最終更新日 2025-07-08

畠山義総

能登の黄金時代を築いた文武の将、畠山義総の生涯と遺産

序章:乱世に咲いた「天宮」の主

戦国時代の日本列島が、絶え間ない戦乱に明け暮れていた16世紀前半、能登国(現在の石川県能登半島)は、一人の傑出した大名の下で、稀有な平和と繁栄を享受していました。その人物こそ、能登畠山氏第7代当主、畠山義総(はたけやま よしふさ)です。彼が能登を治めた永正12年(1515年)から天文14年(1545年)までの30年間、領国は政治的に安定し、その本拠地である七尾城は壮麗な威容から「天宮」とまで称されるほどの栄華を極めました 1

しかし、この黄金時代は驚くほど脆いものでした。天文14年に義総が病没すると、彼が築き上げた安定した秩序は瞬く間に崩壊します。重臣たちは激しい主導権争いを開始し、後を継いだ息子たちの代には当主は傀儡と化し、能登畠山氏は急速に衰退の一途をたどることになるのです 3

なぜ、義総の治世はこれほどの安定と繁栄を達成できたのでしょうか。そして、なぜその繁栄は彼一代で終わり、かくも劇的な崩壊を迎えたのでしょうか。この問いは、単に「名君」であった義総と、その跡を継いだ「凡庸な後継者」という単純な対比だけでは説明できません。その答えの鍵は、義総の卓越した統治システムそのものに内包されていた、彼個人の類稀なる資質への過度な依存という構造的な脆弱性にあります。

本報告書は、畠山義総という一人の武将の生涯を詳細に追うとともに、彼の統治の本質と、その成功が次代の失敗の遠因ともなった歴史の力学を、政治、外交、経済、そして文化という多角的な視点から徹底的に解明することを目的とします。

第一部:能登畠山氏の継承者

第一章:出自と家督相続の宿命

畠山義総は、延徳3年(1491年)に生を受けました 3 。彼の父は能登畠山氏の一族である畠山慶致(のりむね)、母は本家である管領畠山氏(金吾家)の娘とされています 3 。義総の人生は、その出自からして、能登畠山家が抱える複雑な家督問題と深く結びついていました。

事の発端は、明応6年(1497年)の第3代当主・畠山義統(よしむね)の死に遡ります。義統の死後、家督を巡って嫡男の義元(よしもと)と、義総の父である次男の慶致をそれぞれ支持する派閥の間で深刻な内訌が勃発しました 6 。この対立は、守護代であった遊佐統秀(ゆさ むねひで)らが、主君・義統から寵愛されていた慶致を擁立したことに起因します 7 。一度は嫡流の義元が家督を継いだものの、両派の抗争は続き、能登の政情は不安定化しました。

この膠着状態を動かしたのが、永正3年(1506年)に発生した加賀一向一揆への対応という外的要因でした。領国存亡の危機を前に、対立していた両派は和解へと向かいます。この時、結ばれた和睦の条件こそが、義総の運命を決定づけました。それは、義元が当主の座に復帰する代わりに、対立候補であった慶致の息子、すなわち義総を義元の後継者(猶子)として迎える、というものでした 6

これは、双方の顔を立てるための絶妙な政治的取引でした。義元は「現当主」という名分を、慶致は「次期当主の実父」という実利をそれぞれ確保したのです。この結果、義総は「義元の養子」という家督継承の正統性と、「慶致の実子」という自派閥の強力な支持基盤の両方を手に入れることになりました。彼の地位は、生まれながらにして対立する二つの勢力の均衡の上に成り立っていたのです。

この複雑な政治的妥協の産物として後継者に指名された義総は、永正12年(1515年)、養父・義元が病に伏した(あるいは死去した)ことを受けて、能登畠山氏第7代当主として家督を相続しました 1 。若くして家中の権力力学の渦中で育ったこの経験は、後の彼の巧みな政治手腕の礎を形成したと推察されます。

