益田兼堯は室町後期の石見国人領主。若くして家督を継ぎ、嘉吉の乱で武功を重ね幕府引付衆に。応仁の乱を巧みに乗り切り、雪舟を招き文化を庇護した多才な人物。
室町時代後期、15世紀の日本は、中央の権威が著しく揺らぎ、各地の武士たちが自らの実力によって存亡を賭ける、未曾有の動乱期であった。応仁・文明の乱(1467-1477年)に象徴されるように、足利将軍家の権威は失墜し、守護大名は領国の支配権を確立すべく互いに争い、国人と呼ばれる在地領主たちは、大名の麾下に属しつつも、独自の生き残りを模索していた。このような「地方の時代」の幕開けとも言うべき激動の時代に、山陰の西端、石見国(現在の島根県西部)にその名を刻んだ一人の国人領主がいた。益田氏第15代当主、益田兼堯(ますだ かねたか)である。
中国地方は、西国随一の守護大名である大内氏が強大な影響力を及ぼす一方、山名氏などの勢力も複雑に絡み合い、常に緊張をはらんでいた 1 。石見国人である益田氏は、代々大内氏との関係を基軸としながらも、自立した勢力としての地位を保ってきた。兼堯の生涯は、まさにこの時代の縮図であった。彼は、嘉吉の乱をはじめとする数多の戦場で武功を重ねた勇猛な武将であり、同時に、室町幕府の要職である引付衆に就任し中央政界にも通じた政治家でもあった 3 。そして、戦乱の合間には、画聖・雪舟等楊を領地に招き、後世に残る優れた文化遺産を後援した文化の庇護者でもあった 5 。
本報告書は、益田兼堯という人物の生涯を、単なる一地方領主の伝記としてではなく、彼が生きた時代の政治的・軍事的・経済的・文化的な文脈の中に位置づけ、その多面的な活動を徹底的に解明することを目的とする。彼の行動原理を深く掘り下げ、武将、官僚、文化人という三つの顔を総合的に分析することで、中世後期における国人領主の生存戦略と、彼らが持ち得た可能性の広がりを明らかにしていく。
年(西暦/和暦) |
兼堯の年齢(推定) |
主要な出来事 |
関連人物・勢力 |
典拠 |
1422-23年頃(応永29-30年頃) |
0歳 |
誕生(雪舟より2-3歳年下と推定) |
雪舟等楊 |
6 |
1431年(永享3年) |
8-9歳 |
父・益田兼理と兄が九州で戦死。家督を相続する。 |
益田兼理、大内盛見、少弐氏 |
3 |
1441年(嘉吉元年) |
18-19歳 |
嘉吉の乱。幕府の命で赤松満祐追討に参加。美作高尾城を攻略し、管領・細川持之より感状を受ける。 |
足利義教、赤松満祐、山名氏、細川持之 |
8 |
1451年(宝徳3年) |
28-29歳 |
幕府の命で伊予に出兵。河野氏の内紛に介入し、管領・畠山持国より賞される。 |
河野道治、吉川経信、畠山持国 |
8 |
1455年(康正元年) |
32-33歳 |
肥後一揆の鎮圧に参加。 |
- |
8 |
1460年頃(寛正元年頃) |
37-38歳 |
室町幕府の引付衆に就任する。 |
足利義政 |
3 |
1461年(寛正2年) |
38-39歳 |
嫡男・貞兼に家督を譲り隠居。大内教弘に属し、河内国で畠山義就と戦う。 |
益田貞兼、大内教弘、畠山義就 |
3 |
1467年(応仁元年) |
44-45歳 |
応仁の乱勃発。貞兼は西軍の大内政弘に従軍。兼堯は東軍の細川勝元と通じる。 |
大内政弘、山名宗全、細川勝元 |
3 |
1476年(文明8年) |
53-54歳 |
石見国東部の有力国人・高橋氏と盟約を結ぶ。 |
高橋氏 |
11 |
1479年(文明11年) |
56-57歳 |
雪舟を益田に招聘。雪舟は『益田兼堯像』を制作し、萬福寺・崇観寺の庭園を作庭したとされる。 |
雪舟等楊、竹心周鼎 |
7 |
1483年(文明15年) |
60-61歳 |
孫・益田宗兼の家督相続祝いに、雪舟が『花鳥図屏風』を描いたとされる。 |
益田宗兼 |
12 |
1485年(文明17年) |
