戦国時代の終焉と豊臣政権による天下統一は、日本各地の在地勢力に大きな変革を迫った。特に、長らく中央の動乱から一定の距離を保ち、独自の勢力圏を築いてきた奥羽地方の国人領主たちは、この巨大な権力の波に否応なく飲み込まれていく。本報告書で取り上げる陸奥国閉伊郡(現在の岩手県宮古市周辺)の領主、田鎖(たくさり)氏は、まさにこの時代の激動を象徴する一族である。奥州の名門「閉伊源氏」の宗家として、鎌倉時代以来の伝統を誇りながらも、戦国末期には北の強豪・南部氏との熾烈な抗争の末、その軍門に降ることとなる。
本稿は、利用者から提示された「田鎖光守」という人物を軸に、田鎖氏の歴史、特にその存亡をかけた戦国末期の動向を徹底的に解明することを目的とする。史料上、「田鎖光守」という名の人物を特定することは困難を伴う。しかし、『奥南落穂集』などの近世の記録には、天正18年(1590年)に南部信直に仕えた「田鎖遠江守光好(みつよし)」とその子「十郎左衛門光重(みつしげ)」の名が記されている 1 。一方で、天正15年(1587年)に南部氏への出仕を拒み、討ち死にした「田鎖光守」の存在を示唆する記録もある 1 。このことから、本報告書では、南部氏に最後まで抵抗を貫いた当主を「光守」、その跡を継ぎ、一族の存続のため現実的な選択を迫られた息子を「光好」と位置づけ、この父子の相克と決断を軸に、一族の運命を追う。
田鎖氏の物語は、単なる一地方豪族の盛衰史に留まらない。それは、伝統と誇りを守るために抗うか、あるいは新たな秩序に順応して生き残るかという、戦国末期の武士たちが直面した普遍的なジレンマを映し出す鏡である。本稿では、『奥南落穂集』や『参考諸家系図』といった藩政時代の編纂物 4 、近年の発掘調査で得られた田鎖城跡の考古学的知見 6 などを総合的に分析し、田鎖光守とその一族が辿った興亡の軌跡を多角的に描き出す。
田鎖氏の祖先である閉伊氏は、その出自を源氏に求める、いわゆる「閉伊源氏」として知られる 1 。盛岡藩の記録『奥南落穂集』などによれば、閉伊氏の遠祖は、保元の乱で活躍した弓の名手、鎮西八郎源為朝の四男・島為頼であるとされる 2 。為頼は伊豆大島で生まれ、源頼朝の旗揚げに従い、その命により近江源氏の佐々木高綱の猶子となり「佐々木十郎行光」を名乗ったという 2 。そして、頼朝による奥州合戦の功により閉伊郡・気仙郡の地頭に補され、建久年間(1190年-1199年)に閉伊郡に入り、地名をとって「閉伊頼基」と改名したのが始まりだと伝えられている 1 。
しかし、この為朝を祖とする系譜は、戦国時代に多くの武家が自らの権威を高めるために創出した「貴種流離譚」の一種である可能性が高い。より史実性の高い説として、閉伊氏が宇多源氏佐々木氏の一族であったとする見方がある 2 。その根拠として、閉伊氏が佐々木氏の家紋である「四つ目結」を使用していた点が挙げられる 2 。奥州合戦後の論功行賞で、多くの関東武士が東北地方に所領を与えられた史実を鑑みれば、佐々木氏の一族が閉伊郡に土着し、在地領主として閉伊氏を名乗るようになったと考える方が自然であろう。為朝伝説は、在地での支配を正当化し、源氏の名門としての格を示すための政治的な意図をもって、後世に形成されたものと推察される。
鎌倉時代、閉伊氏は幕府の御家人として閉伊郡の地頭職を世襲し、地域の支配者としての地位を確立した 2 。その勢力は、北条貞時から鎌倉の由比ヶ浜に屋敷地を与えられるほどであったことが記録に残っている 2 。正応元年(1288年)には、当主・閉伊光員の死後、その遺領である「多久佐利(田鎖)」などを巡って、嫡子の光頼と弟の員連との間で相続争いが起こり、鎌倉幕府の裁定が下された記録が残る(宮古田鎖文書) 2 。この文書は、閉伊氏がこの時期にすでに田鎖の地を重要な所領としていたことを示す貴重な史料である。
南北朝時代に入ると、閉伊氏は南朝方に与し、陸奥国司・北畠顕家に従って各地を転戦した 2 。建武の新政下では、閉伊親光が顕家から所領を安堵されている 12 。その後、室町幕府が成立すると、今度は奥州総大将の石塔義房からの軍勢催促に応じており、時勢に応じて巧みに立ち回りながら勢力を維持していたことが窺える 2 。
この南北朝時代の動乱期を経て、閉伊氏の嫡流は本拠地を根城館から閉伊川中流域の「多久佐利」の地に移し、地名にちなんで「田鎖氏」を名乗るようになった 11 。この地は良馬の産地としても知られ、『尺素往来』には「多久佐里之本牧」の馬の優秀さが記されるなど、経済的にも重要な拠点であった 2 。
