挙げた人物である 5 。その功績により、天正15年(1587年)、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられ、高松に城を築き、17万石を超える大名へと立身した 5 。豊臣政権下では三中老の一人に数えられるなど、政権の中枢を担うほどの栄誉を誇った 5

生駒家の巧みさは、時代の転換期においても見事に発揮された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当主・親正は西軍に与しながらも、嫡男の一正を徳川家康率いる東軍に参加させるという両面策を講じた 3 。この先見性のある判断により、東軍の勝利後も生駒家は所領を安堵され、徳川の世においてもその地位を盤石なものとしたのである 3 。このように、高俊は武勇と政治的嗅覚を兼ね備えた名門の嫡流として、輝かしい未来を約束されて生を受けた。

第二節:二重の政略結婚がもたらした光と影

高俊の地位をさらに強固なものに見せていたのが、二重に張り巡らされた有力大名および幕府中枢との姻戚関係であった。

第一に、彼の母は伊勢津藩主・藤堂高虎の養女であった 8 。高虎は築城の名手として知られ、徳川家康からの信任も極めて厚い、江戸初期を代表する実力者の一人であった 10 。外祖父がこのような大物であることは、幼くして家督を継ぐ高俊にとって、この上ない後ろ盾となるはずであった。

第二に、高俊自身が正室に迎えたのは、時の幕府老中首席であり、後には大老にまで上り詰める土井利勝の娘であった 6 。これは幕政の最高権力者と直接的な縁戚関係を結んだことを意味し、通常であれば、いかなる政変や家中の混乱からも藩を守る強力な防波堤となるはずの関係であった。

しかし、これらの強力な縁戚関係は、見方を変えれば藩の自律性を著しく損なう「諸刃の剣」であった。特に、藩主が幼少である場合、強力すぎる後見人や義父の存在は、藩主自身の権力基盤を空洞化させ、外部からの政治介入を容易にする扉を開くことに他ならなかった。藤堂家は後見人として藩政に深く介入し、生駒家の譜代家臣を抑圧する動きを見せる 2 。また、土井利勝は、娘から高俊の乱行を伝え聞くと、諫言はしたものの、最終的には幕府の重鎮として、生駒家に対し厳罰を下す側に回ることになる 2 。結果として、これら二重の強力な縁戚は、生駒家の「味方」であると同時に、藩を監視し、幕府の意向に沿ってコントロールするための「代理人」としての機能も果たした。この構造こそが、後に藩内の対立をより複雑化させ、解決を困難にする遠因となったのである。

第三節:若年での家督相続

高俊の生涯を決定づけた最初の不運は、父・生駒正俊の早世であった。元和7年(1621年)、正俊が36歳の若さでこの世を去ると、高俊はわずか11歳(数え年)で讃岐高松藩17万1800石の第4代藩主となった 9 。藩主の若年での家督相続は、それ自体が藩政の不安定要因であり、強力な後見人の存在を必要とした。このことが、外祖父である藤堂高虎による藩政介入を招き、ひいては家臣団の激しい主導権争いを誘発する最大の引き金となったのである。


【表1】生駒高俊 略年譜

和暦

西暦

年齢(数え)

主な出来事

慶長16年

1611年

1歳

生誕。幼名は小法師 8

元和7年

1621年

11歳

父・正俊の死去に伴い、讃岐高松藩の家督を相続 9

寛永2年

1625年

15歳

元服し、高俊を名乗る 11

寛永3年

1626年

16歳

従五位下・壱岐守に叙任される 11

寛永10年

1633年

23歳

幕府老中・土井利勝の娘と結婚 8

寛永14年

1637年

27歳

生駒帯刀が藤堂家に訴状を提出し、生駒騒動が表面化 11

寛永17年

1640年

30歳

幕府の裁定により、領地没収(改易)。出羽国矢島1万石へ配流 1

万治2年

1659年

49歳

出羽国矢島にて逝去 8


第二章:生駒騒動の勃発 ― 構造的欠陥と権力闘争の連鎖

第一節:後見人・藤堂高虎の藩政介入

高俊の家督相続に伴い、外祖父の藤堂高虎が後見人となると、生駒藩の権力構造は大きく揺らぎ始める。当時すでに66歳と高齢であった高虎は、自ら讃岐に赴くことはせず、腹心の家臣である西嶋八兵衛らを現地に派遣し、藩政を実質的に監督させた 2

