最終更新日 2025-08-04

畠山政長

畠山政長は室町幕府管領。宿敵・義就との家督争いが応仁の乱の一因に。将軍擁立で幕政を主導するも、明応の政変で孤立し自刃。名刀「薬研藤四郎」の逸話も残る悲劇の武将。

室町幕府の落日と管領の悲劇:畠山政長の生涯に関する総合的考察

序論:時代の奔流に生きた管領 ― 畠山政長という悲劇

畠山政長(1442-1493)は、室町時代中後期の動乱を象徴する武将であり、室町幕府の管領として政権の中枢にありながら、その生涯は絶え間ない戦いに明け暮れた。一般的に、彼の名は宿敵・畠山義就との家督争いが「応仁の乱」の一因となったという文脈で語られることが多い 1 。しかし、その評価は彼の生涯の一側面に過ぎない。政長の人生は、室町幕府という旧来の権威構造が崩壊し、実力主義が支配する戦国乱世へと日本社会が移行する、まさにその巨大な転換点を一身に体現したものであった。

彼の生涯は、管領家という名門の嫡流としての「公人」の顔と、宿敵との私闘に人生を捧げた「武将」の顔という、二つの相容れない役割の狭間で引き裂かれていた。その矛盾と苦悩の中には、室町時代後期の政治体制が内包していた構造的欠陥が凝縮されている。彼の戦いは、個人的な野心から始まったものではなく、伯父・畠山持国が作り出した家督問題という「継承された悲劇」に端を発し、兄の死を経て、家臣団に擁立される形でその渦中に投じられたものであった 2

本報告書は、畠山政長の生涯を時系列に沿って丹念に追い、その行動の背景にある政治的力学、社会的変動、そして彼自身の人間性に深く迫ることを目的とする。彼の人生の軌跡を詳細に解明することを通じて、単なる一武将の伝記に留まらず、室町幕府が終焉を迎え、戦国時代がその扉を開くに至った歴史の必然と、その時代に生きた人間の壮絶なドラマを浮き彫りにする。

表1:畠山政長 関連年表

西暦 (和暦)

政長の年齢

畠山政長(尾州家)の動向・役職

畠山義就(総州家)の動向

幕府・中央政局の主要事件(将軍・管領・有力大名の動向)

1442 (嘉吉2)

1歳

畠山持富の次男として誕生 2

6代将軍足利義教が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺される。

1448 (文安5)

7歳

父・持国に召し出され、後継者となる 5

8代将軍足利義政が元服。

1454 (享徳3)

13歳

兄・弥三郎(政久)を擁する家臣団が、義就派と武力衝突 7

弥三郎派の襲撃を受け、一時京都から逃れる 6

細川勝元、山名宗全らが弥三郎派を支援。

1459 (長禄3)

18歳

兄・弥三郎が死去。反義就派の家臣団に新たな旗頭として擁立される 2

大和などで政長派と抗争を続ける。

1460 (長禄4)

19歳

将軍義政の命令により畠山氏家督を継承。義政より偏諱を受け「政長」と名乗る 4

家督を剥奪され、河内嶽山城に籠城し抵抗(嶽山城の戦い) 9

細川勝元が政長を後援。

1464 (寛正5)

23歳

細川勝元の後任として管領に就任 2

吉野に逼塞していたが、赦免される 6

1466 (文正元)

25歳

山名宗全の圧力により管領を罷免される 2

山名宗全の後援を得て上洛。復権を果たす 4

文正の政変。山名宗全と細川勝元の対立が激化。

1467 (応仁元)

26歳

上御霊合戦で義就に敗北。細川勝元に保護される。東軍の主将として応仁の乱を戦う 4

上御霊合戦で勝利。西軍の中核として参戦 10

応仁の乱勃発。

1473 (文明5)

32歳

細川勝元、山名宗全が相次いで病死。

1477 (文明9)

36歳

3度目の管領に就任。

京都を離れ河内へ下向。若江城の戦いで勝利し、河内・大和を制圧 6

応仁の乱が終結。

1478 (文明10)

37歳

山城守護に任じられる 4

河内・大和を実効支配。

1485 (文明17)

