最終更新日 2025-06-28

田中忠政

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筑後柳川藩二代藩主 田中忠政の生涯と田中家改易の真相

はじめに

筑後柳川32万5千石という広大な領地を継承しながら、わずか12年の治世の後に36歳の若さでこの世を去り、一族を改易という悲劇に導いた武将、田中忠政。彼の生涯は、関ヶ原の戦いで石田三成を捕縛するという大功を立てた父・田中吉政の輝かしい功績の影に隠れ、歴史の表舞台で語られることは決して多くない。忠政は一般に、父の遺業を継いで領内の開拓に努め、キリシタンを保護した一方で、大坂夏の陣に遅参した藩主として記憶されている。しかし、その短い生涯と田中家の突然の終焉は、単に「嗣子(跡継ぎ)がいなかったため」という表層的な理由だけで説明できるものではない。

本報告書は、田中忠政個人の資質と藩主としての治績を、現存する史料に基づき多角的に再評価することを第一の目的とする。さらに、彼の死とそれに続く田中家の断絶が、徳川幕府による全国支配体制の確立、すなわち「元和偃武」へと向かう時代の大きな政治的潮流の中で、必然的に生じた結果であった可能性を徹底的に検証する。父から受け継いだ遺産、徳川家との特殊な関係、そして彼自身の信念が、時代の非情な論理とどのように交錯し、悲劇的な結末へと至ったのか。その複雑な力学を解き明かすことで、田中忠政という一人の武将の実像と、彼が生きた時代の本質に迫るものである。

第一章:誕生と徳川家との密接な関係 — 後継者としての宿命

田中忠政の生涯を理解するためには、まず彼が背負った父・田中吉政の偉大な功績と、徳川家との間に築かれた特殊な関係性を解き明かす必要がある。彼の家督相続は、単なる偶然や兄弟間の序列の結果ではなく、父の深謀遠慮と時代の要請が交差した、必然的な帰結であった。

第一節:父・田中吉政の栄光と遺産

田中家の出自は近江国に遡る 1 。父・吉政は、はじめ近江の国人領主であった宮部継潤に仕え、やがて豊臣秀吉の甥であり後継者と目された豊臣秀次の筆頭家老に抜擢されることで、その頭角を現した 3 。吉政の特筆すべき才能は、武勇のみならず、卓越した行政手腕にあった。豊臣秀次が近江八幡城主となると、吉政は城下に「八幡堀」を開削して琵琶湖の水運を活用し、近江商人が活躍する基盤を築いた 4 。その後、天正18年(1590年)に三河岡崎城主となると、城下を整備するために「田中堀」と呼ばれる堀を築き、洪水対策として矢作川の堤防工事を行うなど、その治水・都市設計能力を遺憾なく発揮した 1 。この経験と技術は、後に彼が筑後国を統治する上で絶大な力を発揮することになり、「土木の神様」とまで称される所以となった 4

吉政の運命を決定づけたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いであった。豊臣恩顧の大名でありながら、彼は徳川家康率いる東軍に与し、本戦で奮戦しただけでなく、敗走した西軍の総大将・石田三成を伊吹山中で捕縛するという最大の功績を挙げた 3 。この功により、家康から筑後一国32万5千石という破格の恩賞を与えられ、一躍国持ち大名の列に加わったのである 1 。これは、豊臣旧臣でありながら徳川家から絶大な信頼を勝ち得た証であり、田中家が徳川の世で生き抜くための最大の資産となった。

第二節:人質から後継者へ — 徳川家との絆の構築

田中忠政は、天正13年(1585年)、吉政の四男として近江で生を受けた 11 。彼の生涯は、幼少期から徳川家と深く結びついていた。父・吉政は、豊臣政権下にあって早くから徳川の時代の到来を見据えていたのか、その深謀遠慮により、忠政を江戸の徳川家康のもとへ人質として送った 11 。これは単なる服従の証ではなく、次世代を見据え、徳川家との間に他家にはない強固なパイプを築くための極めて戦略的な布石であった。

江戸での生活を通じて、忠政は家康本人や、後に二代将軍となる徳川秀忠と直接的な交流を持つ機会に恵まれた。この経験は、彼に幕府中枢の価値観を肌で学ばせ、個人的な信頼関係を構築する上で決定的な役割を果たした。慶長10年(1605年)には秀忠の上洛に随行するなど、若くして将軍家の側近くに仕え、その後の政治的キャリアの基盤を築いている 11

