畠山稙長(はたけやま たねなが)は、永正元年(1504年)に生まれ、天文14年(1545年)に没した戦国時代の武将である 1 。彼は室町幕府の最高権力職である管領を輩出した三管領家の一つ、畠山氏の嫡流・尾州家(びしゅうけ)の当主として、河内、紀伊、越中の守護職を継承した名門の出身であった 3 。その生涯は、父との確執、宿敵である分家・総州家(そうしゅうけ)との絶え間ない抗争、そして何よりも守護代の遊佐長教(ゆさ ながのり)や新興勢力の木沢長政(きざわ ながまさ)といった家臣や外部勢力によって、当主の座を追われ、再び復権するという波乱に満ちたものであった 3 。
彼の人生は、主君が家臣に実権を奪われる「下剋上」という言葉が想起させる典型的なイメージに合致する。しかし、その過程は単純な権力奪取の物語ではない。稙長の追放と復権は、応仁の乱以来続く畠山氏の構造的な分裂、管領・細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)の内紛、そして三好氏の台頭といった、戦国前期の畿内における複雑怪奇な政治力学の変動と密接に連動していた。
本報告書は、畠山稙長という一人の武将の生涯を、単なる個人の栄枯盛衰の記録としてではなく、応仁の乱の遺産を引きずりながら新たな時代の動乱へと向かう、16世紀前半の畿内政治史の縮図として捉え直すことを目的とする。彼の人生の軌跡を丹念に追うことを通じて、伝統的権威が実力主義の前にいかにして侵食され、変質していったのか、その過渡期の力学を多角的に解明する。
和暦(西暦) |
稙長の年齢 |
畠山稙長および畠山家の動向 |
畿内・中央の主要な動向(細川氏・三好氏・幕府等) |
永正元年(1504) |
1歳 |
畠山尚順の子として誕生 1 。 |
細川政元、養子・澄元擁立のため挙兵 8 。 |
永正8年(1511) |
8歳 |
父・尚順より高屋城を譲られる 3 。 |
細川澄元・政賢が船岡山合戦で敗死。 |
永正12年(1515) |
12歳 |
元服。将軍・足利義稙より偏諱を受け「稙長」と名乗る 9 。 |
|
永正14年(1517) |
14歳 |
父・尚順の隠居により家督を継承。尚順は紀伊へ下向 3 。 |
大内義興が周防へ帰国。 |
永正17年(1520) |
17歳 |
父・尚順が紀伊を追放される。総州家・畠山義英に高屋城を奪われるが、後に奪還 3 。 |
細川高国と将軍・足利義稙が対立。 |
大永2年(1522) |
19歳 |
父・尚順が淡路で病没 9 。 |
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大永6年(1526) |
23歳 |
将軍・足利義晴の石清水八幡宮参詣を警固 10 。 |
|
大永7年(1527) |
24歳 |
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細川高国が桂川の合戦で細川晴元・三好元長に敗北。 |
享禄元年(1528) |
25歳 |
総州家・畠山義堯に高屋城を攻め落とされる 3 。 |
|
享禄5年/天文元年(1532) |
29歳 |
畠山義堯が木沢長政に討たれる。稙長、高屋城に復帰か 3 。 |
大物崩れで細川高国が自刃。三好元長が堺で自刃。 |
天文3年(1534) |
31歳 |
遊佐長教・木沢長政により追放され、紀伊へ出奔。弟・長経が擁立される 3 。 |
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天文10年(1541) |
38歳 |
|
木沢長政が細川晴元と対立し、反乱を起こす 6 。 |
天文11年(1542) |
39歳 |
遊佐長教と和睦。紀伊から3万の軍勢を率い河内へ進軍。太平寺の戦いで木沢長政を破り、高屋城に復帰 3 。 |
太平寺の戦いで木沢長政が戦死 14 。 |
天文14年(1545) |
42歳 |
5月15日、死去。弟・政国が遊佐長教に擁立され家督を継承 1 。 |
|