44歳

山城国一揆の要求により、軍を山城から撤退させる 16

同様に山城から撤退。

山城国一揆が成立。国人による8年間の自治が始まる。

1489 (延徳元)

48歳

将軍義尚の死後、足利義材(義稙)を10代将軍に擁立し、連携を深める 4

9代将軍足利義尚が近江の陣中で死去。

1490 (延徳2)

49歳

12月12日、病死。子の義豊(基家)が後を継ぐ 19

1493 (明応2)

52歳

2月、将軍義材と共に、義豊討伐のため河内へ出陣。閏4月25日、細川政元のクーデター(明応の政変)で孤立し、正覚寺城で自刃 4

父の宿敵・政長を攻め、自刃に追い込む。

細川政元が明応の政変を決行。足利義澄を新将軍に擁立。


第一章:宿命の継承 ― 畠山家の家督問題と政長の登場

1.1. 名門の系譜と争乱の萌芽

畠山氏は、清和源氏足利氏の支流であり、室町幕府において細川氏・斯波氏と共に管領を輩出する「三管領家」として、幕政に絶大な影響力を持つ名門であった 22 。政長の伯父にあたる畠山持国は、父・満家を継いで管領を務め、河内・紀伊・越中などの守護を兼ねる有力大名として、8代将軍・足利義政の初期の治世を支えた 22

しかし、その持国には長らく嫡出の男子がおらず、家督の継承が課題となっていた。そのため、持国は実弟である持富(もちとみ)、すなわち政長の父を養子として迎え、後継者と定めていた 7 。この時点では、畠山家の家督は持国の弟筋へと平穏に継承されるはずであり、後のような血で血を洗う争乱の影はまだ見られなかった。

1.2. 庶子・義就の出現と家中の亀裂

この平穏な継承計画を根底から覆したのが、庶子・畠山義就の登場であった。持国が40歳を過ぎた文安5年(1448年)、側室との間に生まれた実子・義就(当初は義夏)を溺愛するあまり、突如として弟・持富を廃嫡し、義就を新たな後継者とすることを宣言したのである 5

この決定は、畠山家中に深刻な亀裂を生じさせた。その背景には、義就自身の出自を巡る問題があった。『東寺過去帳』などの記録によれば、義就の母は「土用」という名の身分の低い女性で、「皮屋の子」であるといった風聞も流れるなど、その血筋の正統性には大きな疑問符が付けられていた 6 。事実、義就は元々、武家の後継者ではなく石清水八幡宮の社僧となる予定であったところを、持国によって俗世に呼び戻された経緯がある 5

持国の独断的な後継者指名と、義就の出自の曖昧さは、家中の秩序を重んじる重臣たちの猛烈な反発を招いた。守護代の神保国宗らに代表される家臣たちは、本来の継承筋である故・持富の子、弥三郎(政長の兄)を旗頭として擁立し、義就を推す遊佐国助らと鋭く対立した 3 。この対立は単なる意見の相違に留まらず、享徳3年(1454年)には両派による屋敷の焼き討ちへと発展し、畠山家は内戦状態に突入した 7

この畠山家の内紛は、単なるお家騒動では終わらなかった。それは、当時の室町幕府の権力構造が内包していた「名分」と「実力」の深刻な緊張関係を白日の下に晒すものであった。持国が将軍・義政の裁可を得て義就を後継としたのは、当主としての「実力」行使であった 5 。これに対し、弥三郎・政長派の抵抗は、血筋の正統性や家中の旧来の秩序という「名分」を根拠としていた。そして、この家中の争いに、畠山氏の弱体化を狙う細川勝元や山名宗全といった外部の「実力者」たちが介入したことで、事態はさらに複雑化した 7 。彼らは、畠山家内部の「名分」を巡る争いを、自らの政治的影響力を拡大するための道具として巧みに利用し、家督問題は幕府全体の権力闘争の代理戦争という様相を呈していったのである。

