本報告書は、日本の戦国時代にその名が見え隠れする人物、「百地三太夫」について、現存する資料に基づき、その実像と伝説を多角的に検証することを目的とする。百地三太夫という名前は、伊賀流忍術の始祖、希代の大泥棒・石川五右衛門の師、あるいは天正伊賀の乱で織田信長に抵抗した伊賀忍者の頭領といった、勇猛かつ神秘的なイメージを伴って語られることが多い。しかし、これらのイメージは、史実と後世の創作が複雑に絡み合った結果形成されたものであり、その実態は必ずしも明確ではない。
本報告では、まず江戸時代の読本や講談に描かれた伝説上の「百地三太夫」像を概観し、その成立の背景を探る。次に、百地三太夫としばしば同一視される実在の人物「百地丹波守正西(ももちたんばのかみまさにし)」に焦点を当て、その出自、伊賀国における勢力、そして同時代史料に見る活動を明らかにする。さらに、伊賀流忍術やいわゆる「伊賀上忍三家」といった概念の史実性について検討し、天正伊賀の乱における百地丹波の役割を考察する。最後に、映画や小説、ゲームといった現代の創作物における百地三太夫像の多様な受容と、史跡や子孫に伝わる伝承を紹介し、この謎多き人物の歴史的意義と現代における意味を総括する。
調査にあたっては、提供された各種資料群を精査し、それぞれの史料的性格(同時代史料、軍記物、後世の創作物など)を慎重に吟味する。忍者という存在の秘匿性ゆえ、全ての謎が解明されるわけではない可能性も念頭に置きつつ、客観的な歴史記述を心がける。
「百地三太夫」の名が広く知られるようになるのは、主に江戸時代以降の読本や講談といった大衆向けの創作物においてである。例えば、寛文年間(1661年~1673年)頃の読み本『賊禁秘誠談(ぞくきんひせいだん)』には、伊賀(現在の三重県)の郷士であり、天下の大泥棒として名高い石川五右衛門に忍術を教えた師として、百地三太夫が登場する 1 。
しかしながら、これらの物語における百地三太夫は、多分に創作されたキャラクターとしての側面が強い。同時代の歴史史料はもちろんのこと、天正伊賀の乱を詳述する軍記物『伊乱記(いらんき)』や、百地氏に関する系譜資料などにも、「百地三太夫」という名の人物は確認されていない 3 。この事実は、江戸時代に語られた百地三太夫が、史実の人物というよりは、物語を彩るために創造された、あるいは大きく脚色された存在であったことを示唆している。
さらに後世、特に大正時代の立川文庫などの出版物においては、百地三太夫の人物像はより英雄的、かつ忍者としての典型的なイメージを付与されていく。伊賀流忍術の創始者として位置づけられ、石川五右衛門のみならず、真田十勇士の一人として知られる霧隠才蔵の忍術の師であったという設定も加えられた 1 。
このような伝説形成の背景には、いくつかの要因が考えられる。江戸時代という比較的泰平の世にあって、人々は過ぎ去った戦国乱世の動乱や、そこに生きた英雄豪傑の物語に強い憧憬や興味を抱いた。中でも、忍術という神秘的で超人的な技術を操る忍者は、大衆の想像力を大いに刺激する存在であった。石川五右衛門のような、ある種反体制的なアウトローの師として百地三太夫を描くことは、権力に抗う者への共感や、義賊的な物語への期待に応えるものであったろう。すなわち、百地三太夫伝説の形成と流布は、単なる娯楽作品の創出に留まらず、当時の社会における人々の歴史観、英雄待望論、そして神秘的なものへの関心が投影された文化現象であったと捉えることができる。
百地三太夫が石川五右衛門の師であったという説は、数ある三太夫伝説の中でも特に広く知られている。前述の『賊禁秘誠談』をはじめ、多くの講談や歌舞伎、そして後には映画や小説でも繰り返し描かれてきたテーマである 1 。しかし、これもまた史実として確認されたものではなく、主に後世の創作物、特に江戸時代の読本や大正時代の立川文庫にその源流を求めることができる。
一部の伝承においては、この師弟関係はさらに劇的な展開を見せる。例えば、石川五右衛門が百地三太夫の妻と密通し、さらには三太夫の妾(式部とされることもある)を殺害して金品を奪い逃亡した、という恩を仇で返す物語も存在する 5 。このようなエピソードは、師弟関係に愛憎や裏切りといった人間ドラマの要素を加え、物語をより刺激的なものにするための創作的脚色であると考えられる。
また、霧隠才蔵が百地三太夫の弟子であったという設定も、主に立川文庫などで創作されたものである 1 。霧隠才蔵は、真田幸村に仕えたとされる真田十勇士の一人として、猿飛佐助と並び称される人気キャラクターであるが、その実在性については議論がある。百地三太夫を才蔵の師とすることで、伊賀流忍術という権威ある流派と、当時人気のあった真田十勇士の物語とを結びつけ、双方の魅力を高める効果があったのであろう。