高虎の介入における最大の狙いは、生駒家創設以来の重臣であり、一門でもある譜代家老・生駒将監と、その子である帯刀の権力を抑制することにあった。そのための具体的な手段として、高虎は生駒家においては外様の家臣であった前野助左衛門と石崎若狭を、家老職に抜擢したのである 2 。この人事は、藩内に「譜代家臣団 対 新参家臣団」という明確な対立軸を意図的に作り出すものであった。これは、藩主のためというよりは、後見人である藤堂家が藩をコントロールしやすくするための「分断統治」策であったと見るのが自然である。江戸時代初期、多くの藩では藩主権力を強化する目的で新参者を登用し、旧来の門閥譜代と対立させる構図が見られたが 4 、生駒家の場合、その主導権を握っていたのが藩主自身ではなく外部の後見人であった点に、問題の根深さがあった。

第二節:「暗君」高俊の再検証 ― 政治的無力と現実逃避

藩内の権力闘争が激化する一方で、藩主である高俊はどのような役割を果たしていたのか。多くの記録は、彼が藩政を前野・石崎らに任せきりにし、自身はもっぱら男色に耽溺していたと伝えている 2 。美少年を集めては舞わせる遊びに打ち興じ、世人はこれを「生駒おどり」と呼んだという逸話は、彼の暗愚さを象徴するものとしてしばしば引用される 2 。この乱行は義父の土井利勝の耳にも達し、厳しく諫められたが、一向に収まることはなかったとされる 2

しかし、この人物像には慎重な検討が必要である。なぜなら、騒動が最終的に幕府の裁定に持ち込まれる段階になって、高俊は「それまでの事情を全く知らされていなかった」と驚き、親類方が相談もなく事を決めたことに怒った、という正反対の記録も存在するからである 11 。藩政を「任せきり」にしていた人物が、騒動の経緯を「全く知らなかった」というのは、明らかに矛盾している。

この矛盾を解く鍵は、高俊の「暗愚」が藩政崩壊の「原因」であったのか、それとも藩政から疎外された「結果」であったのか、という視点の転換にある。11歳で即位し、後見人が送り込んだ家臣が実権を握り、藩内の対立は藩主を飛び越えて後見人である藤堂家(高虎、そしてその子・高次)に直接持ち込まれる 11 。このような状況下で、若き藩主であった高俊に、一体どれほどの主体性を発揮することができただろうか。彼は名目上の藩主でありながら、実質的な権力闘争の蚊帳の外に置かれていた可能性が高い。この深刻な政治的孤立と無力感が、彼から政治への関心を奪い、個人的な快楽への逃避を促したと考えることは十分に可能である。「生駒おどり」の逸話は、彼の政治的無力感の象徴的な現れとして解釈することもできるのだ。

第三節:対立の激化と破局への道

寛永7年(1630年)に藤堂高虎が死去し、その子である高次が後見役を引き継ぐと、前野・石崎ら新参家臣団の権勢はますます増長した 11 。そして寛永12年(1635年)、両派の対立を決定的にする事件が起こる。生駒家が幕府から命じられた江戸城修築の手伝い普請の際、その費用を捻出するために江戸の商人から借金をした。前野らはその返済のため、初代藩主・親正が高松城の要害として伐採を禁じていた聖地・石清尾山の松林を、商人に伐採させてしまったのである 11

この暴挙に、生駒帯刀ら譜代家臣団の不満はついに爆発した。帯刀は寛永14年(1637年)に江戸へ赴き、後見人である藤堂高次や縁戚の脇坂安元らに前野らの非違を訴え出た 11 。高次らは穏便な解決を図ろうと両者を諭したが、一度燃え上がった対立の炎はもはや消しがたく、藩内は修復不可能な分裂状態に陥った。ついに喧嘩両成敗として双方の主だった者に切腹を命じる内々の決定がなされるも、これが藩内にさらなる混乱を招き、事態は幕府の公的な裁定を仰ぐ以外に道がなくなるという、最悪の結末へと突き進んでいった。

第三章:幕府の介入と裁定 ― 生駒家改易の真相

第一節:幕府評定所における審理

藩内部での自浄作用が完全に失われた生駒家の内紛は、ついに幕府の知るところとなり、寛永17年(1640年)、江戸幕府の最高司法機関である評定所の場で裁かれることとなった 1 。これは、生駒藩が藩としての統治能力を完全に喪失したことを公に認めるに等しい事態であった。大老・酒井忠勝の邸宅に関係者が召集され、数回にわたる厳しい吟味が行われた 1

