毛利家臣、益田景祥。彼の人物像は、しばしば「武勇に優れ、小早川隆景にその軍功を讃えられた勇将」「隆景死後、その未亡人・問田大方を保護した情義に厚い人物」「関ヶ原の戦いの後、父・元祥と共に家中の経済再建に尽力した実務家」といった言葉で要約される 1 。これらの評価は、景祥の生涯の骨子を的確に捉えている。しかし、この簡潔な人物評の裏には、戦国時代から江戸時代初期への激動期を、類稀なるバランス感覚をもって生き抜いた一人の武将の、より複雑で奥行きのある実像が隠されている。
本報告書は、益田景祥を単に「益田元祥の次男」や「勇将」という一面的な視点から捉えるのではなく、毛利一門の血を継ぎ、主家の戦略的駒として運命を翻弄され、当代きっての名将の薫陶を受け、そして近世の藩政において卓越した実務能力を発揮した、稀有な「ブリッジ・パーソン(橋渡し役)」として再評価することを目的とする。彼の生涯は、戦国の武勇が尊ばれた時代から、泰平の世における統治と経営が求められる時代への移行期そのものを体現している。
特に、2021年に熊本県多良木町で発見された古文書は、長年謎に包まれていた景祥の少年期、すなわち「宗像才鶴」としての経歴を劇的に明らかにした 2 。この発見は、彼の生涯を再構成する上で決定的な鍵となるものであり、本報告書においてもその分析を中核に据える。血筋、武功、政治力、そして人間性という多角的な視点から益田景祥の生涯を丹念に追うことで、これまで十分に語られてこなかった彼の歴史的重要性を明らかにしていく。
益田景祥の生涯を理解する上で、彼が生まれ持った血縁的背景を無視することはできない。彼の行動原理と毛利家における特異な地位は、この血の宿命によって大きく規定されていた。
益田氏は、本姓を藤原氏とし、鎌倉時代から石見国(現在の島根県西部)に根を張る有力な国人領主であった 4 。戦国時代、周辺を大内氏や尼子氏といった大勢力に囲まれる中で巧みな外交手腕を発揮し、最終的に毛利氏に臣従する道を選んだ。景祥の父である第20代当主・益田元祥は、毛利輝元の重臣として数々の戦功を挙げ、関ヶ原の戦いの後は防長二カ国に減封された毛利家の国家老として藩財政の再建を主導し、近世長州藩の礎を築いた傑物として知られる 7 。
景祥の出自をさらに特別なものにしているのが、その母方の血筋である。彼の母は、毛利元就の次男であり、「毛利両川」の一翼を担った猛将・吉川元春の娘であった 10 。これにより、景祥は毛利元就の直系の孫という、家臣団の中でも極めて高貴な血統を持つことになった。これは単なる主従関係を超えた、毛利一門としての特別な地位を彼に与えるものであった。
この血縁は、景祥に無形の資産をもたらした。彼が単なる石見の国人領主の次男ではなく、毛利宗家と直接血で繋がる存在であるという事実は、毛利家中枢部からの絶対的な信頼の基盤となった。有力な外様家臣でありながら、同時に一門衆でもあるという二重の性格。この特異な立場こそが、小早川隆景が死に際して妻の将来を託し、また毛利輝元が豊臣秀吉の命令に背いてまで彼を直臣として留め置いた背景にあると考えられる 1 。それは「この男は毛利を裏切らない」という、血によって裏打ちされた確信に他ならなかった。
益田家は、元祥・景祥の代に、毛利家の親族や側近と積極的に婚姻関係を結び、藩内での発言力を飛躍的に高めた 4 。景祥自身も、毛利輝元の正室・南の方の縁者である重臣・児玉元良の娘を正室として迎えている 4 。さらに景祥の娘たちは、宗家を継いだ甥の益田元堯や、阿曽沼就春、児玉就信といった藩の重臣たちに嫁いでおり、その閨閥は藩内に深く張り巡らされていた 12 。
表1:益田景祥を中心とした血縁・姻戚関係図
人物 |
景祥との関係 |
備考 |
毛利元就 |
母方の祖父 |
戦国時代の知将 |
吉川元春 |
母の父 |
毛利元就の次男。「毛利両川」の一人 |
