白井賢胤
白井賢胤は周防屋代島水軍の棟梁。安芸武田氏、大内氏、陶氏と主家を変え、厳島合戦で陶水軍総大将を務めるも敗北。その最期は諸説あるが、水軍の独立性と現実主義を体現した武将。

周防屋代島水軍棟梁・白井賢胤の生涯と時代背景に関する総合的考察
序論:瀬戸内の狼、白井賢胤
戦国時代の日本を語る上で、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の動向が主軸となることは論を俟たない。しかし、その華々しい歴史の陰には、地方の権力構造の狭間で、自らの存続を賭けて激しく生きた無数の武将たちが存在する。本報告書が光を当てる白井賢胤(しらい かたたね)もまた、そうした歴史の奔流に翻弄され、そして消えていった一人である。
彼が活躍した舞台は、瀬戸内海。この海域は、単なる地理的空間ではなく、西国と畿内を結ぶ物流の大動脈であり、情報を運び、軍事力を投射するための極めて重要な戦略的要衝であった。この海を支配したのが、水軍、あるいは海賊衆と呼ばれる勢力である。彼らは陸上の大名とは異なる独自の論理と行動原理を持ち、時には大名に臣従し、時には独立勢力として振る舞う、半独立的な共同体であった。
白井賢胤は、この瀬戸内世界を象徴する人物と言える。周防国屋代島(現在の山口県周防大島)を本拠とする水軍の棟梁として、安芸武田氏、大内氏、そして陶氏と、主家を三度にわたって変えた。その生涯は、厳島合戦における歴史的敗北によって幕を閉じたとされる。彼の軌跡は、戦国期の中間勢力が、巨大勢力の狭間でいかにして生き残りを図ったのか、そしてその戦略の限界はどこにあったのかを問い直すための絶好の事例である。本報告書は、賢胤という一人の武将の実像を、出自、所属勢力の変遷、厳島合戦における役割、そして合戦後の消息に至るまで多角的に解明し、歴史の敗者の視点から戦国時代という時代を再評価することを目的とする。
表1:白井賢胤の生涯と関連年表
白井賢胤の行動を理解するためには、彼の個人的な動向と、彼を取り巻く中国地方全体の権力構造の激動とを連動させて捉えることが不可欠である。以下の年表は、賢胤の生涯における主要な出来事と、関連する勢力の動向を対照的に示し、彼の各時点での選択が、いかなる時代背景の下で行われたかを視覚的に理解するための一助となる。
西暦/和暦 |
白井賢胤の動向・役職 |
所属勢力の動向(安芸武田氏・大内氏・陶氏) |
中国地方の主要な出来事 |
生年不詳 |
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周防国大島郡にて、屋代島水軍の棟梁として活動を開始。 |
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1520年代-1530年代 |
安芸武田氏に臣従。武田水軍の中核を担う。 |
安芸武田氏、大内氏と尼子氏の狭間で勢力維持に苦慮。 |
大内氏と尼子氏が中国地方の覇権を巡り激しく争う。 |
1540年-1541年(天文9-10年) |
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吉田郡山城の戦い。毛利元就が尼子詮久(晴久)の大軍を撃退。安芸武田氏当主・武田信実が敗走し、勢力が著しく減退。 |
毛利元就が安芸国人として台頭。 |
1541年(天文10年)頃 |
安芸武田氏を見限り、大内義隆に臣従。義隆から「胤」の字を拝領し、「賢胤」と名乗る。 |
大内義隆、安芸武田氏の旧領を支配下に置き、勢力を拡大。 |
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1542年-1543年(天文11-12年) |
大内軍の一員として、第一次月山富田城の戦いに参加した可能性。 |
