畑時能は南北朝の武将。『太平記』で超人的武勇と忠犬「犬獅子」が描かれ、新田義貞の忠臣として越前で孤立し戦い抜いた。
南北朝時代、およそ60年にわたる未曾有の大動乱期は、数多の英雄、悲劇の将、そして名もなき兵士たちの運命を呑み込んでいった 1 。この時代の渦中にあって、ひときゆわ異彩を放つ武将がいる。新田義貞の忠臣にして、後世「新田四天王」の一人に数えられる畑六郎左衛門時能(はた ろくろうざえもん ときよし)である。彼の名は、同時代の一次史料にはほとんどその痕跡を見出すことができない 2 。しかし、この動乱期を壮大に描き出した軍記物語『太平記』においては、一巻を丸ごと費やしてその超人的な活躍と悲壮な最期が語られる 3 。
畑時能は、歴史に確かに存在した武将であると同時に、文学が生み出した英雄でもある。この史実と伝承の間に存在する極端な二面性こそ、彼という人物を理解する上で最も重要な鍵となる。主君・新田義貞の死後、北陸の地で孤立無援となりながらも南朝への忠義を貫き、ついには滅びゆく運命にあった彼の生涯は、南朝方の没落という歴史的趨勢と、個人の武勇が戦局を左右した時代の終焉を象徴している。
本報告書は、この史実の断片と壮大な伝承を丹念に紐解き、畑時能という一人の武将の実像に迫ることを目的とする。彼の謎に満ちた出自から、新田軍の中核としての戦い、そして越前鷹巣城での最後の抵抗、さらには『太平記』が創造した英雄像と、その記憶が各地の史跡や伝承として現代にまでいかに受け継がれているかを、多角的な視点から徹底的に解明する。これは、一人の武将の生涯を追うと同時に、歴史と文学が交差し、記憶が形成されていく過程を探る試みでもある。
畑時能の生涯を理解する上で、まず彼の出自と系譜を検証する必要がある。しかし、その経歴は後年の活躍とは裏腹に、多くの謎と諸説に満ちている。
畑時能の生没年については、正安元年9月15日(西暦1299年10月10日)に生まれ、興国2年/暦応4年10月25日(西暦1341年12月4日)に没したとする説が一般的である 4 。しかし、没年に関しては暦応2年(1339年)とする異説も存在し 5 、彼の最期に関する記録に混乱が見られることを示唆している。通称は六郎左衛門といい、父は畑胤時、母は久納養哲の娘、兄に時継、子には時純あるいは能速がいたと伝えられている 4 。
出身地は武蔵国秩父郡とされ、後に信濃国に移り住んだという記録がある 3 。この地理的背景は、彼が関東の在地武士団、特に丹党や高山党といった秩父党系の武士と深い関わりを持っていた可能性を示している 7 。彼が新田義貞の麾下に入った経緯も、この地域的な繋がりに起因すると考えられる。
畑氏のルーツは、まさに諸説入り乱れる状況にある。太田亮の『姓氏家系大辞典』では秦氏の後裔の可能性に触れ、『苗字尽略解』では多治比氏説を採り、『中興系図』では藤原姓とするなど、定説を見ていない 4 。畑時能の出自に関する説がこれほどまでに多岐にわたるという事実は、単なる記録の欠落以上の意味を持つ。それは、彼が中央の有力貴族や名門武家の系譜に連なるのではなく、在地に深く根差した、いわば新興の武士階級であったことを強く示唆している。彼の武勇や後年の活躍が、血筋の誉れではなく、純粋に個人の能力に立脚していたことの証左であり、この「成り上がり」的な側面こそが、『太平記』において超人的な個人として描かれる素地となったと考えられる。
特に後世、注目を集めたのが畠山重忠の末裔であるとする説である。しかし、これは源頼朝に謀殺された悲劇の英雄・畠山重忠に連ねようとする後世の付託の可能性が高い。畠山氏の公式な系図に時能の名が見当たらないことや、重忠の一族が北条氏によって滅ぼされた史実を鑑みれば、この説の信憑性は低いと言わざるを得ない 7 。