1.3. 兄の死、そして政長の擁立

内紛が激化する中、反義就派の旗頭であった兄の弥三郎政久が陣没する 2 。しかし、これで争いが終わることはなかった。弥三郎派の家臣団、特に遊佐長直や神保長誠らは、その弟である弥二郎、すなわち後の政長を新たな旗頭として擁立し、義就との対決姿勢を崩さなかった 2 。こうして政長は、兄の死によって、自らの意志とは別に、一族の宿命を背負って歴史の表舞台へと押し出されることになった。

長禄3年(1459年)、政長は兄の遺志を継ぐ形で、反義就派の指導者となる。そして翌長禄4年(1460年)、細川勝元の強力な後援を受けた将軍・足利義政が介入し、義就の家督を剥奪、政長を正式な畠山氏の惣領とする裁定を下した 2 。この時、政長は将軍義政から「政」の一字を賜り、名を「政長」と改めた 4

しかし、幕府の命令によって追放された義就は、決して屈服しなかった。彼は本拠地の河内国にある嶽山城に立てこもり、政長が率いる幕府の討伐軍に対して徹底抗戦を開始した。この「嶽山城の戦い」において、義就は2年以上にわたって籠城を続け、その恐るべき粘り強さと軍事的才能を見せつけた 9 。最終的に城は陥落し義就は吉野へと逃れたものの、この執拗な抵抗は、両者の憎悪を決定的なものとし、やがて京の都を巻き込む未曾有の大乱の、不気味な前奏曲となったのである。

第二章:応仁・文明の乱 ― 首都を駆けた十一年の戦い

2.1. 開戦の号砲「御霊合戦」

嶽山城を追われ吉野に潜んでいた畠山義就であったが、再起の機会は意外な形で訪れた。当時、幕政の双璧をなしていた細川勝元と山名宗全の対立が深刻化しており、宗全は勝元に対抗するための強力な駒として、戦上手の義就に目をつけた 10 。文正元年(1466年)、宗全の強力な働きかけにより義就は赦免され、軍勢を率いて堂々と上洛を果たした 4

義就を自陣に引き入れた宗全は、将軍・義政に強引に迫り、政長を管領職から罷免させ、畠山家の家督も再び義就に与えるよう要求した 11 。幕府内での立場を完全に失い、追い詰められた政長は、応仁元年(1467年)1月17日の深夜、京の自邸に火を放つと、約2千の兵を率いて室町第の北に位置する上御霊神社に布陣し、決死の覚悟を示した 11

この異常事態に対し、将軍義政は「これはあくまで畠山家の私闘である」として、他の大名の介入を固く禁じる命令を発した 11 。政長の後援者であった細川勝元は、幕府の秩序を重んじる立場からこの将軍命令を律儀に遵守し、政長に援軍を送らなかった。しかし、対する山名宗全は、もはや形骸化した将軍の権威を意にも介さず、公然と義就に加勢した 11 。兵力で勝る義就軍は、宗全の援軍を得て政長の陣に猛攻を加え、衆寡敵せず政長軍は敗走。政長は自害を装って辛くも戦場を脱出し、皮肉にも自分を見捨てた細川勝元の屋敷へと逃げ込んだ 9 。この「御霊合戦」と呼ばれる戦闘が、京都を11年間にわたって焦土と化す「応仁・文明の乱」の直接的な口火となったのである 32

この御霊合戦における細川勝元の「不介入」という判断は、結果的に大乱を誘発した歴史の逆説を示している。管領経験者として将軍命令という「名分」に従うことは、旧来の秩序を維持する上では当然の行動であった。しかし、敵対する宗全がその名分を公然と無視し、「実力」を行使している現実の前では、その行動は致命的な意味を持った。名分にこだわった結果、勝元は同盟者である政長を見殺しにした形となり、「武士の風上にも置けぬ」と世の非難を浴び、武将としての面目を完全に失った 11 。そして、この耐え難い屈辱こそが、勝元に宗全との全面対決を決意させる最大の動機となったのである 14 。秩序を守ろうとした行動が、結果として秩序の全面的な崩壊を招いてしまったこの一件は、もはや建前だけでは機能しなくなった室町幕府システムの末期症状を象徴していた。