第二節:寛永17年(1640年)の裁定とその意図

長期にわたる審理の末、幕府は以下の裁定を下した。

  • 藩主・生駒高俊: 「家中不取締り」の責任を問われ、讃岐高松17万石余の領地を 没収(改易) 。ただし、父祖の功績に免じ、**「堪忍料」**として出羽国由利郡矢島に1万石が与えられた 1
  • 前野・石崎派(新参衆): 藩政を壟断した首謀者として、前野助左衛門の子・冶太夫と石崎若狭に切腹が命じられ、その一味も死罪や追放といった厳罰に処された 1
  • 生駒帯刀派(譜代衆): 帯刀は、騒動を起こした責任は問われたものの、「主人への忠義」は認められ、出雲松江藩主・松平直政への「お預け」という比較的軽い処分に留まった。一派に死罪はなく、多くが他家への預かりや減俸などの処分であった 1

ここで重要なのは、高俊に下された処分が、単なる領地削減(減封)や国替え(転封)ではなく、「改易」であった点である 17 。改易とは、大名としての身分と所領を完全に剥奪する最も重い処分の一つであり、生駒家は一度、大名家として断絶したことになる 17 。その上で、温情措置として新たに1万石の知行地(堪忍料)が与えられたという二段階の処分であり、これは処分の厳しさを明確に示している。

この一見複雑な裁定には、3代将軍・徳川家光の下で確立しつつあった幕府の、極めて高度な政治的意図が透けて見える。これは単なる善悪の判断ではなく、全国の諸大名に対する強力なメッセージであった。第一に、藩内の統治に関する最終的な責任は全て藩主にあるという原則(家中不取締りは改易に値する)を明確に示した。第二に、家臣間の争いを幕府にまで持ち込むことは許されないという姿勢を示した。そして第三に、前野派を厳罰に処す一方で、譜代の忠義という武家の価値観を完全に否定せず、さらに高俊に堪忍料を与えることで、5000人にも及んだとされる生駒家家臣団 4 が一斉に浪人化し、社会不安を引き起こす事態を回避した。これは、武断政治から法と秩序による統制へと移行する徳川幕府の、硬軟織り交ぜた大名統制策の典型例であり、高俊と生駒家は、その「見せしめ」として利用された側面が強いと言える 21


【表2】生駒騒動 関係者と裁定結果

立場

主要人物

幕府による裁定内容

藩主

生駒高俊

領地没収(改易)、出羽国矢島1万石へ配流 1

後見人

藤堂高次(津藩主)

騒動を未然に防げなかったが、直接の処罰はなし。

譜代家臣団(帯刀派)

生駒帯刀

出雲国松江藩(松平家)へお預け 1

森出雲

土佐国(山内家)へお預け。

新参家臣団(前野派)

前野助左衛門

裁定前に病死。

前野冶太夫(助左衛門の子)、石崎若狭

切腹 1

上坂外記

死罪(斬首) 4


第四章:出羽矢島への配流 ― 栄光からの転落と静かなる後半生

第一節:雪国・矢島へ

寛永17年(1640年)、幕府の裁定により、生駒高俊は生まれ育った温暖な瀬戸内の地・讃岐高松を離れ、遠く離れた出羽国由利郡矢島へと移されることになった。鳥海山の北麓に位置する矢島は、冬には深い雪に閉ざされる厳しい土地であり 23 、この移封が高俊にとってどれほど過酷な環境の変化であったかは想像に難くない。17万石余の大名から、わずか1万石の交代寄合旗本(大名格ではあるが参勤交代の義務を持つ旗本)へという身分の転落は 3 、彼の人生における栄光からの完全な凋落を象徴する出来事であった。

第二節:矢島での暮らしと最期

矢島に入った高俊は、かつてこの地を治めていた打越氏の居城跡に建てられた八森陣屋をその居所とした 3 。矢島での彼の後半生に関する詳細な記録は少ないが、その生活は実質的な「軟禁生活」であったとも伝えられている 12 。かつて「生駒おどり」に興じた華やかな日々とは一変し、北国の地で静かに余生を送ったものと推測される。

