最終更新日 2025-06-29

田原親家

田原親家:大友宗麟の次男、その栄光と流転の生涯

序論:激動の時代に翻弄された大友の御曹司

田原親家(たわら ちかいえ、永禄4年(1561年) - 寛永18年(1641年))は、戦国時代に九州の六ヶ国を支配下に置いた豊後の戦国大名、大友宗麟の次男として生を受けた人物である 1 。その81年にわたる生涯は、輝かしい出自とは裏腹に、偉大な父・宗麟の政治的野心、嫡男である兄・義統との深刻な確執、そして自身の信仰という三つの大きな力に絶えず揺さぶられ続けた。

彼の人生は、戦国大名家の次男という立場の宿命、すなわち家督争いを避けるための「駒」としての役割と、それに抗おうとする個人の意志との相克を色濃く映し出している。キリスト教への入信、有力庶家・田原氏の家督相続、そして兄への反発から起こしたとされる敵方への内通。これらの一連の行動は、大友家内部の宗教的・政治的対立を激化させ、ひいては九州の覇者とまで呼ばれた大友家の衰退を加速させる一因ともなった。彼の生涯を追うことは、大友氏がなぜその栄光を失ったのか、その要因を内部から解き明かす重要な鍵となる。

本報告書は、田原親家の波乱に満ちた生涯を、史料に基づき多角的に検証するものである。第一章では彼の出自とキリスト教入信の経緯、第二章では田原家相続とそれに伴う内乱、第三章では兄・義統との決裂と島津氏への内通、第四章および第五章では大友家改易後の流転の半生と子孫の行方を詳述し、最後に彼の歴史的評価を試みる。

第一章:誕生と信仰―キリシタン「ドン・セバスチャン」の誕生

出自と時代背景

大友親家は、永禄4年(1561年)、豊後国にて大友義鎮(後の宗麟)の次男として誕生した 1 。通称は新九郎と伝わる 1 。母は、国東半島の有力国人で奈多八幡宮の大宮司であった奈多鑑基の娘、奈多夫人である 1 。兄に後の大友家当主となる義統、弟に親盛がおり、彼らは同母兄弟であった 2

親家が生まれたこの時期、大友氏は北部九州の六ヶ国(豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職を兼ね、その勢力はまさに頂点に達していた 6 。親家は、九州の覇者・大友家の栄光の絶頂期に生を受けた御曹司だったのである。

僧籍入りの計画と親家の反発

戦国時代の大名家において、家督を継ぐ嫡男以外の男子の処遇は、常に潜在的な火種であった。家中の分裂や家督争いを未然に防ぐため、次男以下を仏門に入れることは常套手段となっていた 10 。父・宗麟もこの例に漏れず、覇気があり気性が荒いとされた次男の親家を僧侶にしようと計画した 1 。その計画は具体的であり、京都の大徳寺から高僧・怡雲宗悦を招き、臼杵に寿林寺(宗麟寺)を建立するほどであった 4

しかし、親家自身はこの父の決定に強く反発し、「仏僧になりたがらない」という明確な意思を示した 2 。父の命令にただ従うことを潔しとしない、彼の激しい気性の一端が窺える。

キリスト教への改宗

仏門入りを拒否した親家が次なる精神的支柱として見出したのが、父・宗麟が庇護していたキリスト教であった 1 。宗麟自身も、親家がキリスト教徒となることで、イエズス会の司祭が「兄(義統)に従うよう勧告し、将来、国に反乱が起きないようにするため」という、家督争い回避の代替案としての期待を抱いていたとされる 10

天正3年(1575年)11月、親家は15歳で臼杵の教会にて洗礼を受け、キリシタンとなった 1 。その洗礼名は「ドン・セバスチャン」。これは、宗麟が当時書簡を交わしていたポルトガル国王セバスティアン1世にちなんで名付けられたものであった 2 。彼の入信は、大友家中にキリスト教がさらに広まる契機となった 9

