本報告書は、戦国時代の土佐国に生きた一人の武将、畑山元氏(はたけやま もとうじ)の生涯を、現存する史料と研究成果に基づき、多角的に解明することを目的とする。元氏の生涯は、土佐国東部を支配した有力国人・安芸氏への揺るぎない忠義に貫かれている。主家の滅亡、その遺児を奉じての隣国への逃避行、そして主家再興を賭けた最後の戦いでの壮絶な死という彼の軌跡は、戦国乱世に翻弄された地方武将の生き様を象徴するものである 1 。
元氏が生きた16世紀中盤から後半にかけての土佐国は、「土佐七雄」と称される国人領主たちが相争う、群雄割拠の時代であった 3 。その中で、元氏が仕えた安芸氏は土佐東部に強固な地盤を築く名門であったが、土佐中部から急速に台頭した長宗我部元親との対立により、歴史の渦に飲み込まれていく。本報告書は、この激動の時代を背景に、畑山元氏の出自からその最期、さらには彼が遺した一族のその後の運命までを徹底的に追跡する。
畑山元氏の行動は、単なる一地方武将の記録に留まらない。それは、戦国時代における武士の「忠義」とは何か、主家と家臣の絆はいかにして形成され、貫かれたのか、そして巨大な権力の奔流の中で、地域勢力がいかにして生き、あるいは滅んでいったのかを映し出す貴重な事例である。彼の生涯を丹念に再構築することを通じて、歴史の勝者によって編まれた物語の影に埋もれがちな、しかし確かな足跡を残した人物の実像に迫りたい。
年号(西暦) |
畑山元氏および一族の動向 |
関連する周辺の出来事 |
典拠 |
正応元年(1288) |
安芸実信の子・康信が分家し、畑山氏を称する。 |
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生年不詳 |
畑山元氏、生まれる。父は畑山元明。 |
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永禄6年(1563) |
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主君・安芸国虎が一条兼定の援軍を得て長宗我部元親の岡豊城を攻めるも敗退。 |
3 |
永禄12年(1569) |
八流の戦いに安芸方として参戦。主君・安芸国虎が敗れ自刃し、安芸氏が滅亡。 |
長宗我部元親が安芸領に侵攻。八流の戦いで安芸軍を破り、安芸城を攻略。 |
3 |
永禄12年以降 |
国虎の遺命を受け、その遺児・千寿丸(弘恒)と鉄之助(家友)を保護し、阿波国へ落ち延びる。 |
安芸氏旧領は元親の弟・香宗我部親泰が支配する。 |
1 |
天正10年(1582) |
8月:中富川の戦い 十河存保方として安芸弘恒、次男・右京大夫と共に参戦し、長宗我部軍と戦い討死。 |
6月:本能寺の変 織田信長が死去し、長宗我部氏への四国征伐軍が解体。 8月:中富川の戦い 長宗我部元親が阿波に大侵攻し、十河存保軍を破る。 |
1 |
天正15年(1587) |
長男・実忠と三男・元康が長宗我部元親に許され土佐へ帰国。 |
豊臣秀吉の四国征伐により長宗我部氏は土佐一国に減封。元親は惣検地を開始。 |
1 |
天正17年(1589) |
長男・実忠が旧領回復を望み元親の怒りを買い、畑山館で一族と共に討死(切腹)。三男・元康は阿波へ逃れる。 |
元親による旧勢力の粛清が進む。 |
1 |
慶長5年(1600) |
三男・元康が土佐に帰還。 |
関ヶ原の戦いの結果、長宗我部盛親が改易。山内一豊が土佐に入府。 |
1 |
慶長年間以降 |
元康は山内家治下で畑山郷の庄屋となる。その子・重房は土佐藩士として家名を再興。 |
山内氏による土佐藩体制が確立される。 |
1 |
畑山元氏の生涯を理解する上で、まず彼の一族の成り立ちと、主家である安芸氏との関係性を明らかにすることが不可欠である。畑山氏は単なる家臣ではなく、安芸氏と血縁で結ばれた特別な存在であり、そのことが後の元氏の行動原理を深く規定することになる。