62-63歳 |
5月23日、死去。七尾城麓の大雄庵に葬られたと伝わる。 |
- |
3 |
益田兼堯の卓越した活動を理解するためには、まず彼が率いた益田氏の歴史的背景と、その勢力を支えた経済的・軍事的基盤を把握することが不可欠である。益田氏は、平安時代後期に石見国に根を下ろして以来、巧みな戦略と地の利を活かして、西石見に一大勢力を築き上げていた。
益田氏の祖は、藤原北家小野宮流、あるいは真夏流に連なる藤原国兼と伝えられている 1 。国兼は永久2年(1114年)、石見国司として都から下向し、任期終了後もこの地に留まり、土着豪族化した 1 。当初は浜田の御神本(みかもと)に拠点を構え、「御神本氏」を称した 1 。
鎌倉時代に入り、4代当主・兼高の代に益田氏は大きな転機を迎える。兼高は源平合戦でいち早く源氏方に付き、その功績によって鎌倉幕府から石見国の武士団を指揮する押領使に任じられ、在庁官人として国内での地位を確立した 2 。そして建久3年(1192年)、拠点を益田の地に移し、これ以降「益田氏」を名乗るようになった 1 。この頃から、兼高の次男・兼信が三隅氏、三男・兼広が福屋氏を興すなど、一族は分家を輩出しながら石見西部に強固な武士団を形成していく 1 。南北朝時代には、宗家が北朝方、分家が南朝方に付くなど、内乱を巧みに乗り切り、観応の擾乱以降は、周防の大内氏の傘下に入ることで、石見国人の筆頭としての地位を不動のものとした 1 。兼堯が家督を継いだのは、こうした数百年にわたる歴史的蓄積の上であった。
益田氏の勢力を物理的に支えたのは、日本海交易によってもたらされた莫大な経済力であった。益田の地は、日本海に面し、朝鮮半島や中国大陸に近いという地理的優位性を持っていた 13 。益田氏はこの地の利を最大限に活用し、領内を流れる高津川や益田川の水運を利用して、上流域の匹見などで産出される良質な材木や、都茂鉱山の鉱物などを交易品として国内外に送り出した 18 。
その交易の広がりと活況を如実に物語るのが、益田川河口の砂州の内側で発見された港町遺跡「中須東原遺跡」である 16 。発掘調査では、船着き場跡や鍛冶工房跡と共に、中国、朝鮮半島、さらには遠くタイなど東南アジア産の陶磁器が大量に出土しており、益田が環日本海交易の一大拠点であったことを証明している 5 。『益田家文書』などの記録からも、益田氏自身がこの交易に深く、そして積極的に関与していたことがうかがえる 18 。
この交易による経済力こそが、益田氏の全ての活動の源泉であった。後の時代、益田氏が毛利氏との和睦の際に、当時極めて貴重であった虎皮や、北国との交易でしか手に入らない昆布や数の子などを贈っている記録があるが 11 、これは単なる貢物ではなく、自らの広範な交易ネットワークと経済力を誇示する高度な外交戦略であった。また、若狭の小浜(現在の福井県)に益田氏の船が頻繁に出入りしていた記録も残っており 11 、彼らが日本海航路を駆使して広域な経済圏を形成していたことを示している。兼堯が成し遂げた幕府要職への就任という政治的成功や、雪舟招聘という文化的事業は、この強大な経済力なくしてはあり得なかった。武力、政治力、文化力は、交易という経済基盤の上に築かれた、相互に連関する三本の柱だったのである。
益田氏の軍事力と権威の象徴が、居城である七尾城と、平時の居館である三宅御土居であった。
七尾城は、益田平野と日本海を一望する標高約120メートルの丘陵に築かれた、大規模な山城である 21 。全長600メートルを超えるY字状の尾根全体を要塞化し、大小40余りの曲輪(平坦地)を配し、要所には堀切や土塁、そして斜面からの敵の侵入を防ぐ畝状空堀群といった防御施設が設けられていた 21 。その規模と堅固さは、同時代の国人領主の城郭と比べても群を抜いている 16 。
