畠山義続の生涯を理解するためには、まず彼が家督を継いだ時点で能登畠山氏が置かれていた、一見華やかに見えるが、内実に深刻な構造的脆弱性を抱えた状況を把握する必要がある。彼の父、畠山義総が築き上げた「全盛期」は、次代の崩壊の種を内包した、極めて危ういバランスの上に成り立っていた。義続の悲劇は、単に彼個人の資質の問題に帰結するものではなく、時代の大きな転換期における守護大名家の宿命そのものであった。
能登畠山氏第7代当主・畠山義総は、戦国時代における屈指の名君として評価されている 1 。永正12年(1515年)に家督を継いでから天文14年(1545年)に没するまでの30年間、彼は能登に未曽有の安定と繁栄をもたらした 2 。義総は、それまで府中に置かれていた拠点を七尾城へと本格的に移し、堅固な山城と城下町の整備を推進した 3 。さらに、文芸を深く愛好した彼は、京都から公家、禅僧、歌人といった一流の文化人を積極的に招聘し、七尾の地で連歌会などを頻繁に催した 3 。その結果、七尾は「小京都」と称されるほどの文化的隆盛を極め、その気風は家臣団にも浸透し、教養豊かな人材を輩出する土壌となった 3 。義総の治世は、能登畠山氏の歴史における紛れもない黄金時代であった。
しかし、この栄華の裏には、深刻な構造的問題が潜んでいた。義総の安定した統治は、旧来の守護代家である遊佐氏の権力を抑制し、一方で自身の側近である温井氏を新たに台頭させることで、家臣団の勢力均衡を図るという、極めて属人的な政治手腕に依存していた 6 。この政策は、家臣団内部に守護代としての家格を誇る遊佐氏と、新興勢力である温井氏との間に、深刻な派閥対立の火種を植え付けることになった。強力なカリスマを持つ義総の存命中は抑えられていたこの対立が、彼の死後、後継者である義続の代に表面化することは、もはや避けられない運命であった。義総が築いた全盛期とは、次代の崩壊を準備する、脆弱な繁栄だったのである。
能登畠山氏の権力基盤は、本質的に室町幕府の権威を背景とする「守護大名」のものであった 8 。彼らは幕府から任命された守護職という公的な権威によって領国を統治しており、その支配体制は守護代の遊佐氏をはじめとする有力家臣に大きく依存していた 8 。しかし、応仁の乱以降、幕府の権威は失墜し、日本各地で守護代や国人といった実力者が主君を凌駕する「下剋上」が頻発する戦国時代へと突入していた 9 。
このような時代の流れの中で、多くの守護大名は、家臣団を再編成して強力な直轄軍を組織し、検地などを行って領国を直接支配する「戦国大名」へと脱皮することで生き残りを図った 12 。しかし、能登畠山氏は、文化的繁栄の陰で、この戦国大名化の途上で立ち遅れていた。彼らは強力な直轄軍を持たず、家臣との関係を巧みに調整する当主個人の能力に依存する統治体制から抜け出せずにいたのである 7 。義総の死は、この体制の限界を露呈させ、義続は父から引き継いだ「負の遺産」と共に、荒波の戦国時代に投げ出されることになった。
西暦 |
和暦 |
畠山義続と能登畠山氏の動向 |
日本国内の主要な出来事 |
(生年不詳) |
- |
畠山義総の次男として誕生。一説に1517年(永正14年) 7 。 |
- |
1533年 |
天文2年 |
兄・義繁が早世し、後継者となる 7 。 |
- |
1545年 |
天文14年 |
父・義総の死去に伴い、家督を相続し第8代当主となる 1 。 |
河内畠山家の畠山稙長が死去し、義続の宗家相続話が消滅 1 。 |
1550年 |
天文19年 |
重臣(七頭)が反乱を起こす(天文の内乱/七頭の乱) 15 。 |
- |
1551年 |
天文20年 |
内乱に敗れ、隠居。嫡男・義綱に家督を譲る 10 。 |
「畠山七人衆」による傀儡政権が成立 10 。 |
1555年 |
弘治元年 |
義綱と共に、七人衆筆頭の温井総貞を暗殺 17 。 |
弘治の内乱が勃発(~1560年) 19 。 |
1560年 |
永禄3年 |
弘治の内乱を鎮圧し、大名専制支配を確立 17 。 |
桶狭間の戦い。 |