一方で、より説得力を持つ仮説として、畠山重忠の兄・重光を祖とする伊地知氏の分家であるとする見方が存在する 7 。この説の傍証となるのが、時能が最期を遂げた越前の地名である。彼が最後の戦いを繰り広げた山は「伊知地山」と呼ばれていた 4 。この地名と伊地知氏の名字との符合は、単なる偶然とは考え難い。時能が伊地知氏と何らかの血縁的・地縁的な繋がりを持ち、その縁故を頼って、あるいは因縁の地として越前で戦い続けた可能性は十分に考えられる。あるいは逆に、後世の人々が『太平記』の英雄である畑時能の壮絶な最期を記念するにあたり、彼の出自と関連付けられる「伊知地」という名をその地に与え、物語を補強した可能性も否定できない。これは、史実と地名伝承が相互に影響を与え合い、英雄の記憶が土地に深く刻み込まれていく過程を示す、興味深い事例である。
畑時能が歴史の表舞台に登場するのは、新田義貞の家臣としてである。義貞が上野国で挙兵した際、その軍勢の中核を成したのは、時能と同じく武蔵国北部から上野国南部にかけて勢力を持っていた秩父党や高山党といった在地武士団であった 7 。時能もまた、この地理的・社会的な関係性の中でごく自然に義貞の麾下に加わり、その後の倒幕戦争において中心的な役割を担っていくことになる。彼の出自の曖昧さとは対照的に、その武勇は早くから主君・義貞の信頼を勝ち得るに十分なものであった。
畑時能の武将としてのキャリアは、新田義貞による鎌倉幕府打倒の戦いにおいて、華々しい幕を開ける。彼の武勇は倒幕の功労者として認められ、建武の新政下で一定の地位を得るが、政権の崩壊とともに、主君と共に過酷な北陸での戦いへと身を投じていくことになる。
元弘3年/正慶2年(1333年)、新田義貞が上野国で挙兵すると、時能は主力の一人として鎌倉攻めに従軍した。この戦いにおいて彼は、幕府最後の執権・北条高時の義弟であり、幕府軍の重要人物であった赤橋守時を討ち取るという大功を挙げたと伝えられている 6 。この功績により、建武の新政が始まると、後醍醐天皇からその忠功を賞され、建武元年(1334年)には正六位上・大炊助に、翌年には従五位上・美濃守に補任された 6 。
この官位は、時能が新政権下で高く評価されていたことを示すものである。しかし、彼が実際に美濃国を国守として統治したという記録は見当たらない。これは、建武政権下で恩賞として乱発された官位の多くが、実質的な支配権を伴わない名誉職としての側面が強かったことを物語っている。彼の価値は、守護としての行政手腕ではなく、あくまで戦場における個人的な武勇と忠誠心にあった。この純粋な「一途の武人」としての性格こそが、後の『太平記』における伝奇的な英雄像へと繋がっていくのである。
建武政権の栄光は長くは続かなかった。足利尊氏が政権に反旗を翻し、建武の乱が勃発すると、時能は再び新田義貞に従って各地を転戦する。建武3年(1336年)には、京都近郊の三井寺攻めや、西国街道の要衝である舟坂山攻めに参加し、足利方と激しい戦いを繰り広げた 2 。
しかし、同年5月の湊川の戦いで、新田・楠木正成連合軍は足利尊氏・直義兄弟の率いる大軍に決定的な敗北を喫する 9 。この戦いで楠木正成は自刃し、新田義貞は敗走。後醍醐天皇は京都を追われ、吉野へと遷幸し、南北朝の対立は決定的となった。この後、義貞は後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を奉じ、再起を図るべく北陸へと向かう。畑時能もまた、この苦難の行軍に付き従い、越前の地を南朝方の拠点とするための新たな戦いにその身を投じることとなった 6 。