畠山稙長の生涯を理解する上で、その前提となるのが、応仁の乱(1467-1477年)にまで遡る畠山氏の根深い内紛である。室町幕府の管領を世襲する名門・畠山氏は、15世紀半ば、当主・畠山持国の後継者問題をきっかけに、持国の実子・義就(よしなり)を支持する派閥と、持国の甥(弟の子)である政長(まさなが)を支持する派閥とに分裂した 4 。この家督争いは、細川勝元と山名宗全の対立と結びつき、日本全土を巻き込む応仁の乱の直接的な原因の一つとなった 16 。
乱後も両者の対立は収まらず、政長の系統は官途名の尾張守から「尾州家」、義就の系統は上総介から「総州家」と称され、それぞれが正統性を主張し続けた 17 。稙長が生まれた16世紀初頭には、尾州家が河内国の南半国と高屋城を、総州家が北半国を領有するという形で、一つの領国内に二つの権力が並立する不安定な状況が続いていた 3 。この宿命的な分裂構造は、稙長の治世を通じて常に彼の足枷となり、家臣団や外部勢力が介入する絶好の口実を与え続けることになった。
稙長の父・畠山尚順(ひさのぶ)は、明応の政変(1493年)で父・政長が非業の死を遂げた後、紀伊国に逃れて勢力を保った 17 。彼は後に、周防国から上洛した大内義興や、管領となる細川高国と連携し、総州家の畠山義英を破って一時的に勢力を回復させることに成功した人物である 4 。
このような状況下で、稙長は永正元年(1504年)に尚順の子として生を受けた 1 。一部には永正6年(1509年)生まれとする説もある 9 。幼名は鶴寿丸(あるいは亀寿丸)と伝わる 9 。永正12年(1515年)、当時の将軍であった足利義稙(よしたね)から一字(偏諱)を賜り、「稙長」と名乗った 9 。これは、畠山氏が足利一門の名家であり、将軍家と密接な関係にあったことを示す慣例であった。
稙長が公式に家督を継承したのは、父・尚順が隠居した永正14年(1517年)のことである 3 。しかし、それより6年も前の永正8年(1511年)には、既に父から本拠地である河内国の高屋城を譲られていた 3 。史料からは、この時期、父・尚順が紀伊や越中といった周辺領国の経営に活動の重心を移し、若年の稙長が畿内の政治の中枢である京都や、本拠地・河内での対外的な活動を担うという、一種の「二元統治」体制が敷かれていたことが窺える 9 。
この二元統治は、広大かつ分散した領国を効率的に管理するための現実的な選択であったと見ることができる。一方で、この体制は権力の所在を曖昧にし、家臣団の分裂を助長する危険性を内包していた。父と息子がそれぞれ異なる地域で異なる政治的課題に向き合う中で、家中の意思統一は困難になる。事実、後に尚順が将軍・義稙を支持し、稙長が管領・高国と協調するという路線対立が生じるが 17 、これは二元統治体制が潜在的に抱えていた亀裂が、中央政局の変動という外的要因によって顕在化したものと解釈できる。結果として、この体制は、遊佐長教のような強力な守護代が実権を掌握し、主家の統制を弱体化させていく土壌を育む一因となったのである。
父・尚順から正式に家督を継承した畠山稙長は、当時、畿内に覇を唱えていた管領・細川高国の政権と緊密な連携を保ち、その一翼を担うことで自らの地位を安定させようと図った 3 。大永6年(1526年)には、将軍・足利義晴が石清水八幡宮へ参詣する際に、稙長が将軍の宿所の警固を担当するなど、幕府内での有力守護としての役割を果たしている記録が残っている 10 。これは、彼が高国政権下で一定の信頼を得ていたことを示している。
しかし、その一方で、領国・河内では宿敵・総州家との対立が続いていた。総州家の当主・畠山義英、そしてその後を継いだ義堯(よしたか)は、高国と敵対する細川澄元・晴元父子と結び、稙長の尾州家と激しい抗争を繰り広げた 3 。永正17年(1520年)には、義英に高屋城を一時奪われるが、同年中に奪還するなど 3 、本拠地を巡る攻防は一進一退の様相を呈した。この構図は、細川京兆家の家督争いという中央の政争に、畠山氏の家督争いという地方の対立が連動するという、当時の畿内における典型的な権力闘争の構造を如実に示している。