2.2. 東軍の主将として ― 泥沼の市街戦

御霊合戦での屈辱を受け、細川勝元は報復を決意。諸国から兵を京都に集結させると、花の御所(室町第)を制圧して将軍・義政を確保し、自派の大名を糾合して「東軍」を組織した 9 。これに対し、山名宗全も畠山義就らと共に「西軍」を結成し、両軍は京都を東西に分断して対峙した。

政長も幕府から赦免されて戦線に復帰し、東軍の主要な将帥の一人として、宿敵・義就が中核を担う西軍と対峙することになった 4 。ここに、将軍家の後継者問題(足利義視対義尚)や斯波家の家督争いといった他の対立軸も複雑に絡み合い、戦乱は京都市中での泥沼の市街戦から、やがて全国へと拡大していった 10

この大乱の中で、政長は一人の武将として目覚ましい武勇を示している。特に応仁元年(1467年)10月の「相国寺の戦い」では、西軍が占拠していた相国寺に対し、政長は3千の兵を率いて奇襲を敢行。不意を突かれた西軍を大混乱に陥れ、一説には800もの首級を挙げるという大戦果を挙げて相国寺を奪還した 15 。この活躍は、彼が単なる名門の当主ではなく、優れた軍事指揮官でもあったことを示している。

しかし、局地的な勝利も戦局全体を覆すには至らず、戦いは一進一退を繰り返しながら長期化していった。京都の市街は焼き払われ、文化財は灰燼に帰した。政長は東軍の主将として京での戦闘に忙殺される一方、その間隙を突かれて、本来の地盤である河内や大和では義就派の勢力が着実に浸透し、領国の実効支配は徐々に失われていった 4 。これは、守護が領国を離れて在京することを原則とした幕府の「守護在京制」が、長期の内乱下では自らの領国基盤を蝕むという致命的な欠陥を露呈したものであった。

2.3. 乱の終結と残されたもの

文明5年(1473年)、東西両軍の巨頭であった細川勝元と山名宗全が相次いで病死すると、指導者を失った両陣営には急速に厭戦気分が広がった 38 。そして文明9年(1477年)、西軍最大の兵力を提供していた大内政弘が、領国の安堵を条件に軍を率いて周防へ帰国したことで、11年に及んだ大乱は事実上の終結を迎えた 15

京都の戦火は収まったが、応仁の乱の直接的な原因であった畠山家の家督争いは、何一つ解決していなかった。それどころか、政長にとっては最悪の形で継続されることとなる。乱の終結を目前にした同年9月、畠山義就は京の戦線から離脱して本拠の河内へ下向すると、政長派の守護代・遊佐長直が守る若江城を攻略し、河内一国を完全に制圧した 6 。さらに大和国においても義就派の国人である越智氏らが筒井氏らを駆逐し、その支配を確立した 4

結果として、政長は11年もの歳月を戦い抜いた末に、幕府の権威という後ろ盾と、自らの領国という経済的・軍事的基盤の両方を同時に失うという、破滅的な現実に直面した。応仁の乱は、彼から名目上の守護職以外の全てを奪い去り、残されたのは宿敵への尽きることのない憎悪と、領国奪還という絶望的な執念だけであった。

第三章:乱後の畿内と管領としての政務

3.1. 終わらない私闘 ― 河内・大和・山城を巡る争い

応仁の乱終結後、政長は文明9年(1477年)12月に3度目となる管領に就任し、翌年には山城守護にも任じられるなど、幕政の中枢における名目上の地位は保っていた 4 。しかし、その権力は著しく弱体化しており、実態は伴わなかった。河内・大和を失った政長にとって、新たに守護となった山城国は、失地回復のための最後の拠点であった。彼は山城において、幕府の財政難を理由に寺社本所領へも課税を行うなど、強引な手法で守護としての実権を確立し、領国化しようと試みた 4

しかし、これは新たな争いの火種をまくことになる。河内・大和を実効支配する義就もまた、京への玄関口である南山城を自らの勢力圏に組み込もうと狙っており、両者の争いは南山城を主戦場として継続された 16 。応仁の乱という公的な大戦は終わったものの、畿内では両畠山氏による私的な戦争が延々と続き、平和が訪れることはなかった。