畑山氏は、土佐国東部に勢力を張った有力国人・安芸氏の分家である 2 。その起源は鎌倉時代に遡り、安芸氏の一族である安芸実信の子・康信が正応元年(1288年)に分家し、本拠地とした安芸郡畑山村(現在の高知県安芸市畑山)の地名をもって「畑山」を称したことに始まるとされる 5 。この事実は、畑山氏が安芸本家(宗家)と極めて密接な血縁関係にあり、一蓮托生の運命共同体であったことを示している。
主家である安芸氏は、古代の権力者・蘇我赤兄の末裔を称し 5 、室町時代には土佐守護であった細川京兆家(室町幕府管領家)の当主から代々「元」や「国」などの偏諱(名前の一字)を賜るほどの格式を誇る名門であった 19 。例えば、安芸国虎の父は元泰、祖父は元親であり、国虎自身は細川高国から「国」の字を拝領している 19 。この安芸氏が持つ権威と格式は、その分家である畑山氏の地位にも大きな影響を与えていたと考えられる。
畑山氏の本拠は、安芸川の上流、山間に築かれた畑山城であった 5 。この城は、安芸氏の本拠である安芸城の北方を固める防衛上の要衝であり、同時に安芸北部の広い地域における中心地としての役割も担っていた 20 。城の麓には、畑山氏初代の康信が建立したと伝わる菩提寺・田岸寺(でんがんじ、別名:蓮岸寺)の跡も存在し、この地が畑山氏にとって代々の本貫地であったことを物語っている 5 。
分類 |
人物名 |
役職・関係性 |
安芸氏一門 |
安芸国虎 |
安芸氏当主。畑山元氏の主君。 |
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安芸元泰 |
国虎の父。 |
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一条房基の娘 |
国虎の正室。一条兼定の妹。 |
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安芸弘恒(千寿丸) |
国虎の嫡男。元氏が保護した遺児。 |
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安芸家友(鉄之助) |
国虎の次男。 |
畑山氏一門 |
畑山元氏 |
本報告書の主題。安芸国虎の重臣。越後守。 |
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畑山元明 |
元氏の父。大和守。 |
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畑山実忠 |
元氏の長男。後に長宗我部元親に粛清される。 |
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畑山右京大夫 |
元氏の次男。中富川の戦いで父と共に戦死。 |
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畑山元康 |
元氏の三男。生き延びて山内家治下で家名を再興。 |
長宗我部氏 |
長宗我部元親 |
土佐の戦国大名。安芸氏を滅ぼす。 |
土佐一条氏 |
一条兼定 |
土佐国司。安芸国虎の義兄。 |
阿波三好氏 |
十河存保 |
三好氏の後継者。中富川の戦いで元氏・弘恒が属した総大将。 |
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矢野国村 |
阿波の三好家臣。元氏らが亡命した際に庇護。 |
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赤沢宗伝 |
阿波の三好家臣。安芸弘恒の舅。 |
