畠山尚順は畠山氏の内紛と明応の政変で父を失い、復讐を誓う。紀伊で再起し宿敵を討ち、将軍復帰を助け権勢を極める。しかし家臣との対立で失脚、流浪の末に淡路で死去。乱世に翻弄された忠臣の生涯。
畠山尚順(はたけやま ひさのぶ)の生涯を理解するためには、まず彼が生きた時代の特質と、彼が背負った一族の宿命を把握する必要がある。室町時代後期、将軍の権威が地に墜ち、守護大名が互いに覇を競った応仁・文明の乱(1467年-1477年)は、京都を焦土に変えただけでなく、日本の権力構造そのものを根底から揺るがした。この大乱は、管領家(斯波氏、細川氏、畠山氏)の一つであった畠山氏の内部に、癒やしがたい亀裂を生じさせた。
事の発端は、8代将軍・足利義政の時代、畠山氏当主であった畠山持国が、当初養子として後継者に定めていた甥の政長(まさなが)を廃し、後に生まれた実子・義就(よしなり/よしひろ)を立てようとしたことに遡る 1 。この家督問題は家臣団を二分し、政長派と義就派の間に深刻な対立を引き起こした。応仁の乱において、政長は管領・細川勝元率いる東軍の主力として、義就は西軍総帥・山名宗全に与して戦い、畠山氏の内訌は乱全体の縮図となった。乱後も両者の争いは収まらず、義就とその子孫は官途名である上総介から「総州家」、政長とその子孫は尾張守から「尾州家」と称され、両家の抗争は百年にわたり畿内を揺るがし続けることになる 4 。
畠山尚順は、この尾州家の嫡男として生を受けた。父・政長は管領職に就任するなど幕政の中枢にありながら、本国である河内国の実効支配は宿敵・義就に奪われ続けるという、不安定な権力基盤の上に立っていた 1 。尚順の人生は、生まれながらにして敵が存在し、失われた領国を回復するという明確な、しかし困難な目標が定められていたのである。彼の生涯を貫く行動の多くは、この父から受け継いだ「総州家との家督争い」という、いわば一族の「原罪」とも言うべき宿命によって規定されていた。それは単なる個人的な野心ではなく、家門の存続と名誉をかけた、逃れることのできない戦いであった。この前提を理解することこそ、尚順という人物の執念と忠誠、そしてその悲劇性を解き明かす鍵となる。
元号 |
西暦 |
尚順の年齢(数え) |
主要な出来事 |
関連人物 |
文明7年 |
1475年 |
1歳 |
12月12日、畠山政長の嫡男として誕生。幼名は次郎、於児丸 2 。 |
畠山政長 |
文明18年 |
1486年 |
12歳 |
7月19日、細川政元邸にて元服。将軍・足利義尚より偏諱を受け「尚順」と名乗る。従五位下尾張守に叙任 6 。 |
足利義尚、細川政元 |
長享元年 |
1487年 |
13歳 |
将軍・足利義尚の近江出兵(長享・延徳の乱)に従軍 2 。 |
足利義尚 |
明応2年 |
1493年 |
19歳 |
2月、将軍・足利義稙の河内討伐に従軍。閏4月、明応の政変。父・政長が正覚寺で自刃。尚順は紀伊へ脱出 2 。 |
足利義稙、畠山政長、細川政元、畠山義豊 |
明応6年 |
1497年 |
23歳 |
9月、紀伊より河内へ侵攻。10月、高屋城を攻略し、畠山義豊を敗走させる 5 。 |
畠山義豊 |
明応8年 |
1499年 |
25歳 |
1月、河内十七箇所にて畠山義豊(基家)を討ち、父の仇を討つ。この頃より「尚慶」を名乗る 2 。 |
畠山義豊 |
明応9年 |
1500年 |
26歳 |
和泉に侵攻し、守護・細川元有を滅ぼすが、赤沢朝経に敗れ紀伊へ退く 5 。 |
赤沢朝経、細川元有 |
永正元年 |
1504年 |
30歳 |
12月、畠山義豊の子・義英と和睦。河内国を南北で分割統治し、南半国守護となる 5 。 |
畠山義英 |
永正4年 |
1507年 |
33歳 |
細川政元の暗殺(永正の錯乱)を機に細川氏が内訌。尚順は細川高国、義英は細川澄元に与し、和睦は破綻 1 。 |
細川政元、細川高国、細川澄元 |
永正5年 |
1508年 |
34歳 |