田鎖氏の本拠地となった田鎖城は、現在の岩手県宮古市田鎖、閉伊川南岸の丘陵先端部に築かれた平山城である 15 。近年の発掘調査により、その構造の一端が明らかになっている。
表1:田鎖城跡の概要
項目 |
内容 |
典拠 |
所在地 |
岩手県宮古市田鎖第1地割 |
14 |
城郭構造 |
平山城 |
16 |
築城年代 |
南北朝時代・永和年間(1375年~1379年)頃 |
15 |
主な城主 |
田鎖氏 |
16 |
遺構 |
主郭、二の郭、帯郭、空堀、物見櫓跡 |
6 |
出土遺物 |
14世紀頃の陶器甕片、平安通寶(戦国末期の銅銭)など |
6 |
発掘調査では、城の中心部から中世のものとみられる堀や竪穴建物跡が検出されており、出土した14世紀頃の陶器片は、文献史料が示す築城年代を裏付けている 6 。また、戦国時代末期の鋳造とされる「平安通寶」が出土していることは、田鎖氏が滅亡する直前までこの城が機能していたことを物語る 17 。
田鎖氏は、この田鎖城を拠点として閉伊川流域に勢力を広げ、一族や配下の国人を束ねて「田鎖党」あるいは「田鎖十三家」と呼ばれる武士団を形成し、閉伊郡に君臨した 16 。
室町時代に入ると、北方の糠部郡(現在の青森県東部から岩手県北部)を本拠とする南部氏が勢力を南下させ、閉伊郡への進出を強めていった 19 。閉伊郡の支配者である田鎖氏にとって、南部氏はその独立を脅かす最大の脅威であり、両者の間には長年にわたる緊張と抗争の歴史が刻まれることとなる 2 。
南部氏は、閉伊川を挟んで田鎖城と対峙する位置に千徳城を築き、一族の一戸氏を配するなど 14 、巧みな勢力扶植策によって田鎖氏の勢力圏を徐々に切り崩していった。応永年間(1394年~1428年)から永享年間(1429年~1441年)にかけて、閉伊氏の一族の中には南部氏に下る者も現れ、かつて閉伊郡に覇を唱えた閉伊源氏宗家・田鎖氏の威勢は次第に衰え、一介の国人領主へとその地位を落としていった 2 。この過程は、戦国大名として中央集権化を進める南部氏と、それに抗う旧来の在地勢力との力関係の変化を如実に示している。
天正年間、南部氏の家督を継いだ南部信直は、晴政の代に最盛期を迎えた南部家の領内統一をさらに推し進め、斯波氏を滅ぼすなど、周辺の国人領主に対する圧力を一層強めていた 20 。天正16年(1588年)には、閉伊郡に蟠踞する田鎖氏と遠野の阿曽沼氏を臣下としたと記録されており 20 、この時点で田鎖氏が南部氏の支配下に入ったかのような記述が見られる。
しかし、これは南部氏側の視点による記録であり、田鎖氏が完全に屈服したわけではなかった。一部の史料によれば、天正15年(1587年)、南部信直への出仕を拒んだ当主・田鎖光守が、南部氏の攻撃を受けて討ち死にしたと伝えられている 1 。この「光守」こそ、ユーザーが関心を寄せた人物であり、一族の独立を守るために最後まで抵抗を試みた悲劇の当主であった可能性が高い。
この抵抗は、単なる無謀な反抗ではなかった。鎌倉以来の名門としての誇りが、容易な臣従を許さなかったのである。たとえ滅びるとしても、武門の意地を貫くという選択は、戦国武士の生き様として決して珍しいものではない。田鎖光守の戦死は、田鎖氏の独立した領主としての歴史に事実上の終止符を打つ出来事であり、その後の田鎖氏の運命を大きく左右することになった。
光守の死後、家督を継いだのは子の田鎖光好であった。父の死という厳しい現実と、中央の豊臣政権と結びつきを強める南部信直の圧倒的な力の前に、光好は一族存亡のための苦渋の決断を迫られることになる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼし、天下統一をほぼ成し遂げると、その矛先を奥羽地方に向けた。これが「奥州仕置」である 22 。秀吉は宇都宮に陣を構え、奥羽の諸大名に対して参陣を命じた。
この歴史の転換点において、南部信直は機敏に行動した。彼は逸早く秀吉に恭順の意を示して小田原に参陣し、宇都宮で秀吉に謁見した 20 。その結果、天正18年7月27日、信直は秀吉から朱印状を与えられ、糠部、閉伊、鹿角など七郡にわたる広大な所領の支配権を公式に認められた 20 。これは、南部氏が豊臣政権下における近世大名として公認されたことを意味する。同時に、閉伊郡に割拠してきた田鎖氏のような国人領主は、もはや独立した存在ではなく、南部氏の「家中」、すなわち家臣として位置づけられることが決定づけられたのである 24 。
