日本の戦国時代は、数多の武将たちが天下を夢見て鎬を削った時代として知られる。しかし、歴史の表舞台で華々しく活躍した英雄たちの陰には、時代の激流に翻弄されながらも、自らの家名を存続させるために必死に戦い抜いた無数の武将たちが存在する。田丸直昌(たまる なおまさ)もまた、そうした歴史の波間に揺れた一人であった。
伊勢の名門・北畠氏の庶流に生まれながら、主家を裏切って織田信長の軍門に降り、その次男・信雄に仕える 1 。やがて、当代きっての名将・蒲生氏郷の妹を娶ったことを契機にその与力となり、奥州の地を転戦して大名への道を歩む 2 。しかし、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、豊臣家への恩義を理由に西軍に与し、敗北。全ての所領を失い、越後の地でその生涯を閉じた 3 。
彼の生涯は、一見すると時流を読んで主君を次々と変える変節と裏切りの連続に映るかもしれない。しかし、その一つ一つの決断の裏には、名門としての矜持、戦国武将としての生存本能、そして彼が最後に貫こうとした「恩義」という、複雑に絡み合った動機が渦巻いていた。本報告書は、田丸直昌という一人の武将の生涯を、現存する史料を基に丹念に追うことで、その多面的で複雑な人物像を浮き彫りにし、戦国乱世を生き抜くことの真の意味を問い直すものである。
西暦(和暦) |
年齢(数え) |
主要な出来事 |
所属(主君) |
居城・所領(石高) |
官位 |
1543(天文12) |
1歳 |
伊勢国にて田丸具忠の子として誕生 2 。 |
北畠具教 |
伊勢国 田丸城 |
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(不詳) |
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父の隠居に伴い家督を継承 2 。 |
北畠具房 |
伊勢国 田丸城 |
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(不詳) |
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織田信長の伊勢侵攻を受け降伏、田丸城を明け渡す 1 。 |
織田信雄 |
(岩出城へ移る) 5 |
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1574(天正2) |
32歳 |
第三次伊勢長島攻めに水軍を率いて参戦 2 。 |
織田信雄 |
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1576(天正4) |
34歳 |
三瀬の変。田丸城にて北畠一門を謀殺する 1 。 |
織田信雄 |
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1582(天正10) |
40歳 |
本能寺の変。変後、羽柴秀吉に接近する 1 。 |
織田信雄 |
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1584(天正12) |
42歳 |
小牧・長久手の戦いに蒲生氏の配下として参陣。田丸城主に返り咲く 2 。 |
羽柴秀吉 (蒲生氏郷与力) |
伊勢国 田丸城 |
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1590(天正18) |
48歳 |
蒲生氏郷の会津移封に従い、奥州へ移る 3 。 |
豊臣秀吉 (蒲生氏郷与力) |
須賀川城 (3万石) 2 |
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(不詳) |
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三春城 (5万2千石) へ加増移封、のち守山城へ移る 2 。 |
豊臣秀吉 (蒲生氏郷与力) |
三春城、守山城 |
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1598(慶長3) |