大内義隆、尼子氏の本拠地・出雲へ遠征するも大敗。 |
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1551年(天文20年) |
大寧寺の変。主君・大内義隆を裏切り、陶隆房(晴賢)の謀叛に加担。 |
陶隆房、主君・大内義隆を自刃に追い込み、大内家の実権を掌握。大友宗麟の弟・晴英(後の大内義長)を新当主として擁立。 |
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1552年(天文21年)頃 |
陶晴賢から「賢」の字を拝領。 |
陶隆房、「晴賢」に改名。 |
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1554年(天文23年) |
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防芸引分。毛利元就が陶晴賢と断交し、事実上の独立を宣言。 |
毛利元就、安芸国内の反陶勢力を結集。 |
1555年(弘治元年) |
厳島合戦 。陶水軍の総大将として、五百艘を率いて宮島へ渡海。毛利元就の奇襲渡海を許し、陶軍は壊滅。 |
陶晴賢、宮島に布陣するも毛利軍の奇襲を受け敗北、自刃。 |
毛利元就、厳島合戦に勝利し、中国地方の覇者への道を歩み始める。 |
1555年(弘治元年)以降 |
厳島合戦の乱戦の中で討死したとされる(通説)。一方で、伊予国や豊後国へ逃れたとする生存説も存在する。 |
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毛利氏、防長経略を開始し、大内領を併合していく。 |
1557年(弘治3年) |
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大内義長が毛利軍に攻められ自刃。大内氏が滅亡。 |
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第一章:白井氏の出自と権力基盤
白井氏のルーツと周防大島
白井氏の出自に関する詳細な記録は乏しいが、その権力基盤が周防国大島郡、すなわち屋代島(現在の山口県周防大島)にあったことは確実である。この島は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、東西航路の要衝を扼する絶好の立地にあった。古来、海上交通の結節点として、また、潮流が複雑な海の難所として知られ、この地理的条件が白井氏を水運と密接に関わる一族へと成長させた。彼らは、この島を拠点に独自の海上勢力を形成し、歴史の表舞台に登場することになる。
屋代島水軍という「独立事業体」
白井賢胤が率いた屋代島水軍は、単に大名に所属する一戦闘部隊ではなかった。彼らは「海賊衆」とも呼ばれる、独自の経済基盤と軍事力を有した、いわば「独立事業体」としての性格を色濃く持っていた。その活動は多岐にわたる。第一に、瀬戸内海を航行する商船や公的な船団の安全を保障する見返りとして「警固料(帆別銭)」を徴収する警固活動。これは彼らの最も安定した収入源であった。第二に、自らも船を運用し、交易活動に従事すること。そして第三に、敵対勢力や、時には警固料の支払いを拒否する船舶を襲撃する私掠行為、すなわち「海賊行為」である。
この自立性こそが、白井賢胤という人物の行動原理を理解する上で最も重要な鍵となる。彼の第一の責務は、特定の大名個人への封建的な忠誠ではなく、白井一族と屋代島水軍という共同体の存続と、その権益の維持・拡大にあった。陸上の国人領主が土地(知行)に縛られるのとは対照的に、水軍は船という移動可能な生産手段・軍事拠点を有する。この流動性が、彼らにより柔軟なアライアンスの変更を可能にさせた。したがって、賢胤が下す決断の根底には、常に「どの大名と手を組むことが、我々の海上における権益を最も効果的に保障し、拡大できるか」という、極めてプラグマティックな問いが存在したと推察される。彼の生涯は、この問いに対する最適解を、時代の変化の中で模索し続けた軌跡そのものであったと言えよう。
