戦国乱世は、数多の武将たちの栄枯盛衰の物語を紡ぎ出した。その中にあって、畠山政繁という人物の生涯は、旧来の権威が崩れ去り、新たな秩序が形成される時代の大きなうねりを、一身に体現した稀有な例として我々の前に立ち現れる。彼は、室町幕府の管領家にも連なる名門、能登畠山氏に生を受けながら、その没落という宿命を背負い、越後の龍・上杉謙信の下で新たな活路を見出す 1 。やがては天下人である豊臣秀吉、そして徳川家康の下を渡り歩き、武力ではなく家格と儀礼によって幕藩体制内での地位を確保する「高家」という形で、一族の血脈を後世へと繋いだのである 3 。
彼の生涯を追う上で、避けては通れない大きな謎が存在する。それは、上杉家臣として活躍した「上条政繁」と、その後の豊臣・徳川政権下で名を成した「畠山義春」という二つの名前を巡る関係性である 5 。多くの史料において両者は混同され、時には同一人物として、また時には別人として描かれてきた 7 。この混乱の解明こそが、彼の、そして彼の一族の真の姿を理解する鍵となる。本報告書は、この核心的な問いに迫りつつ、畠山政繁の生涯を、単なる一個人の立身出世物語としてではなく、「守護大名」という旧世界の権威が崩壊し、「天下人」による新たな統一権力が生まれる時代の大転換期を、いかにして一人の武将が生き抜いたかを示す象徴的な事例として、詳細に分析・考察するものである。彼の人生の軌跡は、そのまま戦国時代から近世へと至る、武家社会の構造変動そのものを映し出す鏡と言えよう。
畠山政繁の出自である能登畠山氏は、清和源氏足利氏の流れを汲む、室町幕府三管領家の一つに数えられる名門であった 9 。初代当主・満慶が能登国に入って以来、およそ170年にわたり同国を統治し、七尾城を拠点に一大勢力を築き上げた 11 。特に政繁の祖父にあたる第7代当主・畠山義総の時代には、その卓越した政治手腕と文化への深い造詣により、領国は安定し、京の公家や文化人が多数来訪するなど、地方における文化の中心地として大いに繁栄した 11 。
しかし、この栄華は長くは続かなかった。名君・義総が天文14年(1545年)に没し、政繁の父である畠山義続が第8代当主となると、家中の統制は急速に乱れ始める 12 。遊佐氏や温井氏といった「畠山七人衆」と呼ばれる有力重臣たちが実権を掌握し、守護大名は次第に傀儡と化していった 13 。政繁の兄・義綱の代には一時的に大名権力の回復が試みられるも、重臣たちの根強い抵抗に遭い、ついには当主が家臣によって追放されるというクーデターにまで発展する。繰り返される権力闘争と内乱は能登畠山氏の国力を著しく疲弊させ、その内部崩壊は、隣国で急速に勢力を拡大していた越後の上杉謙信による介入を招く決定的な要因となったのである。
畠山政繁(当初の名は義春、あるいは宮王丸とも伝わる 1 )は、まさにこの一族存亡の危機的状況下で、歴史の表舞台に登場する。彼は、能登畠山氏と上杉氏との間で結ばれた同盟、あるいは実質的な従属関係の証として、人質として越後へ送られた 1 。この出来事は、単に一個人の運命が大きく転回したというだけでなく、能登畠山氏という一大名家が、戦国乱世における生存戦略として、自らが持つ「血」の価値を政治的に利用した最後の賭けであった。自力での存続が困難となった旧来の名門が、その権威と家格を新興勢力である上杉家に託すことで、一族の血脈を未来に繋ごうとしたのである。謙信にとっても、足利一門という畠山氏の高い家格を取り込むことは、自らの権威をさらに高める上で極めて有益であった 7 。両者の利害が一致したこの政治的取引において、政繁は単なる捕虜ではなく、両家を結ぶ「生きた証文」であり、畠山家のブランド価値を体現する存在として、その人生の幕を開けた。彼の肩には、最初から「家」の存続という重い責務が課せられていたのである。
越後に入った政繁は、人質という立場でありながら、上杉謙信から破格の厚遇を受ける 1 。その背景には、謙信が政繁の持つ名門・畠山氏の血筋を高く評価していたことが窺える。その厚遇の象徴ともいえるのが、元亀2年(1571年)、謙信の計らいによって行われた上条上杉家の名跡継承である 1 。上条上杉家は、かつて謙信の父・長尾為景と越後の覇権を巡って激しく争った、由緒ある越後守護上杉氏の支流であった 15 。この名家を、足利一門である畠山氏出身の政繁に継がせ、「上条政繁」と名乗らせたのである 1 。