大内義興に奉じられた足利義稙の上洛に呼応。義稙の将軍復帰後、畠山氏惣領と三国守護職を安堵される 5 。 |
足利義稙、大内義興 |
永正8年 |
1511年 |
37歳 |
8月、船岡山の戦いで高国方として勝利。同年、高屋城を嫡男・稙長に譲り、自身は紀伊広城へ移る 5 。 |
畠山稙長 |
永正17年 |
1520年 |
46歳 |
紀伊の国人・湯河氏らが守護代・遊佐氏と結び反乱。広城を追われ、和泉国堺へ逃亡 2 。 |
湯河氏、遊佐順盛 |
大永元年 |
1521年 |
47歳 |
将軍・義稙が細川高国と対立し出奔。尚順は義稙に、嫡男・稙長は高国に与し、父子は袂を分かつ。尚順は義稙を追い淡路へ 2 。 |
足利義稙、畠山稙長 |
大永2年 |
1522年 |
48歳 |
7月17日、亡命先の淡路にて死去。法名・勝仙院竜源徳陽 2 。 |
|
文明7年(1475年)12月12日、畠山尚順は、管領・畠山政長の嫡男として生を受けた 2 。幼名は次郎、あるいは於児丸と伝わる 2 。その出自は、室町幕府の最高権力者の一角を占める名門中の名門であり、将来は父の跡を継ぎ、幕政を担うことが約束された輝かしいものであった。
その順調な未来を象徴するのが、文明18年(1486年)7月19日に行われた元服の儀である。尚順は、時の9代将軍・足利義尚から「尚」の一字を賜り、「尚順」と名乗った。同時に従五位下尾張守に叙任され、名実ともには武家の棟梁たる後継者として世に認められたのである 6 。特筆すべきは、この元服の儀が、細川京兆家当主・細川政元の邸宅で執り行われたことである 6 。これは、当時、尚順の父・政長と政元が協調関係にあったことを示しているが、後にこの政元こそが、尚順の運命を暗転させる張本人となるのである。
青年期の尚順は、管領家の嫡男として、幕府の中枢で着実に経験を重ねていった。長享元年(1487年)から始まった将軍・義尚自らが率いた近江の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に従軍し、初陣を飾る 2 。さらに明応2年(1493年)には、新たに10代将軍となった足利義稙(この時点では義材)が、父・政長と共に長年の懸案であった河内国の宿敵・畠山義豊(義就の子)の討伐に乗り出すと、尚順もこれに同行した 5 。この時、19歳の尚順も、そして父・政長も、長きにわたる畠山家の内紛に終止符を打ち、失われた領国を回復できると信じていたに違いない。しかし、彼らの目の前には、予測し得ない巨大な陥穽が口を開けて待っていた。
明応2年(1493年)閏4月、日本の政治史を大きく転換させる事件が勃発する。「明応の政変」である。将軍・足利義稙と管領・畠山政長が、主力軍を率いて河内国に出陣しているという政治的空白を突いて、京都で留守を預かっていたもう一人の管領・細川政元がクーデターを決行した 5 。政元は、前将軍・義尚の母である日野富子や、幕府政所執事の伊勢貞宗らと結託し、現職の将軍・義稙を一方的に廃し、新たな将軍として義稙の従兄弟にあたる足利義澄(当時は義遐)を擁立したのである 5 。将軍の出陣中に、その家臣であるはずの管領が将軍を廃立するというこの前代未聞の暴挙は、室町幕府の権威が完全に失墜したことを天下に示し、多くの研究者が実質的な戦国時代の幕開けと位置づける画期的な出来事であった 9 。
この政変により、河内で戦っていた将軍・義稙と政長の軍は一瞬にして「賊軍」と化した。政元はすぐさま大軍を河内へ派遣し、正覚寺(現・大阪市平野区)に布陣していた政長らを包囲した。四面楚歌の状況に陥った政長は、もはやこれまでと覚悟を決め、嫡男・尚順を陣から脱出させた後、閏4月25日、多くの家臣と共に自刃して果てた 2 。享年52。尚順は、父や重臣たちが壮絶な最期を遂げる前日の閏4月24日に、かろうじて包囲網を突破し、父の代から支配を固めていた紀伊国へと落ち延びた 2 。