そして慶長14年(1609年)、父・吉政が京都伏見で死去すると、田中家は後継者問題に直面する 3 。この時、忠政が家督を継承することになった背景には、複雑な家庭の事情があった。

表1:田中吉政の子息と家督相続の背景

氏名(別名)

生没年・役職など

家督を継げなかった理由

長男:田中吉次

従五位下民部少輔

父・吉政との不和により勘当され、廃嫡。元和3年(1617年)に京都で死去 11

次男:田中吉信(則政)

主膳正、久留米城主

父に先立ち早世したとされる(慶長15年(1610年)没説もある) 1

三男:田中吉興(康政)

福島城主

病弱であったため、家督相続の候補から外されたとされる 11

四男:田中忠政

従五位下隼人正

徳川家康・秀忠と親しく、幕府の示唆により家督を継承 1

この表が示すように、兄たちがそれぞれ問題を抱えていたことは、忠政が後継者となる直接的な要因であった。しかし、より本質的な理由は、彼が長年にわたる江戸での生活を通じて築き上げた「徳川家との個人的な絆」にあった。豊臣恩顧の外様大名である田中家にとって、新時代の支配者である徳川幕府との関係をいかに円滑に保つかは、家の存亡を左右する最重要課題であった。父・吉政が忠政を人質として江戸に送ったのは、まさにこのための布石であり、次世代の「徳川との橋渡し役」を意図的に育成する政治的投資であった。

幕府の側から見ても、父の勘気を被った長男や病弱な三男よりも、江戸の価値観を理解し、将軍家と直接的な主従関係を築いている忠政の方が、はるかに統治しやすく信頼に足る後継者であったことは想像に難くない。したがって、忠政の家督相続は、兄たちの問題という消極的な理由だけでなく、徳川幕府の意向という積極的な理由が強く働いた「選ばれた」結果であり、田中家の生き残り戦略の核心であったと言える。彼は父の死後、秀忠の計らいで従四位下・侍従に叙せられ、名実ともに筑後32万5千石の大名の地位を確立したのである 11

第二章:筑後柳川藩二代藩主としての治績 — 継承と信念のはざまで

慶長14年(1609年)に家督を継いだ田中忠政は、元和6年(1620年)に没するまでの12年間、筑後柳川藩二代藩主として領国経営にあたった。その治世は、偉大な父の遺業を継承し、幕府への忠勤に励む一方で、自らの信念に基づき、時には幕府の方針にさえ背くという、二律背反の様相を呈していた。この矛盾こそが、彼の藩主としての姿を特徴づけ、後の悲劇を予兆するものであった。

第一節:父の遺業の継承と領国経営

忠政は、父・吉政が推し進めた「国づくり」を忠実に継承し、筑後国のインフラ整備と開発に力を注いだ。父の代から続く筑後川や矢部川の治水事業、水運と灌漑を目的とした花宗川や城下の堀割の整備は、忠政の時代にも継続・拡充された 4 。慶長15年(1610年)には、家臣の菊池惣右衛門に命じて江島新島(有喜島)を、緒方将監に命じて道海島を開墾させるなど、新田開発にも積極的に取り組み、藩の石高増加と財政基盤の安定を図った 15 。これらの事業は、父が遺した「土木の神様」としての知見と技術者集団を最大限に活用したものであり、忠政が有能な行政官であったことを示している。

また、藩内の統治だけでなく、徳川幕府が全国の大名に課した公役(天下普請)にも忠実に応じた。江戸城西の丸の普請や、天下の威信をかけた名古屋城の石垣建設にも参加しており、これは徳川家に対する従順な奉仕者としての姿勢を明確に示すものであった 11

第二節:禁教令下のキリシタン保護政策 — 危険な信念

忠政の治績の中で最も異彩を放ち、かつ彼の運命を大きく左右したのが、キリシタンに対する政策である。父・吉政は洗礼名を「バルトロメヨ」といい、キリスト教に深い理解を示したキリシタン大名であった 3 。その影響を強く受けた忠政もまた、キリスト教に大きな関心と寛容な姿勢を抱いていた 1

問題は、その時期である。徳川幕府は慶長17年(1612年)から翌年にかけて禁教令を全国に発布し、キリスト教を邪教として厳しく弾圧する方針を明確にしていた。宣教師は国外に追放され、信者には棄教が迫られた。このような状況下で、忠政は幕府の方針に公然と背き、領内のキリシタンを手厚く保護し続けたのである 11 。これは、他の多くの大名が幕府の意向を忖度して厳しい弾圧に転じた中で、極めて稀有かつ危険な選択であった。フランシスコ会の布教史に関する記録にも、筑後の田中藩は幕府の禁教令に抵抗して信徒を保護した藩としてその名が記されている 18