56歳 |
蒲生秀行の宇都宮移封に伴い、独立大名となる 1 。 |
豊臣秀頼 |
信濃国 海津城 (4万石) 2 |
中務大輔 2 |
1600(慶長5) |
58歳 |
2月、家康の命で美濃岩村城へ移封 7 。7月、関ヶ原の戦いで西軍に与す 2 。10月、敗戦により改易 8 。 |
(西軍) |
美濃国 岩村城 (4万石) |
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1601(慶長6) |
59歳 |
越後国へ配流。堀秀治預かりとなる 4 。 |
(配流) |
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1605(慶長10) |
63歳 |
越後福島城下に太岩寺を建立 2 。 |
(配流) |
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1609(慶長14) |
67歳 |
3月7日、越後の地で死去 2 。 |
(配流) |
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田丸直昌の行動原理を理解する上で、彼の出自は極めて重要な意味を持つ。彼は単なる地方の国人領主ではなく、伊勢国において絶大な権威を誇った名門・北畠家の血を引く武将であった。
田丸氏の祖は、南北朝の動乱期に南朝方の中心人物として『神皇正統記』を著したことでも知られる北畠親房に遡る 9 。北畠家は村上源氏の流れを汲む公家でありながら、伊勢国司として代々任地に赴き、武家としても強大な勢力を築いた「公家大名」の筆頭格であった。
その北畠家の5代当主・政郷の四男であった顕晴が、室町時代後期に伊勢国度会郡の田丸城に入り、地名をもって「田丸」を称したのが田丸氏の始まりとされる 1 。田丸氏は、坂内氏、木造氏、波瀬氏、藤方氏といった一族と共に「北畠四管領」と称され、伊勢国司家の運営を担う重臣の一角を占める名家であった 11 。この事実は、田丸家が単なる家臣ではなく、本家と密接な関係を持つ有力な庶流であったことを示している。
田丸直昌は、天文12年(1543年)、田丸具忠の子として生を受けた 2 。やがて父・具忠の隠居に伴って家督を継承し、田丸城主となった 1 。彼の名は「直昌」として最も知られているが、史料によっては「具直」「具安」「忠昌」といった複数の名が確認されており、生涯において何度か改名したことがうかがえる 2 。
彼が生きた時代、主家である北畠家の権勢には陰りが見え始めていた。中央では織田信長が急速に台頭し、その勢力は伊勢にも及ぼうとしていた。名門の血を引くという矜持と、没落しつつある主家を前にした現実。この二つの要素が、若き日の直昌の心中に複雑な影を落としていたことは想像に難くない。そして、この「名門意識」と、後に見せる「冷徹な現実主義」の二面性こそが、彼の波乱に満ちた生涯を読み解く鍵となるのである。
戦国乱世の奔流は、伊勢の名門にも容赦なく襲いかかった。織田信長という圧倒的な外部勢力の出現は、田丸直昌に過酷な選択を迫る。彼は、滅びゆく主家と運命を共にするのではなく、新たな覇者に仕えることで自家の存続を図るという、非情かつ現実的な道を選んだ。
永禄年間、美濃を平定した織田信長は、次なる標的として伊勢国に狙いを定めた。信長の猛攻の前に、伊勢の諸勢力は次々と屈服。北畠家も例外ではなく、信長の次男・茶筅丸(後の織田信雄)を当主・具房の養子として迎え入れるという屈辱的な和睦を結ばされる。これにより、伊勢国司・北畠家は事実上、織田家の支配下に組み込まれた。
この過程で田丸直昌もまた、織田氏に降伏。代々の居城であった田丸城を明け渡し、信雄(この時点では北畠信意を名乗る)の家臣となった 1 。彼は信雄の配下として、天正2年(1574年)の第三次伊勢長島一向一揆攻めでは水軍を率いて参戦するなど、武将としての務めを果たしている 2 。
直昌の織田家臣としての立場を決定づけたのが、天正4年(1576年)11月に起こった「三瀬の変」である。これは、北畠家の旧臣たちの間に燻る反織田の気運を根絶やしにするため、信長の意を受けた信雄が断行した、北畠一門の大規模な粛清事件であった。