1566年 |
永禄9年 |
長続連・遊佐続光らのクーデター(永禄九年の政変)により、義綱と共に能登を追放される 20 。 |
- |
1568年 |
永禄11年 |
上杉謙信らの支援を得て能登奪還を試みるが失敗 22 。 |
織田信長が足利義昭を奉じて上洛。 |
1577年 |
天正5年 |
上杉謙信により七尾城が落城し、能登畠山氏が事実上滅亡 10 。 |
- |
1590年 |
天正18年 |
3月12日、死去 7 。 |
豊臣秀吉による天下統一が完成。 |
畠山義続の当主としてのキャリアは、その始まりからして不安定な要素を数多く含んでいた。兄の早世という偶然、そして宗家との複雑な関係は、彼の権力基盤が当初から盤石ではなかったことを示している。
義続は、能登畠山氏第7代当主・畠山義総の次男として生まれた 14 。本来、家督は嫡男である兄の義繁が継ぐはずであったが、天文2年(1533年)に義繁が早世したため、次男である義続が後継者としての地位を得ることになった 7 。この事実は、彼が当初から第一の後継者として帝王学を授けられていたわけではなく、彼の権威が能力や求心力よりも、多分に血筋と偶然の産物であったことを示唆している。
義続の家督相続前には、彼のキャリアを大きく左右する可能性のあった出来事が存在する。それは、足利氏の管領家として畠山氏の宗家にあたる河内畠山家の当主・畠山稙長から、後継者として指名されるという話であった 1 。これが実現すれば、分家であった能登畠山氏が宗家を継承し、分裂していた畠山一門を統一するまたとない好機となるはずだった。しかし、この壮大な構想は、天文14年(1545年)に、義続の後見人となるはずだった稙長と、父・義総が相次いでこの世を去ったことで、実現することなく幻に終わった 1 。この一件は、義続の存在が能登一国の安定よりも、畠山一門全体の政争の駒として価値を見出されていた側面があったことを物語っている。そして、この話が頓挫したことで、彼は再び能登という、限定的ではあるが極めて統治の難しい領国の支配者という立場に押し戻されたのである。
天文14年(1545年)7月、父・義総の死を受けて、義続は正式に能登畠山氏第8代当主の座に就いた 1 。しかし、彼が継承したのは、父が築いた安定した領国ではなかった。義総という重石がなくなったことで、それまで抑えられていた家臣団の権力欲や不満が一気に噴出し始めていたのである 15 。義続政権は、発足したその瞬間から、深刻な内憂を抱えての船出となった。彼の権力継承は、血筋としての正統性はあったものの、実力主義が支配する戦国時代を乗り切るための実質的な権力基盤は、極めて脆弱であったと言わざるを得ない。
義続の治世は、家督相続からわずか5年で、大規模な内乱によって根底から揺るがされることになる。この「天文の内乱(七頭の乱)」は、守護の権威を失墜させ、能登畠山氏の歴史を大きく転換させる、重臣合議制「畠山七人衆」体制の成立へと直結した。
義総の死後、能登国内の権力バランスは急速に崩壊した。特に、守護代の家柄としてのプライドを持つ遊佐続光と、義総の寵愛を受けて台頭した温井総貞との間の権力闘争は、もはや隠しきれないものとなっていた 6 。そして天文19年(1550年)7月、この両名を大将格とする有力重臣たち、いわゆる「七頭」が、主君である義続に対して公然と反旗を翻したのである 15 。
兵力に劣る義続は、なすすべもなく居城・七尾城に追い込まれた 15 。彼は近江の六角定頼や、中央の細川氏綱を通じて、隣国の加賀一向一揆を束ねる石山本願寺に調停や支援を依頼するなど、必死の外交努力を展開した 15 。しかし、これらの試みはことごとく失敗に終わる。外部勢力も、もはや能登畠山氏の権威に価値を見出さず、実力者である重臣たちの動向を静観する姿勢を取ったのである。
籠城戦は8ヶ月に及んだが、天文20年(1551年)3月1日、ついに七尾城は事実上の「落去」を迎え、義続は降伏を余儀なくされた 15 。この敗北の代償は大きかった。義続は内乱の責任を取るという名目で出家・隠居させられ、まだ幼い嫡男の畠山義綱に家督を譲ることを強制された 10 。