近年の発掘調査により、この七尾城が単なる戦時の籠城施設(詰城)ではなかったことが明らかになっている。本丸跡などからは、礎石を用いた本格的な建物跡や庭園跡、さらには数多くの輸入陶磁器が出土した 2 。これは、戦国後期に益田藤兼が毛利氏の攻撃に備えて城に居住した記録を裏付けるものであり、平時においても領主が生活し、政治や儀礼を行うための空間として機能していたことを示している 2 。この発見は、山城を戦時専用の臨時拠点とみなす従来のイメージを覆す、重要な知見である。
一方、益田川を挟んで七尾城の北西約870メートルに位置するのが、平時の居館であった三宅御土居である 22 。高さ5メートルに及ぶ土塁に囲まれたこの館跡は、益田氏の日常の政務と生活の中心地であった。有事の際には背後の七尾城に立て籠もるという、中世の典型的な「館と詰城」のセットであり、この二つの拠点が一体となって、益田氏の領国支配の中枢を形成していたのである。
戦乱の世に生まれた兼堯の生涯は、若くして訪れた試練から始まった。父と兄を一度に失うという悲劇を乗り越え、彼は幕府の命による数々の合戦で武功を重ねることで、益田氏当主としての、そして一人の武将としての地位を確固たるものにしていく。
永享3年(1431年)、兼堯の父である第14代当主・益田兼理は、主家である大内氏の当主・大内盛見に従い、九州で少弐氏との戦いに臨んでいた。しかしこの戦いで、兼理は盛見と共に討死し、さらに兼堯の兄もまた命を落とすという悲劇に見舞われた 3 。
この予期せぬ事態により、兼堯はわずか10歳そこそこという若さで、益田家の家督を継承せざるを得なくなった 3 。内外に敵の多い乱世において、幼い当主が巨大な国人領主層を束ねていくことは、想像を絶する困難を伴ったであろう。この過酷な経験が、後の彼の老練な政治手腕と、家の存続に対する強い意志を育んだことは想像に難くない。
若き当主・兼堯が、その武才を天下に示す最初の機会となったのが、嘉吉元年(1441年)に勃発した嘉吉の乱であった。室町幕府第6代将軍・足利義教が播磨守護・赤松満祐に暗殺されるという前代未聞の事件に対し、幕府は直ちに赤松追討令を発した。兼堯はこの幕府の命に応じ、追討軍に参加する 8 。
彼は山名氏の軍勢に属し、同年8月、赤松方の拠点であった美作高尾城(現在の岡山県)の攻略戦で目覚ましい働きを見せた。この功績により、幕府管領であった細川持之から直接感状を授かるという栄誉を得ている 9 。これは、兼堯が単なる大内氏配下の国人ではなく、幕府からも一目置かれる存在であることを示す重要な出来事であった。
兼堯の軍事奉公はこれに留まらない。宝徳3年(1451年)には、伊予国(現在の愛媛県)の守護・河野氏の内紛に介入するため、吉川経信らと共に四国へ渡海し、幕府が支援する河野孝通を助けて戦い、管領・畠山持国からその功を賞された 8 。さらに康正元年(1455年)には、肥後国(現在の熊本県)の一揆を鎮圧するために九州へも出陣している 8 。
これらの広範な転戦歴は、彼が単に主家・大内氏の命令に従っていただけではないことを示唆している。むしろ、将軍直属の軍事力である「奉公衆」として、幕府からの直接の命令に応じていたと解釈するのが妥当である 25 。奉公衆は、全国の有力国人などから選ばれ、守護大名を介さずに将軍に仕える武官であり、時には守護大名の領国支配を牽制する役割も担った 25 。兼堯は、この奉公衆としての務めを忠実に果たすことで、守護・大内氏とは別個に、幕府中央との直接的な繋がりを構築した。彼の絶え間ない軍事奉公は、家の安泰を図るための義務であると同時に、一地方国人が中央政界へと進出するための、極めて重要なキャリア形成の過程だったのである。
数々の軍功によって幕府からの信頼を勝ち得た兼堯は、ついに一介の地方武将の枠を超え、幕府の中枢で政務を担う官僚としての道を歩み始める。彼の引付衆就任は、益田氏の歴史において画期的な出来事であり、兼堯の政治家としての非凡な才覚を示すものであった。