石川五右衛門や霧隠才蔵といった、既に一定の知名度や人気を持つキャラクターと百地三太夫を結びつけるという手法は、キャラクターのブランドイメージ形成において興味深い相互作用を生んだと言える。五右衛門は実在したとされる盗賊であるが、その生涯には不明な点が多く、伝説化しやすい素地を持っていた。才蔵は架空の人物である可能性が高いが、講談や小説を通じて英雄的な忍者として広く認知されていた。これらのキャラクターに「百地三太夫門下」という、いわば忍術界の権威からの「お墨付き」を与えることで、彼らの出自に箔がつき、キャラクターとしての深みや物語上の説得力(フィクションとしての)が増す。
逆に、高名な弟子を持つということは、師である百地三太夫の「偉大さ」や「忍術の祖」としての地位をより強固なものにする。これは、現代のブランド構築における有名人による推薦(エンドースメント)に近い効果を生み出し、百地三太夫という存在を、単なる一介の忍者ではなく、「伊賀流の創始者」「伝説の師匠」といった、より大きな物語性を持つ文化的アイコンへと昇華させる上で重要な役割を果たしたと考えられる。
伝説上の忍者「百地三太夫」の影に、歴史上実在したとされる人物がいる。それが「百地丹波守正西(ももちたんばのかみまさにし)」である。多くの研究や伝承において、百地三太夫のモデル、あるいは三太夫と同一視される存在として言及されるのが、この百地丹波である。本章では、史料に基づいて百地丹波の実像に迫る。
百地丹波の実名は正西(まさにし)と伝えられている 10 。百地氏は、伊賀国名張郡(現在の三重県名張市)から大和国宇陀郡(現在の奈良県宇陀市)にまたがる「竜口(りゅうぐち)」と呼ばれる地域を本拠とした武士であった。この「竜口」は、地名の小字である「モモジ」あるいは「モモチ」に由来すると考えられ、これが百地氏の姓の起源とされる 10 。
百地氏のルーツを辿ると、14世紀頃に伊賀国黒田荘で「悪党」として活動した大江氏の一党が南下し、この竜口の地に勢力を築いたものとされている。戦国時代までには、百地氏は竜口の地頭としての地位を確立していた 10 。また、伊賀国山田郡喰代(ほうじろ、現在の伊賀市喰代)にも、大江党の末裔と見られる百地氏の活動が確認されており、一族が伊賀国内の複数拠点に分かれていた可能性が示唆される 10 。
系図に関しては、竜口の百地家系図によれば、天正年間に丹波守を称した百地正西は、竜口城主であった百地丹波守正永(まさなが)の子であるとされている 10 。一方で、喰代の百地家系図では、百地氏の初代を「丹波守泰光(やすみつ)」とし、「奈良の京の時分」の人物、すなわちより古い時代の人物としている 10 。これらの系図の異同は、百地氏の歴史の複雑さや、伝承の過程での変化を示しているのかもしれない。いずれにせよ、百地氏は伊賀と大和の国境地帯に砦を構え、南伊賀一帯に影響力を持つ有力な地侍(じざむらい)、すなわち在地領主であったことは確かであろう 2 。
ここで、しばしば混同される「百地三太夫」と「百地丹波」について、その基本的な情報を整理しておく。
表1:百地三太夫と百地丹波の比較概要
項目 |
百地三太夫 |
百地丹波(正西) |
呼称 |
百地三太夫(ももちさんだゆう) |
百地丹波守正西(ももちたんばのかみまさにし)、百地丹波 |
実在性 |
主に江戸時代以降の創作・伝説上の人物。同時代史料には見られない 3 。 |
戦国時代~江戸時代初期に実在したとされる武士。『多聞院日記』などの史料に名が見える 10 。 |
主な活動時期 |
江戸時代の読本などで語られる(設定としては戦国時代)。 |
戦国時代(特に天正年間)。生没年は弘治2年(1556年)~寛永17年(1640年)との説あり 10 。 |
史料上の記述 |
『賊禁秘誠談』、立川文庫など後世の創作物が中心 1 。 |
『多聞院日記』、『伊乱記』(軍記物)など 10 。 |
主な活動内容 |
伊賀流忍術の祖、石川五右衛門・霧隠才蔵の師(伝説) 1 。 |
伊賀の地侍、天正伊賀の乱で織田軍と交戦、大和国田口荘の地頭請 1 。 |
関連人物 |
石川五右衛門(弟子)、霧隠才蔵(弟子)とされる(伝説) 1 。 |
織田信長・信雄(敵対)、藤林長門守(伊賀の指導者仲間か)など。 |
後世のイメージ |
伝説的な忍者、忍術の達人、大泥棒の師匠。 |
実在の武将、伊賀の指導者の一人、百地三太夫のモデルとされることが多い 3 。 |
百地氏の出自や活動を考察する上で重要なのは、彼らが単なる忍者集団の長というよりは、伊賀・大和国境地域に根差した国人領主(地侍)としての性格を強く帯びていたという点である。その勢力基盤は、時に「悪党」とも称された大江氏の系譜を引く武士団であった可能性が指摘されている 10 。「悪党」とは、中世において既存の荘園体制や幕府の支配に対して抵抗的な動きを見せた武士団や在地勢力を指す場合があり、彼らはしばしば高い自立性を有していた。
伊賀国自体が、鎌倉時代から室町時代にかけて中央権力の支配が及びにくい地理的条件にあり、「伊賀惣国一揆(いがそうこくいっき)」に代表されるような、地侍たちによる自治的な共同体組織が発達した特異な地域であった 12 。このような背景の中で、百地氏のような在地領主は、自らの所領と一族の存続を図るため、情報収集、諜報活動、奇襲戦法といった、後に「忍術」として体系化される特殊な戦闘技術や知識を発展させ、駆使したと考えられる。つまり、百地氏にとっての「忍者」としての側面は、在地領主としての複合的な性格の一部であり、厳しい戦国乱世を生き抜くための現実的な手段の一つであったと推察されるのである。