親家の入信は、単なる個人的な信仰の選択に留まらない。それは、家督相続の枠組みから外された次男としての自己の存在証明、父の命令に対する反抗、そして父が持つもう一つの顔(キリシタン保護者)への接近という、複数の側面を持つ複合的な行動であった。彼は父の計画した道を拒絶し、父が用意したもう一つの道を選択することで、自己を確立しようとしたのである。

家族内の宗教対立

親家のキリスト教入信は、大友家中に深刻な亀裂をもたらした。特に母・奈多夫人は、奈多八幡宮大宮司家の出身で敬虔な神道の信者であり、キリスト教を「神仏の敵」として激しく憎んでいた 3 。彼女は親家に棄教を迫り、宣教師たちからはイスラエルの悪妃になぞらえて「イゼベル」と呼ばれ恐れられた 3

この対立には、奈多夫人の兄であり親家の伯父にあたる田原親賢(紹忍)も加担した。親賢は反キリシタン派の重鎮であり、大友家は宗麟・親家らキリシタン容認派と、奈多夫人・親賢ら反キリシタン派に二分される様相を呈した 4 。この家族内の宗教的・政治的な亀裂は、後の大友家の衰退を語る上で見過ごすことのできない重要な伏線となる。

第二章:田原家相続と内乱―国東の覇権をめぐる争い

大友氏の有力庶家・田原氏

田原氏は、大友一門の庶家の中でも「最も勢力が強く」「豊後の大身中最も有力」と評される一族であった 16 。国東半島に強固な地盤を築き、その実力は主家である大友宗家にとっても無視できない存在であり、時に警戒の対象となっていた 16 。特に当主の田原親宏は、その勢力を背景に宗家としばしば緊張関係にあった。

宗麟の政略―田原家乗っ取り計画

九州の覇権を盤石なものにしようとする宗麟にとって、独立性の強い田原氏の存在は懸念材料であった。そこで宗麟は、この強力な庶家を完全に掌握するため、自らの次男である親家を田原宗家の家督継承者として送り込むという大胆な策を講じた 16 。この計画は、かつて親宏から没収していた旧領(国東・安岐)を返還する際の交換条件として提示されたもので、宗麟の腹心である田原親賢(親家の伯父)もこの策謀に関与していたとされる 20

「田原親貫の乱」の勃発

しかし、田原親宏には長野氏から迎えた田原親貫という婿養子がおり、彼が正当な後継者と目されていた 20 。天正7年(1579年)に養父・親宏が病死すると、親貫は宗麟の策謀を知り、自らの相続権を主張して大友宗家に対して反旗を翻した 16 。この反乱は「田原親貫の乱」と呼ばれ、国東半島全域を巻き込む大規模な内乱へと発展した 16

鎮圧軍の総大将としての親家

この内乱に際し、宗麟は極めて非情な采配を振るう。反乱鎮圧軍の総大将に、他ならぬ大友親家を任命したのである 1 。天正8年(1580年)、親家は正式に「田原親家」を名乗り、国東半島に上陸した 21 。彼は、自らが原因となった内乱を、自らの手で鎮圧するという過酷な役割を担わされた。

親家は、柴田礼能らの補佐を受け、また田原家の重臣であった津崎氏や萱島氏らを内応させるなど、巧みな戦術で親貫方を追い詰めていった 21 。安岐城などを次々と攻略し、最終的に親貫が籠る鞍懸城を制圧。親貫は逃亡中に討ち取られ、約1年にわたる内乱は終結した 1

田原氏惣領へ

この戦功により、親家は名実ともに国東田原氏の惣領となり、その広大な所領と権威を継承した 1 。天正9年(1581年)頃からは「田原常陸介」と称し、大友家の最高意思決定機関である加判衆にも名を連ね、大友家の中枢を担う存在となった 1

しかし、この栄光は、父の政略の道具として、継ぐべき家の正当な後継者を討伐した末に得たものであった。この事実は、彼のその後の人生、特に兄・義統との関係において、複雑な影を落とし続けることになる。