この一日にして、尚順はすべてを失った。敬愛する父、継承するはずであった畠山氏惣領の家督、そして河内・紀伊・越中にまたがる広大な守護職という地位と所領。名門の貴公子は、一介の亡命者に転落したのである 6 。さらに深刻だったのは、人的基盤の壊滅であった。父と共に自刃した者の中には、河内守護代の遊佐長直をはじめ、長年にわたり尾州家の屋台骨を支えてきた多くの譜代の家臣が含まれていた 6 。この明応の政変は、尚順のその後の人生を決定づける強烈な原体験となった。それは彼に二重のトラウマを刻み込んだ。一つは、父を死に追いやり、家門の全てを奪った細川政元と、彼に与した宿敵・畠山義豊への燃えるような復讐心。もう一つは、自らが仕えるべき正統な主君(足利義稙)が、家臣によって裏切られ、その地位を簒奪されるという「下剋上」の極致を目の当たりにしたことによる、秩序破壊への強い反発心である。この二つの経験が分かちがたく結びつき、「父の仇を討つ」という個人的な宿願と、「正統な将軍を復位させる」という大義名分を追求することが、彼の生涯を貫く行動原理となっていった。流浪の将軍・義稙への一貫した忠誠は、単なる政治的計算を超えた、この原体験に根差した強固な信念の表れだったのである。
Mermaidによる関係図
注:本図は主要人物の関係性を分かりやすく示すための略系図である。
全てを失い紀伊国へ逃れた尚順であったが、彼は決して絶望に打ちひしがれてはいなかった。紀伊は父・政長の時代に在地勢力との関係が強化され、守護の支配がある程度確立されていたため、尾州家の影響力が色濃く残る土地であった 6 。尚順はこの地を再起のための拠点と定め、事実上の「在国守護」として活動を開始する 9 。これは、当主が京都に在住するのが常であった畠山氏の歴史において、当主自らが領国に常駐し直接支配を行うという画期的な出来事であり、紀伊の政治史においても重要な転換点であった 9 。
亡命者である尚順にとって、まず急務であったのは軍事力の再建である。彼は、紀伊国内に強大な勢力を誇る根来寺、粉河寺、高野山といった寺社勢力や、沿岸部を拠点とする紀伊海賊衆の支持を取り付けることに成功した 2 。この強力な軍事基盤を背景に、明応2年(1493年)5月に細川政元方の赤松政則が派遣した水軍を撃退し、さらに同年9月と明応4年(1495年)3月に宿敵・畠山義豊が仕掛けてきた紀伊侵攻をも退けた 6 。
同時に、尚順は孤立していなかった。細川政元によって京都を追われ、越中国で再起を図っていた前将軍・足利義稙(「越中公方」)と密に連携を取り続けた 13 。越中は元々畠山尾州家の分国であり、守護代の神保長誠が義稙を庇護していた 6 。尚順の紀伊での挙兵は、義稙の京都奪還計画と連動したものであり、「反細川政元・反畠山義豊」という共通の旗印の下、遠く離れた二つの拠点が呼応し、政元包囲網を形成しようとしていたのである 13 。
紀伊国で着実に力を蓄えた尚順は、ついに反攻の狼煙を上げる。明応6年(1497年)9月、彼は紀伊の軍勢を率いて和泉・河内へと侵攻を開始した 5 。この動きに呼応して大和国の有力国人である筒井氏も尚順に味方し、その勢力は一挙に拡大した 5 。
同年10月、尚順軍は義豊の本拠地である河内高屋城を攻撃し、これを陥落させる 7 。義豊は山城国へと敗走し、尚順は一時的に河内、和泉、大和を平定する勢いを見せた。その後、義豊も反撃に転じ、一進一退の攻防が続いたが、運命の時は明応8年(1499年)1月30日に訪れる。河内十七箇所(現在の大阪府東部一帯)で行われた決戦において、尚順軍は義豊(史料によっては基家とも記される)の軍を打ち破り、ついに義豊本人を討ち取ったのである 2 。父・政長が非業の死を遂げた明応の政変から6年、尚順は執念で父の仇討ちという最大の宿願を果たした。この頃から、彼は名を「尚慶」と改めている 2 。