小早川隆景 |
母方の叔父 |
毛利元就の三男。「毛利両川」の一人 |
益田元祥 |
父 |
益田氏第20代当主。長州藩国家老 |
益田広兼 |
兄 |
益田氏第21代当主。早世 |
児玉元良の娘 |
正室 |
児玉氏は毛利輝元正室の縁戚 4 |
臼杵統尚の娘 |
継室 |
大友宗麟の外孫 12 |
益田就固 |
嫡男 |
問田益田家2代当主 |
益田元堯 |
娘婿(かつ甥) |
須佐益田家2代当主。兄・広兼の子 |
この重層的な血縁ネットワークは、景祥の生涯における行動の基盤であり、彼のキャリアを支える強力な支柱となっていた。
景祥の少年期は、近年の研究によって、彼の人格形成を理解する上で極めて重要な時期であったことが明らかになった。彼は毛利家の壮大な戦略の駒として、故郷を遠く離れた地で多感な時期を過ごすことになる。
筑前国(現在の福岡県北部)を拠点とする宗像大社の大宮司家・宗像氏は、地域の重要勢力であった。しかし、当主の宗像氏貞には男子がおらず、唯一生まれた男子「塩寿丸」も早世したため、家は後継者不在という断絶の危機に瀕していた 3 。
この状況を好機と見たのが、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景の毛利首脳部であった。彼らは、宗像氏を毛利勢力圏に確実に取り込むため、一門の中から養子を送り込むことを画策する 3 。そこで白羽の矢が立ったのが、吉川元春の外孫にあたる益田元祥の次男、当時まだ幼名であった景祥であった。天正14年(1586年)頃、彼は「宗像才鶴」を名乗り、宗像家の養子として筑前へと送られた 2 。
長らく、古文書にその名が見える「宗像才鶴」は謎の人物とされ、一時は女性説も唱えられていた。しかし、2021年に九州大学の研究者らによって分析された新出史料(小早川隆景書状や益田元祥・藤兼連署書状など)により、この才鶴こそが益田景祥その人であることが確定した 2 。この発見は、景祥研究における画期的な進展であった。豊臣秀吉もまた、幼い才鶴を宗像家の正式な当主として認める判物や朱印状を発給しており、この養子縁組が単なる毛利家の私的な策略ではなく、豊臣政権公認の国家的な戦略であったことがうかがえる 3 。
このまま順調にいけば、景祥は宗像大社の大宮司として、北九州にその名を刻んでいたはずであった。しかし、その運命は文禄4年(1595年)、突如として暗転する。実家で家督を継ぐはずだった兄の益田広兼が、疱瘡により20歳の若さで急死したのである 1 。益田宗家の後継者を失った父・元祥は、断腸の思いで景祥を実家へ呼び戻すことを決意。これにより、約9年間にわたった宗像氏との養子縁組は解消され、景祥は再び益田の子として、全く異なる人生を歩むことになった。
この少年期の経験は、景祥の人格に計り知れない影響を与えたと考えられる。10歳そこそこで親元を離れ、大国の政治的都合によって人生を左右されるという原体験。自己の意思とは無関係に、家の、ひいては毛利家全体の「公」の利益のために生きることを強いられた。そして、その定められた運命すらも、兄の死という不可抗力によって再び覆される。この一連の出来事は、彼に強靭な忍耐力と、個人の感情よりも組織の論理を優先する「公」への意識を深く植え付けたに違いない。後の朝鮮出兵における忠勤、隆景死後の難しい立場での冷静な判断、そして関ヶ原後の苦境における藩政への献身は、この少年期の経験によって培われた精神的基盤の上に成り立っている。彼は、若くして「個」を殺し、「公」に生きる武士の宿命を、その身をもって学んだのである。
益田家に戻った景祥は、その武才をすぐに見出され、新たな舞台でその能力を開花させることになる。彼を導いたのは、母方の叔父であり、当代きっての知将として知られた小早川隆景であった。