北陸に入った新田軍は、越前の国府であった府中(現在の福井県越前市) 11 をめぐり、足利方の越前守護・斯波高経と熾烈な攻防を繰り広げた。延元2年/建武4年(1337年)、時能も府中城の攻略戦に参加し、奮戦したと記録されている 2 。
しかし、戦局は南朝方にとって日に日に厳しさを増していく。そして延元3年/暦応元年(1338年)閏7月、大黒柱であった新田義貞が、福井の藤島の戦いにおいて不慮の戦死を遂げる。総大将を失った南朝軍は大きな打撃を受けるが、時能の戦いは終わらなかった。彼は義貞の弟・脇屋義助の指揮下に入り、三国城(現在の福井県坂井市)に拠点を移すなどして、北朝方への抵抗を執拗に続けた 2 。主君を失ってもなお、その遺志を継いで戦い続ける姿は、彼の揺るぎない忠誠心の篤さを物語っている。だが、それは同時に、彼が越前の地で孤立を深めていく、悲劇的な道のりの始まりでもあった。
新田義貞の死は、北陸における南朝方の戦況を決定的に悪化させた。次々と拠点を失い、味方が離散していく中で、畑時能は越前最後の砦・鷹巣城に立てこもり、絶望的な籠城戦を繰り広げることになる。
義貞亡き後、弟の脇屋義助が南朝軍を率いたが、勢いを盛り返すことはできなかった。暦応3年(1340年)に黒丸城が、そして翌暦応4年(1341年)6月には、義貞挙兵以来の南朝方の重要拠点であった杣山城までもが陥落する 13 。総大将の脇屋義助は越前から美濃へと敗走し、ここに及んで、かつて北陸道に一大勢力を築いた新田一族の組織的戦闘能力は完全に失われた。
『太平記』によれば、この時点で越前・加賀・能登・越中・若狭の北陸五箇国において、南朝方の城は畑時能がわずかな手勢と共に籠もる鷹巣城(高栖城)ただ一つとなっていた 3 。彼は、味方からの援軍を期待することもできない、文字通り四面楚歌の状況に追い込まれたのである。
時能が最後の拠点とした鷹巣城は、福井平野の西側に連なる丹生山地の一角、標高438メートルの高須山山頂に築かれた典型的な山城であった 8 。急峻な斜面と深い谷に囲まれた天然の要害であり、現在でも山頂には主郭や腰曲輪、竪堀、空堀といった籠城戦の痕跡を色濃く残している 8 。この堅固な地形こそが、圧倒的な兵力差にもかかわらず、時能が長期間の抵抗を可能にした最大の要因であった。
北朝方は、この南朝最後の抵抗拠点を完全に殲滅すべく、越前守護・斯波高経と高師重を大将とする大軍を派遣した。『太平記』は、その軍勢を「北陸道七箇国の勢七千余騎」と記し、鷹巣城の周囲を幾重にも包囲し、三十余箇所もの向城(攻城用の砦)を築いて兵糧攻めと波状攻撃を開始したと描写している 3 。
対する時能の軍勢は、文献によって差異はあるものの、『太平記』では当初わずか二十七騎であったとされ 3 、後に一井氏政らが合流したとはいえ、その兵力は絶望的に少なかった。地元の伝承では三百人余りの兵で戦ったともいわれるが 14 、いずれにせよ数千の敵を相手にするにはあまりに寡兵であった。この圧倒的な劣勢の中、時能は一年以上にもわたって籠城を続け、北朝の大軍を手こずらせ続けたと伝えられている 16 。この戦いは、畑時能という武将の不屈の精神と、卓越した防戦指揮能力を如実に示すものであった。
表1:越前・鷹巣城攻防戦における主要関係者一覧
陣営 |
主要武将 |
拠点・兵力 |
役割・動向 |
南朝方 |
畑時能、一井氏政 |
鷹巣城(兵力:数十~数百) |
越前における南朝最後の拠点として籠城。ゲリラ的な夜襲を敢行し、徹底抗戦を続ける 3 。 |
北朝方 |
斯波高経(越前守護)、高師重 |
周辺の向城群(兵力:七千余騎) |
北陸の南朝勢力の一掃を図る。大軍で鷹巣城を包囲し、兵糧攻めと攻撃を繰り返す 3 。 |