畑山元氏は、安芸国虎の「重臣」として複数の記録に登場する 1 。官途は「越後守」を称し、これは当時の武家社会において一定の格式を示すものであった 1 。元氏の父とされる畑山元明も「大和守」を称しており 1 、畑山氏が安芸家中において代々、軍事・政治の中枢を担う家柄であったことがうかがえる。
また、元氏の諱(いみな)である「元」の字は、主家である安芸氏が細川京兆家から拝領し、代々用いてきた「元」の字(例:安芸元親、元泰)と共通する 19 。これは、元氏が安芸宗家からこの字を与えられるほどに信頼され、一族としての強い一体感を有していたことの傍証と解釈できる。
主家が滅亡し、多くの家臣が新たな支配者である長宗我部方に寝返る中で 9 、畑山元氏が最後まで安芸氏への忠義を貫き、遺児を託されるに至った背景には、単なる抽象的な武士の美徳だけでは説明できない、より具体的で強固な要因が存在した。
第一に、 血縁的結束 である。前述の通り、畑山氏は単なる譜代の家臣ではなく、安芸氏の血を引く「分家」であった 2 。宗家の滅亡は、分家の存在基盤そのものを揺るがす一大事であり、彼らの抵抗は家臣としての忠義以上に、一族としての存亡をかけた戦いであった。
第二に、 地理的要因 が挙げられる。畑山氏の本拠・畑山城は、安芸氏の本拠・安芸城の北方を守る戦略的要衝であり、両者は運命を共にする密接不可分な関係にあった 6 。安芸城が落ちれば、畑山城も孤立無援となることは自明であり、共に戦う以外に選択肢はなかった。
第三に、 個人的な信頼関係 である。安芸国虎が自刃に際して、数多いる家臣の中から元氏を選んで嫡子を託したという事実は 3 、二人の間に単なる主従関係を超えた、極めて深い個人的な信頼と絆が存在したことを何よりも雄弁に物語っている。
これらの要因が複合的に絡み合うことで、畑山元氏の揺るぎない忠誠心は形成されたと考えられる。彼の行動は、感情論や美徳論に留まらない、血縁、地政学、そして個人の信頼という、具体的かつ合理的な基盤に支えられた必然的な選択であったと結論付けられる。
畑山元氏の運命を大きく変えたのは、長宗我部元親の台頭と、それに伴う主家・安芸氏の滅亡であった。この土佐東部の覇権を巡る争いは、元氏を忠義の臣から、主家の遺児を奉じる亡命者へと変貌させる。
1560年代、土佐中部の岡豊城を拠点とする長宗我部元親は、仇敵であった本山氏らを次々と破り、その勢力を急速に拡大させた 22 。土佐中原をほぼ手中に収めた元親の次なる目標は、東部の雄・安芸氏の打倒であった。
長宗我部氏と安芸氏は、かねてより香美郡夜須(やす)周辺の領有権を巡って対立を繰り返していた 3 。永禄6年(1563年)、安芸国虎は、正室の兄にあたる土佐国司・一条兼定から3,000の援軍を得て、元親の本拠・岡豊城へ攻め込んだが、元親配下の吉田重俊らの奮戦により撃退された 3 。
その後、一条兼定の仲介によって両者の間には一時的な和睦が成立する 3 。しかし、この和睦は長くは続かなかった。永禄12年(1569年)、元親は友好を深めるためとして国虎に岡豊城への来訪を求める使者を送る。これに対し国虎は、この申し出を自らへの屈服を迫るものと曲解したか、あるいは元親の謀略を疑い、使者を追い返してしまう 9 。この時、重臣の黒岩越前守は国虎を諫めたが、聞き入れられなかったと伝わる 3 。これにより和睦は完全に破綻し、両者の対立は避けられない最終戦争へと突入した。
永禄12年(1569年)7月、長宗我部元親は満を持して7,000の兵を率い、安芸領へと侵攻した。対する安芸国虎も5,000の兵を動員してこれを迎え撃ったが、安芸郡八流(やながれ、現在の安芸市穴内付近)で行われた決戦で、安芸軍は大敗を喫した 3 。この戦いで安芸方の兵士の血が川を赤く染めたと伝えられるほど、一方的な戦いであった 9 。
