最終更新日 2025-06-24

白河義親

「白河義親」の画像

南奥の梟雄か、悲運の当主か ― 白河義親の生涯に関する総合的研究

序章:白河義親とは何者か

陸奥国南部の戦国史を語る上で、白河義親(しらかわ よしちか)、あるいは結城義親(ゆうき よしちか)という人物は、極めて複雑かつ多面的な評価をされてきた存在です 1 。天文10年(1541年)に生を受け、寛永3年(1626年)に86歳でその生涯を閉じるまで、彼の人生はまさに激動の戦国時代そのものを体現していました 1 。伝統的には、主家である白河結城氏の幼い当主を追放し、実権を掌握した下剋上の梟雄、すなわち「簒奪者」としての側面が強調されてきました 1 。しかし、近年の研究、特に新たな史料の発見と解釈の進展は、この一元的な人物像に大きな揺さぶりをかけています 4 。彼は本当に自らの野心のみで動いたのか、それとも伊達、蘆名、佐竹といった強大な勢力に囲まれた地で、一族の存続を賭して苦闘した悲運の当主だったのでしょうか。

本報告書は、白河義親の生涯を、その出自の謎から、家督継承をめぐる「天正の変」の真相、周辺大名との熾烈な権力闘争、そして戦国大名としての滅亡と、その後の仙台藩における再生に至るまで、最新の研究成果を交えながら、多角的かつ徹底的に検証することを目的とします。従来の「宗家を乗っ取る」という評価の枠組みを超え、彼の行動原理と歴史的実像に迫ることで、南奥州の戦国史における彼の真の姿を明らかにすることを目指します。

第一章:出自の謎 ― 揺れ動く系譜と「隆綱」の影

白河義親の生涯を理解する上で、最初の障壁となるのが、その出自の曖昧さです。彼の父が誰であったかについては複数の説が存在し、その背景には白河結城一族が抱えていた構造的な問題がありました。

第一節:白河結城氏と庶流・小峰氏

白河結城氏は、鎌倉時代に下総結城氏の庶流として成立した名門です 6 。南北朝時代には、当主・結城宗広が南朝方の中核として活躍し、一時は奥州で伊達氏を凌ぐほどの勢力を誇りました 8 。しかし、宗広の子・親朝の代に所領が分割され、次男の朝常が小峰城を拠点として小峰氏を興して以降、白河結城氏は惣領家と、それに匹敵する力を持つ庶流・小峰氏との二頭体制のような様相を呈するようになります 6

この両家の関係は、協力することもあれば、激しく対立することもありました。特に戦国時代に入ると、永正年間(1504年-1521年)に「永正の変」と呼ばれる大規模な内紛が発生するなど、一族内部の抗争が絶えませんでした 8 。この惣領家と庶流の間の根深い対立と、それに伴う権威の揺らぎが、義親の生涯を読み解く上で極めて重要な背景となります。

第二節:錯綜する父系譜 ― 義親は誰の子か

白河義親の父親については、史料によって記述が異なり、主に三つの説が乱立しています。

  1. 結城顕頼(ゆうき あきより)の子とする説 :これは比較的多くの系図に見られる説です 1 。顕頼は白河結城氏の第8代当主とされます。
  2. 結城晴綱(ゆうき はるつな)の子(または弟)とする説 :晴綱は第10代当主であり、義親が晴綱の跡を継いだとする説です 1
  3. 結城義綱(ゆうき よしつな)の子とする説 :義綱は第9代当主で、顕頼の子とされる人物です 1

このように複数の父系譜が存在すること自体が、白河結城氏の置かれた異常な状況を物語っています。これは単なる記録の誤謬とは考えにくく、むしろ永正年間から続く内紛によって惣領家の権威が著しく低下し、家督継承の正統性が極度に不安定になっていたことの証左と見るべきでしょう。小峰氏の血を引く者が惣領家を継いだり、複雑な養子縁組が繰り返されたりした結果、後世の系図編纂者が正確な血縁関係を追跡できなくなった、あるいは政治的な意図から特定の系譜が強調された可能性も否定できません。したがって、義親の出自の曖昧さは、彼個人の問題というよりも、白河結城氏が戦国大名として自立を保つのが困難なほどに、内部から弱体化していたことを示す間接的な証拠と解釈することができます。