この一連の措置は、単なる温情から出たものではない。謙信にとって、これは自らの支配体制を権威付けるための高度な政治戦略であった。主家を乗り越える形で越後を統一した謙信にとって、その支配の正統性を補強することは常に課題であった。由緒ある上条家を、それに匹敵する外部の権威(畠山家)を持つ政繁に継がせることで、謙信は「旧来の権威を自らの力で再興し、庇護下に置いた」という構図を内外に示し、自らの権力基盤を武力だけでなく伝統的な権威の継承者としても正当化することができたのである。政繁は、この謙信の壮大な構想を実現するための、重要な役割を担うこととなった。
上杉一門に列せられた政繁は、謙信の麾下として各地を転戦し、武将としての才能を開花させていく。元亀年間から天正年間初期にかけて、上野国や越中国の戦線で活躍し、特に関東経略においては陣代(総大将代理)を務めるなど、軍の中核を担う存在であったことが記録されている 16 。
彼の軍事的重要性を客観的に示すのが、天正3年(1575年)に作成された『上杉家軍役帳』である。この記録によれば、政繁は96人という大規模な軍役を負担しており、その序列は上杉一門の中で上杉景勝らに次ぐ第4位に位置づけられている 18 。これは、彼が単なる名目上の一門ではなく、実質的な軍事力と政治的発言力を有する、上杉家中の最有力者の一人であったことを明確に物語っている。
天正5年(1577年)、政繁の運命をさらに大きく動かす出来事が起こる。謙信が、政繁の実家である能登畠山氏の居城・七尾城へと大軍を率いて侵攻したのである。この戦いに政繁も従軍しており、かつての家臣たちが繰り広げる内紛の末に家を乗っ取った逆臣たちを討つという、皮肉な大義名分を背負って故郷の土を踏むことになった 16 。
そしてこの七尾城攻略の過程で、後の歴史に大きな影響を与える重要な措置が取られる。謙信の命により、政繁は能登畠山氏の遺児(後の畠山義春)を養嗣子として迎えたのである 8 。この事実は、後述する「政繁・義春同一人物説」を否定し、両者が養父と養子の関係にあったことを示す極めて重要な記録である。これにより、政繁は自らの血筋とは別に、能登畠山氏本流の血を引く者を後継者として立てることになり、その家系は二重の権威を帯びることとなった。
天正6年(1578年)3月、上杉謙信が後継者を明確に定めないまま急逝すると、上杉家は未曾有の危機に直面する。謙信の二人の養子、すなわち謙信の姉の子である上杉景勝と、相模北条家から人質として入り謙信の養子となった上杉景虎との間で、熾烈な家督相続争いが勃発したのである。この「御館の乱」は、越後国を二分する大内乱へと発展した 20 。
この重大な局面において、上条政繁は一貫して景勝方に与して戦った 19 。彼の妻が景勝の姉または妹(長尾政景の娘)であったという血縁関係も、この決断に大きく影響したと考えられる 1 。人質として越後に来た彼が、上杉家の後継者を決める内乱で一方の陣営の主力として戦う立場になったことは、彼が名実ともに上杉家の一員として完全に受容されていたことを示している。政繁は、斎藤朝信や直江信綱といった景勝方の主だった将と共に奮戦し、景勝の勝利に大きく貢献した 21 。
御館の乱を制して上杉家の当主となった景勝は、自らの勝利に貢献した政繁を重臣として大いに遇した。乱後の景勝政権において、政繁は軍事・統治の両面でその手腕を発揮し、キャリアの頂点を迎える。
天正9年(1581年)、織田信長の勢力が迫る越中方面の防衛拠点・松倉城の城代であった河田長親が没すると、政繁はその重要な後任として同城に入った。さらに天正11年(1583年)には、本能寺の変により織田軍が撤退した後の信濃国に睨みを利かせるため、対武田、対織田の最前線であった要衝・海津城(後の松代城)の城主を命じられ、信濃の国人衆を統括する方面司令官という重責を担うことになった 1 。