第二章:安芸武田氏配下としての台頭
初期キャリアの形成
白井賢胤が歴史の記録に明確に現れ始めるのは、安芸国の有力国人であった安芸武田氏の配下としてである。当時の安芸国は、西に西国一の勢力を誇る大内氏、北に出雲の尼子氏という二大勢力が覇を競う、地政学的な最前線であった。安芸武田氏は、この二大勢力の狭間にあって、安芸国内の独立を維持しようと苦闘する国人領主たちの中心的存在であった。
武田水軍の中核として
賢胤率いる屋代島水軍は、この安芸武田氏にとって不可欠な戦略的資産であった。武田氏の本拠地である佐東銀山城は、太田川の中流域に位置し、この河川を通じて瀬戸内海へアクセスすることが可能であった。海への出口を確保し、大内・尼子両氏の水軍力に対抗するためには、屋代島を本拠とし、海を知り尽くした白井水軍の力は極めて重要であった。賢胤は、武田水軍の中核を担う将として、その名を馳せ始めたと考えられる。
この時期の賢胤の選択は、単に弱小勢力に身を寄せたという消極的なものではない。むしろ、巨大すぎる大内氏の直接支配下に入ることを避け、武田氏を旗頭とする反大内・反尼子の第三極形成という、野心的な構想に加担したと見ることもできる。武田氏の下で一定の独立性を保ちつつ、安芸国周辺の海上権益を確保することは、賢胤にとって魅力的な選択肢であったはずだ。
しかし、この戦略は、天文10年(1541年)の吉田郡山城の戦いによって破綻する。尼子氏の大軍を毛利元就が撃退したこの戦いで、尼子方に与した安芸武田氏当主・武田信実は城を追われ、その勢力は致命的な打撃を受けた。盟主の没落という現実を前に、賢胤は新たな生き残りの道を模索せざるを得なくなる。共同体の存続という至上命題の前には、もはや武田氏への義理立ては意味をなさなかった。周防大島という地理的条件を鑑みれば、周防・長門を本拠とする大内氏への臣従は、最も合理的かつ現実的な選択であった。この主家の乗り換えは、単なる裏切りではなく、所属していた政治連合の崩壊に伴う、必然的な戦略転換だったのである。
第三章:大内氏への帰属と周防の海将
西国最大の守護大名へ
安芸武田氏の没落を受け、白井賢胤は天文10年(1541年)頃、西国に覇を唱える守護大名・大内義隆に臣従する。当時の大内氏は、日明貿易や朝鮮半島との交易を独占し、その富を背景に巨大な軍事力を保持していた。この大内氏にとって、瀬戸内海の制海権確保は、交易路の安全保障、そして九州や中国地方各地への軍事行動における兵員・物資の輸送という両面から、まさに生命線であった。賢胤率いる屋代島水軍は、その専門性と実力から、大内氏の水軍組織に組み込まれ、重要な役割を担うことになった。
「賢胤」の名に秘められた意味
賢胤が大内家臣団の中でいかに高く評価されていたかは、彼の名そのものが証明している。彼は主君・大内義隆から名の一字(偏諱)を拝領し、「胤」の字を与えられた。これにより、彼の名は「賢胤」となったのである(それ以前の名は不明)。偏諱の授与は、主君が家臣に対して与える最高の栄誉の一つであり、これによって賢胤が、単なる外様の水軍棟梁から、大内家臣団の中核に正式に位置づけられた「譜代」に近い存在へと昇格したことを示している。
この「胤」の一字は、賢胤と主君・義隆との間に、形式的な主従関係を超えた、個人的な信頼関係が存在したことを強く示唆する。この名前は、彼が大内家への忠誠を内外に示す強力なシンボルとなり、賢胤自身のアイデンティティの一部を形成したはずである。この事実は、後に彼が陶晴賢の謀叛に加担するという行動を、単なる勢力争いへの参加ではなく、武士の倫理観において極めて重大な意味を持つ「恩を仇で返す」行為として際立たせる。彼がこの決断に至るまでには、いかなる内面の葛藤があったのか、そしてそれを上回るほどの現実的な利害とは何だったのか。この問いが、彼の生涯の次なる局面を読み解く鍵となる。