北朝方 |
上木九郎家光 |
攻め手の一人 |
もとは新田方の武将であったが、北朝方に寝返り、鷹巣城攻めの先鋒を務める 3 。 |
北朝方 |
得江頼員 |
攻め手の一人 |
能登国の国人。軍忠状に鷹巣城攻めの記録を残し、戦闘で負傷している 8 。 |
この一覧が示すように、畑時能の戦いは単なる一武将の奮戦ではなく、越前守護・斯波高経を中心とする北朝方の統一された軍事行動に対し、南朝の残存勢力が最後の意地を見せた、北陸戦線の最終局面であったことがわかる 18 。
畑時能という武将が後世に名を残す最大の要因は、軍記物語『太平記』におけるその鮮烈な描写にある。『太平記』巻第二十二「畑六郎左衛門事」は、史実の断片を核としながら、時能を人間離れした能力を持つ伝奇的な英雄として描き出している。
『太平記』は、時能を単なる勇猛な武将としてではなく、超人的な能力を持つ特異な存在として描く。物語の冒頭で彼は「日本一之大カノ者(にほんいちのおおかぢからのもの)」、すなわち日本一の大力の持ち主と紹介される 2 。その人物像は、具体的な逸話によって肉付けされていく。
時能の物語の中で最も有名であり、彼の名を不朽のものとしたのが、愛犬「犬獅子(けんじし)」との逸話である 4 。この物語は、日本文学史・軍事史において「軍用犬」が描かれた極めて早い事例としても注目される 16 。
鷹巣城の籠城戦において、時能は毎夜、犬獅子を斥候として敵の向城に忍び込ませた。そして、その犬の行動によって夜襲の可否を判断したという。敵の警戒が厳重で攻め入る隙がない時は、犬獅子は一声吠えて危険を知らせ、逆に敵が油断して寝静まっている時には、黙って戻ってきて主人の前で尻尾を振って合図した 3 。時能はこの正確な情報を元に、快舜・悪八郎と共に夜襲を繰り返し、数々の向城を陥落させ、北朝の大軍を大いに悩ませたとされる。
『太平記』の作者は、この犬の不思議な働きに説得力を持たせるため、古代中国の周王朝の時代、王の飼い犬が敵国の王を食い殺して国を救い、その子孫が「犬戎国」を興したという故事まで引用している 3 。これは、犬獅子の忠義が単なる獣の習性を超えた、徳に報いる崇高な行為であることを強調するための文学的技巧である。この人間と動物の絆の物語は、戦いの無情さの中にあって、読む者の心を強く惹きつける。後世の伝承では、主人の死を悲しんだ犬獅子は、九頭竜川にその身を投げて後を追ったとさえ語られている 20 。
『太平記』は時能を「謀巧にして人を眤(あざむ)く」と評し 3 、辞書によっては「典型的な〈悪党〉」と解説されることもある 17 。しかし、物語の中での彼の行動は、一貫して南朝への忠義に貫かれている。これは、南北朝時代における「悪党」という言葉が、単なる無法者や犯罪者を指すのではなく、既存の幕府や荘園といった旧来の支配秩序に従わない、独立した実力を持つ在地武士を指す言葉であったことを反映している。時能は、その型破りで奇想天外な戦術と、何者にも縛られない独立不羈の精神性において、まさに「悪党」的英雄として描かれているのである。『太平記』は、彼の「悪党」としての側面を、南朝への揺るぎない忠義という文脈の中に置くことで、旧弊を打ち破る新たな英雄譚へと昇華させた。
畑時能や篠塚重広といった、いわゆる「新田四天王」は、史実上の記録が乏しい一方で、『太平記』では超人的な活躍を見せる。彼らは、個人の圧倒的な武勇がまだ戦局を左右し得た時代の最後の象徴であり、弱体化していく南朝を精神的に支える存在として描かれている 2 。彼らの敗死は、単に南朝方の拠点が失われたという事実以上に、『太平記』の物語世界が「伝奇」の時代から、権謀術数が渦巻く「現実」の時代へと移行する、大きな転換点を象徴している。個人の超常的な力に頼る牧歌的な時代が終わり、組織力と冷徹な謀略が支配する新たな武士の世の到来を告げる、重要なメルクマールなのである 2 。