この海津城代への就任は、景勝が政繁に寄せる信頼の厚さを物語るものである。海津城は、単なる一つの城ではなく、信濃という広大な領域を統べるための政治・軍事拠点であり、その統治には高度な能力が求められた 25 。ここに、上杉一門の中でも高い家格と軍事力を兼ね備えた政繁を配置することは、当時の景勝にとって最善の人事であった。この時期、景勝政権の奉行として台頭しつつあった直江兼続との関係も当初は良好で、政繁が景勝に対し、公事(訴訟)の奉行として兼続を加えるよう要請したという記録も残っている 16 。
しかし、この栄光の地・海津城は、皮肉にも後の出奔に繋がる対立の火種が生まれた場所でもあった。豊臣政権との交渉が進み、上杉家が中央の統一権力に組み込まれていく過程で、景勝と兼続はより強力な中央集権体制の構築を目指すようになる。その中で、信濃において半ば独立した強大な権限を持つ政繁の存在は、次第に政権にとって統制の難しい、潜在的な脅威と見なされるようになっていったのである。
景勝政権下で栄達を極めた政繁であったが、その立場は長くは続かなかった。天正13年(1585年)3月、彼は突如として海津城主の任を解かれ、須田満親との交代を命じられる 1 。これは明らかに政権中枢からの左遷であり、景勝との間に深刻な対立が生じていたことを示唆している。
そして天正14年(1586年)6月(一説に7月)、政繁は決定的な行動に出る。主君・景勝の上洛に随行した際、その宿所であった越前国敦賀から突如として姿を消し、天下人・豊臣秀吉の下へと出奔したのである 1 。長年にわたり仕えた上杉家との決別であった。
政繁が主家を出奔するに至った理由については、諸説が入り乱れており、単一の要因に絞ることは難しい。
これらの要因は、おそらく相互に絡み合っていたと考えられる。本質的には、上杉家が戦国大名から豊臣政権下の一大名へと脱皮していく過程で、景勝・兼続による強力な権力集中化が進められ、その中で旧来の一門重臣であり、信濃に独自の勢力基盤を持つ政繁が「政敵」と見なされ、排除されたというのが実態に近いだろう。
この出奔は、単なる主君への不満や個人的な裏切り行為として片付けるべきではない。それは、時代の変化の中で主家に見切りをつけ、新たな庇護者である天下人・秀吉に直接仕えることで、自らの「家」の存続を図るという、戦国武将としての極めて合理的で戦略的な判断であった。主君への忠誠よりも「家」の存続を優先する、この時代特有の価値観が、彼の行動の根底には流れていたのである。
畠山政繁の生涯を語る上で最大の混乱要因であり、その実像を歪めてきたのが、彼と「畠山義春」との関係性である。ここでは諸史料を基に両説を比較検討し、その真相に迫る。
江戸時代中期に編纂された幕府の公式系譜集『寛政重修諸家譜』などでは、上条政繁は後に畠山義春に復名した同一人物として扱われている。この記述が長らく通説とされ、多くの書籍や事典で採用されてきた。この説に立てば、能登畠山氏出身の義春が、上杉家で上条政繁と名乗り、出奔後に再び畠山義春の名に戻ったという、一人の人物の生涯として解釈されることになる 14 。
しかし、より同時代に近い上杉家の史料や近年の研究では、この通説に疑義が呈され、両者を別人とする説が有力となっている。その根拠は以下の通りである。
以上の史料的根拠から、 「上条政繁(号は宜順)」は養父 であり、 「畠山義春(号は入庵、後の実名は義明)」は能登畠山氏から来たその養子 であるという 別人説が歴史的実態に即している と結論づけるのが妥当である。したがって、上杉家出奔後の後半生の事績は、主に養子・義春のものであると解釈すべきである。以下の表は、両説の根拠を整理したものである。
比較項目 |
同一人物説(『寛政重修諸家譜』等)の記述 |
別人説(『上杉家御年譜』等)の記述 |
考察・分析 |
関係性 |
上条政繁が後に畠山義春に復姓した 8 。 |
上条政繁が畠山義春を養子とした 8 。 |
養子縁組の記録が複数存在することから、別人説の信憑性が極めて高い。 |
出奔後の活動 |
政繁(=義春)が豊臣・徳川に仕えた 2 。 |
養父・政繁は出奔後まもなく没し、養子・義春が豊臣・徳川に仕えた 7 。 |
『寛政重修諸家譜』が両者を混同したため、政繁の没年が不明瞭になり、義春の事績が政繁のものとして記録された可能性が高い。 |