第四章:大寧寺の変と陶晴賢への加担
大内家の内部分裂
天文12年(1543年)の第一次月山富田城の戦いにおける大敗を境に、大内家内部の亀裂は深刻化していく。相次ぐ軍事的失敗に嫌気がさした主君・大内義隆は、次第に政治や軍事への関心を失い、京から招いた公家たちとの文化活動に傾倒していく。これに対し、長年大内家の武力を支えてきた重臣筆頭の陶隆房(後の晴賢)をはじめとする武断派の国人たちは、強い不満と危機感を募らせていた。文治派の義隆と武断派の陶との対立は、もはや修復不可能な段階に達していた。
賢胤の決断
天文20年(1551年)9月、ついに陶隆房はクーデターを決行。兵を率いて山口を急襲し、主君・大内義隆を長門の大寧寺に追い込み、自刃させた。世に言う「大寧寺の変」である。この大内家の根幹を揺るがす一大事において、白井賢胤は謀叛の首謀者である陶方に与した。かつて義隆から「胤」の字を拝領した恩顧の将が、その主君を見限った瞬間であった。
賢胤がこの重大な決断に至った動機は、複合的なものであったと考えられる。
第一に、尚武を気風とする水軍の棟梁として、文治に傾き、武威を軽んじるようになった義隆の治世に失望し、武断派の旗頭である陶晴賢の掲げる「武」による秩序回復という思想に共感した可能性。
第二に、大内家中の実権が、もはや名目上の主君である義隆ではなく、事実上、陶氏とその一派に移行しているという冷徹な現実認識。この状況下で、「勝ち馬」に乗ることこそが、自らの一族と水軍の権益を守るための最善手であると判断した、現実主義的な計算があったことは間違いない。
第三に、地理的な要因も無視できない。陶氏の本拠地である周防国都濃郡は、賢胤の本拠地・周防大島と目と鼻の先にあり、平素から両者の間には密接な関係が築かれていた可能性が高い。
新たな名前、新たな忠誠
クーデター成功後、賢胤は新主となった陶晴賢からも偏諱を賜り、「賢」の字を拝領した。これにより、彼の名は、旧主・大内義隆の「 胤 」と、新主・陶晴賢の「 賢 」を併せ持つ、「 賢胤 」という極めて特異なものとなった。この事実は、彼が晴賢の新体制下において、中核的な支持者として公に認められたことを意味する。
注目すべきは、彼が義隆から与えられた「胤」の字を捨てなかった点である。これは、陶晴賢らが掲げたクーデターの大義名分と深く関わっている。彼らは大内家を「乗っ取った」のではなく、あくまで「君側の奸(相良武任ら文治派側近)を討ち、大内家を正常な姿に戻した」という建前を貫こうとした。その証拠に、彼らは大友宗麟の弟である大内義長を新たな傀儡の当主として擁立している。賢胤が「賢」と「胤」を併せ持つ名を名乗り続けたことは、彼自身が「(新体制下の)大内家の忠臣」であり続けることを、その名によって示そうとしたものと解釈できる。この名は、旧体制の権威と新体制の実力が複雑に交錯する、大寧寺の変後の過渡期的な政治状況を、一個人の名において見事に体現しているのである。
第五章:厳島合戦:陶水軍総大将の栄光と挫折
合戦前夜
陶晴賢が実権を握った大内領では、安芸国の有力国人であった毛利元就が急速に台頭し、晴賢との対立を深めていた。天文24年(弘治元年、1555年)、晴賢は毛利氏を完全に滅ぼすべく、自ら二万とも三万ともいわれる大軍を率いて安芸国へ侵攻することを決断する。元就はこれを迎え撃つにあたり、巧妙な謀略を用いた。彼は、瀬戸内海に浮かぶ要衝・宮島(厳島)に、あえて城(宮尾城)を築かせ、陶方に「宮島を攻めれば元就は必ず救援に来る」と思わせた。補給の困難な島嶼部に敵の大軍を誘い込み、一挙に殲滅しようという大胆な作戦であった。陸戦での勝利に絶対の自信を持つ晴賢は、この元就の挑発に乗り、宮島への全軍渡海を決定した。