寛正元年(1460年)頃、兼堯は将軍・足利義政によって、幕府の訴訟審理機関である引付方の構成員、「引付衆」の一員に列せられた 3 。引付(ひきつけ)は、鎌倉時代に設置された幕府の重要な役職で、主に御家人間の所領問題などの訴訟(雑務沙汰)を扱う司法機関であった。その構成員である引付衆に任命されることは、幕府から高い能力と忠誠心を認められた証であり、極めて名誉なことであった。
石見国の一国人が、このような幕府の要職に抜擢されたのは異例のことであった。その背景には、嘉吉の乱以来、各地を転戦して幕府に尽くしてきた兼堯の長年の軍功があったことは間違いない 10 。幕府にとって兼堯は、西国における信頼できる直臣であり、守護大名・大内氏を牽制する上でも価値のある存在と見なされていた可能性がある。
この引付衆就任は、益田氏の社会的地位を飛躍的に向上させた。単なる石見の有力国人という立場から、幕府の公的な権威を背景に持つ存在へと変貌を遂げたのである。これにより、彼は他の国人領主とは一線を画す格式を手に入れ、周辺勢力との交渉や領国経営において、絶大な政治的影響力を行使することが可能となった。武力だけでなく、中央の権威をも巧みに利用する兼堯の政治手腕は、この時に大きく開花したと言えよう。
兼堯が隠居し、嫡男・貞兼に家督を譲った矢先、日本全土を二分する未曾有の大乱、応仁・文明の乱(1467-1477年)が勃発する。この国家的な危機に対し、老練な戦略家・兼堯は、益田氏の存続を賭けた絶妙な二股戦略を展開する。それは、彼の政治家としての集大成とも言うべき、卓越した手腕を示すものであった。
応仁の乱において、益田氏の主家筋である周防の大内政弘は、山名宗全率いる西軍の総帥として、その主力を担っていた。主家への忠誠を果たすべく、益田氏当主の貞兼は、大内軍の麾下に入り、西軍の武将として上洛し、各地で東軍と激戦を繰り広げた 1 。
一方で、すでに隠居の身であった兼堯は、驚くべき行動に出る。彼は、将軍・足利義政の命に従うという名目のもと、東軍の総帥・細川勝元と密かに通じ、東軍方としての立場をも確保したのである 3 。この父子による東西両陣営への分裂参加は、一見すると矛盾した行動に見えるが、その裏には極めて計算された多層的な戦略が隠されていた。
第一に、これは単に「どちらが勝利しても家が存続できるように」という単純なリスクヘッジに留まるものではない。それは、益田氏が負う二つの異なる忠誠義務、すなわち、長年の主従関係にある大内氏への忠義(貞兼の西軍参加)と、幕府奉公衆・引付衆として仕えた将軍への忠誠(兼堯の東軍との連携)を、同時に果たそうとする高度な政治的判断であった。
第二に、この戦略により、益田氏は乱後のいかなる政治状況にも対応できる立場を確保した。西軍が勝利すれば貞兼の武功が、東軍が勝利すれば兼堯の貢献が、それぞれ恩賞や所領安堵を要求する正当な根拠となる。事実、貞兼は西軍の武将として数々の武功を挙げて足利義視から賞賛され 26 、一方で兼堯・貞兼父子は東軍方からも所領の安堵を得ることに成功している 28 。これは、10年以上に及ぶ大乱の終結と、その後の新たな秩序形成までをも見越した、兼堯の老練な戦略眼の賜物であった。この巧みな存続戦略は、戦国乱世を生き抜く国人領主の処世術の典型であり、兼堯の真骨頂を示すものであった。
兼堯と貞兼は、中央での大乱に巧みに対処する一方で、その混乱に乗じて本国・石見における勢力拡大を着実に進めていた。
応仁の乱が始まると、大内氏の一族でありながら東軍に与した大内教幸(道頓)が周防で反乱を起こし、それに呼応して石見では益田氏の長年の宿敵であった津和野の吉見信頼が挙兵した。大内政弘の命を受けた貞兼は、ただちに石見に帰国し、陶弘護(すえひろもり)らと共に吉見氏を攻撃。津和野城を攻め、各地の城を次々と攻略した 1 。この戦いの結果、益田氏はかつて吉見氏の所領であった高津・須子・安富といった地域を奪還し、その領地を大幅に拡大させることに成功した 27 。