一年以上にわたる鷹巣城での抵抗も、ついに限界を迎える。畑時能は城を枕に討ち死にする道を選ばず、最後の力を振り絞って城外に打って出て、その生涯を締めくくるにふさわしい壮絶な戦いを繰り広げる。
興国2年/暦応4年(1341年)10月、長く続いた籠城戦に決着をつけるべく、時能は乾坤一擲の賭けに出る。城の守りを盟友の一井氏政らに託し、自らは選び抜いた宗徒の者十六騎のみを引き連れて、密かに城を抜け出した 3 。
彼が最後の決戦の場として選んだのは、鷹巣城から北東に離れた勝山市の伊知地山(いじちやま)、またの名を鷲ヶ岳(わしがたけ)であった 3 。ここに陣を構え、中黒の旗を二流掲げて、敵を挑発した。北朝方の総大将・斯波高経は、これを平泉寺の衆徒が南朝方に呼応して蜂起したものと誤認し、鎮圧のために三千余騎の大軍を差し向けた。こうして、十六騎対三千余騎という、常軌を逸した兵力差での戦いの火蓋が切られたのである。
圧倒的な大軍を前にしても、時能と彼の部下たちは微塵も臆することはなかった。『太平記』は、金筒(かなづつ)の鎧に鍬形(くわがた)の兜という豪奢な出で立ちの時能が、名馬・塩津黒(しおづぐろ)にまたがり、「畑将軍ここにあり、尾張守(斯波高経)はどこにいるのか」と叫びながら敵陣に突入していく様を活写する 3 。十六騎は縦横無尽に駆け回り、一時は北朝の大軍を混乱させ、敗走させるほどの奮戦を見せた 3 。
しかし、衆寡敵せず、やがて彼らは大軍に包囲される。この激戦で時能自身も全身に無数の傷を負い、特に障子の板を貫いて肩先に突き刺さった一本の白羽の矢が致命傷となった。矢じりが抜けず、三日三晩、激痛に苦しんだ末、ついに悶え死んだと『太平記』は記す。その死に様を、原文は「終に吠死(ほえじに)しにけり」と、獣のような壮絶な最期として描いている 3 。
『太平記』の作者は、なぜあれほど勇猛果敢に描いた英雄を、これほどまでに無残な形で退場させたのか。そこには複雑な意図が読み取れる。一つは、物語に深い悲劇性をもたらし、読者の同情を強く誘う効果である。もう一つは、彼の超人的な武勇をもってしても抗うことのできない「天命」や「運命」の存在を際立たせ、人間の力の限界を示すという仏教的な無常観の表現である。作者は時能の死を、彼が生前に行ったとされる無益な殺生や仏閣焼き討ちといった「悪行」に対する天罰であると解説し、物語に因果応報という教訓を織り込んでいる 3 。
この無残な死があるからこそ、その後に続く忠臣の物語が一層の輝きを放つことになる。主君の肉体的な敗北を、家臣の精神的な勝利(忠義の完遂)で補うという、見事な物語構造がここにある。時能の死と前後して、彼が死守した鷹巣城も陥落。これにより、越前における南朝方の組織的抵抗は完全に終焉を迎えた 8 。
畑時能の物語は、彼の死では終わらない。その最期を看取った従臣の一人、児玉五郎左衛門光信(こだま ごろうざえもん みつのぶ)が、物語に感動的な後日譚を加える。光信は、討ち取られた主君の首級が敵の手に渡ることを防ぐため、その首を携えて敵の包囲網を突破した 4 。
そして、遠く故郷である武蔵国金久保(現在の埼玉県上里町)まで主君の首を送り届け、その地に丁重に葬ったと伝えられている 5 。主君の死という最大の悲劇を、家臣の揺るぎない忠誠心が浄化し、その魂を故郷へと導く。この物語は、武士の主従関係の理想形として、後世の人々に長く語り継がれていくことになる。