第二部:能登守護・義総の治世

第二章:盤石な領国経営 ― 巧みな家臣団統制

義総の30年にわたる安定した治世の核心は、有力家臣団を巧みに統制し、大名権力を確立した点にあります。彼は既存の統治構造を破壊するのではなく、それを維持しつつも巧みな人事権の行使によって内部から実質的に変容させ、自身の権力基盤を盤石なものとしました。

能登畠山氏の領国支配は、伝統的に「守護-守護代」体制によって運営されていました 12 。守護代は、在京する主君に代わって領国の実務を担うため強大な権力を持ち、しばしば主家の権威を脅かす存在でした 13 。能登では、譜代の重臣である遊佐氏がこの守護代職を世襲していました 4 。義総はこの伝統を無視することなく、守護-守護代体制そのものは継承しました 9

しかし、その運用において、義総は極めて巧妙な操作を加えています。彼は、守護代の地位に遊佐氏の嫡流である美作家(みまさかのか)の遊佐総光を任命しませんでした 9 。代わりに抜擢されたのは、庶流である豊後守家(ぶんごのかみけ)の遊佐秀盛、そしてその子・秀頼でした 9 。この人事は、遊佐氏という名門の家格を「承認」することで彼らのプライドを保たせつつ、その権力を嫡流と庶流に「分断」し、一門の力が過度に強大化することを防ぐための、計算され尽くした牽制策でした。この措置により、守護代に任命された庶流の遊佐氏は、伝統的な権威ではなく「義総からの個人的な抜擢」によってその地位を得ることになり、結果として主君である義総への忠誠を強く意識せざるを得なくなりました。

さらに義総は、自身の寵愛によって引き立てた温井紹春(ぬくい じょうしゅん、後の総貞)に代表される側近集団を育成しました 7 。これにより、譜代の重臣である遊佐氏や長氏(ちょうし)といった勢力への権力集中を避け、家臣団内部に複数の権力軸を作ることで、権力の分散と均衡を図りました。この微妙なパワーバランスを巧みに操ることこそ、義総の大名権力の源泉だったのです。

また、主従関係を観念的に強化する手法も用いています。彼は、遊佐 光や三宅 賢(みやけ ふさかた)のように、自身の名前の一字(「総」、偏諱(へんき))を家臣に与えることで、彼らを自身の支配体制に強固に組み込みました 3

しかし、この巧妙な統治システムは、義総個人の卓越した政治感覚とカリスマ性という「重し」があって初めて機能する、極めて属人的なものでした。彼の死後、この重しが失われた途端、抑圧されていた遊佐氏嫡流の遊佐続光(つぐみつ)と、義総の寵愛を受けて台頭した温井総貞との対立が即座に表面化し、次代の義続政権を崩壊させる直接の原因となります 4 。義総の成功の裏には、次世代での破綻の種がすでに内包されていたのです。

第三章:乱世を渡る外交戦略

義総の治世における能登の平和は、周辺勢力との関係を巧みに操った、現実主義的な外交戦略によって支えられていました。彼は名分や感情に流されることなく、常に能登の国益を最大化することを念頭に置き、硬軟織り交ぜた多角的な外交を展開しました。

最大の脅威は、隣国・加賀を支配し、能登国内にも多くの門徒を持つ一向一揆でした。義総は、越後の守護代・長尾為景(後の上杉謙信の父)と連携し、越中において一向一揆と軍事的に対峙するなど、断固たる姿勢を見せました 16 。しかし、彼は武力一辺倒ではありませんでした。加賀の守護であった富樫氏を介して一向一揆勢力を間接的に統制しようと試みたり、側近の政僧を本願寺へ派遣して頻繁に幹部と接触させ、外交交渉による問題解決の道を探ったりするなど、柔軟な対応を取りました 7

北陸のもう一つの大勢力である越後の長尾氏(後の上杉氏)とは、主に対一向一揆という共通の利害から、協力関係を築きました 17 。後の時代のように能登畠山氏が上杉氏の軍事力に依存する従属的な関係ではなく、この時期は対等なパートナーシップに近いものでした。