表:田原姓を名乗る主要人物の整理

人物名

田原親家

田原親賢

田原親宏

田原親貫

第三章:兄・義統との確執と没落―豊薩合戦における不忠

兄・義統との関係

父・宗麟の隠居に伴い家督を継いだ兄・義統と、親家との仲は「犬猿の仲」と評されるほど険悪であった 2 。天正6年(1578年)の耳川の戦いにおける大敗以降、大友家は衰退の色を濃くし、家臣団は分裂、当主である義統の指導力にも疑問が呈される状況にあった 20 。覇気のある性格で、かつ有力庶家の当主となった親家は、義統にとって自身の地位を脅かしかねない潜在的な脅威と映っていた可能性が高い。

豊薩合戦と島津氏への内通

天正14年(1586年)、薩摩の島津氏が大友領へ大々的に侵攻を開始する(豊薩合戦) 2 。府内は焼け野原となり、大友家はまさに存亡の危機に立たされた。この国家存亡の危機的状況の最中、親家は兄・義統への積年の不満から、敵である島津義久に内通するという致命的な裏切り行為に及んだ 1

この行動は、単なる個人的な裏切りに留まらない。イエズス会士ルイス・フロイスの記録によれば、当時の豊後では島津に内通する家臣が相次いでおり、親家の行動もその文脈の中で捉える必要がある 32 。それは、求心力を失った当主・義統への家臣団全体の不満が噴出した象徴的な事件であり、大友家が外部の強大な敵と対峙しながら、内部から崩壊しつつあったという構造的弱点を露呈するものであった。

内通の発覚と処遇

親家の内通を知った兄・義統は激怒し、彼を殺害しようと計画した 1 。もはや兄弟間の亀裂は修復不可能な段階に達していた。しかし、この土壇場で父・宗麟が両者の間に立って取り成したため、親家はかろうじて一命を取り留める 1

助命はされたものの、その代償は大きかった。田原氏当主としての役職は罷免され、継承したはずの広大な所領もすべて没収された 1 。彼は権威と実力のすべてを失い、臼杵で隠居生活を送る父・宗麟のもとに引き取られることになった。さらに、この九州平定後、豊臣秀吉からもその不忠を厳しく咎められ、父の必死の弁護で助命されたものの、所領没収は確定的なものとなった 2 。フロイスの『日本史』によれば、この前後の時期に親家は片目の視力を失ったと記されている 2

親家の没落は、大友家全体の没落を象徴する出来事であった。彼の人生は、良くも悪くも父・宗麟の巨大な影響力から逃れることはできず、父の政略によって祭り上げられ、そして父の権威によってかろうじて命を救われるという、皮肉な運命を辿ったのである。

第四章:流転の日々―大友家改易と新たな仕官

父・宗麟との最期

全ての地位と所領を失った親家は、臼杵の父・宗麟のもとで静かな日々を送った 1 。天正15年(1587年)5月23日、宗麟がその波乱の生涯を閉じると、親家はその臨終に立ち会い、3日後の葬儀も執行した 1 。かつて父の意向に反抗し、また父に命を救われた彼が、その最期を看取るという重要な役割を担ったのである。

大友家の改易と新たな主君

父の死後、親家は一度赦免されたのか、天正19年(1591年)には加判衆に再任され、翌年の文禄の役にも兄・義統に従って朝鮮へ渡っている 2 。しかし、この文禄の役において、義統が敵前逃亡と見なされる致命的な失態を犯し、豊臣秀吉の逆鱗に触れてしまう 18

その結果、文禄2年(1593年)、大友氏は豊後の領地を全て没収され、改易処分となった 1 。鎌倉時代から続いた名門大友氏は、ここに大名としての歴史を閉じた。主家を失った親家もまた、流浪の身となる。