陶水軍総大将としての賢胤
この空前の規模を誇る渡海作戦において、白井賢胤は、その実績と能力を買われ、五百艘ともいわれる大艦隊を率いる陶水軍の総大将に任命された。彼の任務は、二万余の陶陸軍主力を、対岸の廿日市から宮島へと安全に輸送し、上陸後は島全体を海上から完全に封鎖することであった。これにより、宮尾城の毛利方を孤立させ、元就本体からの援軍や補給、そして万一の際の退路を断つことが期待されていた。作戦は当初、順調に進み、陶軍主力が宮島に上陸。賢胤率いる水軍は、島の周囲に鉄壁の海上封鎖網を敷いた。
運命の一夜:毛利奇襲渡海の看過
弘治元年10月1日未明。折からの記録的な暴風雨に乗じ、毛利元就率いるわずか四千の決死隊が、賢胤の海上封鎖網を奇跡的に突破し、陶軍主力の背後である包ヶ浦への奇襲上陸に成功した。夜明けと共に、山を下った毛利軍は、油断しきっていた陶軍本陣を強襲。同時に、宮尾城からも兵が出撃し、陶軍は完全に挟み撃ちにされ、総崩れとなった。この毛利軍の奇襲成功は、合戦の勝敗を決定づけた、まさに致命的な一点であった。水軍総大将として海上封鎖の任にあった賢胤は、なぜこの奇襲を許してしまったのか。その原因は、単一のものではなく、複数の要因が複合的に絡み合った結果であった。
- 天候要因 : 当夜は、船の操船すら困難なほどの暴風雨であったと記録されている。激しい風雨と闇が、見張りの視界を奪い、敵船団の接近を探知することを不可能に近いものにした。
- 油断と慢心 : 陶軍二万に対し、毛利軍は四千。この圧倒的な兵力差と、賢胤自身が率いる大艦隊による海上封鎖への過信が、「このような悪天候の中、少数で奇襲を仕掛けてくるはずがない」という油断を生んだ可能性は極めて高い。
- 毛利の謀略 : 元就は、合戦に先立ち、周到な情報戦を展開していた。特に、当時瀬戸内最強と謳われた村上水軍を味方に引き入れたことは決定的であった。村上水軍は、この海域の天候、潮流を知り尽くした海のプロフェッショナル集団である。彼らが奇襲部隊の案内役を務めたのであれば、賢胤の封鎖網が破られたのは、もはや必然であったと言える。
- 水軍の内部事情 : 陶水軍は、賢胤直属の屋代島水軍を中核としつつも、その実態は様々な小規模水軍の寄せ集めであった。暴風雨の中、これら全ての部隊を完全に統制し、一糸乱れぬ警戒態勢を維持することは、極めて困難であったと推察される。
賢胤の失敗は、単なる一個人の油断や天候不順にのみ帰すべきではない。それは、水軍の重要性を軽視し、補給の難しい島に大軍を閉じ込めるという陸戦中心の楽観的な作戦計画を立てた陶晴賢の戦略的欠陥、そして、水軍の活用術と謀略に長けた毛利元就の戦術的卓越性が組み合わさって生じた、「構造的敗北」であった。賢胤は、初めから不利な作戦と、最強の敵水軍という二重のハンディキャップを背負わされていたのである。彼の責任は免れないが、敗北の全責任を彼一人に帰するのは、あまりに酷と言わねばならない。
第六章:合戦後の消息と「生存説」の検討
通説:厳島での討死
厳島での陸戦が陶軍の総崩れとなり、主君・陶晴賢が自刃を遂げた後、海上もまた大混乱に陥った。毛利方に寝返った村上水軍が、敗走しようとする陶方の船団に襲いかかり、多くの将兵が海に散った。白井賢胤の最期についても、この乱戦の中で討死した、あるいは主君の死に殉じたというのが、多くの軍記物などが伝える通説である。陶水軍の総大将として、その責任を一身に負い、主君と運命を共にしたという、武将としての壮絶な最期として描かれている。
生存説の浮上と逃亡先の伝承
しかし一方で、賢胤ほどの重要人物でありながら、その死を確定させる毛利側の一次史料は乏しく、最期は曖昧な点が多い。こうした背景から、彼は合戦の混乱を生き延び、他国へ落ち延びたとする「生存説」が、後世、根強く語り継がれることになった。