中央の権威との関係構築も巧みでした。室町幕府とは極めて良好な関係を維持し、将軍の相談役である御相伴衆(ごしょうばんしゅう)にも列せられるなど、高い格式を認められていました 9 。これにより、能登畠山氏の威信は大きく高まりました。その威信の高さは、本家である河内畠山家の当主・畠山稙長(たねなが)が天文14年(1545年)に死去した際、義総の子(晴俊あるいは義続)を後継者として迎えたいという遺言を残していたことからも窺えます 3 。この養子縁組は、本家内部の抵抗により実現しませんでしたが、分家である能登畠山氏が本家を凌ぐほどの勢力と名声を誇っていたことの証左です。義総・義続親子は、この稙長の死に際して丁重に香典を送るなど、本家との関係を重視する姿勢を示しています 18

一方で、朝廷との関係はより実利的なものでした。左衛門佐(さえもんのすけ)、そして能登畠山家の極官(最高の官位)である修理大夫(しゅりのだいぶ)といった官位を得るために献金は行っていますが、幕府との関係ほどは重視していなかった様子が記録から見て取れます 9

このように義総は、軍事、外交交渉、そして幕府や朝廷といった伝統的権威の利用など、使える全てのカードを駆使して、能登という自らの領国の周囲に幾重もの「堀」を築き上げ、30年間の平和を維持したのです。

第四章:繁栄の礎 ― 経済・産業政策

義総の安定した治世は、巧みな政治・外交だけでなく、それを支える強固な経済基盤によって成り立っていました。彼は領内の資源開発や産業振興に力を注ぎ、能登に大きな経済的繁栄をもたらしました。

その政策の一つが、資源開発です。義総は羽咋郡(はくいぐん)にある宝達金山の開発に積極的に取り組み、領国の財源確保に努めました 9 。また、能登半島という地理的条件を活かし、七尾の良港を拠点とした海上交易を推進しました。その交易網は国内に留まらず、明(中国)との間で行われた勘合貿易にも関与していた可能性が指摘されています 9

領内では、多様な産業が発展しました。古くから知られる「珠洲焼(すずやき)」は、この時代に大量生産され、日本海交易の主要な商品の一つでした 19 。また、奥能登では揚浜式の製塩業が盛んであり、その製塩に不可欠な塩釜は、穴水周辺で発展した鋳物業によって供給されていました。この「能登釜」と呼ばれる鋳物もまた、能登の重要な輸出品でした 19 。さらに、輪島で生産される素麺は、畠山氏が都の公家などへ贈答品として用いるほどの特産品となっており、「素麺座」という同業者組合によって生産・流通が管理されていました 19

こうした経済活動の活発化に伴い、本拠地である七尾城下は活気ある商業都市へと発展しました。当時の記録には、城下に常設の店舗が数多く立ち並び、様々な行商人が行き交う様子が生き生きと描かれており、大規模な市場が形成されていたことがわかります 7

特筆すべきは、義総の経済政策が、単なる富の蓄積に留まらなかった点です。彼は、金山開発や交易によって得た潤沢な資金を、京都から高名な公家や文化人を招聘するために投じました。そして、彼らの文化活動が「能登は小京都」というブランド価値を生み出し、それが珠洲焼や輪島塗の源流となる漆器といった特産品の付加価値をさらに高めるという、経済と文化の好循環を生み出していたのです。義総の政策は、現代でいう「文化資本」の重要性を理解した、極めて先進的な地域ブランディング戦略であったと評価することができます。

第三部:文化人としての義総

第五章:「能登は小京都」― 文化サロンの形成

畠山義総の統治を最も特徴づけるのは、彼自身が一流の文化人であり、能登を当代随一の文化先進地域へと押し上げた点にあります。彼にとって文化活動は単なる趣味や教養ではなく、統治の根幹をなす高度な政治的ツールでした。

義総自身の文化的素養は非常に高く、若い頃から古典研究に深く通じていました。『源氏物語』や『伊勢物語』、『古今和歌集』などの古典籍を熱心に収集・研究し、その蔵書は三万棹に及んだと伝えられています 7 。特に、藤原定家が自ら筆写したとされる国宝級の『伊勢物語』を所持していた時期もあり、彼の文化への傾倒ぶりを物語っています 21 。また、和歌や連歌にも長け、自らも多くの作品を残しました 9

