本報告書は、戦国時代の肥後国に生きた一人の武将、相良治頼(さがら はるより)の生涯を、同時代の政治的背景、人物像、謀反の経緯、そして死後の神格化という複数の視点から重層的に解明することを目的とする。相良治頼は、相良氏の家臣でありながら、その優れた器量ゆえに主家から疎まれ、ついには反逆の汚名を着せられて非業の死を遂げた悲劇の人物として伝わっている。本報告書では、単に伝承をなぞることに留まらず、現存する史料や研究成果に基づき、彼の悲劇的な生涯が戦国期相良氏の権力構造の何を映し出しているのかを深く考察する。
構成として、まず第一部では、治頼が生きた天文年間の相良氏が抱えていた権力闘争や統治の歪みといった時代背景を分析し、彼の決起が不可避であった状況を明らかにする。続く第二部では、謀反の決意からその敗北、そして失意の最期までの一連の出来事を、関連人物の動機と共に詳述する。最後に第三部では、治頼の死後に生じた「祟り」の伝承と、それが御霊信仰へと昇華し、彼を祀る神社が建立されるに至った過程を追うことで、死してなお地域に影響を与え続けた治頼の存在意義を探る。
相良治頼は、永正11年(1514年)に生まれ、天文15年(1546年)5月11日に33歳の若さでその生涯を閉じた 1 。彼は相良氏の一族でありながら、宗家ではなく家臣という立場にあった。伝承によれば、治頼は「天性器量に優れ、武技に通じ、天道兵法に詳しく芸能の嗜みも深かった」とされ、地頭として善政を敷き民からの信望も厚かったという 1 。
しかし、その優れた能力と人望が、逆に宗家の猜疑心を招くことになる。謀反の風聞が立ち、主家との戦いに敗れた治頼は、流浪の果てに豊後国佐賀関にて病死した 1 。彼の死後、主君であった相良義滋が急死したことなどから、治頼の祟りが噂され、その怨霊を鎮めるために球磨郡内各所に神社が建立された 1 。
ここに、本報告書が探求する核心的な問いが浮かび上がる。第一に、器量才覚に優れ人望も厚かったはずの治頼が、なぜ主家への反逆者として非業の死を遂げなければならなかったのか。第二に、一介の謀反人であったはずの彼が、なぜ死後にその怨霊が恐れられ、武神として手厚く祀られる「神格化」という特異な現象を引き起こしたのか。これらの問いを解き明かすことは、相良治頼という一人の武将の運命を追うだけでなく、戦国時代の権力構造、社会心理、そして信仰のあり方を理解する上で、極めて重要な意味を持つであろう。
相良治頼の悲劇を理解するためには、彼が生きた天文年間(1532年~1555年)における相良氏の政治状況を深く分析する必要がある。この時代、相良氏は戦国大名としての地位を確立しつつあったが、その内部には深刻な権力闘争と統治構造の脆弱性が潜んでいた。治頼の謀反は、こうした歪んだ政治状況が生んだ必然的な帰結であった可能性が高い。
鎌倉時代に遠江国から肥後国人吉荘の地頭として入部して以来、相良氏は約700年にわたりこの地を支配した稀有な大名である 3 。室町時代には同族間の争いを経て球磨郡を統一し、戦国時代には葦北郡、八代郡へと勢力を拡大させ、肥後南半を領する戦国大名へと成長した 3 。
しかし、その統治基盤は決して盤石ではなかった。特に、新たに支配下に置いた八代地方は、在地国人の力が強く、相良氏の支配は不安定であった。そのため、相良氏の当主は本拠地である人吉(球磨郡)と、経済・戦略上の重要拠点である八代とを数ヶ月ごとに行き来し、直接政務を執るという二元的な統治体制を強いられていた 3 。この統治の二元性は、人吉を基盤とする「球磨衆」と、八代を基盤とする「八代衆」という家臣団の派閥意識を生み、家中の権力闘争の温床となった。
治頼の主君であった第16代当主・相良義滋(よししげ、初名は長唯)は、こうした不安定な状況下で家督を継いだ人物であった。彼の父・長毎(ながつね)の死後、家督を巡る内紛が勃発。従叔父にあたる相良長定が、重臣の犬童長広と結託して家督を簒奪し、正統な後継者であった義滋の異母弟・長祗を自害に追い込むという事件(犬童の乱)が発生した 6 。
