本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけてその名を歴史に刻んだ武将、「白河義綱(結城義綱)」について、現存する史料を網羅し、その生涯と一族の変遷を徹底的に解明することを目的とする。依頼者が提示した基礎情報、すなわち白河結城氏が南朝の雄として活躍した名門であるという認識は、この一族の輝かしい歴史の一側面を的確に捉えている。しかし、詳細な調査を進める中で、歴史上「結城義綱」として記録される主要人物が、 ①白河結城氏第九代当主 (明応9年頃生)と、 ②その後の仙台藩士 (文禄元年生)という、全く異なる時代に生きた二名存在することが判明した 1 。この同名異人の存在は、白河結城氏の歴史、特にその終焉と再生の過程を理解する上で、これまで大きな混乱を招いてきた。
したがって本報告では、まずこの二人の「義綱」を明確に区別し、それぞれの生涯を詳細に追う。さらに、両者の時代をつなぐ鍵となる人物、すなわち白河結城氏最後の当主として激動の時代を生きた 結城義親 の動向を分析の中心に据える。彼の野心、権謀、そして不屈の生涯を解き明かすことなしに、一族の運命を語ることはできない。
白河結城氏は、伊達氏、蘆名氏、佐竹氏といった強大な戦国大名に囲まれた「国人」と呼ばれる在地領主であった 3 。彼らの興亡は、個々の当主の器量のみならず、南奥羽全体の地政学的力学の変動と密接に連動していた。本報告は、この広範な文脈を常に念頭に置き、南北朝時代に栄華を誇った名門が、戦国の動乱の中でいかにして衰退し、豊臣秀吉による「奥州仕置」で一度は歴史の表舞台から姿を消し、最終的に伊達政宗の家臣として再生するに至ったか、その数百年にわたる流転の歴史を、三人の主要人物を通して立体的かつ詳細に描き出すものである。
表1:白河義綱(結城義綱)と関連人物の比較年表
西暦 (和暦) |
初代 結城義綱の動向・年齢 |
結城義親の動向・年齢 |
二代目 白河義綱の動向・年齢 |
南奥羽および中央の主要な出来事 |
1500年 (明応9) |
誕生(推定) 1 。 |
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1510年 (永正7) |
11歳頃。 |
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白河結城氏で内紛(永正の変) 7 。 |
1518年 (永正15) |
19歳頃。史料に名が見え始める 1 。 |
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1532年 (天文元) |
33歳頃。二階堂氏との合戦で長男「刀之助」が戦死 1 。 |
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1534年 (天文3) |
35歳頃。滑井合戦で伊達・蘆名連合軍に敗北 1 。 |
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伊達稙宗と岩城氏が対立。 |
1541年 (天文10) |
42歳頃。佐竹氏に東館城を攻め落とされる 1 。 |
誕生 9 。 |
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1542年 (天文11) |
43歳頃。出家し道海と号す。家督を晴綱に譲る 1 。 |
2歳。 |
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伊達氏で天文の乱が勃発(~1548年)。 |
1559年 (永禄2) |
60歳頃。この頃に死去したと推定される 1 。 |
19歳。 |
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1573年 (天正元) |
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33歳。当主・晴綱が死去し、義親が実権を掌握 10 。 |
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1575年 (天正3) |
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35歳。当主・義顕を追放し、宗家を掌握(天正の変) 10 。 |
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1579年 (天正7) |