忠政のこの断固たる姿勢を象徴する逸話が残されている。ある時、家臣の一人がキリシタンを殺害した。これを知った忠政は激怒し、その家臣を即座に処刑したという 11 。この家臣の具体的な氏名は伝わっていないが 1 、この一件は、忠政が藩主としての絶対的な権威をもって、幕府の国法よりも自らの信念と領内の秩序を優先したことを示している。これは、幕府に対する忠誠心が厳しく問われる時代において、極めて危険な統治姿勢であったと言わざるを得ない。

第三節:徳川幕府への恭順と忠誠の表明

キリシタン保護という危険な政策を推し進める一方で、忠政は徳川幕府への恭順の意を様々な形で示し、関係強化に努めていた。彼の治世は、この二つの相克する行動原理によって特徴づけられる。

まず、彼は正室に徳川家康の養女(家康の異父弟である松平康元の娘・久松院)を迎えている 11 。これは、徳川家との姻戚関係を深めることで、外様大名でありながら準親藩に近い特別な地位を確保しようとする、重要な政略結婚であった。

さらに、元和2年(1616年)に家康が死去すると、忠政は領内の善導寺(現・久留米市)に東照権現宮(東照宮)を勧請した 11 。これは、神格化された家康への崇敬の念を領国において示すことで、幕府への揺るぎない忠誠心をアピールする行動であった。

また、父・吉政の故郷である近江の還来寺に父の遺品を寄進したり 21 、領内の大善寺玉垂宮や水田天満宮、西蒲池の鳥居など、各地の寺社へも寄進を行っている 15 。これは、藩主として領内の宗教勢力を掌握し、安寧を祈願する伝統的な統治行動であり、彼の治世が決して一つの思想に偏ったものではなかったことを示している。

忠政の治世に見られるこれらの行動は、一見すると矛盾しているように映る。一方では、天下普請への参加、徳川家からの妻の拝領、東照宮の建立など、模範的な外様大名として幕府への忠勤に励む。しかし、もう一方では、幕府の最重要国策の一つである禁教令を、家臣を処刑してまで無視するという、反逆的とも受け取られかねない行動をとる。

これは単なる場当たり的な対応ではなく、彼の置かれた特殊な立場から生まれた統治スタイルであったと考えられる。すなわち、幼少期から江戸で育ち、家康や秀忠と築いた個人的な信頼関係を過信し、その信頼さえあれば、領内統治における一定の裁量権(キリシタン保護)は許容されると考えたのではないか。しかし、彼が藩主となった時代は、戦国的な個人の信頼関係よりも、近世的な法と秩序への絶対的な服従が求められる時代へと、まさに移行しつつある過渡期であった。忠政はこの時代の変化を読み違え、その矛盾した行動が、結果として自らの首を絞めることになった可能性は極めて高い。彼の治世は、戦国的価値観と近世的価値観の狭間で揺れ動いた、一人の藩主の苦悩を象徴している。

第三章:大坂の陣と田中家の命運 — 忠誠心への疑念

慶長19年(1614年)から翌年にかけて勃発した大坂の陣は、徳川幕府が豊臣家を完全に滅ぼし、名実ともに天下の支配者となるための総仕上げの戦いであった。この戦いへの対応は、全国の大名、特に豊臣恩顧の大名にとって、徳川家への忠誠心を試される最後の、そして最大の踏み絵であった。田中忠政のこの戦いにおける一連の行動は、田中家が抱える構造的な脆弱性を露呈させ、その後の運命を決定づける致命的な一歩となった。

第一節:冬の陣への参陣と夏の陣への遅参

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、忠政は幕府の動員令に速やかに応じ、徳川方として参陣した。彼の軍勢は、大坂城の北西方面にあたる野田・福島近辺に布陣し、豊臣方との間で戦闘を繰り広げた記録が残っている 11 。この時点では、彼は徳川方の大名として、求められる役割を忠実に果たしていた。

しかし、問題が発生したのは、和議の破綻により再戦となった翌慶長20年(1615年)の夏の陣であった。忠政は、この決戦に際して参陣が大幅に遅れるという、致命的な失態を犯してしまう 11