しかし、尚順の前に立ちはだかる壁は依然として高かった。義豊という個人的な仇敵を排除したものの、その背後には畿内最大の権力者・細川政元が控えていた。義豊討伐の勢いを駆って、越中の将軍・義稙と連携し京都を目指そうとした尚順であったが、政元が派遣した歴戦の猛将・赤沢朝経(宗益)の軍勢にその行く手を阻まれ、同年末には再び紀伊への撤退を余儀なくされた 5 。翌明応9年(1500年)には和泉国へ侵攻し、守護の細川元有を岸和田城で自害に追い込む戦果を挙げたが、これもまた赤沢朝経の反撃に遭い、紀伊へ引き返さざるを得なかった 5 。
この一連の戦いは、尚順の軍事的能力の高さを示すと同時に、当時の畿内における権力構造の厳然たる事実を浮き彫りにしている。尚順は敗走からわずか数年で数千の軍勢を組織し、宿敵を討ち滅ぼすだけの優れた指導力と不屈の精神を持っていた。しかし、彼の前には常に「細川京兆家」という巨大な権力の壁が存在した。当時の畿内は事実上、細川政元の政治秩序の下にあり、彼の意に沿わない勢力は、たとえ局地的な戦いで勝利を収めても、中央政界への復帰は許されなかった。赤沢朝経は、その細川氏の権力を体現する強力な「装置」として機能したのである。尚順の戦いは、畠山家内の抗争という側面と同時に、細川氏が明応の政変によって構築した畿内の新秩序への挑戦でもあった。義豊を討ち果たせたのは、それがまだ畠山家内の問題として黙認され得たからであり、その先の京都回復が頓挫したのは、細川氏の権力構造そのものに正面から挑むことになったからに他ならない。
宿敵・義豊を討ったものの、細川政元という巨大な壁を前に膠着状態に陥っていた尚順に、思わぬ転機が訪れる。永正元年(1504年)、細川政権の内部で、重臣の赤沢朝経や摂津守護代の薬師寺元一が反乱を起こすなど、内部対立が表面化したのである 22 。この好機を捉え、尚順は驚くべき行動に出る。父の仇の息子である畠山義英(よしひで)と和睦を結んだのだ 5 。
この和睦は、河内国を南北に分割し、北半国を義英が、南半国を尚順がそれぞれ「半国守護」として統治するという内容であった 5 。これにより尚順は高屋城主となり、11年ぶりに河内への復帰を果たした。これは、長年敵対してきた両畠山家が初めて手を取り合い、共通の敵である細川政元に対抗しようとする、極めて戦略的な動きであった 15 。政長以来の願望とは形こそ違うものの、畠山家は久方ぶりに一つの方向を向いたかに見えた。
しかし、この奇妙な和平は、中央政界の激動によって脆くも崩れ去る。永正4年(1507年)、管領・細川政元が自身の養子である細川澄之の家臣によって暗殺されるという衝撃的な事件が起こる(永正の錯乱) 1 。澄之はすぐに別の養子である細川澄元に討たれたが、これを機に細川京兆家は、澄元派と、澄元を支持していたもう一人の養子・細川高国派の二つに分裂し、畿内全土を巻き込む内乱状態に突入した(両細川の乱) 1 。この中央政界の勢力再編に際して、畠山義英は細川澄元と、そして畠山尚順は細川高国とそれぞれ連携したため、両畠山家の和睦は完全に破綻。彼らは再び、畿内の覇権をめぐる代理戦争の当事者として、互いに刃を交える運命となったのである 1 。
時期 |
状況 |
勢力図 |
① 永正4年(1507年) |
細川政元暗殺直後 |
【澄元派】 ・細川澄元 ・畠山義英 【高国派】 ・細川高国 ・ 畠山尚順 【中立/亡命】 ・足利義稙(周防・大内氏の庇護下) ・大内義興 |
② 永正5年(1508年) |
足利義稙・大内義興上洛時 |
【義稙・高国連合】(幕府主流派) ・足利義稙(将軍復帰) ・細川高国(管領) ・大内義興(管領代) ・ 畠山尚順 (畠山惣領) 【反主流派】 ・細川澄元(近江へ逃亡) ・畠山義英(劣勢) ・足利義澄(前将軍) |
③ 永正18年(1521年) |
足利義稙出奔時 |
【高国・義晴政権】 ・細川高国(管領) ・足利義晴(新将軍) ・畠山稙長(尚順の嫡男) 【反主流派】 ・足利義稙(出奔・淡路へ) ・ 畠山尚順 (義稙に追随) ・細川澄元(故人だが、その勢力は残存) |
両細川の乱は、尚順にとって千載一遇の好機となった。細川高国と連携した尚順は、長年待ち望んだ逆転劇の主役となる。永正5年(1508年)、流浪の将軍・足利義稙を周防国で庇護していた西国の大大名・大内義興が、数万と号する大軍を率いて、義稙を奉じ上洛を開始した 5 。細川高国もこれに合流し、その軍勢は畿内を席巻する勢いであった。