敗れた国虎は、本拠の安芸城に籠城して抵抗を試みる。しかし、元親の巧みな調略により、譜代の家臣である横山紀伊守らが内応し、城内に敵を招き入れるという致命的な裏切りが発生する 9 。頼みとしていた一条氏からの援軍も現れず 3 、城内の井戸に毒を投じられるなどして、24日間の籠城の末、安芸城は落城寸前となった。
万策尽きた国虎は、城兵と領民の命を救うことを条件に、自らの首を差し出すことを元親に申し入れる。そして、正室を実家の一条家へ送り返し、遺児である千寿丸らを畑山元氏に託した後、同年8月11日、菩提寺である浄貞寺にて自刃して果てた 3 。享年40。これにより、土佐に栄えた名門・安芸氏は滅亡したのである。
5,000もの兵力を有した安芸氏が、なぜこれほどまでに脆く敗れ去ったのか。その要因は複合的である。第一に、当主・国虎の 戦略的視野の欠如 が挙げられる。国虎は、元親の勢力拡大という土佐全体の地政学的な変化を読み切れず、一条氏との姻戚関係という旧来の権威を過信していた 3 。元親が中央の織田信長とも連携を図るなど、巧みな外交と謀略を展開していたのに対し 9 、国虎の対応は局地的かつ感情的なものに終始した。
第二に、 家臣団の結束力の差 である。長宗我部氏が「一領具足」と呼ばれる、忠誠心の高い半農半兵の戦闘集団を中核に据えていたのに対し、安芸家臣団は元親の調略によって内部から容易に崩壊した 19 。これは、国虎の求心力に限界があったこと、そして元親の旧勢力に対する切り崩し策が効果的であったことを示している。
そして第三に、 外交的孤立 である。最後の頼みの綱であった一条兼定自身も、長宗我部氏によって領国を侵食されつつあり、安芸氏に有効な援軍を送る余力は既になかった 28 。結果として安芸氏は、土佐国内で完全に孤立無援の状態に陥っていた。安芸氏の滅亡は、単なる一戦闘の敗北ではなく、戦略、組織力、外交の全てにおいて長宗我部氏に劣っていたことの必然的な帰結であり、戦国時代における勢力交代の典型的な事例と言えるだろう。
主家滅亡という絶望的な状況の中、畑山元氏の人生は新たな、そして最も過酷な局面を迎える。それは、主君の遺児を保護し、再起を期して隣国へ落ち延びるという、忠義の証ともいえる逃避行であった。
安芸国虎は自刃に臨み、最も信頼を寄せる家臣である畑山元氏に、嫡男・千寿丸(後の安芸弘恒)と次男・鉄之助(後の安芸家友)の二人を託した 1 。これは、元氏が単なる重臣ではなく、主君から一族の未来を委ねられるほどの、絶対的な信を得ていたことを示している。
主君の最後の遺命を奉じた元氏は、安芸氏滅亡後の元亀2年(1571年)[注:この年号は史料 1 に基づくが、滅亡直後の永禄12年(1569年)とするのがより自然であり、時期については検討の余地がある]、弘恒・家友の兄弟を連れて土佐を脱出した 1 。目指すは東隣の阿波国(現在の徳島県)であった。長宗我部氏の支配下に置かれた土佐からの脱出は、追手を警戒しながらの、困難を極める旅であったと想像に難くない。
元氏らが亡命先として阿波国を選んだのには、明確な戦略的理由があった。当時の阿波は、長宗我部元親と四国の覇権を巡って激しく争っていた三好氏の勢力圏であった 15 。元氏らは、三好氏の庇護下に入ることで、長宗我部氏の追及を逃れると共に、安芸家再興の機会を窺うことを目的としていたのである。
彼らが身を寄せたのは、阿波の三好家臣で矢野城主の矢野国村(史料によっては房村とも)であったと伝わる 1 。矢野氏は阿波の有力国人であり、反長宗我部という共通の利害を持つ安芸氏の遺児を保護することに、政治的・軍事的な価値を見出したと考えられる。
阿波に渡った千寿丸は元服して安芸弘恒と名乗り、当初は庇護者である矢野氏にちなんで「矢野又六」と称したという 1 。その後、弘恒は同じく三好方の武将であった赤沢宗伝の娘を娶り、その婿として板西城(徳島県板野郡板野町)を増築して居城とした 1 。一説には、弘恒は赤沢氏の重臣として「板西城三人衆」の一人に数えられるほどの地位を築いたとされる 1 。