第三節:謎の当主「隆綱」の影

義親の出自をさらに複雑にしているのが、「隆綱(たかつな)」という謎の人物の存在です。一部の史料では、義親の別名として「隆綱」が挙げられていますが 1 、近年の研究、特に白河市が発行した資料などでは、義親が歴史の表舞台に登場する以前に、白河結城氏の当主として活動していた「隆綱」という人物がいた可能性が指摘されています 4

この隆綱をめぐっては、以下の二つの説が対立しています。

  • 同一人物説 :隆綱は義親の初名であり、同一人物であるとする説。この場合、義親は早くから正当な当主として家を率いていたことになり、後述する「簒奪者」というイメージは大きく後退します。
  • 別人説 :隆綱と義親は別人であり、義親は先行する当主であった隆綱から実権を奪う形で台頭したとする説。この場合、家督継承の経緯はさらに複雑な権力闘争の様相を呈します。

この「隆綱」問題は、従来の通説が依拠してきた史料群だけでは解明できない、白河結城氏の歴史の深層を照らし出すものです。新たな史料の発見や解釈によって、歴史像がいかにダイナミックに変化しうるかを示す好例であり、この論争そのものが、白河義親研究の最前線を形成していると言えるでしょう。

【表1:白河義親の出自に関する諸説比較】

父とされる人物

根拠・背景

隆綱との関係性

説1

結城顕頼

多くの系図で採用されている伝統的な説 1

隆綱は義親の別名、または同一人物とされることが多い 1

説2

結城晴綱

義親が晴綱の跡を継ぎ、その幼い子・義顕の後見人となったとする記録に基づく説 1

晴綱の子(または弟)である義親が、当主「隆綱」を名乗った可能性が考えられる。

説3

結城義綱

義綱を父とする系図も存在する 1 。永正の変以降の混乱期に、小峰氏出身の義綱が当主となったとする説と関連 5

義綱の子である義親が、別の当主「隆綱」と権力を争った可能性も示唆される。

新研究

不明

近年の研究では、義親が史料に登場する以前に活動した当主「隆綱」の存在が指摘されている 4

隆綱と義親が同一人物か別人かは、今後の研究課題とされている 4

第二章:家督継承の真相 ― 「天正の変」をめぐる通説と新説

白河義親の評価を決定づけてきた最大の事件が、天正3年(1575年)に起きたとされる「天正の変」です。この事件の解釈は、研究の進展によって大きく転換しつつあります。

第一節:伝統的通説 ― 野心家による家督簒奪

これまで広く受け入れられてきた通説によれば、天正の変は次のように説明されます。天正元年(1573年)、白河結城氏の当主・結城晴綱が病死し、その子でまだ幼かった義顕(よしあき)が家督を継ぎました。この時、一族の重鎮であった義親がその後見人となります 1 。しかし、その2年後の天正3年(1575年)、義親は家老の和知美濃守らと共謀し、主君である義顕を白河城から追放して、自らが白河結城氏の当主の座に就いたとされています 1

この謀反の動機については、義親自身の天下への野心、あるいは彼が正室として迎えていた蘆名盛氏の娘との関係から、岳父である蘆名盛氏に唆されたため、などと推測されてきました 1 。この説によれば、義親は典型的な下剋上の体現者であり、その後の白河結城氏の混乱と衰退を招いた張本人と位置づけられます。一方、追放された正統な当主・義顕は、泉崎村の太田川あたりで旧臣たちと共に逼塞し、いつの日か家名を再興することを誓っていたと伝えられています 14

第二節:研究史の転換 ― 垣内和孝氏による新解釈

しかし近年、この通説に根本的な疑問を投げかける研究が登場しました。特に歴史研究者の垣内和孝氏らが提唱する新説は、事件の構図を180度転換させるものです。この説によれば、「天正の変」は義親が起こしたクーデターではなく、逆に当時すでに当主の座にあった義親に対して、彼の弟や一族内の反体制派が蜂起した内乱であったとされます 4

この内紛の背後には、白河領への進出を虎視眈々と狙っていた常陸国の「鬼義重」こと佐竹義重の存在が大きく影響していたと考えられています。佐竹氏が、義親に不満を持つ白河結城氏の一族(例えば、義顕を担ぐ勢力)を扇動・支援し、内部から切り崩しを図ったという見方です 5 。つまり、この事件は白河結城氏の内部問題にとどまらず、佐竹氏の巧みな外交・軍事戦略の一環であった可能性が指摘されているのです。