百地丹波(正西)の実在を証明する上で最も重要な史料の一つが、興福寺(奈良)の僧侶・英俊(えいしゅん)によって記された日記『多聞院日記(たもんいんにっき)』である。この日記の天正7年(1579年)7月16日の条項に、「百地丹波」の名が明確に記されている 10 。
記述によれば、百地丹波は当時、興福寺大乗院の寺領であった大和国田口荘(やまとのくにたぐちのしょう)の「地頭請(じとううけ)」を行っていたとされる 10 。地頭請とは、荘園領主(この場合は興福寺大乗院)からその荘園の管理や年貢の徴収などを請け負うことであり、これを務めるには一定の武力と、その地域における支配力、そして経済的な信用が必要であった。この記録は、百地氏が本拠地である伊賀国だけでなく、隣接する大和国にも影響力を有し、当時の有力な寺社勢力との間に公的な経済的結びつきを持っていたことを示す動かぬ証拠と言える。
『多聞院日記』のこの記述は、いくつかの点で重要な意味を持つ。第一に、百地丹波という人物が天正7年という具体的な時点で実在し、活動していたことを裏付ける一級史料であるという点である。第二に、彼が単なる山間の土豪ではなく、大和国における寺社領の経営に関与するほどの立場にあったことを示している。これは、百地氏の社会的・経済的な地位を理解する上で貴重な情報となる。
しかしながら、この『多聞院日記』の記述には限界もある。それは、百地丹波の「忍者」としての活動については一切触れられていないという点である。日記に記されているのは、あくまで地頭請という公的な役職と経済活動に関するものであり、彼が忍術を用いたり、忍者集団を率いたりしたといった記述は全く見られない。
この事実は、いくつかの解釈を可能にする。一つは、百地丹波は巷説で語られるような「忍者」ではなかった、あるいは少なくともそれが彼の主たる活動ではなかったという可能性である。もう一つは、忍者としての活動は当然ながら秘匿性が高く、公的な日記に記録されるような性質のものではなかったという可能性である。あるいは、当時の「忍者」の定義や活動形態が、後世に形成された我々の抱くイメージとは異なっていたのかもしれない。
いずれにせよ、『多聞院日記』の記述は、百地丹波の「表の顔」、すなわち在地領主としての公的な側面を伝えるものであり、伝説や後世の創作物で盛んに語られる「裏の顔」、すなわち忍者としての側面については、他の史料や状況証拠から慎重に推測していく必要があることを示唆している。この史料は、百地丹波研究における確かな出発点であると同時に、その人物像の多面性と複雑さを浮き彫りにするものでもある。
伊賀忍者の指導者層を語る上で、百地丹波と並び称されることが多い人物に、藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)がいる。この二人は、しばしば伊賀の上忍の双璧として挙げられるが、特に藤林長門守に関しては史料が乏しく、その実像は謎に包まれている部分が多い。この情報不足が、百地丹波と藤林長門守は実は同一人物であったのではないか、という興味深い説を生む一因となっている 5 。
この同一人物説の根拠として挙げられるのは、主に以下の点である。第一に、活動範囲とされる地域について、百地丹波が伊賀南部、藤林長門守が伊賀北部をそれぞれ管轄していたという伝承があり、あたかも一人の人物が二つの名で広範囲を統治していたかのように解釈できるという点である 5 。第二に、両者の戒名が酷似しているという指摘がある。百地丹波の戒名は「本覚了誓(ほんかくりょうせい)」、藤林長門守の戒名は「本覚深誓(ほんかくしんぜい)」とされ、一字違いであることから関連性が推測されることがある 14 。
しかしながら、この同一人物説に対しては有力な反論も存在する。最も直接的なものとして、この説自体が「小説の世界である」と断じる見解がある 7 。また、両者の墓所が伊賀国内の別々の場所に存在することも、別人であったことを強く示唆する。百地丹波については、伊賀市喰代の青雲寺に供養塔があり、奈良県宇陀市室生龍口に墓所があるとされる 1 。一方、藤林長門守の墓所は、伊賀と近江の国境に近い東湯舟(現在の滋賀県甲賀市甲南町)の正覚寺にあるとされている 14 。
さらに、藤林氏の存在と忍者としての活動を間接的に示す証拠として、著名な忍術伝書『万川集海(まんせんしゅうかい)』の存在が挙げられる。この『万川集海』は、江戸時代の延宝4年(1676年)に、藤林長門守の子孫とされる藤林保武(ふじばやしやすたけ)によって編纂されたものであり、伊賀・甲賀流忍術の集大成として高く評価されている 5 。これは、藤林氏が忍術の伝承に深く関わっていたことを示唆する。