一介の滅亡した国人の遺児が、なぜ隣国の有力武将の婿にまでなれたのか。この背景には、四国全体の地政学的な力学が働いていた。三好氏にとって、安芸氏の正統な後継者である弘恒の存在は、将来、長宗我部氏の支配下にある土佐へ侵攻する際の、極めて有効な「大義名分」となり得た。弘恒を旗頭とすれば、長宗我部支配に不満を持つ旧安芸家臣や土佐の国人たちを結集させることが期待できたからである。
したがって、弘恒の庇護と厚遇は、単なる人道的な行為ではなく、三好氏と長宗我部氏による四国覇権を巡る「代理戦争」の一環であったと見なすことができる。赤沢宗伝が弘恒を婿に迎えたのも、三好本家の意向か、あるいは反長宗我部という共通の利害に基づいた高度な戦略的判断であった可能性が高い。
この亡命生活を通じて、畑山元氏と安芸弘恒の運命は、土佐一国の問題から、四国全土の覇権争いという、より大きな政治的・軍事的文脈の中に組み込まれていった。彼らの存在は、個人の境遇を超え、大名間の勢力争いを左右する戦略的なカードとしての意味合いを帯びていったのである。この間、畑山元氏は、弘恒の後見人として、主家の再興というただ一つの目的のために、異郷の地で雌伏の時を過ごしていた。
十数年に及ぶ阿波での亡命生活の末、畑山元氏と安芸弘恒に、ついに主家再興の好機が訪れる。しかしそれは、彼らの命運を賭した、最後の戦いの幕開けでもあった。
天正10年(1582年)、天下人・織田信長は、四国で勢力を拡大し続ける長宗我部元親を危険視し、その勢力を削ぐ方針に転換した。信長は、元親と敵対する阿波の三好康長らと結び、三男・信孝を総大将とする四国征伐軍を編成する 11 。長宗我部氏は、織田の大軍を前に滅亡の危機に瀕した。
しかし同年6月2日、京都で歴史を揺るがす大事件「本能寺の変」が勃発する。信長の横死により、四国征伐軍は渡海を中止せざるを得なくなり、長宗我部元親は九死に一生を得た。この中央政権の混乱という千載一遇の好機を、元親は見逃さなかった。彼はこれを四国統一を完成させる絶好の機会と捉え、すぐさま阿波国への全面的な大侵攻を開始したのである 12 。
天正10年(1582年)8月、長宗我部元親率いる2万3千の大軍は阿波に侵入。これを迎え撃つのは、三好一族の十河存保(そごう まさやす)が率いる5千の兵であった。両軍は勝瑞城(徳島県藍住町)近郊の中富川を挟んで対峙し、阿波の覇権、ひいては四国の運命を決する決戦の火蓋が切られた 12 。
この決戦に、畑山元氏と安芸弘恒も、恩義ある三好方(十河存保軍)の一員として参陣した 1 。彼らは舅である赤沢宗伝と共に板西城の守備にあたっていたが 1 、主戦場にも駆けつけたと見られる。13年にわたる亡命生活の全てを懸けた、主家・安芸家再興のための最後の戦いであった。
戦いは壮絶を極めた。『三好記』などの軍記物によれば、兵力で圧倒的に劣る十河軍は奮戦し、一時は長宗我部軍を押し返す場面もあったという 12 。しかし、衆寡敵せず、最終的に十河軍は壊滅的な敗北を喫した。この乱戦の最中、畑山元氏は、主君の遺児・安芸弘恒、そして自らの次男・右京大夫と共に、壮絶な討死を遂げたのである 1 。主君の遺命を奉じ、異郷の地で耐え忍んだ忠臣の生涯は、宿敵・長宗我部元親との最後の決戦の場とて、その幕を閉じた。
なお、安芸弘恒の最期については、この中富川の戦いで戦死したという説が最も有力であるが、異説も存在する。一説には、豊後(大分県)の大友宗麟を頼って落ち延びたとも 33 、あるいは阿波国板野郡で帰農し、「彦左衛門」と名を変えて寛永14年(1637年)まで生きたという伝承もある 44 。現在も徳島県板野郡には、弘恒のものと伝わる墓が存在している 45 。