この文人領主の名声は都にも響き渡り、応仁の乱以来、戦乱が続く京都を逃れた多くの文化人たちが、安全で文化的な庇護が期待できる能登を目指しました 6 。公家では冷泉為広(れいぜい ためひろ)・為和(ためかず)親子、連歌師では当代随一とされた宗碩(そうせき)、禅僧では彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)といった一流の文化人たちが七尾を訪れ、義総やその家臣たちと交流しました 7 。義総の邸宅では頻繁に和歌会や連歌会が催され、その様子は『賦何人連歌(ふなにひとれんが)』といった記録に残されています。義総自身もこれらの会に積極的に参加し、優れた句を詠んでいます 9

義総の文化熱は家臣団にも深く浸透しました。漢詩文に優れた温井紹春、能書家として知られた井上総英(いのうえ ふさひで)、茶人の丸山梅雪(まるやま ばいせつ)など、文芸に優れた家臣が数多く輩出されました 7 。彼らは主君と共に文化サロンを形成し、能登の文化的レベルを一層高めました。

こうした文化活動の拠点となったのが、城下に建立された大寧寺(だいねいじ)や安国寺(あんこくじ)といった寺院でした 7 。また、義総は京都に自らの菩提寺として興臨院(こうりんいん)を創設しており、中央の文化・宗教界との繋がりを常に意識していました 9

以下の表は、義総の治世に能登へ下向した文化人の一部を示したものです。畠山氏からの招請による文化活動を目的とした者だけでなく、荘園経営や戦乱による困窮から、安定した能登へ移住してきた者も含まれていることがわかります。これは、当時の能登が「安全で経済的に安定した土地」として、都の人々にとって極めて魅力的な地であったことを客観的に示しています。

表1:畠山義総の治世に能登へ下向した主要文化人一覧

年代

区分

人物名(代表例)

目的の内訳(人数)

A: 荘園経営・困窮等

永正13年~大永4年 (1516-24)

僧侶、他

永俊、虎伯

1

大永5年~享禄3年 (1525-30)

公家、僧侶、連歌師

冷泉為広、彭叔守仙、宗碩

9

享禄4年~天文5年 (1531-36)

公家、僧侶

持明院基規

1

天文6年~天文11年 (1540-42)

公家、僧侶、連歌師

勧修寺尚顕、宗牧

1

合計

-

-

12

注: 7 の表を基に、主要な時期と人物を抜粋・再構成。目的Aは「荘園所領年貢督促・直務支配・困窮による下向」、Bは「畠山氏の招請・文化活動」に該当。合計人数は原資料の期間合計値と異なる場合がある。

義総にとって、これらの文化活動は、自らの権威を高め、家臣団の結束を強化し、能登の平和と繁栄を内外にアピールするための、極めて有効な政治的手段でした。彼の「文」は、彼の「武」を支えるための、もう一つの強力な武器だったのです。

第六章:治世の象徴 ― 七尾城と城下町の発展

畠山義総の治世と能登の繁栄を物理的に象徴するものが、彼が本拠地とした七尾城とその城下町です。これらは単なる軍事・政治拠点に留まらず、畠山氏の権威と文化の高さを内外に示す壮大な舞台装置として機能しました。

七尾城は、日本五大山城の一つに数えられる、戦国時代を代表する巨大な山城です 2 。七尾湾を見下ろす標高約300メートルの城山に築かれ、その名の通り、松尾、竹尾、梅尾など七つの尾根筋に沿って無数の曲輪(くるわ)が配された、一大要塞でした 2 。城の中心部には、自然石を加工せずに積み上げる「野面積み(のづらづみ)」の石垣が多用され、入り組んだ登城路や「枡形虎口(ますがたこぐち)」と呼ばれる防御施設が設けられるなど、極めて実践的な構造を持っていました 25