一方で、反乱を主導した遊佐続光や温井総貞ら七頭も、体面を保つために揃って出家してみせた。しかし、これは『棘林志』に「是ハ天下の仕付見(ミセつけ)御座候」(これは天下への見せしめであった)と記されているように、形式的な責任追及に過ぎず、実権は完全に彼らの手に渡った 15 。
この内乱の結果、能登の国政は、遊佐続光、温井総貞、長続連、平総知、三宅総広、伊丹続堅、遊佐宗円という7人の重臣による合議制「畠山七人衆」によって運営されることになった 10 。当主・義綱は幼く、前当主・義続は隠居の身。ここに能登畠山氏は、家臣団によって当主が擁立・罷免される完全な傀儡政権へと転落したのである 3 。この「七頭の乱」は、単なる反乱ではなく、能登畠山氏の統治体制が、当主による「君主制」から重臣たちによる「寡頭制」へと移行した、体制変革(クーデター)であった。彼らは「畠山氏」という守護の権威の器だけは残し、その中身である実権を自らが掌握することで、支配の正統性を確保しようとしたのである。この時点で、守護大名としての能登畠山氏は、事実上滅亡したと言ってよい。
区分 |
構成員 |
主要な役職・背景 |
その後の動向 |
第一次七人衆 (1551年成立) |
温井総貞 (紹春) |
筆頭家老。義総の寵臣 6 。 |
1555年、義綱・義続父子に暗殺される 17 。 |
|
遊佐続光 |
守護代。遊佐氏嫡流 6 。 |
1553年、温井総貞との対立で追放される 10 。 |
|
長続連 |
外様だが有力な軍事力を有す 30 。 |
義綱追放(1566年)を主導。後に上杉軍に殺害される 10 。 |
|
平総知 |
- |
1553年の内乱後、引退 10 。 |
|
伊丹続堅 |
- |
1553年の内乱で戦死 10 。 |
|
三宅総広 |
- |
弘治の内乱(1555年~)で戦死 19 。 |
|
遊佐宗円 |
遊佐氏一門 30 。 |
- |
第二次七人衆 (1553年再編) |
温井総貞 (紹春) |
(留任) |
(同上) |
|
長続連 |
(留任) |
(同上) |
|
遊佐宗円 |
(留任) |
(同上) |
|
飯川光誠 |
(新任) |
義綱の側近となる 18 。 |
|
神保総誠 |
(新任) |
弘治の内乱で戦死 19 。 |
|
三宅総堅 |
(新任) |
- |
|
(温井続宗) |
(総貞の子。第二次七人衆の一員とする説もある) 32 |
弘治の内乱で戦死 19 。 |
一度は全ての権力を奪われ、隠居の身となった畠山義続であったが、彼は決して無力なまま終わらなかった。後見人として嫡男・義綱を支え、虎視眈々と実権回復の機会を窺い続けた。そして、重臣間の対立を巧みに利用し、能登の歴史を再び大きく揺るがすことになる。
七人衆体制は、その成立当初から内部対立という爆弾を抱えていた。特に筆頭格である温井総貞の権勢は日増しに強まり、やがて専横を極めるようになった 33 。これは、同じく七人衆の重鎮であった他の家臣たちの反感を買い、家中には新たな不満の空気が醸成されていった。義続・義綱父子はこの状況を見逃さなかった。彼らは、反・温井派の家臣たちの不満を巧みに取り込み、権力奪還への布石を着々と打っていったのである 17 。この時点での義続は、単なる隠居の老人ではなく、息子を操り、復権を目指す老獪な政治家としての一面を見せている 18 。
弘治元年(1555年)、機は熟した。義続・義綱父子は、近臣の飯川光誠らと共謀し、最大の障害であった温井総貞を、連歌の会と偽って誘い出し、暗殺するという大胆な挙に出た 18 。これは、傀儡状態からの脱却を目指した、まさに乾坤一擲の賭けであった。この暗殺によって七人衆体制は事実上崩壊し、能登は再び全面的な内乱の時代へと突入する。
主君による重臣の暗殺という前代未聞の事態に、温井一族と、彼らと血縁関係にあった三宅氏は激しく反発し、挙兵した 19 。彼らは加賀の一向一揆衆を味方に引き入れ、反乱は能登全域を巻き込む大規模なものへと発展した 18 。