百地丹波と藤林長門守の同一人物説は、史料の断片性、特に藤林長門守に関する記録の乏しさに起因する憶測の産物である可能性が高い。忍者のように、その活動の性質上、意図的に記録を残さなかったり、あるいは偽情報を流布したりすることもあったと考えられる存在を研究する際には、このような史料的制約が常に付きまとう。戒名の類似性についても、偶然の一致である可能性や、後世に何らかの意図をもって関連付けられた可能性、あるいは伊賀の有力者として並び称される中で、似たような系統の戒名が与えられたり、伝承の過程で混同が生じたりした可能性も排除できない。
この同一人物説は、歴史的事実として確立されたものではなく、むしろ忍者研究における史料的制約の大きさと、それゆえに生じる解釈の多様性を示す一例として捉えるべきであろう。確かなことは、百地丹波も藤林長門守も、伊賀の地において重要な役割を果たした人物として、後世にその名が記憶されているという事実である。
百地三太夫(丹波)を語る上で避けて通れないのが、彼が属したとされる伊賀流忍術の世界と、その指導者層に関する「上忍」という概念である。特に「伊賀上忍三家」という言葉は広く知られているが、その史実性については近年、専門家からも疑問が呈されている。本章では、これらの伝承と研究の現状を概観する。
伊賀には、服部(はっとり)氏、藤林(ふじばやし)氏、そして百地(ももち)氏という三つの指導的な家系が存在し、これらを「伊賀上忍三家(いがじょうにんさんけ)」と呼ぶ伝承が広く流布している 5 。この伝承によれば、百地家は服部・藤林と並ぶ伊賀上忍三家の一つとされ 17 、百地丹波(あるいは百地三太夫)はその一人として伊賀の忍者衆を統率したと言われている 5 。
しかし、この「上忍三家」という呼称や、特定の三家が伊賀忍者を代表する固定的な指導層であったという枠組みが、戦国時代当時から明確に存在したのかどうかについては、近年の忍者研究において慎重な見方が示されている。例えば、三重大学国際忍者研究センターの研究者からは、「何をもって三大上忍なのかの根拠はあまりはっきりしていません」という見解が示されており、この概念の史実的基盤が必ずしも強固ではないことが示唆されている 20 。
「上忍三家」とされる各家についても、その実態は一様ではない。服部氏では、特に服部半蔵正成(まさなり、通称:鬼半蔵)が有名であるが、彼は徳川家康に仕えた武将であり、伊賀者や甲賀者といった忍者集団を指揮する立場にはあったものの、彼自身が忍術を駆使する忍者であったというよりは、指揮官としての側面が強い 18 。彼の父である初代服部半蔵(保長やすなが)は伊賀の土豪であり、こちらが伊賀における服部氏の源流とされる 5 。
藤林長門守については、前述の通り記録が乏しいものの、その子孫とされる藤林保武が忍術伝書『万川集海』を編纂したことは、藤林氏が忍術の伝承に深く関わっていたことを示唆している 5 。
百地氏については、百地丹波守正西が天正伊賀の乱で活動したことが史料からうかがえる。
「伊賀上忍三家」という概念は、後世の人々が、複雑で多様な伊賀の在地勢力や忍者たちの社会構造を、より分かりやすく整理し、象徴的な存在として捉えるために形成された可能性が考えられる。歴史上の複雑な事象や集団は、代表的な人物や家系に集約して語られる傾向がある(例えば、武田二十四将や徳川十六神将といった呼称も、必ずしも全員が同格・同時代に活躍したわけではない)。伊賀の地侍たちは多数存在し、それぞれが独自の勢力基盤を持っていたと考えられ、「伊賀惣国一揆」という連合体制 12 も、特定の三家が絶対的な支配権を握っていたというよりは、個々の地侍たちの合議によるものであった可能性が高い。
服部、藤林、百地という姓は、確かに伊賀の有力な氏族として史料に散見されるが、彼らを「三大上忍」として固定的な枠組みで捉えることは、戦国時代当時の流動的な実態を必ずしも正確に反映しているとは言えないかもしれない。むしろ、後世の物語作者や研究者が、伊賀の忍者社会の複雑さを類型化し、単純化しようとした結果として、この概念が定着した側面もあるのではないだろうか。この概念は、伊賀忍者の「ブランド化」や、物語におけるキャラクター設定の便宜のために機能してきたとも考えられる。
「伊賀上忍三家」の伝承と関連して、忍者社会における「上忍・中忍・下忍(じょうにん・ちゅうにん・げにん)」といった階層構造のイメージも広く浸透している。これは、江戸時代の忍術書や、それ以降の小説、漫画、映画などの創作物を通じて形成されてきたものである。しかし、この明確な階層構造が戦国時代に実際に存在したのかどうかについては、研究者の間でも議論がある。
伊賀流忍者博物館のウェブサイトでは、「上忍・下忍の階級差があったとすることは、小説などのフィクションであり、史実ではない」と明記されており、この階層構造の史実性を否定する見解が示されている 8 。これは、忍者の実態が、後世に作られた体系的なイメージとは異なっていた可能性を示唆する。