これほどまでに忠義を尽くした畑山元氏であるが、長宗我部側の視点で編纂された軍記物、特に『土佐物語』や『元親記』といった主要な史料において、彼の活躍や人物像に関する詳細な記述はほとんど見られない 46 。この事実は、彼の存在が軽んじられていたからではなく、軍記物という史料が持つ特性に起因すると考えられる。
第一に、これらの軍記物は、長宗我部氏の土佐統一と四国制覇という偉業を正当化し、後世に伝えるという明確な目的を持って編纂されている 46 。そのため、物語の構成上、最後まで敵対し抵抗を続けた畑山元氏のような人物を英雄的に、あるいは詳細に記述することは、物語の主題である長宗我部元親の偉大さを際立たせる上で都合が悪かった。彼はあくまで、元親によって打倒されるべき数多の敵対勢力の一つとして、簡潔に処理されたのである。
第二に、 情報の断絶 という物理的な理由も考えられる。元氏は主家滅亡後、早々に土佐を離れ、人生の最後の13年間を阿波で過ごし、その地で亡くなった。そのため、彼の後半生に関する詳細な情報や人間性を伝える逸話は、土佐にいた軍記物の編纂者たちには十分に伝わっていなかった可能性が高い。彼の物語は、むしろ敵対した三好方の記録や、彼が最期を迎えた阿波の在地伝承の中に埋もれてしまったのである。
このように、畑山元氏の記録が乏しいのは、彼の生涯が持つドラマ性の欠如によるものではなく、歴史がしばしば「勝者の視点」で語られるという、史料の持つ本質的な性格を反映している。彼の生涯を再構築するためには、長宗我部側の史料だけでなく、敵対した三好側の記録や、土佐と阿波の両国に残る断片的な伝承を丹念に繋ぎ合わせていく作業が不可欠となる。
畑山元氏は中富川の戦いでその生涯を終えたが、彼の血脈は途絶えることなく、戦国乱世の終焉から近世へと続く激動の時代を生き抜いていく。しかし、その道程は平坦ではなく、遺された息子たちは対照的な運命を辿ることになる。
父・元氏と弟・右京大夫が阿波で戦死した後、長男の畑山実忠(さねただ)と三男の元康(もとやす)は、天正15年(1587年)頃、土佐へと帰国した 1 。これは、長宗我部元親に仕える家臣・野中親孝との縁故を通じて、元親からの帰国許可を得たものであったとされる 13 。
しかし、彼らが土佐に戻っても、かつての一族の旧領であった畑山村が与えられることはなかった 13 。これに強い不満を抱いた実忠は、その不満を公言して元親の怒りを買う。一度は起請文(誓約書)を提出して許されたものの、実忠の元親に対する不信感は収まらなかった 13 。
そして天正17年(1589年)、元親はついに実忠とその子・実春に対して切腹を命じるという厳しい処分を下す 1 。この命令に抵抗した実忠らは、一族の居館であった畑山館に立てこもり、元親の軍勢と戦った末に、一族36名が討死、あるいは自害したと伝えられる(畑山館の戦い) 1 。
なぜ元親は、一度は帰国を許した実忠に対し、一族皆殺しというこれほどまでに過酷な処分を下したのか。これは単なる実忠個人の不満に対する懲罰ではなく、当時の長宗我部氏の領国経営方針と深く関わっている。豊臣秀吉に降伏し土佐一国の大名となった元親は、領国内の支配を盤石にするため、惣検地(長宗我部検地)を実施し、旧来の国人領主の権力を解体して、権力を自身に集中させる中央集権化を強力に推し進めていた 4 。旧領への固執を隠さない畑山実忠の存在は、この政策にとって極めて危険な障害と見なされたのである。
さらに、畑山氏は旧主・安芸氏の正統な後継者である弘恒を最後まで支えた一族である。たとえ弘恒が亡き後であっても、その中心人物であった実忠が、長宗我部支配に不満を持つ旧安芸家臣団の受け皿となり、反乱の核となる可能性を元親は強く警戒した。加えて、この事件の前年(天正14年)、元親は九州・戸次川の戦いで最愛の嫡男・信親を失い、精神的に不安定な状態にあったとも言われる 4 。このことが旧勢力への猜疑心を増幅させ、非情な決断へと繋がった可能性も否定できない。実忠の粛清は、戦国大名が自らの支配体制を確立する過程でしばしば見られた、旧勢力の徹底的な排除という、冷徹な政治的判断の結果であった。