この暴挙に対し、義滋は一族や家臣団の支持を集めて長定を追放し、当主の座に就いた 8 。しかし、彼自身も庶子であり、その家督相続の正統性には常に疑問符が付きまとった。結果として、義滋の政権は、相良氏一門の中でも特に有力な庶家であった上村(うえむら)氏の軍事力に大きく依存せざるを得ないという、構造的な脆弱性を抱えることになった 9 。
義滋の権力基盤の脆弱性を最も象徴するのが、後継者問題である。義滋は、内紛収拾の過程で上村氏当主・上村頼興(よりおき)の協力を取り付けるため、自らに男子の後継者がいないこともあり、頼興の嫡男・頼重(後の第17代当主・相良晴広)を自らの養嗣子として迎え、将来の家督を譲ることを約束した 9 。
これは、宗家の血統ではなく、有力庶家の血統に家督を譲るという極めて異例の決定であった。この約束によって義滋は当主の座を確保したが、同時に自らの政権が「晴広を次期当主とする」という前提の上に成り立つ時限的なものであることを内外に示すことにもなった。この決定は、相良家中の権力バランスをさらに複雑化させ、後の粛清劇の伏線となる。
養子・晴広への家督継承を確実なものにするため、義滋と、その後見人であり実父でもある上村頼興は、晴広の競争相手となりうる、あるいは将来的にその地位を脅かす可能性のある有力者を次々と排除していくという、血塗られた道を歩むことになる 3 。
第一の犠牲者は、上村頼興の実弟でありながら、文武に秀で、特に葦北方面の平定で大きな功績を挙げて人望を集めていた相良長種(ながたね)であった。頼興と義滋は、その能力と人望が将来、晴広の家督相続の障害となることを危惧し、天文4年(1535年)、長種を謀殺した 5 。
次いで標的とされたのが、同じく相良氏の一族で岡本城主(現在の熊本県あさぎり町)であった上村頼春(よりはる)である。彼もまた有能な武将であったが、逆心の気配ありとの嫌疑をかけられ、天文19年(1550年)[注釈 1]、頼興の策略によって上村城に呼び出され、殺害された 5 。
これらの粛清は、単なる権力闘争に留まらない、深刻な問題を内包していた。それは、能力や人望が高ければ高いほど、次期当主・晴広の地位を脅かす「潜在的な危険人物」と見なされ、排除の対象となるという負の論理が働いていたことである。この一連の粛清劇が作り出した猜疑心と恐怖に満ちた雰囲気こそが、相良治頼の悲劇が生まれる土壌であった。治頼の謀反は、単独で発生した事件ではなく、この「死の連鎖」の延長線上に位置づけられるべきなのである。彼が「謀反を唆された」 1 という伝承の裏には、粛清の刃がいつ自らに向けられるか分からないという恐怖から、先手を打って行動を起こさざるを得なかったという、自衛的な動機があった可能性が極めて高いと考えられる。
こうした緊迫した政治状況の中で、相良治頼はどのような人物として存在していたのか。彼の出自、能力、そして拠点とした城について見ていくことは、彼がなぜ粛清の標的となり、また謀反の旗頭として担ぎ上げられたのかを理解する上で不可欠である。
相良治頼は、相良長弘の子として、永正11年(1514年)に八代で誕生した 1 。彼の祖父・相良頼泰は、かつて宗家に謀反を起こした人物であった。この反乱は失敗に終わり、頼泰は殺害されたが、治頼の父・長弘は当時幼少であったため、八代へ逃れて粛清を免れたという過去を持つ 1 。
この出自は、治頼の生涯に大きな影を落としていたと考えられる。彼は相良氏の血を引く一族でありながら、その家系には「謀反人」の祖父を持つという瑕疵があった。この事実は、猜疑心の強い義滋・頼興政権下において、彼が常に宗家から警戒の目を向けられる要因となったであろう。一方で、かつて宗家に反旗を翻した家の末裔という立場は、現体制に不満を持つ勢力にとって、新たな旗頭として魅力的に映った可能性もある。
治頼は成人すると、第16代当主・相良義滋に仕え、八代岡(現在の熊本県八代市岡町)の地頭に任じられた 1 。地頭としての治頼は優れた手腕を発揮し、善政によって「民心も得ていた」と記録されている 1 。これは、彼が単なる武勇だけの人物ではなく、領民の生活を安定させる行政能力にも長けていたことを示している。八代という、相良氏の統治が不安定な地域において民心を得ていたという事実は、彼の能力の高さを証明すると同時に、宗家にとっては潜在的な脅威ともなり得た。