実家に戻った景祥は、毛利両川の一人、小早川隆景に仕えることとなった 3 。隆景は、甥である景祥の内に秘められた武人としての器量を見抜き、自らの精鋭軍団に組み込んだ。これは、景祥にとって大きな転機であった。
折しも、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が始まると、景祥は隆景配下の武将として渡海する。文禄の役において、小早川隆景は第六軍の将として3万人近い大軍を率いていた 14 。特に文禄2年(1593年)1月の碧蹄館の戦いは、文禄の役における最大規模の野戦として知られる。この戦いで、小早川隆景軍は先鋒隊の中核をなし、漢城奪還を目指す李如松率いる明の大軍と激突した 15 。景祥はこの激戦の最前線に身を置き、若年にして目覚ましい軍功を挙げたと記録されている 1 。
この朝鮮での活躍を、総大将である隆景は高く評価した。そして、その軍功への最大の賛辞として、自らの名前から「景」の一字を与え、景祥はこれまでの名(実名不詳)を改め、「景祥」と名乗るようになった 1 。これは、叔父からの個人的な褒賞であると同時に、彼が隆景の信頼篤い武将として公に認められた証であった。この時、隆景が武家清華家に列せられたのに伴い、景祥も諸大夫の官位を得ている 11 。さらに、この軍功に対し、豊臣秀吉本人からも褒美として藤原定家の色紙と「早舟」と名付けられた高麗茶碗を賜ったという記録も残る 12 。
また、景祥の文化人としての一面を伝える逸話もある。朝鮮から帰国する際に現地の土を持ち帰り、茶碗を作らせたというものである 1 。これが後の萩焼の源流の一つになったと直接結びつけることはできないものの、萩焼の公式な起源とされる李勺光・李敬兄弟の渡来 19 と同じく、当時の毛利家中に朝鮮の陶磁器文化への高い関心があったことを示す傍証として興味深い。
景祥が仕えた小早川隆景は、単なる勇将ではなかった。兄・吉川元春と共に毛利家を支えながら、主に山陽方面の統治と外交を担当し、瀬戸内海に強力な水軍を組織した 17 。豊臣秀吉からもその知略と大局観を深く信頼された人物である。景祥は、朝鮮の戦場で隆景の指揮を間近に見ることで、個人の武勇だけでなく、戦況全体を読む戦略眼、部隊を統率する指揮能力、そして外交的な駆け引きの重要性といった、名将の「統治術」を吸収したはずである。隆景から与えられた「景」の一字は、単なる武功への褒美に留まらず、自らの後継者の一人として、その軍事的・政治的思想を継承することへの期待の表れであったとも解釈できる。隆景死後に景祥が見せる冷静な政治判断や、情義に厚い行動は、まさしくこの隆景の薫陶の賜物であった。
慶長2年(1597年)、景祥の人生に大きな影響を与えた小早川隆景がこの世を去る。主君の死は、景祥に新たな政治的岐路と、人としての忠義を試される局面をもたらした。
隆景の死後、景祥は難しい立場に立たされる。豊臣秀吉は、隆景の養子であり自らの甥でもある小早川秀秋に仕えるよう、景祥に筑前名島(現在の福岡市東区)周辺で1万石の知行を提示して命じたのである 11 。秀秋は隆景の旧臣の多くを引き継いでおり 22 、景祥がそれに従うのは自然な流れとも言えた。しかし、景祥は苦慮の末、この破格の条件を固辞し、毛利輝元の直臣となる道を選んだ。これは、豊臣家(秀秋)への忠誠よりも、自らの血の源流であり、本来の主家である毛利家への忠誠を優先した、彼のアイデンティティを示す極めて重要な決断であった。
隆景の死後、その未亡人である問田大方は、夫の旧臣であった景祥を頼った。そして、景祥が知行地として得ていた周防国吉敷郡問田(現在の山口市問田)に移り住んだのである 12 。景祥は、かつての主君の未亡人を手厚く保護し、その生活を支えた。このことから、彼女は居住地の名にちなんで「問田大方」と呼ばれるようになった。