そして、この陰惨な謀略の実行役に抜擢されたのが、田丸直昌その人であった 1 。彼は、長野具藤や北畠親成といった北畠一門の主要人物たちを、計略をもって自らの旧居城・田丸城に招き寄せ、ことごとく謀殺したのである 2 。北畠庶流という彼の立場は、一門の者たちを油断させ、城内におびき寄せる上で格好の隠れ蓑となった。
この「三瀬の変」は、直昌の人物像を語る上で避けては通れない、彼の冷徹さと非情さを示す象徴的な出来事である。これは単に主君の命令に従ったという受動的な行為に留まらない。旧主家との関係を自らの手で断ち切り、その血を以て新支配者への絶対的な忠誠を証明するという、極めて計算された政治的行動であった。この汚れ仕事を引き受けることで、彼は信雄体制下における自らの地位を確固たるものにした。過去の主家を犠牲にして、新たな権力構造の中で生き残る。それは、彼の「義」よりも「利」を優先する現実主義的な側面を、鮮烈に物語っている。
天正10年(1582年)の本能寺の変は、日本の政治情勢を一変させた。織田信長という絶対的な権力者の死は、直昌の主君であった織田信雄の立場を不安定なものとし、直昌自身にも新たな転機をもたらした。彼はこの混乱期に、自らのキャリアを大きく飛躍させる絶好の機会を掴む。その鍵となったのが、蒲生家との姻戚関係であった。
信長の死後、その後継者の座を巡って羽柴秀吉と織田信雄は激しく対立する。この状況を冷静に分析した直昌は、将来性の見えぬ信雄のもとを離れ、新たな覇者となりつつあった秀吉への接近を図る 1 。
この大胆な転身を可能にし、かつ成功に導いたのが、彼の妻が近江日野城主・蒲生賢秀の娘、すなわち当代きっての智勇兼備の名将として名高い蒲生氏郷の妹であったという事実である 1 。伊勢と南近江は地理的に近く、両家は以前から交流があったとみられる。この姻戚関係という強力なパイプを通じて、直昌は秀吉陣営への円滑な乗り換えを果たしたのである。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、直昌は蒲生氏の配下として秀吉方で戦い、戦後は正式に氏郷の与力大名となった 2 。この功績により、彼はかつての居城であった伊勢田丸城主に返り咲いている 6 。
彼のキャリアが頂点に達したのは、天正18年(1590年)、氏郷が秀吉の奥州仕置に伴い、会津に92万石という破格の所領を与えられて移封された時であった。直昌もまた、この一大転封に従って奥州へと赴いた 3 。当初は奥州街道の要衝である須賀川城主として3万石を与えられ、その後、田村郡の三春城5万2千石へと加増移封、さらに守山城へと居城を移している 2 。
彼は、同じく氏郷の妹婿であった関一政と共に、広大な蒲生領を支える柱として重用された 2 。軍記物である『蒲生氏郷記』には、葛西・大崎一揆の鎮圧に向かう氏郷が、背後の守りとして極めて重要な仙道の地を直昌に任せたことが記されており、その信頼の厚さがうかがえる 16 。蒲生氏郷という傑出した人物の与力となることで、直昌の地位は格段に安定し、向上した。これは、彼の政治的嗅覚と、与えられた縁を最大限に活用する戦略性の高さを示すものであり、その生涯における最大の飛躍であったと言えよう。
蒲生氏郷という強力な庇護者のもとで順調にキャリアを築いた田丸直昌であったが、氏郷の早すぎる死は、彼の運命を再び大きく揺り動かすことになる。彼は蒲生家から独立し、豊臣家の直臣となるが、それは同時に、天下の政治の中心で渦巻く権力闘争の渦中に、直接身を投じることを意味していた。
文禄4年(1595年)、蒲生氏郷が40歳の若さで急死すると、直昌はその子・秀行に仕えた 2 。しかし、若年の秀行には父ほどの器量はなく、家中の混乱もあって、慶長3年(1598年)に蒲生家は会津92万石から下野国宇都宮18万石へと、大幅な減転封を命じられる。
この時、直昌は秀行には従わず、蒲生氏の与力という立場から離れ、豊臣家の直参大名、すなわち独立大名となる道を選んだ 1 。彼は信濃国川中島の要衝・海津城(後の松代城)に4万石の所領を与えられた 2 。これに先立つ慶長元年(1596年)には豊臣姓を下賜されており、名実ともに豊臣政権を構成する大名の一員となったのである 2 。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を強めていく。そして関ヶ原の戦いを目前に控えた慶長5年(1600年)2月、家康は自らの差配により、直昌に対して美濃国岩村城主・森忠政との所領交換を命じた 2 。これにより、直昌は信濃海津4万石から、美濃岩村4万石へと移封されることになった。