一方で、医薬経済オンラインの記事では、上忍は伊賀忍者集団を束ねる頭領と位置づけられている。そして、藤林長門守の事例(あるいは彼の子孫が編纂した『万川集海』の記述)から、「人に知ることなくして、巧者なるを上忍とするなり」という一節を引用し、人に知られることなく多数の中忍・下忍を使いこなす者が上忍であったと示唆している 5 。この『万川集海』の一節 5 は、上忍が単なる武勇に優れた者ではなく、情報管理や組織運営の頂点に立つ、知略に長けた指導者であった可能性を示しているのかもしれない。
しかし、この「上忍」という呼称が、固定的な「階級」や「身分」を意味していたのか、それとも特定の任務における「役割」や、卓越した「能力」を持つ者への尊称であったのかは、さらなる検討を要する。戦国時代の武士団の構造も、主従関係は存在したものの、現代の軍隊や企業のような明確な階級制度とは異なり、より属人的な繋がりや家ごとの自立性が強いものであった。
「伊賀惣国一揆」 12 のような地侍たちの連合自治体制においては、厳格なピラミッド型の階層構造よりも、有力者たちの合議による運営が中心であった可能性が高い。もし「上忍」という言葉が当時使われていたとしても、それは特定の家柄や固定的な身分を指すのではなく、集団の中で特に知略や統率力に優れた人物、あるいは重要な任務の指揮を任されたリーダーに対する呼称であった可能性も考えられる。
「上忍・中忍・下忍」という明確な階層区分は、もしかすると、近現代の組織論的な視点が、過去の社会構造の解釈に投影された結果であるのかもしれない。後世の忍術書や創作物が、忍者の組織をより体系的で理解しやすいものとして描こうとする中で、このような階層モデルが採用され、一般に広まっていったのではないだろうか。戦国時代の伊賀における忍者たちの関係性は、師弟関係、血縁関係、あるいは任務ごとの協力関係といった、より流動的で実態に即したものであった可能性も考慮すべきである。
百地丹波守正西の生涯において、最も特筆すべき出来事は、天正伊賀の乱への関与である。この戦いは、織田信長・信雄親子による伊賀国への大規模な侵攻に対し、伊賀の地侍たちが「伊賀惣国一揆」として団結し、激しく抵抗した戦いとして知られている。本章では、この歴史的事件における百地丹波の立場と役割、そして軍記物『伊乱記』に描かれるその活躍について詳述する。
天正伊賀の乱は、大きく二度に分けて語られる。第一次は天正7年(1579年)、織田信長の次男・織田信雄が独断で伊賀に侵攻した戦いであり、第二次は天正9年(1581年)、信長自身が総力を挙げて伊賀を制圧しようとした戦いである 23 。
これらの戦いにおいて、伊賀の地侍たちは「伊賀惣国一揆」と呼ばれる連合組織を結成して抵抗した。伊賀惣国一揆は、伊賀国の地侍層が、外部勢力の侵入から自らの在地領主権を守るために結成した、国全体に及ぶ規模の団結であった。この一揆には独自の掟書も存在したことが確認されており、隣接する甲賀郡中惣(こうかぐんちゅうそう)と類似した、合議制に基づく執行体制を持っていたと考えられている 12 。一部の資料では、執行部として10人の奉行が選出されたとされているが、その具体的な人名については不明な点が多い 12 。
百地丹波は、特に第一次天正伊賀の乱において、この伊賀惣国一揆の指導者・指揮官の一人としてその名が挙げられている 23 。軍記物である『伊乱記』によれば、藤林長門守と共に伊賀衆の総大将を務めたとされている 5 。この第一次の戦いにおいて、伊賀衆は地の利を活かしたゲリラ戦術や巧みな情報操作を駆使し、数に勝る織田信雄軍を撃退することに成功した 5 。
伊賀惣国一揆の性格を考えると、特定の独裁的な指導者が存在したというよりは、伊賀国内の有力な地侍たちの合議による集団指導体制であった可能性が高い。「惣国一揆」という名称自体が、国人たちが「惣(そう)」すなわち共同体として団結したことを示しており 12 、掟書の存在や奉行の選出 12 は、個々の地侍の利害を調整し、共同で意思決定を行う仕組みがあったことを裏付けている。
百地丹波は、その中でも特に有力な地侍の一人であり、軍事指導者としての役割を担ったと考えられるが、彼が単独で伊賀全体を支配していたわけではないだろう。例えば、史料によっては百地丹波を「伊賀随一の権力者」と記すものもあるが 22 、同時に「伊賀十二人衆」の筆頭とされる百田藤兵衛(ももたとうべえ、丹波と同一人物説もある)など、他の有力者の名も挙げられている 22 。第一次天正伊賀の乱で百地丹波と藤林長門守が「総大将」とされたという記述 5 も、単独の最高指導者というよりは、南伊賀と北伊賀を代表する軍事リーダー、あるいはその戦いにおいて特に戦功のあった指揮官としての役割であったと解釈するのが妥当かもしれない。したがって、百地丹波の立場は、伊賀惣国一揆という連合体の中の有力な構成メンバーであり、軍事指導者の一人であったと理解するのが適切であり、絶対的な支配者ではなかったと考えられる。