この「問田大方」の保護という行為は、二重の意味を持っていた。第一に、敬愛する叔父であり主君であった隆景個人への、純粋な恩義と忠誠心である 1 。しかし、それだけではなかった。問田大方は、毛利元就が介入する以前の、本来の小早川本家(沼田小早川氏)の当主・小早川正平の娘であり、その血を引く象徴的な存在であった 25 。一方、隆景の後を継いだ小早川秀秋は、豊臣家から送り込まれた「外様」の養子であり、その家臣団も隆景譜代の者と秀吉子飼いの者とで複雑な構成となっていた 27 。
景祥が問田大方を保護した行為は、秀秋の下でその性格を変えつつあった小早川家から、隆景が築き上げた「本来の小早川家の精神と正統性」を救い出し、毛利の縁故の中に守るという、高度に政治的な意味合いも帯びていた。それは、隆景旧臣としての意地であり、毛利一門としての責務でもあった。この忠義と情義の深さを示す「問田」の名は、後に景祥が創設する分家の家名となり、彼の家のアイデンティティそのものに刻み込まれることになる 12 。
時代の歯車は、景祥を再び大きな渦の中へと巻き込んでいく。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、毛利家、そして景祥自身の運命を大きく変えた。
西軍の総大将に担がれた毛利輝元は、戦わずして敗者となった。戦後、徳川家康によって安芸・備後など8カ国120万石の広大な領地は没収され、周防・長門の二カ国、わずか36万石余へと大幅に減封された。これにより、益田氏もまた、先祖代々の本領であった石見国を失い、父・元祥に従って新たな知行地である長門国須佐(現在の山口県萩市須佐)へと移住することになった 5 。
減封は、長州藩に深刻な財政危機をもたらした。収入が3分の1以下に激減したにもかかわらず、抱える家臣の数は変わらなかったからである 7 。この国家的な危機に際し、藩政の再建を輝元から一任されたのが、父の益田元祥であった 7 。元祥は、毛利秀元らと共に、大改革に着手する。その内容は、徹底した経費削減、藩士の知行削減、厳正な予算執行、そして寛永2年(1625年)から始まる「寛永検地」による新たな石高の打ち出しや、紙・蝋・米・塩を専売化する「四白政策」に代表される殖産興業の推進など、多岐にわたるものであった 4 。
この未曾有の改革において、景祥は父・元祥を補佐し、藩内を奔走したと伝えられる 1 。具体的な役職や功績を記した史料は乏しいが、彼の立場を考えればその役割は自ずと見えてくる。彼は、朝鮮の戦場で武名を馳せた勇将であり、毛利一門としての血筋を持つ重臣である。藩士たちに大きな痛みを強いる知行削減などの改革を断行するにあたり、彼の武威と信頼は、反対勢力を抑え、改革を円滑に進める上で不可欠だったはずである。父・元祥が描いた壮大な再建の青写真を、現場で実行に移す実務部隊のリーダーとして、景祥は重要な役割を担ったことは想像に難くない。
戦場で武功を立てることが武士の第一の誉れであった戦国時代から、安定した統治と経済運営が求められる江戸時代へ。景祥のキャリアは、この時代の変化そのものを体現している。朝鮮出兵で武名を轟かせた彼が、関ヶ原後は一転して、地味で困難な財政再建という「内政」の現場に身を投じた。これは、時代の要請に応じて、自らの能力を「武」から「文」へ、「戦闘」から「経営」へと見事にシフトさせたことを意味する。多くの戦国武将が新しい時代に適応できず没落していく中で、景祥は父と共にこの自己変革を成し遂げた。彼の生涯は、戦国武将が近世大名の家臣、すなわち「藩士」へと変貌していく過渡期の、成功したモデルケースとして捉えることができるだろう。
長州藩の基礎が固まりつつある中、景祥は自らの家を興し、その血脈を後世へと繋いでいく。