絶体絶命の窮地に立たされた義続・義綱父子であったが、彼らはここから驚異的な粘りを見せる。七尾城に籠城し、越後の長尾景虎(上杉謙信)や越中の椎名氏に援軍を要請した 33 。さらに義綱の妻が六角義賢の娘であった縁を頼り、六角氏を通じて本願寺に圧力をかけ、反乱軍への支援を弱めさせるなど、あらゆる外交チャンネルを駆使して対抗した 18 。
この「弘治の内乱」と呼ばれる戦いは5年近くにも及んだが、永禄3年(1560年)頃、義続・義綱父子はついに反乱軍を鎮圧することに成功する 18 。この勝利は、一度失った権力を自らの手で取り戻したことを意味し、父子はついに家臣団を抑え込む大名としての専制支配を確立したのである 17 。
弘治の内乱が終結した永禄3年(1560年)から、永禄九年の政変が起こる永禄9年(1566年)までの6年間は、能登畠山氏にとって最後の、そして束の間の安定期となった 17 。義綱は、父・義続の後見のもと、将軍家への贈答を再開し、朝廷の勅許を得て能登一宮である気多大社を再建するなど、失墜した大名の権威を回復させるための政策を次々と実行していった 22 。この権力回復劇は、義続が単なる不運の将ではなく、息子と共に権力闘争を勝ち抜く能力と意志を持っていたことを証明している。しかし、その勝利は敵対勢力の徹底的な殲滅という強硬な手段によって達成されたものであり、家中に新たな火種を撒き散らす「劇薬」でもあった。
一度は父子で権力の奪還に成功し、大名専制を確立したかに見えた能登畠山氏であったが、その安定は長くは続かなかった。弘治の内乱を勝ち抜いた強権的な統治は、結果として家臣団全体の深刻な不信と反発を招き、わずか6年で再びクーデターを誘発する。
弘治の内乱後、義綱が父・義続の後見のもとで進めた大名専制支配は、重臣たちの権益を著しく制限するものであった 17 。かつて父子に協力して温井氏打倒に貢献した長続連や、温井氏の死後に帰参を許された遊佐続光といった重臣たちにとって、大名権力の過度な強化は、自らの地位を脅かす新たな脅威の出現に他ならなかった 10 。彼らにとって主君とは、自らの権益を保障してくれる存在であり、それを脅かすならば排除すべき対象でしかなかったのである。家臣団の間には、再び反畠山体制への気運が高まっていった。
永禄9年(1566年)、ついに重臣たちの不満は爆発する。長続連、遊佐続光、八代俊盛ら、かつての七人衆の主要メンバーが中心となり、再びクーデターを決行した 20 。これを「永禄九年の政変」と呼ぶ。
この政変により、当主・畠山義綱と、その後見人として実権を握っていた父・義続は、共に七尾城から追放されることとなった 17 。歴史は皮肉にも繰り返された。重臣たちは、義綱の嫡男でまだ元服前の幼い畠山義慶を新たな当主として擁立し、三度、傀儡政権を樹立したのである 41 。
この一連の出来事は、能登という地域において、もはや一人の大名が領国を支配する時代が終わり、有力重臣団による寡頭支配こそが恒久的な統治形態であるという事実が、最終的に確定した瞬間であった。義続・義綱父子の追放は、単なる権力闘争の敗北ではなく、能登畠山氏が戦国大名への進化に完全に失敗し、家臣団に飲み込まれてしまったことを象徴する、決定的な出来事だったのである。
能登を追われた義続・義綱父子は、義綱の正室が六角義賢の娘であった縁を頼り、近江国坂本(現在の滋賀県大津市)へと亡命した 18 。彼らの手元には、もはや「能登畠山氏の正統な当主」という名目上の権威しか残されていなかった。
故郷・能登を追われた畠山義続の後半生は、失った権力を取り戻すための、長く報われない戦いの連続であった。その人生は、実力を失った権威がいかに無力であるかという、戦国時代の非情な現実を象徴している。
亡命先の近江にあっても、義続・義綱父子は能登回復の夢を捨ててはいなかった 17 。彼らにとって幸いだったのは、「能登畠山氏の正統な当主」という権威が、周辺の戦国大名にとってはいまだ利用価値を持っていたことである。永禄11年(1568年)、父子は六角氏の支援に加え、越後の上杉謙信や越中の神保長職といった勢力と連携し、能登への侵攻作戦(能登御入国の乱)を実行に移した 18 。上杉謙信らにとって、父子の存在は、自軍の能登侵攻を正当化するための格好の大義名分だったのである。