天正伊賀の乱における百地丹波の具体的な活躍を伝える主要な文献として、軍記物『伊乱記』がある。この書物は、天正伊賀の乱から約100年後の江戸時代に、伊賀上野の学者・菊岡如幻(きくおかにょげん)によって著されたものであり、当時の伊賀で語り継がれていた伝説や逸話を集めて編纂された「一種の戦争小説」としての性格が強いとされている 25 。そのため、同時代の一次史料とは区別し、その記述内容については慎重な吟味が必要である。
『伊乱記』によれば、百地丹波は伊賀国喰代(ほうじろ)の住人とされ、第一次天正伊賀の乱(天正7年)において、伊勢方面から鬼瘤越(おにこぶごえ)を通って侵入してきた織田信雄の部将・柘植三郎左衛門保重(つげさぶろうざえもんやすしげ)らを撃退した伊賀衆の中に、その名が見られる 10 。
そして、天正9年(1581年)に織田信長自身が総力を挙げて伊賀に侵攻した第二次天正伊賀の乱においては、伊賀衆が最後の抵抗拠点の一つとした柏原城(かしわばらじょう、現在の名張市)に籠城した者たちの中に、喰代の百地丹波の名が記されている。この戦いで、丹波は弓矢を取って勇戦したと伝えられている 1 。
しかし、織田軍の圧倒的な兵力の前に伊賀衆は追い詰められ、柏原城も最終的には開城し、天正伊賀の乱は伊賀側の敗北という形で終結を迎える 23 。その後の百地丹波の消息については、諸説あり判然としない。この柏原城での戦いで戦死したという説 1 、あるいは城を脱出して高野山へ逃れたという説 10 、さらには生き延びて後に故郷へ帰ったという説 10 などが伝えられている。
表2:天正伊賀の乱における百地丹波の活動記録(史料別)
史料名 |
年代 |
関連する乱 |
百地丹波の具体的な活動・役割 |
記述の概要 |
史料の性質・留意点 |
『多聞院日記』 |
天正7年 |
(第一次の時期) |
大和国田口荘の地頭請を行っていた 10 。 |
経済活動、在地領主としての側面を示す。乱への直接的関与の記述なし。 |
同時代史料(僧侶の日記)。信頼性高いが、伊賀内部の動向を詳細に記すものではない。 |
『伊乱記』 |
江戸時代 |
第一次・第二次 |
第一次:鬼瘤越で織田軍を迎撃した伊賀衆の一人 10 。総大将の一人(藤林長門守と共に) 5 。第二次:柏原城に籠城し勇戦 1 。 |
第一次での勝利、第二次での抵抗と敗北を描写。百地丹波を伊賀の主要な指導者・武将として描く。 |
軍記物語(戦争小説)。乱から約100年後に成立。伝説や脚色を含む可能性が高く、史実として扱うには他の史料との比較検討が不可欠 25 。 |
『信長公記』 |
同時代 |
第一次・第二次 |
(百地丹波個人に関する直接的記述は限定的か、あるいは見られない可能性。伊賀衆全体の抵抗については記述あり) |
織田側の視点から乱の経緯を記述。伊賀衆の抵抗の激しさ、第二次における組織的殲滅戦など。 |
同時代史料(織田信長の家臣・太田牛一の記録)。信頼性高いが、織田方からの視点であり、伊賀内部の個々の人物の動向については詳細でない場合がある 22 。 |
立川文庫など後世の創作物 |
大正時代等 |
(設定として天正期) |
伊賀流忍術の祖、石川五右衛門の師として、天正伊賀の乱で活躍したとされることが多い。 |
英雄的な忍者指導者として描かれる。 |
歴史的事実とは区別が必要なフィクション。 |
『伊乱記』は、天正伊賀の乱に関する詳細な記述を含むという点で貴重な文献ではあるが、その成立が乱から約100年後であること、そして軍記物語としての性格上、物語としての面白さを追求するための脚色や、英雄的な行為の誇張、あるいは民間で語り継がれる中で生まれた伝説などが含まれている可能性が高いことは常に念頭に置く必要がある。したがって、『伊乱記』の記述を利用する際には、可能な限り同時代の他の史料、例えば織田側の記録である『信長公記(しんちょうこうき)』や、周辺地域の動向を伝える『多聞院日記』などとの比較検討を行い、記述の背景にある伝承の性質を考慮する、いわゆる史料批判の視点が不可欠となる。例えば、百地丹波の具体的な戦闘における目覚ましい活躍ぶりは、『伊乱記』において詳細に描かれているかもしれないが、それがそのまま客観的な歴史的事実であると断定するには慎重であるべきであり、むしろ伊賀の人々の間で語り継がれた記憶や、敗北の中にも武勇を称えようとする願望が反映されたものとして解釈することも可能である。
天正伊賀の乱という未曽有の戦禍を経験した後、百地氏とその一族がどのような道を辿ったのかについては、いくつかの伝承が残されている。前述の通り、百地丹波(正西)の乱後の消息については諸説あるが、その一つに、彼は故郷に帰り、名を新左衛門と改めて余生を送り、寛永17年(1640年)に85歳で没したというものがある 10 。
この伝承によれば、百地丹波の子孫は大和国竜口(現在の奈良県宇陀市室生龍口)に定住し、江戸時代には同地の庄屋を務めたとされている 10 。現在でも、かつての百地氏の本拠地であった三重県伊賀市喰代や名張市竜口には百地姓の人々が居住しており、その中には百地丹波の子孫であると伝えられる家も存在する 6 。