奥州仕置によって確立された新秩序は、奥羽地方に新たな動乱をもたらした。天正19年(1591年)、南部氏一族で最大の実力者であった九戸政実が、信直の家督相続と豊臣政権への従属に不満を抱き、反旗を翻した 24 。この「九戸政実の乱」は、南部領内を二分する大規模な内乱へと発展し、信直は自力での鎮圧が困難とみるや、秀吉に援軍を要請した 25 。
この未曾有の危機に際し、田鎖光好・光重親子は極めて難しい立場に置かれた。南部信直の家臣である桜庭安房からの参陣要請にもかかわらず、田鎖氏は閉伊川対岸の千徳氏と共に、いずれの陣営にも与せず「静観」の態度をとった 15 。
この中立は、単なる日和見主義とは言い切れない、計算された戦略的判断であったと考えられる。
第一に、長年の宿敵である南部信直に味方することへの強い抵抗感があった。ここで信直に与すれば、田鎖氏の独立性は完全に失われ、南部氏の家臣団に組み込まれることが確定してしまう。
第二に、九戸政実の勢力は強大であり、当初は信直方を圧倒していた 25。田鎖氏としては、両者が共倒れになる、あるいは政実が勝利する可能性も視野に入れ、状況を見極めようとしたのであろう。
しかし、この判断は致命的な誤算であった。田鎖氏は、豊臣秀吉が派遣する「再仕置軍」の圧倒的な規模と、その背後にある中央政権の権威の重さを完全に見誤っていた。蒲生氏郷、徳川家康らを加えた総勢6万ともいわれる豊臣連合軍の前に、九戸勢はなすすべもなく鎮圧された 25。
この結果、南部信直の領主としての地位は盤石なものとなった。そして、信直にとって、乱に際して中立を保った田鎖氏の態度は、忠誠を誓わぬ不穏分子と見なすに十分な理由となったのである。
九戸政実の乱が豊臣軍によって鎮圧され、政実をはじめとする首謀者たちが処刑されると 11 、奥羽の諸勢力は豊臣政権の絶対的な力を思い知らされた。もはや南部信直に抗う術はない。
『奥南落穂集』によれば、この後、田鎖遠江守光好とその子・十郎左衛門光重の親子は、三戸の南部信直のもとへ参上し、家臣として仕えることになったと伝えられる 1 。これは、武力による抵抗を断念し、一族の血脈を保つために臣従の道を選んだことを意味する。秀吉の威光を背景とした信直の前に、鎌倉時代から続いた閉伊源氏の宗家は、ついに独立領主としての歴史に幕を下ろしたのである 2 。
南部氏の家臣となった田鎖氏であったが、信直の旧敵に対する処遇は苛烈であった。天正20年(1592年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)を命じると、信直は田鎖光好・光重親子に対し、九州の名護屋城への出陣を命じた 2 。これは「唐之供(からのとも)」と呼ばれ、大名に課せられた軍役であった。
この出兵命令は、信直にとって田鎖氏の力を削ぐ絶好の機会となった。光好・光重親子が手勢を率いて遠く九州へ赴き、本拠地が手薄になった隙を突いて、信直は豊臣政権による「諸城破却令」を執行したのである 11 。これは、大名の支配下にありながら独立性の高い国人領主の城を取り壊し、大名の中央集権化を徹底させるための政策であった 29 。
南部氏が蒲生氏郷の代官に提出したとされる『諸城破却書上』には、破却された城の一つとして田鎖城が明確に記されている。
「田鎖 山城 破 佐々木十郎左衛門 持分 唐之供 留守兵庫」 15
この一文は、田鎖氏の末路を雄弁に物語っている。「佐々木十郎左衛門」は、佐々木氏の血を引くとされる田鎖氏の当主(光好または光重)を指し、「唐之供」のため留守中に城が破却されたことが記されている。主君への忠誠を示すための出兵中に、その主君によって本拠地を破壊されるという皮肉な結末は、戦国から近世へと移行する時代の非情さと、南部信直の巧みな領内統制術を示している。田鎖城の破却は、田鎖氏が二度と南部氏に反抗できないよう、その物理的・精神的な拠点を完全に奪い去るための決定的な措置であった。
城と領地を失った田鎖氏は、完全に南部家の家臣団に組み込まれ、盛岡藩士として近世を生きることになる 1 。その後の田鎖一族は、複数の家系に分かれながらも存続した。『南部藩参考諸家系図』や『明治元年支配帳』などの記録には、盛岡藩士として田鎖姓の家が複数存在したことが確認できる 1 。