尚順は、高国と共に和泉国堺(現・大阪府堺市)で義稙・義興の連合軍を出迎え、そのまま先導役として共に入京を果たした 5 。対する将軍・足利義澄と細川澄元の軍は戦わずして崩壊し、彼らは近江国へと逃亡。これにより、足利義稙は明応の政変から実に15年ぶりに将軍職への復帰を遂げたのである。
この政変劇における最大の功労者の一人として、尚順は新政権下で破格の待遇を受けた。将軍・義稙は、長年にわたる尚順の揺るぎない忠誠を高く評価し、彼を正式に畠山氏の惣領(家督)として認め、さらに紀伊国、河内国一国、そして越中国の守護職を安堵した 5 。父・政長の非業の死から15年、亡命生活と苦闘の末に、尚順はついに父の地位を回復し、名実ともに畠山尾州家を再興した。これは彼の生涯における栄光の頂点であった。その後、尚順は幕命を受けて大和国へ出陣し、かつて自らを苦しめた赤沢朝経の子・長経を討ち滅ぼすなど、新政権の重鎮としてその権勢を天下に示した 5 。
権力の中枢に返り咲いた尚順は、自らの領国の安定と支配強化に着手する。永正8年(1511年)頃、彼は畿内における政治・軍事の拠点である河内国の高屋城を、元服したばかりの嫡男・稙長(たねなが)に譲り、自身は紀伊国の広城(ひろじょう、現・和歌山県広川町)に居を移した 2 。これは、稙長に京都での幕政に関わる活動を継承させ、自身は在国守護として領国経営に専念するという、一種の二元統治体制を構築しようとする意図があったと考えられる 25 。中央での政治的地位を確保しつつ、その権威を背景に領国の直接支配を進めるという、守護大名から戦国大名へと脱皮するための試みであった。
しかし、その試みは深刻な困難に直面する。尚順が理想とする直接支配と、領国に根を張る在地勢力の現実との間には、大きな乖離が存在したのである。
第一に、守護代・遊佐氏の権力の自立化である。尚順の父・政長の代から、河内守護代の職は遊佐氏が世襲していた 14 。特に尚順が紀伊での再起や京都での政争に奔走している間、河内国を実質的に統治していたのは守護代の遊佐順盛であった。尚順が在京・在紀する期間が長くなるにつれ、在地における遊佐氏の影響力はますます増大し、ついには幕府の命令が当主の尚順を飛び越え、直接遊佐氏に下されるという事態まで生じていた 25 。遊佐氏は、在地の中小領主層を自らの被官として組織化し、守護権力とは別に独自の権力基盤を確立しつつあった 25 。尚順のような当主が領国の直接支配を強化しようとすることは、必然的に守護代の既得権益を侵害することになる。逆に、守護代にとっては、主君は自らの権威の源泉として必要ではあるが、実権を行使しない「お飾り」であることが最も望ましい。この主君と守護代の構造的な利害対立は、尚順の時代に顕在化し、後の遊佐長教による主君廃立という、より先鋭的な下剋上へと繋がっていくのである。
第二に、紀伊国における在地国人との軋轢である。尚順は紀伊国の支配を強化するため、大和国出身とされる新参の側近・林堂山樹(はやしどうさんじゅ)や熊野衆といった、自身の息のかかった人物を重用した 28 。しかし、この中央集権的な政策は、紀伊国で古くから半独立的な勢力を築いてきた有力国人、特に湯河(湯川)氏らの猛烈な反発を招いた 2 。湯河氏らは、形式的には守護畠山氏の家臣とされながらも、実質的には地域の支配権を掌握した戦国領主であり 32 、守護による新たな権力介入を自らの独立を脅かすものとして、断じて許容しなかったのである。
栄光の頂点からわずか数年、尚順の運命は再び暗転する。彼の領国経営の試みは、理想とは裏腹に、最も信頼すべき家臣と領民の離反という最悪の結果を招いた。
永正17年(1520年)、尚順の支配強化策に反発を募らせていた紀伊の有力国人・湯河氏らがついに蜂起した 2 。この反乱は単独のものではなく、河内守護代の遊佐順盛が裏で糸を引いていた可能性が極めて高い 25 。河内と紀伊の在地勢力が連携し、共通の「障害」である尚順の排除に乗り出したのである。