しかし、この奪還作戦は、能登国内で義慶を擁立する長続連ら重臣たちの頑強な抵抗に遭い、あえなく失敗に終わった 23 。能登国内に、もはや彼らを積極的に支持する実力、すなわち兵力や支持基盤は残されていなかった。
この奪還作戦の失敗は、義続・義綱父子の政治的価値を決定的に失墜させた。彼らの持つ「権威」は、一度その利用価値を失うと、もはや誰からも顧みられることはなかった。息子の義綱はその後も復権を画策し続けたが、その望みが叶うことはついになかった 17 。
能登奪還の夢が完全に絶たれた後、畠山義続は歴史の表舞台から静かに姿を消していく。かつて能登一国を支配した守護大名であったが、その晩年は流浪の亡命者として、失意のうちに過ぎていった。そして天正18年(1590年)3月12日、義続はこの世を去った 7 。その最期がどこであったかは定かではないが、かつての栄華とはほど遠い、寂しいものであったと推察される。息子の義綱は父より3年長く生き、文禄2年(1593年)に近江国伊香郡の余呉浦でその波乱の生涯を終えている 17 。
畠山義続という人物は、歴史的にどのように評価されるべきであろうか。家中の内乱を抑えきれず、最終的に領国を追われた事実だけを見れば、「暗君」あるいは「弱将」という評価が下されがちである。しかし、彼の生涯を多角的に検証すると、その評価は決して一様ではない。彼はむしろ、「時代の転換期に、旧体制の矛盾を一身に背負わされた悲劇の人物」として再評価されるべきであろう。
義続に対する低い評価の源泉の一つは、彼を追放した長氏によって編纂された『長家家譜』などの史料に見られる記述である 7 。クーデターを起こした側が、自らの行動を正当化するために、追放した主君を無能であったと記すのは、歴史上よく見られることである。したがって、これらの記述を鵜呑みにすることはできない。
一方で、彼が一度は隠居させられながらも、息子・義綱と共に権力闘争を勝ち抜き、重臣筆頭の温井総貞を打倒して大名専制を復活させた事実は、彼が単なる無気力な当主ではなかったことを雄弁に物語っている 17 。この行動力と執念は、凡庸な人物に持ち得るものではない。
彼の人物像については、いくつかの興味深い逸話や説が存在する。高野山成慶院に伝わる、長谷川等伯筆の「武田信玄像」として有名な肖像画が、実は畠山義続を描いたものであるという説はその一つである 25 。この説の真偽はともかく、このような議論が存在すること自体が、彼の人物像が未だ謎に包まれていることを示している。また、家臣の娘たちを集めて倒錯的な遊びに興じたという逸話も伝わるが 40 、これもまた、彼を貶めるために後世に創作された可能性を否定できない。
総じて、彼を単純な「暗君」と断じるのではなく、「北陸の政情不安に飲み込まれた不運な大名」という評価の方が、より実像に近いと言えるだろう 7 。
結論として、能登畠山氏の衰退は、義続個人の責任に帰するべきではない。その根本的な原因は、父・義総の代から内包されていた深刻な家臣団の派閥対立と、幕府の権威に依存する守護大名体制そのものが、実力主義の戦国時代に対応できなくなったという構造的な問題にあった 10 。
畠山義続の治世で起きたことは、守護大名が戦国大名へと脱皮できずに、家臣に実権を奪われるという、戦国時代によく見られた「下剋上」の典型的なパターンである 9 。彼は、その歴史の必然ともいえる崩壊過程の渦中に、当主として立たされた。彼はその流れにただ身を任せただけではなかった。息子と共に一度は流れに逆らい、旧来の権威を復活させようと果敢に戦った。しかし、その戦いは時代の大きなうねりには抗しきれず、最終的に敗れ去った。畠山義続の生涯は、一個人の失敗の物語ではなく、一つの古い時代が終わり、新しい時代が始まる過渡期の痛みを体現した、歴史的なケーススタディとして、極めて重要な意味を持つのである。