3.2. 「山城国一揆」との対峙

長年にわたって自らの土地を戦場とされ、略奪と破壊に苦しんできた山城南部の国人や地侍たちの忍耐は、ついに限界に達した。文明17年(1485年)12月、彼らは宇治の平等院に集結し、歴史上名高い「山城国一揆」を結成した 17 。彼らが掲げた要求は、「畠山両氏、山城国から退去すべし」という、守護の権威を真っ向から否定するものであった 46

この一揆の強固な結束と圧力の前に、政長・義就の両軍はなすすべもなく、共に軍を山城から撤退させざるを得なかった 16 。守護でありながら、領国の住民によって実力で追放されたこの事件は、政長の権威を著しく失墜させた。以後8年間にわたり、南山城では36人の国人衆による合議制の自治が行われることになる。

山城国一揆は、応仁の乱がもたらした深刻な社会変動の象徴的な出来事であった。長期にわたる戦乱は、在地社会の武装化と自立化を促し、惣村といった共同体を基盤とする農民や地侍が、自衛のために団結し政治的な発言力を増大させていた 48 。彼らにとって、政長と義就の家督争いは、自分たちの生活と土地を破壊するだけの「迷惑な争い」でしかなかった。守護の命令ではなく、自分たちの利害に基づいて団結し、支配者である守護を実力で排除したこの行動は、まさに「下克上」の時代の到来を告げるものであった 18 。幕府の権威を背負う政長は、その権威がもはや在地社会には通用しないという厳しい現実を突きつけられたのである。

3.3. 幕政の中枢にて ― 権勢と限界

在地での権力基盤を失う一方で、政長は中央政界での生き残りを図った。彼は管領として、9代将軍・足利義尚、そして義尚の死後に将軍となった足利義材(後の義稙)を補佐した 4

特に、延徳元年(1489年)に義尚が陣没した後の将軍継嗣問題では、その手腕を発揮する。当時、管領であった細川政元が別の候補を推す中、政長は故・足利義視の子である義材を強力に推挙し、10代将軍の座に就けることに成功した 4 。これにより、政長は新将軍・義材と緊密な連携関係を築き、細川政元に対抗する形で幕政における権勢を一時的に回復させた 4

しかし、その権力基盤は常に不安定であった。彼の政治力の源泉は、あくまで将軍との個人的な関係に依存しており、宿敵・義就との終わりの見えない争いに忙殺されるあまり、管領として幕府財政の再建といった根本的な課題に取り組む余力はなかった 47 。そして何より、将軍の後ろ盾を得て権勢を振るう彼の姿は、若き管領・細川政元の目に「年寄り風を吹かせる邪魔な存在」と映り、その反感と警戒心を日に日に強めさせる結果となった 52 。政長の政治的成功が、皮肉にも自らの破滅の種を蒔いていたのである。

第四章:明応の政変 ― 戦国時代の扉を開いた最期

4.1. 最後の宿願 ― 河内への出陣

延徳2年(1490年)、政長が生涯をかけて戦い続けた宿敵・畠山義就が病死した 19 。四半世紀以上にわたる憎悪の対象がこの世を去ったが、それで争いが終わることはなかった。義就の遺志は、その子である義豊(基家)に引き継がれ、河内・大和における支配は揺るがなかった 55

政長は、これを長年の宿敵一族を根絶やしにする千載一遇の好機と捉えた。彼は自らが擁立した将軍・足利義材に強く働きかけ、幕府の総力を挙げた義豊討伐軍の派遣を実現させる 19 。これは、もはや私闘ではなく、将軍自らが率いる公的な征伐であった。

明応2年(1493年)2月、将軍義材は自ら軍を率いて京都を出陣。政長は嫡子の尚順と共にこれに付き従い、意気揚々と河内へと進軍した 4 。幕府軍は各地で勝利を重ね、義豊の本拠地である高屋城に迫った。政長の生涯をかけた悲願の達成は、目前にまで迫っているかのように見えた。

4.2. 京のクーデターと孤立

しかし、政長の背後では、破滅への罠が静かに仕掛けられていた。この河内遠征に対し、管領の細川政元は当初から反対の意を唱えていた。三管領家として畠山氏とライバル関係にある細川氏にとって、畠山氏が内紛で弱体化している状況はむしろ好都合であり、政長の主導で畠山氏が再統一され、強化されることは断じて許容できなかったのである 57