この配置転換には、家康の明確な戦略的意図があった。岩村城は中山道を押さえる東濃地方の最重要拠点である。家康は、来るべき豊臣方との決戦に備え、東海道と中山道という二大幹線道路の要所に、自らにとって信頼できる、あるいはコントロール可能と判断した武将を配置する布石を打っていた 13 。小説的な記述によれば、家康は本能寺の変直後の「伊賀越え」の際に直昌に助けられた恩義を感じており、彼を味方になると信じていたとされる 13 。
この家康の期待と深謀遠慮は、直昌を天下分け目の争いの最前線へと押し出すことになった。しかし、家康が彼に寄せた信頼は、数ヶ月後に劇的な形で裏切られることになる。この岩村への移封こそ、直昌の運命を決定づける、最後の大きな転換点であった。
慶長5年(1600年)、徳川家康による会津の上杉景勝討伐をきっかけに、天下は二分された。家康率いる東軍と、石田三成ら豊臣恩顧の諸将が中心となった西軍の対立は、関ヶ原での決戦へと突き進んでいく。この歴史的な大転換期において、田丸直昌は自らの運命を賭した、重大な決断を下す。
田丸直昌の関ヶ原における動向を語る上で、あまりにも有名な逸話が「小山評定」である。会津征伐の途上、下野国小山に陣を張る家康のもとに、三成挙兵の報が届く。軍議の席で、福島正則をはじめとする豊臣恩顧の大名たちが次々と家康への味方を表明する中、ただ一人、田丸直昌だけが「亡き太閤殿下への恩義は忘れ難い」として西軍に付くことを宣言。家康はその義理堅さを賞賛し、敵となる直昌を罰することなく、無事に陣を去らせた、という物語である 9 。
この逸話は、直昌を義理堅い武将として、また家康を器の大きな仁君として描き出し、非常に劇的である。しかし、近年の研究では、直昌はこの小山評定そのものに参加しておらず、この逸話は後世の創作であるとする説が有力視されている 2 。
ではなぜ、このような「物語」が生まれたのか。そこには二つの側面が考えられる。一つは、敗軍の将となった直昌の汚名を雪ぎ、彼を「義を貫いた悲劇の武将」として顕彰しようとした子孫の意図である 1 。もう一つは、敵対した者の忠義さえも許す家康の寛大さを強調し、その天下人としての正統性を補強しようとする、徳川方のプロパガンダという側面である 1 。史実の当否はともかく、彼の決断が後世に「物語化」されるほど、劇的なものと受け止められたことは間違いない。
史実としての直昌は、小山にはおらず、西軍の拠点である大坂城の守備に就いていたとされる 3 。彼が西軍に与した真の理由は定かではないが、岩村への移封が石田三成の配慮によるものであったとする説もあり 17 、三成個人への恩義を感じていた可能性も指摘される。いずれにせよ、彼は豊臣方として戦う道を選んだ。
その結果、彼の本拠地である美濃岩村城は、東濃地方における東西両軍の激しい戦闘の舞台となった。直昌本人は大坂にいたため、城の守りは老臣・田丸主水(もんど)に託された 3 。これに対し東軍方では、かつてこの地の領主であり、旧領回復に燃える苗木遠山友政や明知遠山利景、小里光親らが蜂起。田丸方が押さえる諸城を次々と攻略していった。これが「東濃の戦い」である 3 。
9月15日、関ヶ原の本戦で西軍がわずか一日で壊滅すると、東濃の戦いの趨勢も決した。遠山友政率いる東軍は岩村城を包囲。城主・直昌が大坂で降伏したとの報も届き、もはや抵抗は無意味と悟った城代・田丸主水は、10月10日に開城勧告を受け入れた 3 。
この開城の際に、心温まる逸話が残されている。遠山友政は、敗将である田丸主水に対し、路用として黄金五十両を贈った。これに深く感謝した主水は、返礼として田丸家に代々伝わる長刀を「今度の遠山氏発向のしるしに進上する」と言って友政に差し出したという 19 。この長刀は、源頼朝が遠山氏の祖・加藤景廉に与えたものと伝えられる由緒ある品であった 19 。敵味方に分かれて戦った者同士が、戦の終結にあたって示した礼節と武士の作法は、殺伐とした時代の一筋の光として、今に伝えられている。