百地氏の菩提寺とされる伊賀市喰代の青雲寺には、江戸時代の過去帳が残されており、その中に「本覚了誓禅門 百地三之丞先祖」という記載が見られる。これが百地丹波守の戒名であり、百地三之丞はその子孫ではないかと推定されている 8 。このような記録は、百地氏の家系が乱後も存続し、地域社会の中で一定の地位を保っていたことを示唆する。
また、名張市では、伊賀流忍者の開祖・百地三太夫(この場合は伝説上のイメージと史実の丹波が重ねられている)の居城であったとされる竜口城址を目指すウォーキングコースが設定されるなど、百地氏の歴史は地域の文化資源としても活用されている 32 。
天正伊賀の乱は、伊賀国にとってまさに壊滅的な敗北であり、多くの地侍が所領を失い、あるいは命を落とした 33 。しかし、百地氏のような有力な地侍の家系が、戦乱を生き延び、形を変えながらもその土地に根を下ろし続けたという事実は、敗者となった在地勢力が必ずしも完全に歴史の舞台から消え去るわけではないことを示している。彼らは、庄屋といった新たな役割を担うことで地域社会に関わり続け、一族の記憶や土地の歴史を次世代へと継承していったのである。
現代における子孫による伝承の維持や、自治体による史跡の整備・活用といった動きは、過去の出来事、特に悲劇的な敗北や英雄的な抵抗の記憶を、現代の地域アイデンティティの形成や文化振興に繋げようとする試みと見ることができる。これは、歴史が単なる過去の出来事の集積ではなく、現代社会においても多様な意味を持ち続け、新たな物語を生み出し続けるダイナミックなプロセスであることを示していると言えよう。
百地三太夫(およびそのモデルとされる百地丹波)の物語は、戦国時代や江戸時代に留まらず、現代においても多様な形で語り継がれ、新たな生命を吹き込まれている。映画、小説、漫画、ゲームといった大衆文化の中で、彼は様々な姿で描かれ、多くの人々に親しまれている。また、彼ゆかりの史跡や子孫に伝わる伝承は、地域の歴史的遺産として大切にされている。
百地三太夫の名は、現代のエンターテインメント作品において、忍者というジャンルを代表するキャラクターの一人として頻繁に登場する。その中でも特に大きな影響を与えたのが、1980年に公開された映画『忍者武芸帖 百地三太夫』(主演:真田広之氏)であろう 3 。この作品は、アクション俳優としての真田広之氏の初期の代表作の一つであり、派手な忍者アクションと共に、百地三太夫の名を若い世代にも広めるきっかけとなった。映画の物語は、豊臣秀吉の腹心・不知火将監(千葉真一氏が演じた)によって父である初代百地三太夫を殺され、一族を滅ぼされた遺児・鷹丸(真田広之氏)が、中国での武術修行を経て成長し、百地家の残党と共に秀吉への復讐と一族の再興を誓うという、勧善懲悪の要素も含む英雄譚である 37 。この作品において、百地三太夫自身は物語の冒頭で命を落とすか、あるいは回想シーンで登場する存在として描かれているが、その名は物語全体の中心的なモチーフとなっている。
映画以外にも、百地三太夫は数多くの小説、漫画、そしてビデオゲームに登場してきた。これらの作品群において、彼は伊賀忍者の頭領、卓越した忍術の使い手、あるいは織田信長や豊臣秀吉といった天下人に敵対する勢力の指導者など、作品のテーマや物語上の役割に応じて実に多様な姿で描かれている。
例えば、歴史シミュレーションゲームの古典的名作『太閤立志伝V』においては、百地三太夫は伊賀流忍術の創始者の一人として登場し、伊賀の忍者衆を率い、かの服部半蔵にも忍術を授けたという、まさに「伝説の忍者マスター」といった設定で描かれている 17 。一方で、アクションゲーム『戦国無双5』では、史実の天正伊賀の乱で織田信長と敵対したイメージとは異なり、豊臣秀吉を介して織田信長に協力する、気さくで飄々とした性格の忍びとして登場する 43 。
これらの描写は、史実の百地丹波の事績や、江戸時代に形成された伝説上の百地三太夫像を参考にしつつも、各作品のエンターテインメント性や物語の展開に合わせて、制作者が自由にキャラクターを創造・脚色している場合が多いことを示している。百地三太夫(丹波)のイメージは、映画、小説、ゲームといった多様なメディアを通じて繰り返し再生産され、その過程で史実から離れた様々な属性が付与され、変容し続けているのである。これは、歴史上の人物がフィクションの世界で、大衆の求める英雄像や魅力的なキャラクター像へと姿を変えていく典型的なプロセスと言えるだろう。結果として、「百地三太夫」という名は、もはや特定の固定されたイメージを持つ単一のキャラクターではなく、多様な解釈と変容を許容する、柔軟性に富んだ文化的なアイコンとして現代に生き続けている。
フィクションの世界で華々しく活躍する百地三太夫像とは別に、彼の(あるいは百地丹波の)足跡を伝える史跡や伝承が、三重県伊賀市や名張市といったゆかりの地に今も残されている。これらは、百地三太夫(丹波)という人物が、単なる物語の登場人物ではなく、地域に根ざした歴史的な存在として人々の記憶に刻まれ、大切にされてきたことを示している。