治頼の人物像を語る上で特筆すべきは、その多才さである。『球磨郡誌』などの記録によれば、彼は「天性器量に優れ、武技に通じ、天道兵法に詳しく芸能の嗜みも深かった」と評されている 1 。武芸に秀でていたことはもちろん、特筆すべきは「天道兵法」に詳しかったという点である。天道兵法は、単なる戦術論ではなく、天文や陰陽五行説、易学などを含む総合的な軍学であり、高度な知識と知性がなければ修得できない。これは、彼が知的探究心の旺盛な教養人であったことを示唆している。さらに「芸能の嗜みも深かった」という記述からは、連歌や茶の湯といった、当時の武士の必須教養であった文化活動にも通じていたことがうかがえる。このような文武両道に秀でた人物像は、家中の信望を集める大きな要因となったであろう。
相良治頼を語る上で、しばしば混乱が見られるのがその居城である。「岡城主」という記述から、滝廉太郎の『荒城の月』で有名な豊後岡城(現在の大分県竹田市)と混同されることがあるが、これは誤りである 14 。治頼が地頭を務めたのは「八代岡」であり、その居城は八代市岡町周辺に存在した「肥後岡城」であった 1 。
この肥後岡城は、もともとこの地を支配していた名和氏の家臣・佐々木氏一族の居城と伝えられており、丘陵の末端に築かれた比較的小規模な城館であったと推測される 17 。現在では明確な遺構は残っていないが、その存在は複数の地誌で確認できる 17 。この事実は、治頼の政治的・軍事的な基盤が、独立した大名ではなく、あくまで相良氏の支配体制下にある一在地領主のレベルに留まっていたことを示している。彼の蜂起が、強固な地盤を持たないまま、家中の不満分子に担がれる形で始まったことを物語っており、その後の孤立と敗北を暗示しているかのようである。
天文14年(1545年)、相良治頼を取り巻く状況は一気に緊迫する。彼の器量と人望は、粛清を進める相良義滋・上村頼興政権にとって、もはや看過できない脅威となっていた。治頼の決起から敗死に至るまでの約一年間は、裏切りと誤算、そして孤独な戦いの連続であった。
治頼の謀反の直接的なきっかけは、球磨郡の重臣たちの中に彼の器量に心服し、主家への反逆、すなわち下克上を唆す者が現れたことによるとされる 1 。治頼も当初はためらったものの、ついにその気になり決意するが、その企ては内通者によってすぐに宗家である義滋の知るところとなった 1 。
事態を察知した義滋が治頼に切腹を命じるつもりである、という話が治頼の耳に入ると、彼は観念して自害しようとした。この切腹命令の噂が、彼を最終的な決起へと追い込む引き金となった 1 。前章で述べたように、相良長種や上村頼春といった有力者が次々と粛清される中、治頼が「次は自分の番だ」と感じたとしても不思議ではない。彼の決起は、単なる野心からではなく、迫りくる身の危険から逃れるための、追いつめられた末の選択であった側面が強い。
治頼が自害を決意したその時、これを押しとどめ、「人吉に赴き、同志を集めて一戦交えるべきだ」と強く説得したのが、犬童頼安(いんどう よりやす、通称は軍七)と宮原玄蕃であった 1 。特に犬童頼安の行動には、単なる治頼個人への忠誠心だけでは説明できない、より根深い動機が隠されていた。
犬童頼安の行動を理解するためには、時計の針を約15年前に戻す必要がある。彼の属する犬童一族は、かつて相良家の有力な重臣であったが、大永4年(1524年)に相良長定が起こした謀反に加担した 21 。この謀反を鎮圧し、家督を継いだのが相良義滋である。義滋は享禄3年(1530年)、謀反の首謀者と見なした犬童長広をはじめとする犬童一族の大半を粛清した 21 。この時、犬童頼安はわずか10歳の少年であったため、僧籍に入ること(出家して「伝心」と名乗る)を条件に助命されたという過去を持っていた 22 。