表2:盛岡藩士としての田鎖氏および閉伊氏一族(明治元年時点)
氏族名 |
家数 |
備考 |
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田鎖氏 |
16家(三流) |
宗家は没落したが、複数の分家が藩士として存続。 |
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刈屋氏 |
2家 |
閉伊氏の支流。 |
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和井内氏 |
4家 |
閉伊氏の支流。 |
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長澤氏 |
6家 |
閉伊氏の支流。 |
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花輪氏 |
2家 |
閉伊氏の支流。南部利直の側室を出し、藩政に影響力を持った。 |
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その他 |
35家以上 |
高浜、根市、中村、赤前、重茂、大沢など多数。 |
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出典: 1 『奥南落穂集』、『明治元年支配帳』等を基に作成 |
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江戸時代後期には、田鎖左膳高行(たくさり さぜん たかゆき)という人物が家老職にまで昇進するが、藩主・南部利済の側近として苛政を敷き、「君側の三奸」と非難され、大規模な農民一揆である三閉伊一揆を誘発する一因となった 31 。これは、かつて閉伊郡の領主であった田鎖氏の子孫が、時を経て、その旧領の民衆から蜂起される側に回ったという、歴史の皮肉を物語る出来事である。
さらに時代は下り、明治時代には一族から田鎖綱紀(たくさり こうき)が登場する。彼は日本初の速記術を創案した人物として知られ、武士から近代知識人へと見事な転身を遂げた 1 。これは、戦国の荒波を乗り越え、時代に適応しながら血脈を繋いできた田鎖一族の強靭さを示す象徴的な事例と言えよう。
陸奥国閉伊郡に長らく君臨した田鎖氏の歴史は、戦国時代末期から近世初期にかけて、地方の独立勢力(国人領主)が巨大な権力のうねりの中でいかにして生き残りを図ったかを示す、典型的な事例である。
鎌倉時代以来の名門「閉伊源氏」としての誇りを持ち、閉伊川流域に独自の勢力圏を築いた田鎖氏は、北から勢力を拡大する南部氏と長年にわたり対立した。天下統一を目指す豊臣秀吉の「奥州仕置」は、この地域の力関係を根底から覆した。南部信直が豊臣政権から閉伊郡を含む広大な領地の支配権を公的に認められたことで、田鎖氏は独立領主としての地位を失った。
その後の「九戸政実の乱」において、当主・田鎖光好がとった「静観」という選択は、旧来の敵である南部信直と、反乱を起こした九戸政実という二つの勢力の間で、一族の自立性を少しでも維持しようとする苦渋の決断であった。しかし、豊臣政権という中央の強大な力を背景に持つ南部信直の前に、その賭けは失敗に終わる。乱の鎮圧後、田鎖氏は南部氏への完全な服属を余儀なくされた。
最終的に、当主が文禄の役で九州に出陣している留守中に本拠地・田鎖城を破却されるという形で、田鎖氏はその牙を抜かれ、完全に南部藩の支配体制下に組み込まれた。これは、戦国的な自立性を維持してきた国人領主が、近世的な大名権力によって解体・再編されていく過程を象徴する出来事である。
田鎖光守の抵抗に始まり、子・光好の服従、そして城の破却に至る一連の出来事は、戦国乱世の終焉期における地方豪族の悲哀と、時代の変化に適応しようとする必死の努力の物語である。武士としての誇りを胸に滅びる道を選んだ光守、そして一族の存続のために屈辱を忍んだ光好。彼らの選択は、どちらが正しかったと一概に評価できるものではない。しかし、その結果として田鎖一族は盛岡藩士として命脈を保ち、近代に至るまでその名を歴史に留めることになった。田鎖氏の興亡は、力と策略が渦巻く戦国末期の奥羽地方における、一つの重要な歴史の断章として記憶されるべきである。