尚順は反乱軍との合戦に臨んだが、衆寡敵せず敗北。この戦いで腹心であった林堂山樹も討ち死にし 6 、尚順は長年の本拠地であった紀伊広城を追われ、命からがら和泉国堺へと逃亡した 2 。
さらに尚順を絶望させたのは、嫡男・稙長の対応であった。この反乱は稙長にとっても想定外の出来事であったようだが、彼は父を助けるのではなく、領国の安定を優先する道を選んだ 6 。稙長と、彼を後見する遊佐順盛は、反乱の首謀者である湯河氏ら国人衆と和睦。彼らの所領を安堵するなど、大幅な譲歩を示して事態の収拾を図った 6 。これは、反乱勢力と対立した尚順の紀伊復帰は、もはや不可能であることを意味した。結果として尚順は、自らの息子や譜代の重臣からも見捨てられる形で、完全に孤立無援の身となったのである 6 。
本拠地を追われ、息子にも見捨てられ、政治生命を絶たれたかに見えた尚順であったが、彼の心には未だ消えぬ炎があった。それは、自らの運命を切り開くきっかけとなり、また同時に彼の行動を縛り続けた、将軍・足利義稙への忠誠心であった。
永正18年(大永元年、1521年)、京都では将軍・足利義稙と、彼を支えてきた管領・細川高国の間に対立が生じ、ついに義稙は政権を放棄して京都を出奔するという事態に至る 2 。この新たな政変に際し、畿内の武将たちはそれぞれの政治的打算に基づき、去就を決めた。尚順の嫡男・稙長は、自らの地位を保証してくれる細川高国との関係を重視し、高国が新たに擁立した将軍・足利義晴を支持した 6 。
しかし、尚順の選択は違った。彼は、もはや権力の実体を失った流浪の元将軍・義稙への忠義を貫き、いち早くその支持を表明したのである 6 。これにより、尚順と稙長は政治的に完全に袂を分かつことになった。政治的実利を考えれば、高国方につくのが賢明な選択であったろう。だが尚順は、全ての打算を捨て、自らの信念に従った。彼は、出奔した義稙を追い、その亡命先である淡路島へと渡ったのである 2 。これは、彼の生涯を貫いた「忠臣」としての矜持が発露した、最後の行動であった。
淡路島に渡った尚順は、再起をかけて最後の戦いを試みる。かつての宿敵であった畠山義英と和睦を結び、失地回復を目指した 6 。しかし、細川高国と結び、幕府の公認を得た嫡男・稙長の軍勢は強大であり、大永元年(1521年)10月に行った紀伊への侵攻作戦は、無残な失敗に終わった 6 。
再起の夢は断たれ、失意と病のうちに、尚順は亡命先の淡路島でその波乱の生涯を閉じた。大永2年(1522年)7月17日のことであった 2 。享年48。法名は勝仙院竜源徳陽と伝わる 5 。彼の死を追うかのように、同年に和睦相手の畠山義英が、そして翌大永3年(1523年)には、彼が最後まで仕えた主君・足利義稙もまた、失意のうちに世を去った 6 。
尚順の死は、単なる一武将の死に留まらない、象徴的な意味を持っていた。彼の生涯は、足利将軍という「権威」と、それに仕える守護という「旧来の秩序」を信奉し、その回復に全てを捧げた戦いであった。しかし、彼が忠誠を誓った足利義稙自身が、二度も将軍の座を家臣に追われた、まさに幕府権威の失墜を体現する人物であった。尚順はその失墜した権威に最後まで殉じ、結果として自らも没落したのである。彼の死は、彼が信じた「将軍を頂点とする室町幕府体制」という価値観が、もはや畿内においてさえ通用しなくなった時代の到来を告げていた。尚順の死後、畿内の政治の主役は、三好長慶のような実力主義の下剋上を体現する勢力や、遊佐長教のように主家を完全に傀儡化する守護代へと移っていく。尚順の死は、戦国時代が旧来の権威主義から実力主義へと本格的に移行する、一つの分水嶺に立つ出来事であったと言えよう。
畠山尚順とは、いかなる人物であったのか。その生涯を俯瞰するとき、いくつかの相貌が浮かび上がってくる。