すなわち、頼安にとって主君・義滋は、自らの一族を滅ぼした仇敵であった。彼が治頼の謀反に積極的に加担し、自害しようとする治頼を鼓舞してまで決起を促したのは、治頼を新たな旗頭として担ぎ上げることで、長年抱き続けた一族の復讐を果たそうとする、個人的かつ世代を超えた強い動機があったからに他ならない。治頼の乱は、現体制への不満だけでなく、過去の権力闘争で敗れた者たちの怨念が再燃した事件でもあったのである。
犬童頼安らの説得を受け入れた治頼は、天文14年(1545年)6月15日の夜半、宮原玄蕃ら10名程度の手勢を率いて、本拠地である八代を脱出し、同志のいる人吉を目指した 1 。しかし、この蜂起は初動から大きなつまずきを見せる。
治頼一行が人吉との境に流れる万江川(球磨川支流)に差し掛かった時、彼らの動きを察知していた人吉の井手隼人と林田忠次郎が待ち受けていた。彼らは治頼に対し、「人吉にいる同志は皆、計画が露見したために自害してしまった」と嘘を告げ、郡内に入るのを妨害しようとした 1 。
治頼はこの話を怪しみ、二人を厳しく詰問した。答えに窮した林田を斬り捨てたものの、井手隼人には逃げられてしまった 1 。この出来事は、治頼の計画が初期段階で既に宗家側に漏洩しており、敵が周到な妨害工作を準備していたことを示している。味方となるはずの人吉衆との連携を初手で断たれた治頼は、ひとまず山道を使って日向国境に近い真幸院(現在の宮崎県えびの市)方面へ一時退避することを余儀なくされた。
真幸院に潜伏している間に、球磨郡や葦北郡から味方が集まり始めたことで、井手らに騙されていたことを悟った治頼は、改めて挙兵を決意。手勢40余人を率いて球磨郡へと向かった 1 。彼が目指したのは、多良木(現在の熊本県球磨郡多良木町)にある鍋城であった 13 。多良木は、かつて治頼の祖父・頼泰が謀反を起こした際の拠点であり、治頼にとっては所縁の地であった。
天文14年7月14日の夜、治頼一行は鍋城に到着する。しかし、ここで彼は決定的な裏切りに遭う。城代の税所源兵衛は、治頼らを歓迎するふりをして迎え入れたが、「この城は城壁が堅固ではない」などと理由をつけて入城を拒んだ。そして、近くの地頭・岩崎加賀の屋敷に泊まるよう勧め、その裏で密かに八代の宗家へ治頼の来訪を通報したのである 1 。
さらに、その岩崎加賀も深水出羽と共謀し、治頼を歓待する素振りを見せながら、夜のうちに自らは逃亡した 1 。期待していた球磨郡内での支持基盤は、実際には砂上の楼閣に過ぎなかった。相次ぐ裏切りによって、治頼は完全に孤立無援の状態に陥った。
治頼が多良木で孤立しているとの報を受けた義滋は、人吉から追討軍を派遣した。天文14年9月13日、治頼はもはや後がない状況で、僅か40人余りの手勢を率いて耳取原(場所の詳細は不明だが多良木近郊か)にて追討軍を迎え撃った 1 。
しかし、衆寡敵せず、治頼軍はあえなく敗退する。最後の望みをかけて久米(現在の多良木町久米)の地頭を頼ったが、これも拒絶された 1 。万策尽きた治頼は、球磨郡を脱出して日向国へ逃れ、さらにそこから豊後国(現在の大分県)へと流浪の旅を続けた。
そして、謀反を起こしてから約1年後の天文15年(1546年)5月11日、豊後国の佐賀関(現在の大分市佐賀関)にて、失意のうちに病死した。享年33歳という若さであった 1 。
彼の法名は「摩利支天正位」と伝えられている 1 。摩利支天は陽炎を神格化した武神であり、武士たちの守護神として篤く信仰されていた。謀反人として死んだ治頼にこの法名が与えられたことは、彼の武人としての優れた資質が、敵方であった宗家からも認められていたことの証左かもしれない。あるいは、その武勇と怨念が祟りをなすことを恐れた人々の思いが込められていたとも考えられる。
相良治頼の物語は、彼の死で終わりではなかった。むしろ、彼の死後にこそ、その存在は肥後国球磨地方に大きな影響を及ぼし続けることになる。非業の死を遂げた者の怨霊が祟りをなすという「御霊信仰」の中で、治頼は神として祀り上げられ、相良氏の統治史において特異な地位を占めるに至った。