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39歳。佐竹氏に屈し、佐竹義広を養子に迎える 11 。 |
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1587年 (天正15) |
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47歳。義広が蘆名氏を継ぎ、義親が当主に復帰 11 。 |
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1589年 (天正17) |
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49歳。伊達政宗に服属 9 。 |
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摺上原の戦いで伊達政宗が蘆名氏を滅ぼす。 |
1590年 (天正18) |
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50歳。小田原不参により、奥州仕置で改易される 10 。 |
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豊臣秀吉が小田原征伐・奥州仕置を断行。 |
1592年 (文禄元) |
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52歳。流浪中。 |
誕生 2 。 |
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1601年 (慶長6) |
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61歳。伊達政宗に召し抱えられ、仙台に移る 11 。 |
10歳。義親と共に仙台へ。 |
関ヶ原の戦い。 |
1619年 (元和5) |
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79歳。家督を養子の義綱に譲り隠居 10 。 |
28歳。家督を相続。 |
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1626年 (寛永3) |
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死去。享年86 9 。 |
35歳。 |
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1639年 (寛永16) |
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死去。享年48 2 。 |
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白河結城氏第九代当主・結城義綱の治世は、一族が内外の圧力によって急速に衰退していく過程そのものであった。彼の生涯を追うことは、南奥羽における旧来の権力構造が崩壊し、新たな戦国大名による支配体制へと移行していく時代の転換点を理解する上で不可欠である。
表2:白河結城氏 略系図(戦国期)
Mermaidによる関係図
注:本図は主要人物の関係性を簡略化して示したものである。義親の出自(義綱の子または弟)などには諸説ある。
白河結城氏は、鎌倉時代に下総国の結城朝光が奥州白河荘を得たことに始まり、その孫・祐広が現地に入部して創設された名門である 7 。特に南北朝時代には、二代当主・宗広が南朝の忠臣として活躍し、後醍醐天皇から結城氏の惣領家と認められるなど、伊達氏をも凌ぐほどの勢力を誇り、南奥羽から北関東にまでその威勢を及ぼした 7 。しかし、室町時代を経て戦国時代に突入すると、一族内の対立や周辺勢力の台頭により、その栄光には陰りが見え始めていた 7 。
このような状況下で、第八代当主・結城顕頼の嫡男として、明応9年(1500年)頃に義綱は誕生したとされる 1 。史料上で彼の名が明確に確認できるのは永正15年(1518年)からであり、この頃から武将としての活動を開始したと推測される 1 。大永2年(1522年)には左兵衛佐に任官しており、名門の当主として一定の権威を有していたことがうかがえる 1 。