第一に、 「忠臣」としての尚順 である。戦国乱世において、自らの利害を度外視し、没落した主君・足利義稙に最後まで一貫して忠誠を誓い続けたその姿勢は、際立って特異である 2 。この忠義は、明応の政変という原体験に根差す強固な信念であり、彼の行動の根幹をなした。しかし、その純粋すぎる忠義は、時に政治的な柔軟性を欠き、結果として細川高国と結ぶ嫡男・稙長との対立を招き、自らの孤立を深める要因ともなった。
第二に、 「武将」としての尚順 である。父の仇を討つという執念を6年にわたり燃やし続け、ついに宿敵・義豊を討ち取った実行力。そして、紀伊一国を拠点に、当時畿内最大の勢力であった細川政元の大軍と互角以上に渡り合った軍事的手腕は、決して凡庸な貴公子ではない、優れた武将であったことを証明している 21 。
第三に、 「統治者」としての尚順 である。在国守護として領国の直接支配を強化し、中央集権化を目指した点は、守護大名から戦国大名への過渡期における先進的な試みであった。しかし、その手法は性急であり、守護代や在地国人といった、領国に深く根を張る勢力の力を読み違えた。結果として彼らの猛反発を招き、追放という形で失敗に終わったことは、旧来の支配者層が新たな時代に適応する過程の困難さを示す典型例と言える 25 。
最後に、 「文化人」としての側面 も無視できない。父の仇を討った後、18歳の若さで出家入道し「卜山(ぼくざん)」と号したという軍記物語の記述 13 は、彼の内省的な一面や仏教への帰依を示唆しており興味深い。また、戦友であった日野内光の菩提を弔うため、天下五剣の一つである名刀「三日月宗近」を高野山に奉納したという逸話も伝わっている 35 。これらは、彼が単なる武人ではなく、時代の教養を身につけた文化人であったことを物語っている。
畠山尚順の生涯を、同時代の他の武将や権力構造の中に位置づけることで、その歴史的意義はより鮮明になる。
尚順が家臣によって追放され、その息子・稙長もまた守護代・遊佐長教によって傀儡化、追放されるという尾州家の運命は 37 、守護代が主家の実権を奪い、自らが戦国大名化していくという全国的な「下剋上」の潮流と軌を一にする。越前における朝倉氏、越後における長尾氏、出雲における尼子氏など、守護代が主家を凌駕していく例は枚挙に暇がない 39 。尚順の悲劇は、この抗いがたい時代の大きなうねりの中にあった。
同じく守護代から戦国大名へとのし上がった越前の朝倉孝景(敏景)と比較すると、尚順の限界が浮き彫りになる。孝景は「朝倉孝景条々」という優れた分国法を制定し、家臣団を城下である一乗谷に集住させるなど、巧みな領国経営によって支配体制を盤石なものとした 40 。対照的に、尚順の支配強化策は在地勢力の反発を招き頓挫した。これは、尚順が旧来の「守護」という権威に依存する発想から完全に脱却しきれず、在地社会の力構造を緻密に分析し、掌握する戦略を欠いていたことを示しているのかもしれない。
また、同じく将軍・義稙を奉じて上洛した盟友・大内義興との比較も示唆に富む。義興は管領代として幕政を主導する傍ら、本国周防の山口を「西の京」と称されるほどの文化都市として繁栄させ、日明貿易を掌握することで強固な経済基盤を築き上げた 43 。中央政界での権力闘争と、領国の安定・繁栄を両立させた義興に対し、尚順はその両立に苦しみ、最終的にその双方を失った。両者の背後にあった経済基盤や、在地勢力との関係性の違いが、その後の運命を大きく分けたと言えよう。
畠山尚順の死後、彼が再興に生涯を捧げた畠山尾州家は、守護代・遊佐氏の完全な傀儡となり、一族内での家督争いや他勢力との抗争を繰り返す中で急速に衰退していく 2 。そして、織田信長の時代には歴史の表舞台から姿を消すことになる。振り返れば、尚順の時代こそ、名門畠山氏が戦国大名として生き残るための、最後の、そして最大の好機であった。彼はその流れに乗り切ることができなかった。彼の死は、一個人の悲劇であると同時に、室町幕府の権威と共に生きてきた名門守護大名の没落を象徴する、時代の分水嶺だったのである。