さらに、外交面でも巧みな動きを見せる。文明8年(1476年)、兼堯は石見国東部の有力な国人領主であった高橋氏と盟約を締結した 11 。これは、応仁の乱による幕府体制の動揺が地方に波及する中で、地域内の勢力と連携することで自らの立場を強化し、領国の安定を図るための戦略的な一手であった 11 。中央の戦乱を、自領の勢力拡大と安定化の好機として的確に捉える、兼堯のしたたかな戦略家としての一面がここにも見て取れる。
戦乱に明け暮れた武将、そして幕府の官僚としての顔を持つ兼堯であったが、彼の人物像を語る上で欠かすことのできないのが、文化の庇護者としての一面である。特に、日本美術史上不世出の画聖と称される雪舟等楊との深い交流は、兼堯の文化的素養の高さと、彼が益田の地にもたらした文化的な遺産の大きさを物語っている。
寛正2年(1461年)に家督を嫡男・貞兼に譲って隠居した兼堯は、その晩年を七尾城麓の大雄庵で過ごした 3 。この隠居生活の中で、彼は当時すでに日本最高の画家として名声を得ていた雪舟を、益田の地に招いたのである 7 。
雪舟は応仁の乱を避けて大内氏の庇護下にあったが、文明11年(1479年)、兼堯の招きに応じて益田を訪れた 7 。一地方の国人領主が、雪舟のような当代随一の文化人を招聘できた背景には、前述した日本海交易によって蓄積された豊かな経済力があったことは言うまでもない 5 。しかしそれだけではなく、兼堯自身が、雪舟の芸術を理解し、彼と対等に交わることのできる高い文化的教養を身につけていたことが、この招聘を実現させた大きな要因であったと考えられる。
雪舟は益田滞在中に、後世に語り継がれる数々の傑作を残した。それらは現在、国の重要文化財や史跡・名勝に指定され、兼堯と雪舟の交流の深さを今に伝えている。
雪舟は益田で、宗派も趣も異なる二つの寺院に、それぞれ特徴的な庭園を作庭したと伝えられている。
これら二つの庭園は、施主である兼堯の意向や、それぞれの寺院の性格を雪舟が深く理解した上で作庭されたものと考えられ、中世益田の文化水準の高さを象徴する遺産である。
雪舟が益田で残した最も重要な作品の一つが、兼堯自身の肖像画『紙本著色益田兼堯像』である 5 。風景画を得意とした雪舟が描いた数少ない肖像画の中でも、制作年や背景が明らかであり、彼の人物画の基準作として極めて高い価値を持つ 35 。
この肖像画に描かれた兼堯は、折烏帽子に大紋(武士の礼装)という姿で端座している 36 。しかしその表情には、歴戦の武将としての厳しさよりも、むしろ品格と知性を備えた文化人としての穏やかな相貌が浮かび上がっている 37 。落ち窪んだ目、やや上向きの鼻、福々しい耳、そして引き締まった小ぶりの口元など、60歳前の兼堯の容貌を捉えた写実的な描写は圧巻であり、単なる形式的な肖像画を超えて、その内面までも描き出そうとするかのようである 6 。この傑作からは、画聖・雪舟と、彼を敬愛し、深く理解したであろう兼堯との、親密で好ましい人間関係をうかがい知ることができる。
雪舟と益田氏との交流は、兼堯一代にとどまらなかった。文明15年(1483年)、兼堯の孫である益田宗兼が家督を相続した際には、その祝いとして雪舟が『花鳥図屏風』を描いたと伝えられている 12 。これは、兼堯、貞兼、宗兼という益田氏三代にわたって、雪舟との良好な関係が続いていたことを示す貴重な証しである。
雪舟と益田との縁の深さを示すものとして、近年有力視されているのが「雪舟終焉の地・益田説」である。後の時代の記録ではあるが、益田氏20代当主・益田元祥が毛利輝元に提出した覚書『牛庵御奉公之覚書』の中に、「雪舟(中略)極老にて石見之益田へ被罷越於彼地落命仕候」(雪舟は大変な高齢になってから石見の益田へ赴き、その地で亡くなった)という一節がある 39 。