しかし、その出自には異説が存在する。顕頼の子という通説に対し、庶流である 小峰朝脩の子 とする説である 1 。この説は、永正7年(1510年)に起こった宗家と小峰氏の内紛、いわゆる「永正の変」の解釈と深く関わっている。従来の説では、宗家の結城政朝(義綱の祖父)が小峰朝脩を攻め滅ぼしたとされてきた 21 。だが近年の研究では、逆に小峰朝脩がこの内紛に勝利して宗家の実権を掌握し、その子が義綱として宗家の家督を継いだとする見方が提示されている 7 。この新説が事実であれば、義綱の代から既に白河結城氏の血統は小峰氏系統に入れ替わっていたことになり、後に登場する小峰義親による宗家掌握も、単なる下剋上や簒奪ではなく、小峰氏系統による「復権」あるいは主導権争いの延長線上にある出来事として捉え直す必要が生じる。
義綱が当主であった時代は、白河結城氏が周辺勢力の拡大に翻弄され、その勢力を著しく削がれていく苦難の時期であった。
かつて白河結城氏は、常陸国の佐竹氏の内紛(山入一揆)に乗じて勢力を南下させ、佐竹氏の本拠地近くまで所領を広げたこともあった 1 。しかし、義綱の代になると、佐竹義篤らが勢力を回復し、逆に白河領への反攻を強めてくる。南からの絶え間ない圧力に対し、義綱は領内に多数の支城を築き、諸将を配して防備を固めたが、劣勢を覆すには至らなかった 1 。
永正18年(1521年)には常陸国依上保の獅子城が落城し、天文10年(1541年)には陸奥国南端の要衝であった南郷地域の東館城が佐竹義篤によって攻め落とされた 1。この東館城は、後に岩城重隆の仲介による和睦の条件として、破却されるという屈辱的な結果に終わっている 1。
義綱の治世における最大の軍事的敗北が、天文3年(1534年)の「滑井合戦」である。この合戦は、嫡男・晴綱と岩城重隆の娘との婚姻を巡る問題が引き金となった 1 。この縁談に、当時奥州探題として勢力を拡大していた伊達稙宗が介入し、白河結城氏と対立。結果、白河結城氏は、伊達氏に加えて、その同盟者である蘆名氏、石川氏、二階堂氏、相馬氏といった南奥羽の有力国人をほぼ全て敵に回すという、絶望的な状況に追い込まれた 1 。
この戦いに大敗した白河結城氏は、岩城氏との婚姻を果たすことができなかったばかりか、所領の一部を失うという決定的な打撃を受けた 1 。この敗北は、単なる一合戦の勝敗に留まらず、白河結城氏の権威を大きく失墜させ、南奥羽における政治的影響力を決定的に低下させる転換点となった。
滑井合戦の敗北から数年後の天文11年(1542年)、伊達氏において稙宗・晴宗父子による大規模な内乱「天文の乱」が勃発する。この時、伊達晴宗は田村隆顕を牽制するため、白河結城氏に対して背後からの攻撃を要請した。しかし、義綱と家督を継いでいた晴綱は、この要請に応じず、乱に対して中立的な立場を貫いた 1 。
この不介入は、滑井合戦での手痛い敗北の記憶が、伊達氏の内乱への深入りを躊躇させたためと考えられる。どちらの派閥が勝利しても、白河結城氏に大きな利益がもたらされる保証はなく、むしろ新たな介入を招き、さらに領土を蚕食される危険性を孕んでいた。この中立政策は、もはや南奥羽の主導権争いに積極的に関与する力を失い、ただ自領の保全のみを願うしかないという、弱体化した国人領主の現実的かつ苦渋の生存戦略であったと評価できる。義綱の治世は、戦国時代の南奥羽において、旧来の国人領主体制が崩壊し、より広域を支配する強力な戦国大名による領国支配体制へと移行していく過渡期の縮図であった。白河結城氏の衰退は、この大きな地殻変動の渦中で、その流れに抗うことができなかった典型例と言えよう。
相次ぐ軍事的敗北と領土の喪失により心労が重なったのか、義綱は天文11年(1542年)頃に出家し、「道海」と号して家督を嫡男の晴綱に譲った 1 。隠居後も一定の影響力を保持していた可能性はあるが、史料上で彼の活動が確認できるのは弘治4年(1558年)の書状が最後である 1 。その後の足跡は不明であり、永禄2年(1559年)頃に60年の生涯を閉じたと推定されている 1 。
義綱の治世は、一族の衰退期と完全に重なる。彼の個人的な力量以上に、佐竹・伊達という二大勢力の台頭と、一族内に燻る不和という、抗いがたい時代の潮流に翻弄された悲劇的な当主であった。彼の死後、白河結城氏は、さらに激しい動乱の時代へと突入していくことになる。
初代義綱の死後、白河結城氏の歴史は、一族最後の当主となる結城義親の存在によって大きく動かされる。彼の生涯は、戦国乱世の終焉期において、地方の小領主が取りうるあらゆる選択肢―内紛、従属、鞍替え、そして再起―を体現した、極めてしたたかで生命力に溢れたものであった。
結城義親は天文10年(1541年)に誕生した 9 。初代義綱の子とも弟とも言われ、出自は必ずしも明確ではないが、当初は庶流の小峰氏を継承していた 9 。当主であった結城晴綱(初代義綱の子)が晩年に失明し、病床に伏すようになると、義親がその後見人として家中の実権を掌握していった 9 。