稙長の治世の初期を複雑にしたもう一つの要因は、父・尚順との深刻な確執であった。中央政局において、将軍・足利義稙と管領・細川高国の対立が表面化すると、長年義稙を支持してきた尚順と、高国との協調路線を取る稙長との間で、政治的な路線対立が生じた 17 。
永正17年(1520年)、尚順は強硬な統治に反発した紀伊の国人衆によって領国を追われ、堺へ逃れる事態となる 9 。これにより稙長は名実ともに畠山尾州家の単独当主となった。しかし、尚順はこれを良しとせず、あろうことか長年の宿敵であった総州家の義英と手を結び、息子の居城である高屋城を攻撃するという挙に出た 9 。この攻撃は稙長によって撃退されたものの、父子の亀裂の深さを物語っている。尚順はその後、再起を果たせないまま大永2年(1522年)に淡路で病没し、父子の対立は終焉を迎えた 9 。だが、尚順に与していた家臣団の一部が総州家と結びつくなど、内紛の火種は燻り続けたのであった 9 。
この一連の経緯は、稙長の権力基盤が極めて脆弱であったことを示唆している。彼は細川高国という畿内の最大権力者の後援を得ることで中央での地位を確保したが、その代償として父の代からの支持基盤の一部を失い、家臣団を完全に掌握するには至らなかった。彼の立場は、高国政権にとっての「畠山氏の代表者」という名代的な役割に留まっていたのである。その証拠に、大永7年(1527年)の桂川の合戦で高国が細川晴元に敗れて失脚すると、稙長は強力な後ろ盾を失い、その政治的地位は一気に不安定化した。この好機を逃さず蜂起した総州家の畠山義堯によって、翌享禄元年(1528年)には高屋城を攻め落とされ、稙長は一時的に勢力を完全に失うこととなる 3 。彼の権力が、自家の軍事力や家臣団の忠誠といった自律的な基盤の上にではなく、外部の力関係に大きく依存するものであったことが、ここに証明されたのである。
畠山稙長の生涯を語る上で、彼自身の行動以上に重要なのが、彼の権力を根底から揺るがした二人の家臣の存在である。一人は譜代の守護代・遊佐長教、もう一人は新興の梟雄・木沢長政。彼らの台頭は、畠山氏の権力構造を不可逆的に変質させ、主君と家臣の関係を完全に逆転させるに至った。
遊佐氏は、畠山氏が河内守護に就任して以来、代々守護代を務めてきた譜代の重臣筆頭の家柄であった 21 。遊佐長教は、父・順盛の地盤を継承し、河内南半国の守護代として領国内に絶大な影響力を持っていた。彼の行動原理は、もはや主君である畠山氏への忠誠ではなく、畿内全体の政治情勢、特に細川晴元政権との力関係を睨んだ、冷徹な現実主義に基づいていた。その象徴的な行動が、主君・稙長が細川晴元と敵対する本願寺勢力と連携を深めた際の対応である。晴元方についていた長教は、主君のこの動きを自らの政治的立場を危うくするものと判断し、後述する木沢長政と結託して稙長を追放するという、主従の秩序を覆す挙に出たのである 7 。
木沢長政は、遊佐長教とは対照的に、新興勢力であった。彼は元々、畠山氏の敵対勢力である総州家の被官に過ぎなかったが、主君・畠山義堯を裏切って細川晴元に取り入ることで、その地位を飛躍的に向上させた 6 。長政の特異な点は、当時大きな社会勢力となっていた一向一揆や法華一揆といった宗教勢力を、自らの政争の道具として巧みに利用したことにある。彼はこれらの勢力を扇動して政敵を次々と排除し、わずか一代で河内北半国から大和国にまで勢力を拡大した、まさに戦国乱世が生んだ怪物であった 6 。
当初、守護代・遊佐長教と新興勢力・木沢長政は、主君・畠山稙長という共通の障害を排除するため、協力関係にあった。天文3年(1534年)、両者は細川晴元政権下で連携し、稙長を紀伊へ追放することに成功する 3 。
しかし、木沢長政の勢力が予想以上に強大化し、主家である畠山氏、さらには細川晴元をも脅かす存在になると、今度は遊佐長教が自己の権益と立場を守るため、長政を危険視するようになる。ここに、主君・稙長、守護代・遊佐長教、そして外部の実力者・木沢長政による、複雑な三つ巴の権力闘争が展開されることとなった。この対立こそが、後に稙長が復権する最大の要因となるのである 6 。