第三節:総合的考察 ― 「簒奪者」から「内紛の当事者」へ

通説と新説を比較検討すると、一連の歴史的経緯は新説の立場に立つことで、より合理的に説明できることがわかります。通説では、義親の行動は個人的な野心に起因するものとされますが、その直後に佐竹義重が軍事介入し、義親が敗北、そして義重の次男・義広を養子として受け入れるという一連の流れは、あまりにも手際が良すぎます 3

もし「天正の変」が、佐竹氏が仕掛けた、あるいは巧みに利用した内乱であったと捉え直すならば、このスムーズな展開は必然の結果として理解できます。つまり、「天正の変」は佐竹氏による白河侵攻の「原因」ではなく、むしろ佐竹氏が白河を支配下に置くための「プロセスの一部」であった可能性が高いのです。佐竹義重は、単に軍事力で圧迫するだけでなく、白河結城氏が抱える惣領家と小峰氏の対立や、義親派と反義親派の確執といった内部の脆弱性を突き、これを扇動することで、最小限の力で最大の効果を得るという高度な政治戦略を展開していたと考えられます。

この視点に立てば、白河義親はもはや一方的な「簒奪者」ではありません。彼は、強大な外部勢力である佐竹氏の政治工作と、それに呼応して決起した内部の反乱勢力という、二正面作戦を強いられた「内紛の当事者」としての姿が浮かび上がってきます。この解釈の転換こそが、白河義親という人物の歴史的評価を根本から見直す鍵となるのです。

第三章:南奥の覇権争い ― 佐竹・蘆名との死闘

「天正の変」を経て、白河義親の治世は、南奥の覇権をめぐる周辺大名との絶え間ない闘争の時代へと突入します。特に、常陸の佐竹義重との関係は、彼の運命を大きく左右することになりました。

第一節:「鬼義重」の圧迫と白河領の蚕食

常陸の戦国大名・佐竹義重は、その武勇と智謀から「鬼義重」と恐れられた猛将でした。彼は関東平野での北条氏との抗争と並行して、陸奥国南部への勢力拡大を国策として強力に推進していました 16 。元亀年間(1570年-1573年)から天正年間にかけて、佐竹軍は繰り返し白河領に侵攻し、義親はこれに必死の抵抗を試みます。時には会津の蘆名氏の支援を得て戦いますが 16 、佐竹氏の圧倒的な軍事力の前に苦戦を強いられ、領土は次第に蚕食されていきました 18 。この長期にわたる抗争は、白河結城氏の国力を著しく消耗させ、単独での自立をますます困難なものにしていきました。

第二節:屈辱的和平と養子・義広

天正3年(1575年)の敗北(あるいは内乱の鎮圧失敗)の結果、義親は佐竹氏に事実上臣従する形での和睦を受け入れざるを得なくなりました。その和平の最も重要な条件が、佐竹義重の次男・義広(よしひろ、後の蘆名盛重)を養嗣子として迎えることでした 1 。当時まだ幼少であった義広を当主として迎え入れることは、白河結城氏が佐竹氏の支配体制下に組み込まれることを意味しました。

天正7年(1579年)正月、義広は白河城に入り、名目上の当主となります。これに伴い、義親は隠居して仏門に入り「不説斎(ふせつさい)」と号しました 1 。しかし、これは完全な権力の移譲ではありませんでした。史料によれば、隠居後も義親は外交文書の発給などに関与しており、特に外交権は依然として彼が掌握していたと見られています 21 。この「二頭体制」は、義親が完全に実権を失ったわけではなく、水面下で再起の機会を窺っていたことを示唆しています。

第三節:権力構造の流転 ― 義広の蘆名家継承と義親の復権

義親にとって屈辱的であったはずの状況は、戦国時代特有の予測不可能な展開によって、一転して彼に好機をもたらします。佐竹氏が白河支配の駒として送り込んだ養子・義広が、より大きな政治的力学の中に巻き込まれていったのです。

当時、会津を支配していた蘆名氏では、当主・蘆名盛隆が家臣に暗殺され、その後を継いだ嫡男・亀王丸もわずか3歳で病死するという後継者不在の危機に陥っていました 22 。蘆名家中の重臣たちは、隣接する伊達政宗の介入を何よりも警戒し、長年の同盟相手であった佐竹氏との連携を強化する道を選びます。その結果、白羽の矢が立ったのが、佐竹の血を引き、かつ白河結城氏の当主という立場にあった蘆名義広でした 22