天正元年(1573年)に晴綱が死去し、その子で幼少の義顕が家督を継ぐと、義親の立場はさらに強固なものとなる。そして天正3年(1575年)、白河結城氏の運命を決定づける「天正の変」が起こる。
従来の通説 では、後見人であった義親が家老の和知美濃守らと謀り、若き当主・義顕を追放、自らが白河結城氏の当主の座を簒奪したとされてきた 10 。このクーデターの背景には、義親自身の野心、あるいは彼の岳父であった会津の雄・蘆名盛氏の唆しがあったとも言われている 9 。
しかし、 近年の研究 、特に『白河市史』の編纂過程で発見された史料などから、この通説を覆す新たな見解が有力となっている。それは、義親が反乱を起こした側ではなく、 むしろ反乱を起こされた側であった という説である 10 。この説によれば、当時すでに当主の座にあった義親(あるいは「隆綱」という初名を名乗っていた可能性もある)に対し、その弟や一族が反旗を翻したのが「天正の変(天正の乱)」の実態であったとされる 7 。この内紛の混乱に乗じて、常陸の佐竹氏が介入し、白河領の多くを奪われる結果となったというのである 25 。この新説は、義親を単なる狡猾な簒奪者ではなく、一族の内紛と外部勢力の侵攻という二重の苦難に直面した悲劇的な当主として再評価するものであり、その後の彼の行動を理解する上で重要な視点を提供する。
天正の乱による内紛と弱体化を好機と見た常陸の佐竹義重は、白河領への侵攻を本格化させる 12 。独力での抵抗が不可能となった義親は佐竹氏に屈服せざるを得ず、天正7年(1579年)、講和の条件として義重の次男・義広を養子として迎え入れ、家督を譲渡した 9 。義親自身は入道して「不説斎」と号し、形式的には義広の後見人となったが、これは事実上、白河結城氏が佐竹氏に乗っ取られたことを意味した。
しかし、義親の運命はここで終わらなかった。天正15年(1587年)、養子であった義広が、跡継ぎのいなくなった蘆名氏の家督を継ぐために会津へ去ることになる 9 。これにより、義親は予期せぬ形で白河城主の座に返り咲き、再び実権を掌握したのである。
この間、義親は佐竹氏の指揮下で人取橋の戦いや郡山合戦などに従軍していたが、常に情勢の変化に鋭い注意を払っていた。天正17年(1589年)、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅亡させ、南奥羽の勢力図が一夜にして塗り替えられると、義親は即座に決断を下す。長年従属してきた佐竹氏に見切りをつけ、新たな覇者である伊達政宗に服属したのである 9 。この素早い鞍替えは、小領主が生き残るための、時勢を的確に読んだ現実的な判断であった。
伊達政宗への服属は、白河結城氏の存続を保証するものではなかった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げである小田原征伐が開始される。この時、秀吉は全国の大名・国人に対し、小田原への参陣を命じた。しかし、伊達政宗に服属していた義親は、 政宗から参陣を止められていた 10 。
この処置の背景には、中央と地方の論理の衝突があった。政宗にとって、義親のような服属した国人領主は自らの家臣団の一部であり、主君である自分が代表して参陣すれば事足りる、というのが奥羽の伝統的な主従観であった。しかし、秀吉の「惣無事令」と小田原参陣命令は、全国の全ての領主が、身分や規模の大小を問わず、豊臣政権という唯一の中央権力に直接忠誠を誓うことを求めるものであった 15 。政宗自身もこの秀吉の意図を完全には理解しておらず、遅参によって自身の領土さえも危うくした 34 。その結果、主君の指示に従ったに過ぎない義親は、「不参」という罪状で、奥州仕置において所領を全て没収され、改易処分となったのである 7 。白河結城氏の改易は、単なる一領主の処罰ではなく、秀吉が奥羽の旧来の政治秩序を解体し、日本全土に中央集権的な支配体制を確立しようとする過程で起きた、象徴的な事件であった。
大名の地位を失った義親は、所領回復を願って会津の新領主となった蒲生氏郷を頼ったが、願いは叶わず、諸国を流浪する身となった 10 。しかし、彼の不屈の精神は潰えていなかった。慶長6年(1601年)、かつての主君であり、ある意味では改易の原因ともなった伊達政宗に召し抱えられるという形で、再起の機会を掴む 10 。政宗は義親に百人扶持を与えて厚遇した。