妻 |
長尾政景の娘(景勝の姉妹)を娶った 1 。 |
政繁が娶ったか、義春が娶ったか両説あり。年齢的には政繁の方が近い。 |
妻がどちらの人物かは断定が難しいが、両者が別人であるという前提を覆すものではない。 |
子 |
畠山景広、上杉長員、畠山義真は全て政繁(=義春)の子 7 。 |
政繁の実子と義春の実子が、混同されて兄弟として記録された可能性がある。 |
系譜の混乱は、両者が別人であったが故に生じたと考えられる。 |
本章では、前章の結論に基づき、上杉家出奔後の活動の主体を養子・畠山義春として記述する。彼の後半生は、激動の政局を冷静に見極め、巧みな立ち回りで一族の再興を成し遂げた、卓越した戦略家の姿を浮き彫りにする。
養父・政繁が天正14年(1586年)に上杉家を出奔した後、義春もまた天正16年(1588年)頃に越後を去り、養父の後を追うようにして天下人・豊臣秀吉に仕えた 7 。秀吉は、足利一門という畠山氏の家格を評価し、彼を直臣として迎えた。天正15年(1587年)には、河内国高安郡において500石の知行を与えられている 7 。
その後も義春は着実に地歩を固め、天正18年(1590年)には摂津国豊嶋郡に300石を加増される 7 。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、秀吉の本陣が置かれた肥前国名護屋城に在陣し、さらに河内国交野郡に700石を加増され、知行は合計1500石に達した 7 。これは、豊臣政権下で大名とは言えないまでも、確固たる地位を築いたことを意味する。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去し、天下が再び動乱の様相を呈すると、義春は次なる覇者を見極め、周到に行動を開始する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、彼は迷わず東軍(徳川家康方)に与した 7 。この頃には、家康の食客(客分としての家臣)となっていたとも言われ、豊臣家臣の身分を保持しつつも、徳川家との繋がりを深めていたことが窺える 19 。これは、秀吉死後の政局を冷静に分析した上での、未来への戦略的投資であった。
関ヶ原の戦後、義春は形式的には大坂城の豊臣秀頼に仕え続けた。しかし、彼の心はすでに徳川方にあった。その忠誠を最終的に証明する機会となったのが、大坂の陣である。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の開戦直前、徳川との内通を疑われた豊臣家の重臣・片桐且元が大坂城を退去する際、義春もこれに付き従って行動を共にした 7 。これは、豊臣家との完全な決別を意味する決定的な行動であった。
翌年の大坂夏の陣では、明確に徳川方として参陣 29 。一説には、陣中に家康自らから召され、かつて上杉家で学んだ謙信流の軍法について言上したという逸話も残っている 14 。
戦後、彼のこれら一連の忠勤は家康に高く評価された。義春は正式に江戸幕府の旗本として召し抱えられ、家康の命により、長年の悲願であった「畠山」姓への復帰を許された 14 。これは単なる名誉回復ではない。能登畠山氏の血筋と家名が、新たな支配者である徳川幕府によって公的に認められ、その体制内に確固たる地位を得たことを意味する、一族再興の瞬間であった。
その後、義春は江戸に住み、幕府に仕えた。かつて敵対した上杉家とも和解が成立したという 7 。寛永20年(1643年)、京においてその波乱に満ちた生涯を閉じた 7 。大徳寺に残る記録によれば、最晩年の実名は「義明」といい、享年は95歳であったとされている 7 。彼は、没落した名家の血を引くという宿命を背負いながらも、時代の流れを読み、巧みな処世術と不屈の精神で、見事に一族の存続と再興を成し遂げたのである。
畠山義春が生涯をかけて成し遂げた一族再興の事業は、彼の子孫たちによって盤石なものとされた。その最大の成果は、江戸幕府において朝廷との儀礼などを司る特別な家格である「高家」として、二つの家系を確立させたことである。これは、義春の深謀遠慮の賜物であった。