この時期、畠山氏の権力構造は、名目上は当主(稙長、後にその弟たち)を頂点とし、守護代(遊佐)がそれを補佐するという伝統的な形を保っていた。しかし、その実態は、守護代(遊佐)と外部の実力者(木沢)の力関係によって当主の進退が左右されるという、完全な逆転状態に陥っていた。畠山氏の当主は、もはや自らの意思で家を動かすことができず、家臣たちのパワーゲームの中で担がれたり降ろされたりする「神輿」のような存在へと成り下がってしまったのである。
コード スニペット
graph TD
subgraph 畿内中央勢力
H_Harumoto[細川晴元]
M_Nagayoshi[三好長慶]
end
subgraph 畠山家内部
B_Tanenaga[畠山稙長<br/>(主君)]
Y_Naganori[遊佐長教<br/>(守護代)]
K_Nagamasa[木沢長政<br/>(元総州家臣)]
B_Nagatsune[畠山長経<br/>(稙長の弟)]
end
B_Tanenaga -- 主従 --> Y_Naganori
Y_Naganori -- 協力→対立 --> K_Nagamasa
H_Harumoto -- 主従→対立 --> K_Nagamasa
H_Harumoto -- 主従 --> M_Nagayoshi
Y_Naganori -- 擁立(天文3年) --> B_Nagatsune
K_Nagamasa -- 協力(天文3年) --> B_Nagatsune
Y_Naganori -. 追放(天文3年).-> B_Tanenaga
K_Nagamasa -. 追放(天文3年).-> B_Tanenaga
subgraph 後の関係変化
Y_Naganori_2[遊佐長教]
B_Tanenaga_2[畠山稙長]
K_Nagamasa_2[木沢長政]
M_Nagayoshi_2[三好長慶]
end
Y_Naganori_2 -- 擁立(天文11年) --> B_Tanenaga_2
Y_Naganori_2 -- 敵対(太平寺の戦い) --> K_Nagamasa_2
B_Tanenaga_2 -- 敵対(太平寺の戦い) --> K_Nagamasa_2
M_Nagayoshi_2 -- 敵対(太平寺の戦い) --> K_Nagamasa_2
天文3年(1534年)、畠山稙長の運命は暗転する。この時期、畿内では細川晴元と本願寺勢力との間で対立が激化していた。晴元方に与していた守護代・遊佐長教に対し、主君である稙長は本願寺との連携を深める動きを見せた 7 。これを、自らの政治的立場を脅かし、家中の統制を乱す危険な動きと判断した遊佐長教は、当時同じく晴元政権下で台頭していた木沢長政と結託し、クーデターを決行した 3 。
同年8月、遊佐・木沢の両者は稙長を河内国の本拠・高屋城から追放し、代わりに彼の弟である長経(ながつね)を新たな守護として擁立した 3 。これは、もはや主君の意思を問わず、守護代が自らの意のままに領国を支配するため、都合の良い人物を当主に据えるという、下剋上の典型であった 26 。この後、擁立された長経も間もなく失脚(あるいは殺害され 3 )、さらに別の弟・晴熙(はるひろ)が立てられるなど、畠山尾州家の当主は家臣の都合で目まぐるしく交代し、その権威は完全に失墜した 7 。
河内を追われた稙長が向かった先は、父・尚順の代からの重要な地盤である紀伊国であった 3 。彼はこの地で単に雌伏していたわけではない。畠山氏は代々紀伊守護の職にあり 4 、稙長はこの伝統的な権威を最大限に活用し、再起のための勢力結集に努めた。
具体的には、紀伊の有力な在地勢力である熊野衆、特に玉置氏や湯川氏といった国人領主たちとの連携を深めた 10 。さらに、当時大きな軍事力を有していた根来寺や高野山といった寺社勢力をも味方につけ、河内への帰還の機会を虎視眈々と窺っていたのである。この紀伊国での粘り強い外交活動と勢力基盤の維持こそが、彼の後の劇的な復権劇を可能にする最大の要因となった。
稙長にとって、紀伊国は単なる亡命先ではなかった。そこは、河内を拠点とする守護代・遊佐長教の直接的な影響力が及びにくい、独立した権力基盤であった。この「第二の領国」とも言うべき存在があったからこそ、彼は政治的敗北からの復活を期すことができたのである。