三重県伊賀市喰代(ほうじろ)には、百地丹波守の砦跡とされる「百地砦跡(百地氏城跡)」が現存しており、忍者が修行したと伝えられる堀跡や空堀、さらには百地丹波守泰光(喰代百地家系図上の初代)の愛妾・式部にまつわる悲恋伝説を伝える「式部塚」などが残されている 6 。これらの史跡は、伊賀流忍者博物館などと共に、伊賀忍者ゆかりの観光地として整備され、多くの歴史ファンや観光客が訪れている。
また、百地丹波守の屋敷は、伊賀国喰代だけでなく、伊賀国竜口(現在の名張市竜口)や大和国竜口(現在の奈良県宇陀市室生龍口)にもあったと伝えられており、それぞれの地に子孫が暮らしているという伝承も存在する 30 。名張市出身の郷土史家・故吉住完元氏は、百地三太夫は創作上の人物ではなく実在の人物であり、名張市中村で生まれ、後に叔父である百地丹波を頼って竜口に移り住んだという説を唱えている。この説によれば、伊賀竜口の百地家は、三太夫の異母弟にあたる四太夫(よだゆう)を祖先としていると伝えられている 30 。
さらに、百地氏の子孫とされる百地織之助(ももちおりのすけ)氏は、明治時代に軍記物『伊乱記』を増訂・校正した『校正伊乱記』を刊行している 45 。これは、一族の歴史や天正伊賀の乱の記憶を後世に正確に伝えようとした努力の表れであり、百地氏の歴史が子孫によって大切に守り継がれてきたことを示している。
これらの史跡の存在や、子孫に伝わる様々な伝承は、百地三太夫(丹波)という人物が、歴史研究の対象としてだけでなく、地域社会においてその土地の歴史を物語る存在として、また人々のアイデンティティの一部として生き続けていることを示している。歴史上の人物や出来事は、学術的な研究の対象であると同時に、地域社会においては文化資本として活用され、新たな物語や意味を生み出し続ける存在となる。百地三太夫(丹波)に関連する史跡や伝承は、まさにそのような歴史のローカル化と、それを観光資源や地域アイデンティティの核として活用しようとする現代的な動きを反映していると言えるだろう。これは、グローバル化が急速に進む現代において、地域独自の歴史や文化の価値を再発見し、未来へと繋げていこうとする広範な傾向の一部とも捉えることができる。
本報告書では、日本の戦国時代にその名を馳せた「百地三太夫」という人物について、史実と伝説の両面から多角的に検証を試みた。その結果、百地三太夫という存在が、単一の明確な人物像ではなく、歴史上の実在人物の事績と、後世の創作によって育まれた伝説的なイメージが複雑に織りなす、重層的なものであることが明らかになった。
史実の側面から見れば、百地三太夫のモデル、あるいはしばしば同一視されるのは、伊賀国の土豪であった百地丹波守正西である。彼は、天正7年(1579年)の『多聞院日記』に大和国田口荘の地頭請としてその名が記録されており 10 、実在した人物であることは間違いない。さらに、天正伊賀の乱においては、伊賀惣国一揆の中心人物の一人として織田信長・信雄軍の侵攻に抵抗し、特に軍記物『伊乱記』にはその勇戦ぶりが描かれている(ただし、軍記物としての史料的性格には留意が必要である) 1 。
一方で、伝説上の百地三太夫は、江戸時代の読本『賊禁秘誠談』に石川五右衛門の忍術の師として登場して以来 1 、講談や立川文庫といった大衆文化の中で、伊賀流忍術の祖、霧隠才蔵の師といった、より英雄的で神秘的な忍者像へとそのイメージを増幅させてきた 1 。この伝説上の三太夫像は、史実の丹波の事績とは必ずしも一致しないが、忍者という存在に対する人々の興味やロマンを掻き立て、現代に至るまで映画や小説、ゲームといった様々なメディアで繰り返し描かれ、受容されている。
百地三太夫(丹波)の研究は、忍者という特殊な存在の史実性を探求する上で、また、歴史上の人物が時代と共にどのように伝説化・英雄化されていくのかという、歴史認識の変容プロセスを理解する上で、極めて興味深い事例を提供する。特に、「伊賀上忍三家」や「上忍・中忍・下忍」といった忍者の階層構造に関する通説の史実性については、近年の研究で疑問も呈されており 8 、今後の史料発見や解釈の深化が待たれる分野である。
本報告で試みたように、一次史料(『多聞院日記』など)、軍記物語(『伊乱記』など)、そして後世の創作物を慎重に区別し、それぞれの史料的価値と限界を見極めながら、多角的に人物像に迫るという歴史研究の基本的な姿勢が、百地三太夫のような複雑な人物を理解する上では不可欠である。
最後に、百地三太夫という存在は、単に過去の歴史研究の対象であるに留まらない。彼(あるいは彼にまつわる伝説)は、現代の文化創造の源泉として、また、ゆかりの地においては地域振興やアイデンティティ形成の核として、今なお多様な形で受容され、新たな意味を与えられ続けている。この事実は、歴史が静的な過去の記録ではなく、現代社会と相互に作用し合いながら生き続けるダイナミックなものであることを改めて示していると言えよう。
本報告書の作成にあたり、以下の資料を参照した。