関ヶ原の戦いは、徳川家康の圧倒的な勝利に終わった。西軍に与した大名たちは、その処遇を家康の裁定に委ねるほかなかった。田丸直昌もまた、敗将として厳しい運命を受け入れることになる。しかし、彼の家名は意外な形で後世に受け継がれていく。
戦後、西軍に加担した責を問われ、直昌が領有していた美濃岩村4万石の所領はすべて没収(改易)された 3 。石田三成や小西行長のように斬首されることは免れたものの、大名としての地位を完全に失い、越後国へと配流されることになった。身柄は、越後春日山城主・堀秀治に預けられた 1 。
配流先の越後で、直昌は俗世との縁を断ち、仏門に帰依した。名立寺(現在の新潟県上越市名立区)の忠山泉恕という僧を師と仰ぎ、出家したと伝わる 2 。慶長10年(1605年)には、越後福島城下の小町川のほとりに太岩寺という寺院を建立している 2 。これは、戦乱に明け暮れた自らの半生を省み、来世の安寧を願ってのことであったのかもしれない。
そして慶長14年(1609年)3月7日、田丸直昌は配流先の越後の地で、その波乱に満ちた生涯を閉じた。享年67 2 。彼の墓所は、自らが建立し、後に現在地(新潟県上越市寺町)に移転された曹洞宗・太岩寺に現存しており、「太岩寺殿本秀心空大居士」という戒名が刻まれている 2 。
一部の資料には、直昌が後に「赦免された」という記述が見られる 8 。しかし、越後で死去し、同地に墓所が現存するという複数の確かな記録とは明らかに矛盾する。この「赦免説」は、前述の小山評定の逸話と同様に、改易・配流という不名誉な結末を和らげ、家の名誉を回復したいと願った子孫によって形成された伝承が、史実と混同されて伝わった可能性が高い。
武家としての田丸家は事実上ここで終焉を迎えるが、その血脈は途絶えることはなかった。嫡男であった田丸直茂は父の罪を許され、加賀百万石の藩主・前田利常に仕えることができた 2 。
さらに興味深いのは、その後の田丸家の歩みである。直茂の子孫は、武士としてではなく、江戸幕府に仕える鍼科医となり、医術という専門技術によって家名を存続させていった 1 。武力ではなく、知識や技術が身を立てる術となる。それは、戦国が終わり、新たな身分秩序が確立された江戸時代の到来を象徴する出来事であった。
一方で、別系の子孫は水戸藩に仕えたが、幕末の動乱期に天狗党の乱に巻き込まれ、当主・田丸直允が処刑されるという悲劇的な結末を迎え、宗家は断絶した 11 。戦国の世を生き抜いた一族の歴史もまた、時代の大きなうねりの中で終焉を迎えたのである。
田丸直昌の生涯を俯瞰するとき、我々は彼が単一の言葉では評価しきれない、極めて多面的な人物であったことに気づかされる。彼は歴史の主役ではなかったかもしれないが、その生き様は戦国という時代の複雑さと奥深さを映し出す、魅力的な鏡となっている。
彼の人物像は、矛盾に満ちている。一方では、伊勢国司・北畠家という名門の血を引く誇りを持ちながら、自家の存続のためには旧主家や血族をも切り捨てる、冷徹な 現実主義者 であった(三瀬の変)。また一方では、義兄・蒲生氏郷の厚い信頼に応える有能な 補佐役 であり、そのキャリアの最後には、豊臣家への「恩義」という 義理 を貫こうとした(とされる)人物でもあった(関ヶ原の戦い)。
彼の生涯は、戦国時代から江戸時代へと移行する巨大な地殻変動の中で、自らの家を存続させるために必死にもがいた、数多の中小武将の一つの典型例と言えるだろう。絶対的な「忠義」や「正義」が存在しない乱世において、武将たちがいかに「義」と「利」の狭間で苦悩し、時に非情な、時に人間的な決断を下してきたか。彼の人生は、そのリアルな姿を我々に教えてくれる。
小山評定の逸話に代表されるように、彼の行動は後世の人々の想像力を掻き立て、「物語」として語り継がれた。史実としての彼は、時代の流れを読み違え、没落した敗者であったのかもしれない。しかし、その敗北に至るまでの過程に刻まれた矛盾と葛藤、そして伝説と史実の交錯こそが、田丸直昌という武将の人間的魅力を形成している。華々しい英雄譚だけでは決して見えてこない、乱世の真の姿を、彼の生涯は静かに、しかし雄弁に物語っているのである。