義春は、自らの息子たちにそれぞれ「畠山」と「上杉」の名跡を継がせ、別々の家として幕府に仕えさせた。これは、一族の存続を確実にするための巧みなリスク分散戦略であった。「畠山」は一族の根源であり、足利一門としての高い家格の象徴である 23 。一方、「上杉」は、上杉謙信の一門であったという輝かしい経歴と、米沢藩主上杉家との繋がりを示すものであり、これもまた幕府にとって価値のある家名であった 31 。一つの家に統合せず、二つの家として並立させることで、万が一どちらかの家が断絶しても、もう一方の家が存続する可能性を高めたのである。これは、養父・上条政繁と実の家系である能登畠山氏の両方に対する義理を果たし、自らの生涯の物語を二つの家系に刻み込むという、見事な戦略であったと言えよう。
能登畠山氏の嫡流は、義春の三男・畠山義真が継承した 30 。義真は慶長6年(1601年)に家康に拝謁し、元和3年(1617年)には大和・河内・摂津国内で加増を受け、知行は合計3120石余に達した 30 。そして、その子である義里の代の寛文3年(1663年)、正式に高家に列せられた 4 。以降、この家系は代々高家肝煎などの要職を務め、幕府の儀典において重要な役割を担い、明治維新までその家名を保った 32 。
一方、義春の次男・上杉長員は、養祖父・上条政繁が継いだ上杉の名跡を継承した 34 。彼は慶長6年(1601年)に家康に仕え、下総国・常陸国内に1490石余の知行を与えられて旗本となった 14 。そして、その子である長貞の代の慶安元年(1648年)に、この家系も高家に列せられた 4 。途中、同族である高家畠山家から養子を迎えるなどして血脈を繋ぎ、この家もまた明治維新まで存続した 34 。
以下の表は、畠山義春から分かれた二つの高家の主要な系譜と歴代当主をまとめたものである。
表:畠山義春以降の主要系譜と両高家の歴代当主
【分流図】
畠山義春
┣━━ 上杉長員 (次男) → 高家上杉家
┗━━ 畠山義真 (三男) → 高家畠山家
高家上杉家(上条上杉系) |
高家畠山家(能登畠山系) |
初代 上杉長員 (1490石) 35 |
初代 畠山義春 (1500石) 30 |
二代 上杉長政 |
二代 畠山義真 (3120石余) 30 |
三代 上杉長貞 (高家に列す) 36 |
三代 畠山義里 (高家に列す) |
四代 上杉長之 |
四代 畠山義寧 |
(以降、明治維新まで存続) |
(以降、明治維新まで存続) |
本報告書で詳述してきた畠山政繁、そしてその志を継いだ養子・畠山義春の生涯は、戦国時代から江戸時代初期という、日本の歴史上最も激しい社会変動期を武家がいかにして生き抜いたかを示す、象徴的な軌跡である。
彼らを、単に主君を次々と変えた日和見主義者や、没落した大名の哀れな末裔として評価することは、その本質を見誤るものである。むしろ彼らは、守護大名という旧世界の権威が崩壊する現実を身をもって体験し、その中で自らが持つ「血」と「家格」という無形の資産を最大の武器として、巧みに時代の波を乗りこなした卓越した戦略家であったと再評価すべきである。
養父・政繁は、能登畠山氏の没落という逆境を、上杉謙信の一門に列するという飛躍の好機へと転換させた。その過程で見せた政治的嗅覚は、彼が単なる武辺者ではなかったことを示している。そして養子・義春は、養父が築いた基盤と自らの血筋を元手に、豊臣政権下で巧みに地位を確保しつつ、次なる覇者・徳川家康への乗り換えを周到に準備し、実行した。その冷静な政局分析と大胆な決断力は、まさしく乱世を生き抜くための処世術の極致であった。
最終的に、彼らの生涯をかけた努力は、江戸幕府における二つの「高家」の創設という輝かしい成果に結実した。これは、武力による支配が絶対であった戦国時代が終わり、家格と儀礼が重視される近世武家社会が到来したことを見事に予見し、適応した結果に他ならない。畠山政繁と義春の物語は、武家の「家」の存続がいかに困難であり、それを成し遂げるためにいかなる知略と忍耐が求められたかを、我々に雄弁に物語っている。その巧みな立ち回りと、一族を後世に繋いだ功績は、戦国史においてもっと高く評価されるべきであろう。