治頼が豊後佐賀関で客死した天文15年(1546年)、そのわずか3ヶ月後の8月25日、彼を追討した張本人である相良氏当主・相良義滋もまた、八代で病没した 1 。このあまりに時を同じくした二人の死は、当時の人々の目には単なる偶然とは映らなかった。「治頼の祟りが原因で義滋もほどなくして亡くなった」という伝承が、まことしやかに語り継がれる直接的な原因となったのである 1 。
器量に優れ人望も厚かった治頼を、猜疑心から死に追いやったことへの後ろめたさが、相良家中に渦巻いていたことは想像に難くない。義滋の死は、その罪悪感と恐怖心に火をつけ、「治頼の怨霊」という具体的な形で人々の心に刻み込まれた。
天災や疫病、あるいは不審な死が続くと、それを非業の死を遂げた者の怨霊の仕業とみなし、その霊を神として祀ることで祟りを鎮め、逆に守護神として平穏を願う「御霊信仰」は、平安時代の菅原道真の例を挙げるまでもなく、日本の社会に深く根付いていた信仰形態である 25 。
相良氏にとって、この御霊信仰は単なる迷信への対応ではなかった。それは、支配体制を安定させるための高度な政治的パフォーマンス、すなわち統治戦略の一環であった。このことは、相良氏が過去にも同様の手法を用いていたことから明らかである。鎌倉時代に相良氏が人吉に入部した際、抵抗した在地領主の平川氏一族を滅ぼしたが、その後、彼らの怨霊による祟りを恐れ、その霊を鎮めるために「大王神社」を球磨郡内各所に建立している 2 。
この前例を踏まえると、新当主となった相良晴広(治頼の謀反を事実上主導した上村頼興の子)が治頼の鎮魂に乗り出した背景には、極めて政治的な計算があったことが読み取れる。第一に、人望のあった治頼を死に追いやったことに対する家臣団の不満や動揺を鎮静化させる必要があった。第二に、治頼とその母の霊を手厚く祀ることで、自らの慈悲深さをアピールし、新体制の正当性を内外に示す狙いがあった。そして第三に、最も重要なこととして、治頼の強力な怨霊を鎮撫し、相良家の守護神として取り込むことで、その霊威を自らの権威強化に利用しようとしたのである。治頼神社の建立は、恐怖心から生まれただけでなく、社会秩序の維持と新体制の権威付けという、極めて合理的な政治判断に基づいていたと結論付けられる。
天文18年(1549年)、治頼の死から3年後、第17代当主・相良晴広は、治頼とその母の祟りを鎮めるという名目のもと、球磨郡内の5ヶ所に治頼を祀る神社を建立させた 1 。これらの神社は「新八幡宮」という名称で創建されたことが記録されている 1 。
八幡神は、武家の守護神である「弓矢八幡」として広く信仰され、特に源氏の氏神として知られていた。相良氏もまた藤原氏の流れを汲むとされるが、武家として八幡神を篤く信仰していた。謀反人である治頼を、単なる怨霊としてではなく、武神の象徴である八幡宮として祀った点に、相良氏の巧みな統治術が見て取れる。これは、治頼の優れた武勇を公に認め、称揚する体裁をとりながら、その強力な霊威を相良家の武運長久の守護神として取り込むという、二重の意図があったと考えられる。
相良晴広によって建立された五つの治頼神社は、史料によれば西村、久米、宮原、黒肥地、多良木東村に造営されたと記録されている 1 。これらの神社が球磨郡内のどのような場所に建立され、現在どうなっているのかを追跡することは、治頼の鎮魂事業が如何に計画的であったかを明らかにする。
表1:相良治頼を祀る五社の概要
建立地(史料記載) |
現在の比定地・神社名 |
市町村名 |
現状と特記事項 |
関連史料 |
西村 |
西村大王神社(西村神社) |
熊本県球磨郡錦町 |
元は「大王社」と称し、明治元年に西村神社と改称した 26 。祭神として相良治頼の名が伝わる 26 。治頼神社のひとつとされ、「西村大王神社(錦町西村吾平)」との注記がある 1 。 |
1 |
久米 |
久米治頼神社 |
熊本県球磨郡多良木町 |
治頼が逃走中に立ち寄った久米の地に建立された 19 。現在も明確に治頼を祀る神社として存続し、多良木町の有形文化財に指定されている 20 。境内には治頼とその母、そして妻を祀る社殿や、治頼夫妻の木像が伝わる 20 。 |
1 |
宮原 |
治頼八幡(旧宮原村中島) |