義総は、それまで能登府中にあった守護所(平地の政庁)から、この巨大な山城へと本拠を移しました 6 。この移転は、旧来の守護のあり方から、領国に根を張り、軍事と政治を一体化させた戦国大名へと脱皮する、彼の明確な意志の表明でした。城内には当主の御殿だけでなく、遊佐氏や長氏といった重臣たちの広大な屋敷も構えられ、さながら一つの都市として機能していました 27 。その壮麗な威容は、禅僧・彭叔守仙によって「烏が翼を張り広げたように建ち、華やかに彩られた建物は、まるで空に梯子を架けたようだ」と詩に詠まれるほどでした 25

この城の麓には、広大な城下町が形成されました。発掘調査によれば、城下町は山麓の緩やかな傾斜地に広がり、武家屋敷や職人町、商業地区が計画的に配置されていました 20 。『独楽亭記』には、家並みが一里(約4キロメートル)にわたって続き、活気ある市場が栄えていた様子が記録されています 7 。さらに、この城下町全体が、長さ1キロメートルを超える堀と土塁からなる「惣構え(そうがまえ)」によって守られていたことも判明しており、都市全体が要塞化されていたことがわかります 29

山上に聳える「天宮」のような城郭は、訪れる者や領民に畠山氏の権威に対する畏敬の念を抱かせ、麓に広がる安全で活気ある城下町は、その統治の成功を雄弁に物語っていました。七尾城と城下町の建設と発展は、武力による「防御」、経済力による「繁栄」、そして文化的威信による「権威」という、義総の政治思想そのものを具現化した壮大なプロジェクトだったのです。

第四部:落日と遺産

第七章:巨星墜つ ― 義総の死と能登畠山氏の動揺

天文14年(1545年)7月12日、能登に30年の黄金時代をもたらした巨星、畠山義総が55歳で病没しました 3 。彼の死は、能登畠山氏という統治機構の「単一障害点(Single Point of Failure)」であったことを、即座に証明することになります。彼個人の卓越した手腕によってのみ維持されていた権力の均衡は、その重しを失った瞬間に崩壊し、抑制されていた諸勢力の利害対立が一気に噴出しました。

家督は、すでに早世していた嫡男・義繁に代わり、次男の義続(よしつぐ)が継承しました 3 。しかし、義続には、父・義総が築き上げた複雑で繊細な権力構造を維持するだけの力量も権威もありませんでした 14 。義総の死は、これまで彼によって巧みにコントロールされてきた家臣団の権力闘争の口火を切る合図となりました 3

特に深刻だったのが、義総によって権力を抑えられていた遊佐氏の嫡流・遊佐続光と、義総の寵愛を受けて台頭した新興勢力・温井総貞との対立でした 4 。両者は次代の主導権を巡って激しく争い、当主である義続は彼らの対立に翻弄されるばかりでした。

そして、義総の死からわずか6年後の天文20年(1551年)、能登畠山氏の衰退を決定づける事件が起こります。「能登天文の内乱」です。遊佐続光を中心とする重臣団はクーデターを起こし、七尾城を包囲。当主・義続を強制的に隠居させ、その幼い息子・義綱(よしつな)を新たな当主に据えました 4 。これにより、政治の実権は「畠山七人衆」と呼ばれる重臣たちの合議体制へと移行し、畠山当主は完全に傀儡と化してしまったのです 4

この七人衆の筆頭に名を連ねたのが、遊佐続光と温井総貞であったことは象徴的です。義総が築いた安定は、彼の死と共に水泡に帰し、能登は長い内乱の時代へと突入していきます。義総の死から七人衆の成立に至るまでのこの劇的な転落は、一個人の死が組織の崩壊に直結する典型例であり、義総の統治が、持続可能な「システム」ではなく、彼個人の能力に依存した「アート」であったことの証明に他なりません。

終章:畠山義総の歴史的評価

畠山義総は、戦国時代という激動の時代において、一地方に類稀なる平和と文化の華を咲かせた、傑出した統治者であったことは間違いありません。30年にわたる彼の治世は、能登畠山氏のまさに最盛期であり、その政治的手腕、外交感覚、そして文化への深い造詣は、同時代の数多の大名の中でも際立っています 6