兄・実忠が一族と共に滅びるという悲劇の中、三男の元康は辛くもその場を逃れ、父がかつて身を寄せた阿波国へと再び落ち延びた 1 。
雌伏の時を経て、元康に転機が訪れるのは慶長5年(1600年)のことである。関ヶ原の戦いで西軍に与した長宗我部氏は改易処分となり、土佐の支配者は山内一豊へと交代した 15 。この権力の空白と新体制への移行期を捉え、元康は故郷である畑山へと帰還を果たした 1 。
新たな土佐の領主となった山内一豊の治世下で、元康は武士としての地位ではなく、畑山郷の庄屋(村の長)を務めたと伝えられている 1 。これは、新領主である山内氏が、領国支配を円滑に進めるため、在地に影響力を持つ旧家の名士を懐柔し、行政の末端に取り立てる政策の一環であったと考えられる。元康は武士の身分を捨て、在地の名望家として家名を再興する道を選んだのである。
さらに、元康の才覚は息子たちにも受け継がれた。元康の長男である重房(しげふさ)は、通称を忠左衛門、別名を安芸忠左衛門といい、当初は豊臣秀吉の弟・秀長に仕えて2,000石を領する武将であった 1 。秀長の死後、山内一豊に仕え、600石の知行を得て土佐藩士となった。そして父・元康の隠居に伴い家督を継ぎ、その子・元経もまた土佐藩士として続いた 1 。こうして、中富川で散った畑山元氏の血脈は、三男・元康の系統によって近世大名である土佐藩の武士として、見事に存続を果たしたのである。
畑山兄弟の対照的な運命は、戦国乱世の終焉と近世的身分秩序の形成という、大きな時代の転換期における武士の二つの典型的な生き様を象徴している。兄・実忠は、失われた旧領と武士としての過去の栄光に固執し、新秩序(長宗我部体制)への抵抗を選んだ結果、滅び去った。一方で、弟・元康は、時代の変化を冷静に受け入れ、潜伏と待機を経て、新たな支配者(山内体制)の下で庄屋、そしてその子は藩士という新たな形で社会に適応し、「家」を存続させるという、現実的かつ強かな生存戦略を成功させた。彼の選択は、個人の面子よりも一族の血脈を後世に伝えることを最優先とする、戦国を生き抜いた者の知恵であったと言えよう。
畑山元氏の生涯を総括するならば、それは主家・安芸氏の分家として生まれ、その滅亡という最大の危機に際しては、主君の遺児を奉じて異郷に逃れ、再興を賭けた戦いに命を捧げた、まさに「忠義」という一語に貫かれたものであった。彼の行動は、戦国時代の武士が理想とした主従関係の一つの究極的な姿を、身をもって体現している。
長宗我部氏の視点から書かれた歴史物語の中では、彼は数多いる敵対者の一人として、その名はほとんど語られることがない。しかし、土佐と阿波に残された断片的な記録や伝承を丹念に繋ぎ合わせることで、彼の行動の背景にあった血縁に基づく強い絆、地理的な宿命、そして主君との個人的な信頼関係が浮かび上がってくる。彼は、歴史の勝者によって紡がれる華々しい物語の影に埋もれた、無数の「義士」たちの一人であり、その揺るぎない忠誠心に満ちた生涯は、現代においてこそ再評価されるべき価値を持つ。
畑山元氏とその一族の物語は、単なる遠い過去の出来事ではない。それは、組織への忠誠と献身、逆境における人間の尊厳、そして時代の大きな変化にいかにして適応し、あるいは抗して生き抜くかという、現代にも通じる普遍的なテーマを我々に問いかけている。
現在、高知県安芸市に残る「畑山」という地名 7 は、かつてこの地を本拠とし、主家のためにその生涯を捧げた忠臣と、激動の時代を生き抜いた彼の一族が確かに存在した記憶を、四国の山間に静かに、そして雄弁に伝え続けているのである。