この点の重要性は、仮定の状況を考えることでより明確になる。もし稙長が紀伊という地盤を持たず、完全に後ろ盾のない状態で放浪していたならば、彼の運命はどうなっていただろうか。後に遊佐長教が木沢長政と対立し、稙長を再び担ぐ必要性を感じたとしても、稙長自身に交渉の切り札となる軍事力がなければ、交渉は成立しなかった可能性が高い。長教は、より扱いやすい別の傀儡(例えば他の弟など)を探したかもしれない。
しかし、稙長は紀伊の国人衆や寺社勢力を動員できるという具体的な「政治的価値」を持っていた。この価値があったからこそ、彼は遊佐長教にとって「利用可能な駒」であり続け、交渉のテーブルに着くことができたのである。つまり、紀伊国は彼の政治生命を繋ぐ生命線であると同時に、復権という反撃のシナリオを実現するための不可欠な拠点であった。これは、戦国時代の大名にとって、中央の拠点を失ってもなお再起を可能にする、深層的な領国支配の重要性を示す好例と言える。
畠山稙長を追放し、一時協力関係にあった遊佐長教と木沢長政であったが、その蜜月は長くは続かなかった。木沢長政は河内・大和にまたがる広大な勢力圏を築き、やがては自らの主君である細川晴元にさえ反旗を翻すなど、その野心と権勢は誰の目にも明らかとなった 6 。長政が幕府や晴元から「逆賊」と見なされ、政治的に孤立を深めていく中、遊佐長教はこの状況を千載一遇の好機と捉えた。長教にとって、もはや制御不能となった木沢長政は、自らの権益と畠山家中の主導権を脅かす最大の障害となっていた。彼は長政を排除し、河内の実権を完全に掌握することを決意する 6 。
木沢長政という強大な敵を討伐するにあたり、遊佐長教が必要としたのは軍事力と、それを正当化する「大義名分」であった。そこで彼が白羽の矢を立てたのが、かつて自らが追放した旧主・畠山稙長であった。天文11年(1542年)3月、長教は高屋城内で木沢派の家臣を一掃し、紀伊にいる稙長を迎え入れるための準備を整えた 7 。
この動きに呼応した稙長は、長年にわたって紀伊で築き上げてきた人脈を総動員する。熊野衆、根来寺衆、高野山衆などを糾合した軍勢は、当時の噂として3万にものぼったと伝わる 10 。この稙長の河内への進軍は、幕府からも正当なものとして追認された。将軍・足利義晴は御内書を発給して稙長の出陣を賞賛し、彼の行動に権威的なお墨付きを与えたのである 10 。
遊佐長教と畠山稙長の軍勢は、さらに細川晴元の命を受けた三好長慶・三好政長らの軍も加わり、反木沢連合軍を形成した 6 。天文11年3月17日、連合軍は木沢長政の軍と河内国の太平寺(現在の大阪府柏原市)で激突した。四方から包囲された木沢軍はたちまち崩壊し、長政自身も乱戦の中で討ち死を遂げた 6 。
この「太平寺の戦い」における勝利により、約8年間にわたる亡命生活の末、畠山稙長はついに本拠地・高屋城への帰還を果たし、再び河内守護の座に就いたのである 3 。
この一連の復権劇は、稙長自身の執念と紀伊での地道な勢力結集(自力)が不可欠な要素であったことは間違いない。しかし、その成功が最終的に実現したのは、徹頭徹尾、遊佐長教の政治的判断と、木沢長政の孤立という畿内のパワーバランスの変化(他力)によってであった。稙長の復権は、彼が「紀伊の軍事力」という有効な手札を持っていたからこそ、遊佐長教の「対木沢戦略」におけるキーパーソンとして選ばれた結果である。彼は自らの政治的価値を的確なタイミングで提示し、他者の利害と結びつけることで、奇跡的とも言えるカムバックを成し遂げた。これは、戦国時代の武将が、自らの実力のみならず、周囲の力学をいかに読み、利用するかが生き残りの鍵であったことを示す、見事な一例であった。
8年ぶりに高屋城主の座に返り咲いた畠山稙長であったが、それはかつてのような絶対的な君主としての復権ではなかった。彼を擁立した守護代・遊佐長教が、依然として畠山氏の実権を掌握し続けていたのである 5 。稙長はこの現実を受け入れ、長教の権力を公に追認せざるを得なかった。両者の関係を安定させるため、稙長は自身の姪(公家の日野内光の娘)を長教に嫁がせ、姻戚関係を結ぶことでその立場を強化した 7 。