改易後、親家は旧大友家臣で、秀吉から柳川の大名として独立を認められていた立花宗茂の軍に身柄を預けられた 1 。その後、慶長14年(1609年)、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興に、100石30人扶持という客分(正規の家臣ではないが、賓客としての待遇)として仕官した 1

この時、彼は名を「利根川道孝(とねがわ みちたか)」と改めている 1 。この改姓は、大友家や田原家といった輝かしくも呪縛に満ちた過去と決別し、新たな主君のもとで一人の武士として再出発しようとする、彼の強い意志の表れであったと考えられる。彼の名前の変遷、「大友親家」から「田原親家」、そして所領没収後の「門司勘解由允」を経て「利根川道孝」へ至る道程は、彼の社会的地位とアイデンティティの劇的な変化そのものを物語っている。

第五章:晩年と松野氏の祖として

熊本藩士としての後半生

寛永9年(1632年)、主君である細川氏が肥後熊本藩54万石へ転封となると、利根川道孝と名乗る親家もそれに従って肥後国へ移り、その地で後半生を送った 1 。かつて情熱を傾けたキリスト教は早くに棄教しており、寛永年間には幕府の政策に従い、転び証文にも署名している 32 。激動の時代を生き抜く中で、青年期の信仰は失われていった。

最期

寛永18年(1641年)3月25日、親家は熊本の地でその長い生涯を閉じた。享年81歳 1 。戦国の動乱を生き抜いた人物としては、非常に長寿であった。法名は「本地院殿小菴道孝大禅定門」といい、その墓は現在、熊本市中央区の岫雲院(春日寺)にある 1

子孫の動向―松野氏の創始

親家の血筋は、彼の死後も続いていく。息子の親英(ちかふさ)は、父とは別に細川家から500石を拝領し、正式な熊本藩士となった 1 。親英は後に姓を「松野」と改めた 1 。これにより、大友宗麟の次男・親家の家系は、熊本藩士・松野氏として確固たる地位を築き、江戸時代を通じて家名を存続させることに成功した。

この松野氏は、同じく大友家改易後に細川家に仕えた弟・親盛の家系と共に、細川藩内で大友氏由来の家臣として代々続いた 18

ここには歴史の皮肉が見て取れる。兄・義統が当主を務めた大友宗家は、大名としての地位を失い、その血筋も江戸時代に一度は無嗣断絶の危機に瀕した(後に義統の三男の系統から養子を迎え高家として再興) 34 。対照的に、兄と対立し、家を裏切り、全てを失ったはずの親家の血筋は、新たな主君のもとで安定した大藩の正規の家臣として根付き、子孫に安定した未来を残したのである。彼の長い晩年は、戦国的な価値観から近世的な価値観への移行期を生き抜き、新たな時代に適応していった一人の人間の姿を映し出している。

結論:田原親家の歴史的評価

田原親家の生涯は、父・大友宗麟の壮大な野望の駒として翻弄され、兄・義統との宿命的な確執に苦しみ、主家の没落と共に流転した、まさに激動の時代そのものを体現した人生であった。

しかし、彼は単なる悲劇の御曹司ではない。父の意向に反して自らの信仰を選び 10 、兄への強い反発から敵と通じるという大胆な行動も選択している 1 。その選択は、常に大友家という巨大な枠組みと、宗麟という偉大な父の強烈な影響下にあり、結果として自らの立場を危うくし続けたが、そこには彼の明確な意志が存在した。

彼の人生は、戦国大名家が抱える後継者問題の深刻さ、巨大化した家臣団を統制する難しさ、そして宗教が政治に与える影響の甚大さを、一つの具体的な事例として鮮やかに示している。彼の存在そのものが、大友家内部に潜む矛盾の表出であり、その行動は結果的に大友家の衰退と密接に結びついていた。

最終的に、彼は大友の名を捨て、新たな主君に仕えることで家名を後世に残した。その流転の生涯は、九州のキリシタン史、そして大友氏の興亡史を研究する上で、欠かすことのできない重要な視点を提供してくれるのである。

引用文献

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