熊本県球磨郡あさぎり町 |
現在のあさぎり町宮原地区に比定される。「治頼八幡(旧宮原村中島/現あさぎり町)」として祀られた記録がある 1 。特定の神社の同定は困難だが、同地区には相良氏ゆかりの史跡が多い 28 。 |
1 |
黒肥地 |
黒肥地新八幡 |
熊本県球磨郡多良木町 |
多良木町黒肥地地区に比定される。「新八幡宮」として建立されたことが史料からわかる 1 。この地は上相良氏の拠点であり、鍋城や青蓮寺、王宮神社といった相良氏関連の重要史跡が集中している 30 。 |
1 |
多良木東村 |
治頼八幡(岩野若宮中島) |
熊本県球磨郡水上村か? |
「多良木東村」という地名は特定が難しいが、「治頼八幡(岩野若宮中島)」という記録から 1 、多良木町に隣接する水上村岩野地区の可能性が指摘される。この地域も相良氏の支配領域であった 32 。 |
1 |
この表が示すように、治頼の鎮魂は球磨郡の広範囲にわたる、計画的な事業であったことがわかる。特に注目すべきは、神社の配置である。治頼が逃走中に立ち寄り、裏切られた久米や多良木といった因縁の地に神社が置かれていることは、彼の怨念をその場で封じ込めようとする意図の表れであろう。また、西村や宮原、黒肥地といった相良氏の統治上重要な拠点にも建立されており、これは治頼の霊威によって地域の安定を図ろうとする、より積極的な政治的意図を浮き彫りにしている。
相良治頼の生涯は、戦国という時代の奔流の中で、一人の武将がいかにして翻弄され、そして死してなお後世に影響を与え続けたかを示す、象徴的な事例である。彼の物語から、我々は何を読み取るべきか。
相良治頼は、しばしば「謀反人」という一言で片付けられがちである。しかし、本報告書で詳述してきたように、その評価はあまりに一面的である。彼は、戦国大名家が抱える後継者問題の複雑さと、それに伴う権力闘争の非情さの犠牲者であったと見るべきであろう。義滋・頼興政権下で繰り返された有力者の粛清という文脈の中に彼の行動を置くとき、その決起は野心によるものというよりは、むしろ自らの命を守るための最後の抵抗であった可能性が高い。彼の優れた器量と人望が、かえって自らの命を縮めるという皮肉な結果を招いた点において、治頼は戦国期における典型的な悲劇の武将として再評価されるべきである。
治頼の公的な生涯は史料に残されているが、その私的な側面には謎が多い。特に注目されるのが、彼の妻の存在である。多良木町の久米治頼神社には、天正7年(1579年)、治頼の死から30年以上も後に常州の仏師・賀吽坊によって制作されたとされる「相良治頼夫妻の像」が、町の文化財として現存している 20 。この木造坐像は、風折烏帽子に直垂姿の治頼と、桃山風の衣装をまとった女神像が対になっており、治頼に妻がいたことを明確に示唆している 20 。しかし、彼女がどこの誰であったのか、その出自や名は一切の史料に残されていない。
また、治頼に子孫がいたかどうかも不明である。彼が33歳で亡くなったことを考えると、子がいても不思議ではないが、謀反人の子孫としてその存在が歴史の闇に葬られた可能性も否定できない。この男女神坐像は、治頼の死後も彼を深く追慕し、その鎮魂を願う人々(おそらくは妻やその一族)がいたことを物語る、唯一無二の貴重な遺物と言える。
相良治頼の生涯は、一個人の物語に留まらず、戦国期における地方権力の内部矛盾を象徴している。彼の反乱と、その後の神格化という一連の出来事は、武力による支配だけでなく、人々の信仰や伝承をも巧みに利用して統治を盤石なものにしようとした戦国大名の、冷徹かつ合理的な統治戦略を我々に示している。
相良氏が700年という長きにわたって肥後国南部を支配し得た背景には、数多くの犠牲があった 2 。相良治頼の悲劇は、その輝かしい歴史の影に埋もれた、無数の犠牲の一つとして、今なお球磨の地に深く刻まれている。彼を祀る神社が今日も静かに佇んでいる事実は、権力によって抹殺された者が、時を経て人々の記憶と信仰の中で蘇り、歴史の一部として語り継がれていくという、日本の歴史の深層を物語っているのである。
注釈