政元は、将軍と政長という政敵が共に京都を留守にしているこの絶好の機会を見逃さなかった。同年4月22日、彼は京都で電撃的にクーデターを決行。将軍義材の廃立を宣言し、新たな将軍として義材の従兄弟にあたる清晃(後の足利義澄)を擁立した 19

この知らせが河内の陣中に届くと、事態は一変した。昨日まで政長と共に将軍の忠臣として戦っていた赤松政則をはじめとする諸大名や幕府奉公衆の多くは、クーデターの成功をみるや、雪崩を打って義材と政長を見捨て、政元方へと寝返った 19 。将軍自らが率いる幕府軍は、一夜にして逆賊の烙印を押された反乱軍となり、政長は宿敵の領国の真っただ中で、完全に孤立無援の状態に陥った。

この「明応の政変」は、政長の個人的な執念が、政敵の野心に利用され、結果的に室町幕府という統治システムそのものに死をもたらした、歴史の皮肉な連鎖反応であった。義就一族の殲滅という政長の「執念」が、将軍を動かし、京都に権力の空白を生んだ。その空白を、将軍を傀儡化し幕政を掌握するという細川政元の「野心」が突いた。そして、家臣が将軍を廃立するというこの前代未聞のクーデターは、室町幕府の権威を完全に失墜させ、その統治システムを事実上終わらせたのである 19 。家の「正統」を守るために生涯を捧げた政長の最後の戦いが、日本の統治システムそのものの「正統性」を破壊し、実力のみがものをいう戦国時代を決定づけた。これこそが、明応の政変が持つ、あまりにも皮肉な歴史的帰結であった。

4.3. 正覚寺の悲劇 ― 壮絶な自刃

完全に孤立した将軍義材と政長は、河内国の正覚寺城に立てこもって最後の抵抗を試みた 4 。最後の望みであった紀伊からの援軍も、堺のあたりで細川・赤松連合軍に迎撃されて敗北し、万策は尽きた 21

明応2年(1493年)閏4月25日、細川政元の家臣・上原元秀が率いる軍勢、そして昨日までの討伐対象であった畠山義豊の軍も加わった大軍が、正覚寺城に最後の総攻撃を開始した 19 。もはやこれまでと覚悟を決めた政長は、嫡子・尚順を僅かな手勢と共に城から脱出させ、未来を託した後、城中に燃え盛る炎の中で切腹して果てた。享年52であった 4 。将軍義材は捕縛され、京都での幽閉を経て、後に越中へと脱出することになる 19

政長の死は、応仁の乱から数えて約四半世紀にわたって続いた畠山家の泥沼の家督争いに、一つの悲劇的な終止符を打った。そしてそれ以上に、彼の死と将軍の廃立を伴ったこの明応の政変は、室町幕府の権威が回復不可能なまでに失墜したことを天下に示し、日本史が本格的な「戦国時代」の扉を開いたことを告げる、象徴的な出来事となったのである 19

第五章:人物像と後世への影響

5.1. 人物評 ― 矜持と悲劇性の間で

畠山政長は、その生涯を宿敵・畠山義就一族との戦いに捧げた、執念の武将であった。その戦いは兄から受け継いだものであり、家督奪還という宿願を目前にしながら政敵の謀略によって命を落としたその最期は、まさしく悲劇的というほかない 66

一方で、彼は単なる一武将に留まらなかった。管領職を三度にわたって務め、将軍を擁立して幕政を主導しようと試みるなど、三管領家当主としての高い矜持と政治的野心を持ち合わせた人物でもあった 4 。相国寺の戦いで見せた武勇は、彼の軍事的能力の高さも物語っている 15

しかし、その政治手法や価値観は、時代の変化から取り残されていた側面も否めない。細川政元から「年寄り風を吹かせる邪魔な存在」と見なされていたように、将軍の権威に依存する彼の権力構造は、もはや新たな時代の実力者たちの前では脆弱であった 52 。彼の生涯は、個人の資質や能力だけでは抗うことのできない、時代の巨大な奔流に翻弄された一人の人間の、壮絶な記録として捉えることができる。