この記述から、雪舟は晩年に再び益田を訪れ、この地でその87年(推定)の生涯を閉じたのではないかと考えられている。岡山や山口など終焉の地には諸説あるが 40 、この史料の存在は益田説の有力な根拠となっている。もしこの説が事実であれば、雪舟にとって益田は、単なる一時的な滞在先やパトロンのいる土地ではなく、安住の地として選ぶほどに愛着のある場所であったことを意味する。それは、彼を温かく迎え入れた兼堯の人柄と、益田の文化的な風土が、雪舟の心を深く捉えていたことの何よりの証左と言えるだろう。
応仁の乱という国家的な動乱を乗り切り、雪舟との交流を通じて領地に豊かな文化を花開かせた益田兼堯は、文明17年(1485年)5月23日、その波乱に満ちた生涯を閉じた 3 。隠居後の住まいであった七尾城麓の大雄庵跡には、現在も兼堯の墓と伝わる五輪塔が残されている 7 。
兼堯が築いた盤石な基盤は、次代に確実に継承され、益田氏のさらなる発展の礎となった。早くから家督を譲られていた嫡男の貞兼は、父・兼堯の戦略のもと、応仁の乱において西軍の武将として活躍し、石見国内では宿敵・吉見氏を破って領土を拡大するなど、武将として優れた能力を発揮した 26 。これらの功績により、主家の大内氏からの信頼を一層厚くし、周防・長門にも所領を与えられるなど、益田氏の歴史における「全盛期」を創出したと高く評価されている 10 。文明11年(1479年)には、将軍・足利義尚から直接接待を受けるという栄誉にも浴しており 10 、益田氏の威勢が頂点に達していたことを示している。
貞兼の子、すなわち兼堯の孫にあたる宗兼の代に至るまで、益田氏は石見国における国人領主の筆頭として、その確固たる地位を維持し続けた。兼堯が遺した軍事的、政治的、そして文化的な遺産は、決して彼一代で終わるものではなく、次世代の繁栄へと確かに繋がっていたのである。
石見の国人領主・益田兼堯の生涯を多角的に検証した結果、彼は単なる地方武将という枠組みには到底収まらない、室町時代後期を象徴する傑出した人物であったと結論付けられる。
第一に、兼堯は武将であると同時に、中央政界にも通じた老練な政治家・戦略家であった。若くして家督を継ぎ、嘉吉の乱をはじめとする数々の戦役で武功を重ね、その功績を足掛かりに幕府の奉公衆、さらには司法官僚である引付衆にまで上り詰めた。この中央との太いパイプと、主家・大内氏との関係を巧みに使い分け、応仁・文明の乱という未曾有の国難を、父子で東西両軍に分かれるという絶妙な戦略で乗り切った。彼の行動は、常に家の存続と発展という明確な目標に基づいた、極めて合理的かつ戦略的なものであった。
第二に、彼の強大な力の源泉は、日本海交易に支えられた豊かな経済力にあった。益田という地の利を活かして国内外との交易を掌握し、莫大な富を蓄積した。この経済力が、強力な軍事力を維持し、中央政界での活動を支え、そして文化事業へと投資する原資となった。彼は、経済力を政治力と文化力へと巧みに転換させる術を心得ていたのである。
第三に、兼堯は優れた文化の理解者であり、庇護者であった。画聖・雪舟を領地に招聘し、後世に残る二つの名園と、日本肖像画史上の傑作『益田兼堯像』を誕生させた功績は計り知れない。これは、彼の個人的な文化的素養の高さを示すと同時に、当時の地方領主が、経済力を背景として、もはや中央に何ら遜色のない、むしろ独自の輝きを放つ高度な文化を享受し、創造し得たことを示す好例である。
武と文、中央と地方、政治と文化。これら複数の領域において卓越した手腕を発揮した益田兼堯は、幕府の権威が揺らぎ、地方が自らの力で輝き始めた「地方の時代」の到来を、まさに体現した人物であった。彼の生涯は、中世から戦国へと移行する時代の複雑な様相と、そこに生きた武士たちの多様で強靭な生き様を、今を生きる我々に雄弁に物語っている。