この時期の畠山氏が発給した公式な文書は、「稙長の意向を、遊佐長教が奉じて発給する」という形式を取っているものが確認されている 7 。これは、名目上の主君である稙長と、実質的な権力者である長教という、両者の歪な力関係を如実に物語るものである。稙長の権威は、あくまで長教の権力行使を正当化するための「お飾り」として利用されていたに過ぎなかった。
復権からわずか3年後の天文14年(1545年)5月15日、畠山稙長は波乱の生涯を閉じた。享年42であった 1 。
彼には実子がおらず、その死は畠山尾州家に再び深刻な家督継承問題を引き起こした。稙長は、分家である能登畠山氏から義続(よしつぐ、当時の当主・義総の子)を養子に迎えることを遺言していたと伝わる 9 。これは、血筋の近い有力な分家から後継者を迎えることで、家の権威と結束を再建しようとする、彼なりの最後の試みであったのかもしれない。しかし、この遺言が実現することはなかった。
実権を握る遊佐長教にとって、能登畠山氏という外部の有力な血筋が当主となることは、自らの傀儡支配を脅かす危険な選択肢であった。彼は稙長の遺言を完全に無視し、自らの意のままに操ることが容易な、稙長の弟・政国(まさくに)を「惣領名代」という名目で新たな当主として擁立した 7 。
この一連の動きにより、畠山尾州家の当主の権威は完全に形骸化し、守護代である遊佐長教が領国の全てを支配する体制が決定的なものとなった 26 。稙長の死は、名門・畠山尾州家が戦国大名としての実体を失い、家臣によって家が乗っ取られるという、下剋上の最終段階へと至る決定的な一歩となったのである。
畠山稙長の生涯は、応仁の乱以来、畠山氏が固執してきた「足利一門・管領家」という伝統的な血統の権威が、もはや実力の前には無力であることを最終的に証明するものであった。遊佐長教が稙長の遺言を無視してまで、実績も地盤もない弟の政国を立てた行為は、もはや血筋の正統性よりも、権力者(長教)にとっての「扱いやすさ」が後継者選定の最優先事項となったことを象徴している。これは、畠山氏という「家」の存続を支える論理が、当主の血筋の正統性から、家臣団、特にその筆頭である遊佐氏の権益維持へと完全に移行した瞬間であった。稙長は、その古き権威を体現する最後の当主であり、彼の死とともに、畠山尾州家は実質的な戦国大名としての生命を終えたと言っても過言ではない。
畠山稙長の生涯は、室町幕府の最高権威を担った名門の嫡流という輝かしい出自に恵まれながらも、その実態は常に時代の奔流に翻弄され続けた、悲劇的なものであった。応仁の乱の遺産である一族の分裂、あまりに強大化した譜代家臣の存在、そして細川氏や三好氏が激しく争う畿内の権力闘争という「三重苦」の中で、彼は生涯を通じて受動的な立場に置かれ続けた。
一度は全てを失いながらも、紀伊国を拠点として粘り強く勢力を結集し、8年もの歳月を経て復権を果たしたその執念と政治的手腕は、決して凡庸な人物ではなかったことを示している。しかし、彼はついに家臣団を完全に掌握し、自らの意思で家を率いる自律的な戦国大名へと脱皮することはできなかった。彼の人生は、伝統と革新、権威と実力が激しく衝突する過渡期において、旧来の価値観に縛られた守護大名が辿る典型的な末路を示している。
畠山稙長の物語は、室町時代的な「守護職」や「管領家の血筋」といった伝統的な権威が、戦国時代の実力主義の前にもはや有効な支配の根拠となり得なくなった時代の状況を、鮮明に映し出す鏡である。彼の追放と復権のドラマは、彼自身の資質以上に、彼を取り巻く遊佐長教、木沢長政、細川晴元、三好長慶といった複数のプレイヤーたちの利害と思惑が複雑に絡み合った結果であった。昨日の敵が今日の味方となり、主君が家臣の駒となる、戦国前期の畿内政治の流動性と非情さを、彼の生涯は象徴している。
織田信長のような強力な統一権力が登場し、新たな秩序を構築する以前の、混沌とした時代。畠山稙長は、その旧秩序が崩壊していく過程を生きた証人として、重要な歴史的価値を持つ。彼の苦悩と挫折の物語は、一個人の悲劇に留まらず、一つの時代が終焉を迎え、新たな時代が生まれ出る瞬間の、激しい陣痛そのものを我々に伝えているのである。