彼の功績は多岐にわたります。第一に、複雑な家中の力関係を巧みに操り、強力な家臣団を統制して大名権力を確立した「政治家」としての側面です。第二に、周辺の強大な勢力と渡り合い、硬軟両様の戦略で領国の平和を維持した「外交官」としての側面。そして第三に、京都から多くの文化人を招き、能登を「小京都」と呼ばれるほどの文化都市へと発展させた「文化人」としての側面です 6 。彼が築いた七尾城と城下町は、これらの功績が結実した、まさに彼の治世の記念碑と言えるでしょう 20

しかし、その歴史的評価には、光と影の両面が存在します。彼の成功は、その卓越した個人的能力に大きく依存した、極めて属人的なものでした。彼が構築した権力均衡システムは、彼自身という強力な「重し」がなければ機能しない、本質的な脆弱性を内包していました 7 。結果として、彼の死は直ちに権力闘争を誘発し、能登畠山氏の急速な衰退と、最終的な滅亡への道を開くことになりました。偉大な指導者であった一方で、彼は持続可能な統治システムを次代に継承することができなかったのです。

結論として、畠山義総は、室町時代から続く守護大名の伝統的権威と、戦国時代に求められる実力主義(経済力、軍事力、外交術)とを見事に融合させた、**「守護大名の理想的な完成形」 であったと評価できます。しかし同時に、その統治モデルは、強力な中央集権化と官僚機構を整備した後代の「戦国大名」へと至る過渡期のものであり、一個人のカリスマが失われた瞬間に崩壊する運命にあったという 「歴史的限界」**をも体現していました。

彼の生涯は、戦国という時代が、もはや個人の英雄的資質だけでは乗り越えられない、より強固で非人格的な「統治システム」の構築を求めていたことを、逆説的に象徴しているのかもしれません。能登の地に咲いた絢爛たる文化は、一人の偉大な人物の存在を前提とした、束の間の夢であったのです。

引用文献

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  5. 畠山義総 | 人物詳細 | ふるさとコレクション | SHOSHO - 石川県立図書館 https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/furucolle/list/prsn09923
  6. 能登畠山氏と吉岡一文字の名刀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/15207/
  7. 人物:畠山義総 - Hatakeyama Yoshifusa - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/person/hatakeyama_yoshifusa.html
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  9. 畠山義総 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/person/hatakeyama_yoshihusa.html
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  12. 初級能登畠山家講座 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/beginner.html
  13. 家臣組織 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/special/vassals_system.html
  14. 畠山義続 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/person/hatakeyama_yoshitsugu.html
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  17. 畠山家と加賀の勢力との外交関係 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/special/gaiko-kaga.html
  18. 畠山稙長遺言、畠山義続の河内畠山家相続!? - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/special/sozoku.html
  19. 能登の国力 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/special/kokuryoku.html
  20. 都市としての「中世七尾都市圏」の発展 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/special/nanao_ken.html
  21. 歴史の目的をめぐって 畠山義総 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-26-hatakeyama-yoshifusa.html
  22. 七尾 ななお - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2021/04/12/215436
  23. 史跡七尾城跡 https://www.city.nanao.lg.jp/sportsbunka/nanaojoushi.html
  24. 七尾城跡の絶景と歴史に触れる旅! - ほっと石川旅ねっと https://www.hot-ishikawa.jp/blog/detail_248.html
  25. 国指定史跡 七尾城跡 https://www.city.nanao.lg.jp/sportsbunka/documents/nanaojouato-sansaku-guide.pdf
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  27. 七尾城跡 16 世紀初めに七尾城が建てられた際 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653744.pdf
  28. 七尾城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%BE%E5%9F%8E
  29. 七尾城の惣構え - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/54/memo/3175.html
  30. 一門衆特集 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/person/hatakeyama_icimon.html
  31. 畠山義続 (はたけやま よしつぐ) | げむおた街道をゆく https://ameblo.jp/tetu522/entry-12031724114.html