敗軍の将でありながら、畑時能の記憶は消えることなく、彼が戦い、そしてその魂が還ったとされる各地で、今なお大切に語り継がれている。史跡や伝承、そして近年の顕彰活動は、彼が単なる物語上の人物ではなく、地域社会に根差した歴史的英雄として生き続けていることを示している。
時能の故郷・武蔵国に、彼の物語の終着点がある。埼玉県上里町金久保に位置する曹洞宗寺院・陽雲寺の境内には、忠臣・児玉五郎左衛門光信が主君の首を葬ったと伝えられる「畑時能供養祠」が現存する 4 。この祠は県の旧跡に指定されており、時能の魂が故郷に安らぐ場所として、静かに佇んでいる。
伝承によれば、主君の供養を終えた光信もまた、その生涯を閉じた後、時能の傍らに葬られたという。二つの石祠が並んで建てられたことから、人々は両者の姓(畑と児玉)から一字ずつを取り、この地を「畑児塚(はたごづか)」と呼ぶようになった 5 。これは、戦乱の世に咲いた主従の固い絆を、680年以上の時を超えて現代に伝える、極めて貴重な史跡である。さらに、境内には時能の後裔とされる畑英太郎や、その弟で陸軍大将となった畑俊六が建立した墓石や記念樹も残されており 25 、一族が祖先の顕彰に努めてきた歴史を物語っている。
時能が最後の戦いを繰り広げた福井県においても、彼の足跡は数多くの史跡として保存され、地域の人々によって手厚く供養されている。
畑時能の物語は、歴史愛好家や地域住民の間だけでなく、創作の世界でも新たな生命を得ている。南條範夫の短編小説『子守りの殿』や、近年の漫画作品 4 など、彼の超人的な活躍や人間味あふれる伝説は、現代のクリエイターにとっても魅力的な題材であり続けている。
また、福井県のあわら市や勝山市では、点在する時能ゆかりの史跡をネットワーク化し、歴史観光の目玉として地域振興に繋げようという動きも見られる 27 。これは、歴史上の人物の記憶が、現代社会において新たな価値を生み出す好例と言えよう。
畑時能の生涯を追う旅は、我々を史実と伝承が複雑に絡み合う、歴史の深淵へと誘う。彼は、確たる一次史料に乏しい「史実の人物」であると同時に、国民的軍記物語『太平記』が創造した「伝奇の英雄」という、二つの顔を持つ稀有な存在である。
彼の人物像を総括するならば、それは南北朝という時代の武士の多様な生き様を体現したものであったと言える。中央の名門の出ではない、在地の新興武士として、個人の武勇と才覚だけを頼りに歴史の表舞台に躍り出た。旧来の秩序に縛られない「悪党」的な気風を持ちながら、一度主君と定めた新田義貞には最後まで忠義を尽くす「忠臣」でもあった。そして、主君亡き後も、勝ち目のない戦いと知りながら、自らの信念のために孤軍奮闘を続けた、悲劇の英雄であった。
敗軍の将でありながら、なぜ彼は現代に至るまで各地で記憶され、祀られ続けるのか。その理由は、以下の三つの要素が、時代を超えて日本人の心に深く響くからに他ならない。第一に、『太平記』が描いた、超人的な武勇と忠犬「犬獅子」との絆が織りなす物語の圧倒的な魅力。第二に、主君への忠誠を貫き、孤立無援の中で最後まで戦い抜いたその生涯の持つ悲劇性。そして第三に、その悲劇的な最期を浄化し、武士の主従の理想を体現した忠臣・児玉五郎左衛門光信の美談の存在である。
歴史研究の観点から見れば、畑時能という人物は、史料の限界に直面しながらも、文学、伝承、考古学、民俗学といった多様なアプローチを駆使して歴史の深層に迫る、歴史学の醍醐味そのものを示している。彼は、史実と伝承の狭間にあって、今なお我々に多くのことを語りかけてくる。その声に耳を傾けるとき、我々は一人の武将の生涯を超えて、南北朝という時代の息吹と、人々が英雄の記憶をいかに紡ぎ、未来へと伝えてきたかという、壮大な物語に触れることができるのである。