讃岐を追われてから19年の歳月が流れた万治2年(1659年)6月16日、生駒高俊は波乱に満ちたその生涯を49歳で閉じた 8 。その亡骸は、矢島における生駒家の菩提寺と定められた龍源寺に葬られた 8 。この龍源寺は、元は先住の打越氏の菩提寺であったが、生駒氏の入封に伴い、その菩提寺となったものである 25 。高俊の死後、生駒家の当主は江戸に常駐することになったため、矢島の龍源寺には、この初代領主・高俊の墓のみが今も静かに残されている 26 。戒名は「自性院芳岩道栄大居士」という 8

第五章:矢島生駒家のその後と歴史的評価 ― 250年越しの復権

第一節:交代寄合旗本としての存続

生駒高俊の死は、生駒家の苦難の終わりではなかった。家督を継いだ嫡男・高清は、弟の俊明に2000石を分与した。これにより、生駒家の知行は1万石を割り込む8000石となり、大名の資格を完全に失い、江戸定府(参勤交代を行わない)の旗本へとその身分をさらに落とすことになった 2 。高俊の改易によって失われた栄光は、その後も回復することなく、生駒家は江戸時代の大半を、かつての栄華の記憶を胸に秘めた一旗本として過ごすことになる。

第二節:幕末維新の動乱と劇的な結末

高俊の失敗で終わったかに見えた生駒家の物語は、しかし、彼の死から約2世紀半の時を経て、劇的な転回を迎える。これは、一族が長い雌伏の時代を耐え抜き、時代の大きな転換点において的確な政治判断を下すことで、先祖の汚名を雪ぎ、失われた名誉を回復した、驚くべき一族の回復力(レジリエンス)の物語である。

幕末、第12代当主・生駒親敬の時代、日本は戊辰戦争の動乱に揺れていた。東北諸藩が奥羽越列藩同盟を結成して新政府に対抗すると、矢島生駒家も当初はこれに加盟した 3 。しかし、親敬は藩論を勤王に統一すると、同盟を離脱して新政府軍に与するという大きな決断を下す 3 。この行動は、同盟側であった庄内藩の猛烈な攻撃を招き、親敬は居城である矢島陣屋を自ら焼き払って撤退を余儀なくされるという、多大な犠牲を払うこととなった 3

だが、この苦難の決断が、生駒家の運命を劇的に好転させる。戦争終結後、新政府は親敬の勤王の功績を高く評価し、所領の高直しを行った結果、生駒家の石高は1万5200石となった。これにより、生駒家は高俊の改易から約230年の時を経て、正式に「大名」の地位に復帰し、「矢島藩」を立藩するという、奇跡的な結末を迎えたのである 3 。高俊の時代に失われた大名という地位を、全く異なる時代の論理によって取り戻したこの出来事は、歴史の壮大な皮肉であり、生駒高俊個人の評価のみならず、生駒家全体の歴史を評価する上で欠かすことのできない重要なエピソードである。

結論:暗君か、悲劇の藩主か

生駒高俊の生涯を詳細に追っていくと、彼を単に「暗愚な藩主」と断じることは、歴史の複雑性を無視した一面的な評価に過ぎないことが明らかになる。

本報告書で分析したように、彼の悲劇は複数の構造的要因が絡み合って生み出されたものであった。第一に、後見人であった藤堂高虎が、自らの影響力を確保するために藩内に意図的に作り出した「譜代対新参」という対立構造。第二に、藩主でありながら実権を奪われ、政治の舞台から疎外された高俊の政治的無力。第三に、確立期にあった徳川幕府が、全国の諸大名への「見せしめ」として、生駒家の内紛を厳格な大名統制策の適用対象としたこと。

これらの巨大な政治的圧力の中で、若き高俊にできたことはあまりに少なかった。彼の個人的な遊興や藩政への無関心は、多くの場合、このどうすることもできない悲劇的な状況から生まれた「結果」であり、騒動の根本的な「原因」ではなかった可能性が極めて高い。彼は、名門に生まれたがゆえに過大な期待と政治的策謀に晒され、時代の大きな権力構造の波に翻弄された、まさしく「悲劇の藩主」としての側面が強いと言えるだろう。

生駒高俊の物語は、一個人の資質や能力だけが歴史を動かすのではなく、彼を取り巻く社会システムや時代の要請が、いかに一人の人間の運命を、そして一つの家の歴史を根底から左右するかを示す、近世史における極めて示唆に富んだ事例である。彼の墓が眠る出羽矢島の地から2世紀半を経て、子孫が大名への復帰を遂げたという事実は、この悲劇の物語に、一条の光と救いを与えている。

引用文献

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