義親には嫡子がいなかったため、弟・義名の子である 二代目の白河義綱 を養子に迎え、一族の血脈を繋いだ 2 。元和5年(1619年)、79歳で家督を義綱に譲って隠居し、寛永3年(1626年)、86歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 9 。彼の執念と政治力なくして、白河結城氏の血脈が仙台藩士として後世に続くことはなかったであろう。
結城義親の死後、白河結城氏の歴史は、その養子である二代目の白河義綱に引き継がれる。彼の時代は、独立した領主としての過去と決別し、大大名・伊達氏の家臣として新たな道を歩み始める、再生の物語であった。
二代目・白河義綱は、文禄元年(1592年)、結城義親の弟である小峰義名の子として誕生した 2 。しかし父・義名が早世し、伯父である義親に実子がいなかったことから、その婿養子となった 2 。
慶長6年(1601年)、養父・義親が伊達政宗に召し抱えられたのに伴い、義綱も仙台へ移り住む 2 。義親の隠居後、元和5年(1619年)に家督を相続し、この代から正式に「白河」姓を名乗るようになった 2 。しかし、義綱の代までは正式な仙台藩士ではなく、あくまで「客分」という特別な待遇であった 2 。これは、かつて独立した大名であったことへの配慮であり、伊達家が白河家を丁重に扱っていたことを示している。義綱は寛永16年(1639年)に48歳で死去し、家督は嫡男の義実が継いだ 2 。
義綱の子・白河義実の代になって、白河家はついに「客分」の立場を離れ、正式に仙台藩の家中に組み込まれた 2 。当初の家格は、藩主の一門に次ぐ「一族」であった。
しかし、白河家の地位はさらに向上する。義綱の孫にあたる宗広の妻・高流院が、四代藩主・伊達綱村の乳母に選ばれたのである 43 。この功績により、白河家は仙台藩の家格制度における最高位である「
一門 」に昇格し、1000石を超える知行を与えられるという破格の待遇を受けた 2 。
仙台藩における「一門」の地位は、極めて特殊であった。
この「一門」制度は、伊達政宗の巧みな国家(藩)経営術の現れであった。政宗は、奥州仕置で改易された白河氏や葛西氏、大崎氏といった奥羽の名門・旧大名家を積極的に家臣団に組み入れた 49 。これは単なる温情ではなく、彼らが持つ伝統的な権威を自らの支配体制に吸収し、自身が奥羽の正統な支配者であることを内外に示すための高度な政治戦略であった。旧大名家に最高の「名誉」と「経済的基盤」を与える一方で、藩の直接的な「行政権」からは切り離す。この絶妙な仕組みによって、彼らの自尊心を保ちつつ、藩政運営上の潜在的な脅威となることを防いだのである。白河家は、独立領主としての歴史に幕を下ろし、伊達政宗が築いた巨大な仙台藩という新たな「地域国家」を構成する、象徴的な一部品として再生を遂げたのであった。
仙台藩一門としての地位を確立した白河家は、その後も幕末まで存続した 2 。二代目義綱の子には、家督を継いだ義実の他にも、分家して小峰氏を再興した小峰朝景や、太刀上・白河氏の祖となった白河朝清などがおり、一族は仙台藩内で枝葉を広げていった 2 。
明治維新後、仙台白河家は、南北朝時代に南朝の忠臣として名を馳せた遠祖・結城宗広を祀る三重県の結城神社の宮司を務めるなど、その由緒ある血脈を現代に伝えている 41 。
本報告書は、同名異人である二人の「結城義綱」の生涯を解き明かすことを通して、南奥羽の名門・白河結城氏の流転の歴史を追った。初代義綱の時代は、伊達・佐竹といった周辺大名の台頭という抗いがたい時代の潮流の中で、一族が衰退していく過程であった。対照的に、二代目義綱の時代は、独立領主としての誇りを捨て、大大名の家臣団に組み込まれることで家名を存続させるという、再生の物語であった。
この二つの時代をつなぎ、一族の運命を決定づけたのは、紛れもなく最後の当主・結城義親である。彼は、従来の「簒奪者」という一面的な評価に留まらない。内紛の当事者として一族の存続に苦慮し、大国の狭間で翻弄されながらも、時勢を読む鋭い政治感覚と不屈の精神で、改易という最大の危機を乗り越えた。そして最終的に、かつての主君・伊達政宗の下で一族再興の礎を築いた彼の生涯は、戦国乱世の終焉期を生きた地方領主の苦悩と、したたかな生存戦略そのものを我々に示してくれる。
白河結城氏の歴史は、単なる一族の盛衰史ではない。それは、国人領主が割拠した南奥羽の中世的秩序が、戦国大名の台頭と、豊臣政権という強力な中央権力の介入によって解体され、近世的な幕藩体制へと再編されていく、日本の歴史の大きな転換点を象徴する貴重な事例である。独立を失い、大大名の家臣団の最高位に組み込まれるという結末は、戦国から近世への移行期において、数多の地方領主が辿った運命の一つを、後世に鮮やかに伝えている。