5.2. 名刀「薬研藤四郎」の逸話

政長の悲劇的な最期は、一振りの名刀にまつわる有名な逸話を生んだ。正覚寺で自刃する際、政長は愛用していた粟田口吉光作の短刀、後の「薬研藤四郎」で腹を切ろうとした。しかし、三度試みても刃は全く腹に食い込まなかったという 4

これに憤慨した政長が「切れ味抜群と聞いていたが、いざという時に役立たずめ」と短刀を傍らに投げ捨てると、刀はそこに置かれていた銅鉄製の薬研(薬種をすり潰すための道具)に突き刺さり、見事に貫いたと伝えられる 68 。この逸話から、「薬研藤四郎」は「切れ味は抜群だが、主君の腹は切らぬ忠義の刀」として後世に名を馳せることになった 70 。なお、政長自身は、家臣が差し出した別の刀で自害を遂げたとされる 4

この伝説は、史実としての真偽はともかく、志半ばで非業の死を遂げた政長への後世の人々の同情や、その無念の死を悼む想いが結晶化したものと解釈できる 66 。名刀の奇跡的な物語を通して、彼の最期の悲劇性は、より一層深く人々の記憶に刻み込まれていったのである。

5.3. 尾州家のその後と畠山氏の没落

政長の死後、家督は辛くも正覚寺を脱出した嫡子・尚順が継承した。政長の家系は、彼が尾張守であったことから「尾州家」と称されるようになる 23

尚順は、父の仇である畠山義豊や細川政元に対し、生涯をかけて抵抗を続けた。流浪の身となった前将軍・足利義材を支持し続け、その復権運動に身を投じるなど、父譲りの義理堅さと執念を見せた人物であった 52 。一時は紀伊を拠点に勢力を盛り返し、河内を回復するなど奮闘したが、中央政局の複雑な権力闘争の波に翻弄され、最終的には再び没落した 74

その後の尾州家は、守護代であった遊佐氏や、畿内で台頭した三好氏といった実力者たちの下克上に苦しめられ、内紛を繰り返しながら急速に衰退していく 76 。そして、織田信長の時代に当主・畠山秋高が家臣の遊佐信教に殺害され、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州征伐によって、大名としての畠山尾州家は完全に歴史から姿を消した 76 。政長の死から、およそ90年後のことであった。

一方、宿敵であった義就流の「総州家」もまた、同様に戦国の動乱の中で分裂と衰退を重ね、歴史の彼方へと消えていった。応仁の乱の火種となった畠山氏の内紛は、結果的に両家の共倒れという、あまりにも空しい結末を迎えたのである。

結論:室町幕府と共に散った管領

畠山政長の生涯は、伯父の代に始まった家督争いという宿命に翻弄され、応仁の乱という未曾有の内乱を戦い抜き、最後は政敵のクーデターによって非業の死を遂げるという、まさに室町時代末期の動乱そのものを凝縮したものであった。

彼は、失墜していく室町幕府の「権威」を体現する最後の管領の一人でありながら、同時に、自らの領国を「実力」で維持・回復せねばならない戦国武将の先駆けでもあった。この旧時代の支配者と新時代の競争者の狭間に立つ二重性こそが、彼の悲劇の根源であったと言える。彼は幕府の公人として行動しようとすればするほど、在地の実力を失い、武将として実力を追求しようとすればするほど、中央での政治的立場を危うくした。

そして、彼の死を招いた明応の政変は、単なる一個人の死に留まらなかった。それは、将軍が家臣によって意のままに廃立されるという事実を天下に示し、室町幕府という統治システムに最終的な終止符を打った。畠山政長は、自らが守ろうとした旧世界の秩序と共に、その生涯を閉じたのである。彼は意図せずして、自らの死をもって新しい時代の扉をこじ開けた人物として、日本史にその名を深く刻んでいる。彼の人生は、一個人の悲劇的な物語であると同時に、一つの時代が終わり、新たな時代が産声を上げる瞬間の、壮絶なドキュメントなのである。

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