天正15年(1587年)、義広は蘆名家の家督を継承し、会津の黒川城へと移りました 3 。これにより、佐竹氏が白河を間接統治するために送り込んだはずの養子が、より大きな大名である蘆名氏の当主となり、白河の地は当主不在という状況が生まれたのです。この権力の空白を突く形で、隠居していた義親は名実ともに白河城主の座に復帰を果たしました 3 。敵の深謀遠慮が、結果的に義親を利するという、まさに戦国乱世の外交の複雑さと偶然性を象徴する劇的な展開でした。

第四章:政局の激変 ― 伊達政宗への帰順と大名としての終焉

白河城主として復権した義親でしたが、その安息は長くは続きませんでした。南奥州の勢力図は、伊達政宗という新たな時代の覇者の登場によって、根底から覆されようとしていました。

第一節:摺上原の戦いと南奥の勢力図転換

天正17年(1589年)6月、伊達政宗は会津の覇権を賭けて、蘆名義広(旧白河義広)と磐梯山麓の摺上原で激突します。この「摺上原の戦い」で伊達軍は蘆名軍に圧勝し、戦国大名としての蘆名氏は滅亡しました 18 。この戦いの結果は、南奥州のパワーバランスを劇的に変化させました。蘆名氏を盟主格としていた佐竹氏の権威は失墜し、代わって伊達政宗が南奥の新たな覇者として君臨することになったのです。この圧倒的な軍事力の前に、これまで佐竹・蘆名連合に属していた白河結城氏や石川氏といった周辺の国人領主たちは、生き残りを賭けて雪崩を打つように政宗へと服属していきました 17

第二節:生き残りを賭けた外交転換

義親もまた、この大きな時代のうねりの中で、現実的な判断を下します。長年にわたり対立と従属を繰り返してきた佐竹氏を見限り、新たな覇者である伊達政宗の傘下に入ることを決断したのです 10 。この服属は単なる名目上のものではありませんでした。

この時期に義親が発給した「白川義親証状」という古文書が現存しています 26 。これは、家臣である高田主計助に対し、伊達氏の威光を背景にして、かつて佐竹氏に奪われた南郷領(現在の福島県東白川郡南部)を奪還した暁には、その所領を安堵することを約束したものです 26 。この文書は、義親が伊達政宗の軍事力を頼みとして、失地回復という具体的な目標を掲げていたことを明確に示しており、彼の外交転換が極めて戦略的なものであったことを裏付けています。

第三節:中央政権の奔流と奥州仕置

しかし、義親が南奥州という地域レベルの力学の中で繰り広げた必死の生存戦略は、より大きな、全国規模の政治変革の奔流に飲み込まれていきます。天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、関東の北条氏を討伐するため「小田原征伐」を開始し、全国の大名に対して参陣を命じました 27

この時、義親の新たな主筋となっていた伊達政宗自身が、秀吉に恭順するか、北条氏と結んで抵抗するかの選択に揺れ、参陣が大幅に遅れました 27 。その政宗の動向を窺っていた義親もまた、小田原へは参陣しませんでした 3

小田原城を陥落させた秀吉は、その強大な軍事力を背景に会津へ進駐し、奥州の秩序を再編する「奥州仕置」を断行します。その裁定は苛烈なものでした。秀吉は、小田原に参陣しなかったことを理由に、大崎氏、葛西氏、石川氏といった多くの奥州大名を取り潰しました。白河義親もその例外ではなく、所領は全て没収(改易)され、鎌倉時代から400年以上にわたって白河の地を治めてきた戦国大名・白河結城氏は、ここに滅亡の時を迎えたのです 24

義親の改易は、単なる一個人の判断ミスとして片付けることはできません。彼の行動は、あくまで南奥州という地域内のパワーバランスを前提とした、現実的なものでした。しかし、秀吉がもたらした「惣無事令」に代表される天下統一事業は、そうした地方の論理を根底から覆す、全く新しい中央集権的な政治秩序でした。義親をはじめとする多くの奥州大名が、この巨大なパラダイムシフトに適応できず、歴史の舞台から淘汰されていったのです。彼の滅亡は、一個人の悲劇であると同時に、地方の論理で生きてきた地域権力が、中央から押し寄せる巨大な変革の波に乗り切れなかった時代の転換点を象徴する出来事でした。

第五章:仙台藩客分として ― 仙台白河家の祖

戦国大名としての地位を失った白河義親ですが、彼の人生はそこで終わりませんでした。彼は巧みな政治力で新たな活路を見出し、一族の血脈を近世へと繋ぐことに成功します。

第一節:改易後の流浪と伊達家への仕官

天正18年(1590年)の奥州仕置によって所領を没収された義親は、一時期、諸国を流浪する失意の日々を送ったと伝えられています 3 。しかし、それから約10年後の慶長6年(1601年)、彼はかつて服属した伊達政宗に召し抱えられました 24