その理由については、複数の要因が指摘されている。第一に、家臣団の内部対立である。田中家の家臣には、父・吉政が豊臣秀次に仕えていた頃からの譜代の家臣が多く、旧主である豊臣家への恩義を感じる者が少なくなかった。彼らの中から、豊臣家を滅ぼすための戦に参加することへの反発や抵抗が起こり、藩論が統一できなかったとされる 11 。第二に、深刻な財政難である。父の代からの大規模な領内開発事業に加え、冬の陣への出兵、そして幕府から課せられる天下普請への参加などにより、藩の財政は極度に逼迫しており、再度の出兵準備が思うように進まなかったことも大きな要因であった 11

第二節:遅参が招いた致命的な結果

理由が何であれ、天下分け目の決戦への遅参は、幕府に対する重大な軍令違反であった。忠政はこの事態を重く見て、戦後、駿府に滞在していた大御所・家康のもとへ自ら赴き、直接謝罪した。家康は表向きにはこの謝罪を受け入れ、罪を許した。しかし、その代償として忠政に命じられたのは、「7年間の江戸滞留」という極めて重い処罰であった 11

この処罰は、単なる謹慎や蟄居とは全く意味合いが異なる。これは、藩主を長期間にわたり領国から強制的に引き離し、幕府の直接的な監視下に置くという、事実上の政治的軟禁であった。藩主が不在の領国では、家臣団の統制は困難となり、藩政は停滞する。何よりも、藩主としての権威は地に落ち、他の大名に対する見せしめともなった。この処罰により、幕府内における田中家の立場は決定的に悪化し、忠誠心に疑念符が付けられたことは疑いようがない。

大坂夏の陣への遅参は、田中家が抱える構造的な問題を白日の下に晒した事件であった。旧豊臣恩顧の家臣団を完全に掌握しきれていない藩主の統率力の限界、そして度重なる普請役で疲弊し、大藩としての軍役を十分に果たせない財政基盤の脆弱性。これらは、幕府から見れば単なる「言い訳」ではなく、「統治能力の欠如」と「忠誠心の欠如」の明白な証拠と映ったであろう。この一件によって、忠政が幼少期から江戸で築き上げてきたはずの徳川家との個人的な信頼関係は、修復不可能なほどに毀損された。田中家の命運は、この時点で既に風前の灯火となっていたのである。

第四章:若き死と田中家の改易 — 時代の奔流

大坂の陣での失態により、幕府からの信頼を大きく損ねた田中忠政と田中家は、厳しい立場に置かれた。そして元和6年(1620年)、忠政の突然の死をきっかけに、その運命は一気に終焉へと向かう。田中家の改易は、表向きには「無嗣断絶」という形式的な理由によるものであったが、その背後には、徳川幕府による全国支配体制確立という、より大きな政治力学が働いていた。

第一節:元和6年の急逝

7年間の江戸滞留という処罰の最中にあった元和6年(1620年)8月7日、田中忠政は江戸の藩邸で急逝した 11 。享年36というあまりにも早い死であった。彼の死因については詳らかではないが、大坂の陣以降の心労が影響した可能性も否定できない。そして、彼には世継ぎとなる男子がいなかった 11

忠政の遺骸は江戸本郷の吉祥寺(後に駒込へ移転)に葬られた 11 。その際、「甲冑を身に付けて埋葬された」という逸話が伝えられている 11 。これが事実であれば、戦場で死ぬことの叶わなかった武将としての無念、あるいは幕府の非情な仕打ちに対する最後の抵抗の意思表示であったのかもしれない。彼の墓所は吉祥寺のほか、国元である筑後の龍護山千光寺(現・久留米市山本町)に供養塔が、浄土宗大本山善導寺に位牌が祀られている 11 。また、父・吉政の菩提寺である柳川の眞勝寺には、壮年時代の衣冠束帯姿の肖像画が伝わるが、これは吉政のものではなく、忠政の肖像ではないかという説もある 15

第二節:改易の真相 — 表向きの理由と水面下の政治力学

忠政の死後、田中家は即座に改易、すなわち領地没収の処分を受けた。その過程と理由には、いくつかの層が存在する。

表向きの理由: 幕府が公式に発表した改易の理由は、あくまで「無嗣断絶」であった 11 。藩主に跡継ぎがいない場合、家名断絶・領地没収となるのは、当時の武家諸法度に則った原則であり、形式上は正当な処分であった。