益田宗家(須佐益田家)の家督は、文禄4年(1595年)に早世した兄・広兼の子である甥の益田元堯が継ぐことが定められていた 12 。そのため、景祥は新たに分家を創設することになった。当初は周防右田で2500石を与えられたが、知行替えを経て、最終的に寛永2年(1625年)、周防国吉敷郡問田・深野などを中心に4096石を知行した。ここに、問田大方の保護に由来する名を冠した「問田益田家」が正式に成立したのである 12 。
問田益田家は、長州藩において永代家老(国家老)である宗家に次ぐ家格である「寄組」の筆頭格に列せられた 5 。4000石を超える知行を持つ寄組は、藩内でも堅田家、国司家など数家しかなく、問田益田家は藩政において極めて重要な地位を占めた。その当主は代々、家老に次ぐ重職である加判役などを歴任し、藩政に深く関与していくことになる 29 。
藩の重鎮として、また一つの家の創始者としてその役目を果たした景祥は、寛永7年(1630年)7月13日、山口の屋敷においてその生涯を閉じた 1 。享年は、史料によって54歳または56歳とされ、そこから逆算した生年も天正5年(1577年)説と天正3年(1575年)説が存在する 1 。墓所は山口市仁保の笠松山麓にあり、菩提寺は同地の玄答院と定められた 12 。
景祥が創設した問田益田家は、その後、幕末に至るまで長州藩の重臣家として存続した。そして、奇しくもその血脈は、長州藩が歴史の表舞台で躍動する幕末期に、再び重要な役割を担うことになる。元治元年(1864年)の禁門の変で長州軍の総大将の一人として兵を率い、第一次長州征伐の際に藩の責任を一身に背負って切腹した家老・益田親施(右衛門介)は、この問田益田家の出身である 5 。景祥が築いた家は、200年以上の時を経て、藩の存亡をかけた最大の危機において、再びその忠義を尽くしたのであった。
表2:問田益田家 略系図(初代から幕末まで)
代 |
当主名 |
景祥との関係 |
備考 |
初代 |
益田景祥 |
- |
問田益田家創設 |
2代 |
益田就固 |
嫡男 |
家督を継承 12 |
3代 |
益田就高 |
孫 |
|
4代 |
益田元方 |
曾孫 |
|
5代 |
益田就白 |
玄孫 |
|
6代 |
益田親愛 |
来孫 |
|
7代 |
益田元固 |
昆孫 |
|
8代 |
益田孫槌 |
仍孫 |
|
... |
... |
... |
(中略) |
幕末期 |
益田親施 |
子孫 |
禁門の変で責任を負い切腹 36 |
益田景祥の生涯を俯瞰するとき、我々は一人の武将の姿を通して、時代そのものの大きな転換を目撃することになる。彼の人生は、毛利一門という高貴な血筋に生まれながらも、大国の戦略に翻弄され、兄の死によって運命を大きく変えられ、そして戦場では武勇を、平時では忠義と実務能力を遺憾なく発揮した、波乱と適応の連続であった。
歴史的な再評価を行うならば、彼は単なる「勇将」でも、単に有能な「官僚」でもない。その両方を高いレベルで兼ね備え、戦国の価値観と近世の価値観が交錯する時代の分水嶺を、見事に渡りきった人物である。彼の存在なくして、知将・小早川隆景の晩年と死後の名誉は盤石ではなかったかもしれず、また、父・元祥が主導した長州藩の財政再建という未曾有の大事業も、より多くの困難に直面した可能性がある。彼は、輝かしい功績を立てた父・元祥や叔父・隆景の陰に隠れがちではあるが、その実、毛利家の存続と、その後の長州藩の礎を築いた、まぎれもない「縁の下の力持ち」であった。
宗像才鶴としての少年期に培われた忍耐力と公への意識。小早川隆景の下で磨かれた武勇と大局観。問田大方の保護に見られる忠義と情義。そして、長州藩の危機に際して発揮された実務能力。これら全てが、益田景祥という一人の人物の中で融合していた。彼の多岐にわたる功績は、これまで以上に光を当てられるべきである。益田景祥の生涯は、忠義、武勇、そして時代の変化に適応する柔軟性という、乱世から治世への移行期に求められた武士の理想像を、静かに、しかし確かに体現している。