この時、政宗は義親を通常の家臣としてではなく、旧大名としての家格と名誉を尊重した「客分(きゃくぶん)」という破格の待遇で迎えています。当初は「給米百口」あるいは「百人扶持」という、上級家臣に匹敵する俸禄が与えられました 29 。これは、政宗が南奥の旧名門である白河結城氏の権威を利用し、自らの家臣団に厚みと箔を付けようとした戦略的な意図があったと考えられます。一方の義親にとっても、これは一族再興のまたとない機会でした。

第二節:仙台白河家の確立と家格の変遷

義親には嫡子がいなかったため、改易前に亡くなっていた弟・小峰義名の子、すなわち甥にあたる白河義綱(しらかわ よしつな)を婿養子に迎え、後継者としました 11 。寛永3年(1626年)に義親が86歳で大往生を遂げた後、この義綱が仙台白河家の家督を継承します。

当初は客分という特別な立場でしたが、義綱の子・義実(よしざね)の代になると、白河家は正式に仙台藩の家臣団に組み込まれ、「一族」という高い家格を与えられました 11 。そして、さらにその子、すなわち義親の孫にあたる宗広(むねひろ)の代には、藩主一門に次ぐ最高の家格である「一門」へと昇格を果たしたのです 11

戦国大名としては「敗者」となった義親ですが、彼の人生の最終章は、見方を変えれば大きな「成功」であったと評価できます。彼は、もはや失われた武力や領地ではなく、白河結城氏という「家名」が持つ歴史的価値を最後の資本として、巧みに立ち回りました。伊達政宗という新たな時代の勝者に仕えることで、一族の血脈と家名を、改易された他の多くの大名家が歴史の闇に消えていく中で、安泰なものとして後世に残したのです。仙台藩内で最高位の家格を得て明治維新まで家名を存続させたことは、彼の現実主義的な手腕と、時代の変化を読み解く政治的生命力の非凡さを示しています。これは、武力や領土の広さを至上価値とする戦国的な価値観から、家格と血脈の存続を重んじる近世的な価値観への移行を、義親自身がその生涯をもって体現したことを物語っていると言えるでしょう。

【表2:仙台藩における白河家の家格と知行高の変遷】

当主

時代

家格

禄高・知行地

主な出典

初代 白河義親

慶長6年 (1601年) ~

客分 (一家に準ずる)

給米百口 (百人扶持)

29

2代 白河義綱

~ 寛永16年 (1639年)

客分 → 一族

(不詳)

11

3代 白河義実

寛永16年 (1639年) ~

一族

550石 (玉造郡下真山)

11

4代 白河宗広

承応2年 (1653年) ~

一門

1000石余 (栗原郡真坂)

11

終章:白河義親の歴史的評価

白河義親の86年間の生涯を振り返ると、彼が単なる「簒奪者」という一面的なレッテルでは到底語り尽くせない、複雑で奥行きのある人物であったことがわかります。彼は、一族内部の構造的な対立、周辺大国からの絶え間ない軍事的・政治的圧力、そして中央政権による時代の変革という三重の困難の中で、権謀術数の限りを尽くして一族の存続を図った、戦国時代末期の南奥州を代表する地域領主でした。

近年の研究、特に「天正の変」の真相をめぐる新説は、彼の歴史的評価を大きく転換させるものです。彼を一方的な「簒奪者」と見るのではなく、内外の圧力に必死に抗する「当事者」として捉え直す視点は、彼の行動原理をより深く理解するために不可欠です。その行動は、個人的な野心というよりも、弱体化した一族をいかにして存続させるかという、当主としての重い責任感と苦悩に根差していた可能性を十分に考慮すべきでしょう。

最終的に戦国大名としては滅びの道をたどったものの、その後、伊達政宗の客分となり、一族を仙台藩の最高家格である「一門」として後世に伝えた彼の生涯は、類稀な政治的生命力と、時代の潮流を読み解く現実主義的な判断力の証左です。武力や領土の大きさが全てではない、戦国から近世への移行期において、彼は「家名」という無形の資産を武器に、見事な再生を遂げました。白河義親の物語は、歴史上の人物像というものが、新たな史料の発見と解釈によって、いかに豊かで多面的なものへと深化していくかを示す、格好の事例と言えるでしょう。

引用文献

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