しかし、この公式理由の裏には、幕府の明確な政治的意図が隠されていた。

水面下の要因①(キリシタン保護): 幕府が国策として禁教令を強化する中で、忠政が領内のキリシタンを保護し続けたことは、幕府の権威に対する明白な挑戦と受け止められていた。家臣を処刑してまで自らの信念を貫いた行動は、幕府の不興を買い、改易の一因となったとする説は極めて根強い 1

水面下の要因②(豊臣恩顧大名の計画的排除): 大坂の陣が終結し、「元和偃武」と呼ばれる泰平の世が到来すると、徳川幕府は盤石な支配体制を築くため、潜在的な脅威となりうる豊臣恩顧の有力外様大名の排除を計画的に進めていた 27 。元和5年(1619年)の福島正則の改易、元和8年(1622年)の本多正純の改易などはその代表例である 25 。筑後32万5千石という大領を有し、かつ大坂の陣で不手際を犯した田中家も、この文脈の中で排除の対象と見なされていた可能性は非常に高い。

この推測を裏付けるのが、 改易決定の異常な迅速さ である。忠政が没したのは元和6年8月7日であるが、そのわずか数日後には、田中家断絶を前提とした幕府の書状が発せられている 6 。もし幕府に田中家を存続させる意志が少しでもあれば、忠政の兄である吉興からの養子縁組を認めるなど、温情措置を講じる時間的猶予はあったはずである。しかし、幕府はそのような選択肢を一切考慮せず、忠政の死を待っていたかのように、即座に改易を断行した。これは、忠政の死が改易の「原因」ではなく、かねてより計画されていた排除計画を実行に移すための、またとない「口実」として利用されたことを強く示唆している。

結果として、筑後32万5千石の広大な領地は没収され、北部の久留米21万石には有馬豊氏が、南部の柳川10万9千石には立花宗茂が新たに入封した 4 。皮肉なことに、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易された立花宗茂が、20年の時を経て旧領への復帰を果たすことになったのである。幕府は忠政の三兄・吉興に対し、近江・三河・上野国内に合わせて2万石を与え、旗本として田中家の名跡を継ぐことを許したが 11 、これは大名としての田中家の完全な終焉を意味する、わずかな温情に過ぎなかった。

したがって、田中家の改易の真相は、「無嗣」という表向きの理由の裏で、幕府が「大坂の陣での不手際」と「キリシタン保護」という二つの大きな負い目を捉え、かねてより計画していた「豊臣恩顧の有力大名の排除」という政治的意図を完遂した事件であったと結論づけるのが最も妥当であろう。忠政の嗣子のない死は、幕府にとって、この政治的決定を実行に移すための絶好の引き金となったのである。

結論

田中忠政の生涯は、偉大な父の影に隠され、改易という悲劇的な結末によってその治績が正当に評価されてこなかった。しかし、本報告書で検証したように、彼は決して無能な藩主ではなかった。父・吉政から受け継いだ領国経営においては、治水や新田開発などで父譲りの手腕を発揮し、有能な行政官であった側面が窺える。

彼の悲劇は、個人の資質の欠如に起因するものではなく、彼が生きた「時代」そのものに構造的な原因があった。彼は、戦国の価値観が色濃く残る時代に生まれ育ちながら、徳川幕府による中央集権的な支配体制が確立される、まさにその過渡期に藩主となった。彼が父から受け継ぎ、自らの信念として貫こうとしたキリシタン保護政策や、豊臣家への恩義を捨てきれない家臣団の存在は、新しい時代の秩序においては許容されざる「危険因子」であった。

忠政は、幼少期から江戸で育ち、徳川家康や秀忠と築いた個人的な信頼関係を、自らの政治的生命線と考えていた節がある。しかし、彼がその信頼を過信し、幕府の国策にさえ背くことが許されると判断したのであれば、それは致命的な見誤りであった。大坂の陣を経て幕藩体制が確立していく中で、幕府が求めたのは、個人の武勇や藩主との個人的な信頼関係ではなく、幕法という「組織の論理」への絶対的な服従であった。田中忠政の生涯と田中家の改易は、この時代の大きな転換期において、多くの豊臣恩顧大名が辿った運命を象徴する、悲劇的な一例である。

その短い治世にもかかわらず、吉政・忠政父子二代にわたる筑後の開発事業は、その後の柳川藩(立花家)と久留米藩(有馬家)の発展の礎を築いたものとして、地域史において高く評価されるべきである 15 。彼の生涯は、時代の奔流に翻弄された一人の藩主の苦悩と、近世という新しい国家が形成される過程の非情さを、現代の我々に静かに物語っている。

引用文献

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