この生存説は、具体的な逃亡先の伝承を伴っている。その一つが、伊予国(現在の愛媛県)への逃亡説である。特に、現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町には、賢胤のものとされる墓が現存し、彼がこの地に落ち延びて生涯を終えたという伝承が、具体的な地名と共に語られている。また、もう一つの有力な逃亡先として挙げられるのが、豊後国(現在の大分県)である。
なぜ、賢胤の生存説は生まれたのか。そして、なぜ逃亡先が「伊予」や「豊後」とされたのか。これには、歴史的な蓋然性が存在する。伊予は、厳島合戦で毛利方に付いた村上水軍と長年敵対してきた河野氏の領地であり、反毛利・旧大内方の人間が庇護を求める先として不自然ではない。さらに豊後は、大内氏の最後の当主・大内義長の兄である大友宗麟の領国である。大内家と縁の深い大友氏を頼って落ち延びたという筋書きは、十分に考えられる。
賢胤の生存を直接証明する確実な史料は、現在のところ見つかっていない。伊予に残る墓も、後世、著名な武将の悲劇的な運命を偲び、その霊を慰めるために作られた供養塔である可能性も否定できない。しかし、生存説が生まれる背景には、勝者である毛利側の記録からはこぼれ落ちた歴史の空白と、敗者となった旧大内家臣団の再起への願望や、彼らへの同情といった人々の心理が複雑に絡み合っている。賢胤の最期を巡る謎と、そこに生まれた伝説は、史実の欠落を埋めようとする後世の人々の想像力の産物であると同時に、それ自体が分析に値する一つの「歴史的現象」なのである。
結論:戦国期水軍棟梁としての白井賢胤の歴史的評価
白井賢胤の生涯を振り返るとき、それは安芸武田氏、大内義隆、陶晴賢と主家を変え続けた「裏切り者」や、厳島合戦で致命的な失態を犯した「敗将」という一面的な評価では到底捉えきれない、複雑な実像が浮かび上がる。彼の行動は、中世的な「忠誠」の倫理観だけでは測れない、自らが率いる水軍共同体の存続と繁栄という至上命題を背負った、極めて現実主義的(プラグマティック)な選択の連続であった。その姿は、近世へと向かう過渡期の武将が直面した、非情な現実を色濃く映し出している。
彼は、厳島合戦の敗将としてのみ記憶されがちだが、本報告書で詳述したように、安芸武田氏、大内義隆、陶晴賢という三つの異なる政権下で、常に水軍の将として重用され続けた有能な人物であった。特に大内義隆から「胤」の字を、陶晴賢から「賢」の字を拝領したという事実は、彼がそれぞれの政権において、いかに中核的な存在として高く評価されていたかを物語る。彼のキャリアは、大内氏の海洋戦略の成功と、その内部崩壊の過程を、まさに体現するものであった。
そして、彼の敗北は、単なる一武将の戦術的失敗に矮小化されるべきではない。それは、旧時代の覇者である大内(陶)氏が内包していた陸戦中心主義という構造的弱点を、水軍の戦略的価値を深く理解していた毛利元就という新たな時代の覇者が、的確に突いた結果であった。賢胤の視点から厳島合戦を再構成することで、勝者である毛利側の史観だけでは見えてこない、歴史の多層的な側面が浮かび上がる。彼の生涯は、歴史の大きな転換点において、一個人の能力や奮闘がいかに時代の巨大な奔流に飲み込まれていくかという、戦国時代のダイナミズムとその非情さを我々に教えてくれる。
最後に、彼の最期に関する謎は、歴史の中に埋もれた無数の「もしも」を我々に想像させる。もし彼が生き延びていたとしたら、その後の反毛利勢力の中でいかなる役割を果たしたのか。白井賢胤という一人の水軍棟梁の生涯を徹底的に追うことは、戦国時代という巨大なモザイク画の、失われた一片を丹念に復元し、歴史をより深く、より豊かに理解するための試みなのである。