最終更新日 2025-08-02

相良為続

相良為続は、父の築いた基盤を元に八代・葦北へ勢力拡大。菊池氏との対立で領土を失うも、「相良氏法度」制定や文化人としての側面で相良氏の礎を築いた。
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相良為続:戦国黎明期に肥後の覇を夢見た武将の実像

序章:戦国黎明期の肥後と相良氏 ― 為続台頭の舞台

相良為続(さがら ためつぐ)は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて、肥後国(現在の熊本県)南部を拠点に一大勢力を築き上げた武将である。彼の生涯は、領土拡大の栄光と、その野心の果てに訪れた挫折という、戦国武将の典型的な光と影を映し出している。為続の功績と限界を理解するためには、まず彼が歴史の表舞台に登場する以前の、肥後国の政治情勢と相良氏の置かれた状況を把握する必要がある。

父・相良長続による球磨統一という盤石な礎

相良為続がその野心的な拡大政策を推し進めることができた背景には、父である第11代当主・相良長続(ながつぐ)が築き上げた、強固な政治的・軍事的基盤の存在があった。鎌倉時代以来、相良氏は人吉荘を本拠とする下相良氏と、多良木荘を本拠とする上相良氏に分裂し、約200年もの長きにわたり、一族内で抗争を繰り返す不安定な状態にあった 1

この長年の分裂に終止符を打ったのが、為続の父・長続であった。長続は本来、宗家ではなく分家の永留(ながどめ)氏の出身であったが、その卓越した武略と政治力をもって頭角を現す 1 。文安5年(1448年)、上相良氏の多良木頼観(よりみ)・頼仙(よりのり)兄弟が宗家の若き当主・相良堯頼(たかより)を人吉城から追放する内乱(文安の内訌)が勃発すると、長続はこれを好機と捉えた。彼は巧みな戦術で多良木兄弟を「雀ヶ森の合戦」において討ち滅ぼし、混乱を収拾した 1

この戦功により、長続は家臣団に推される形で相良氏の宗家を継承し、球磨郡の完全統一を成し遂げたのである 1 。この一連の出来事は、単なる内乱の鎮圧に留まらない。分家の出身者が実力で宗家の家督を掌握するという、まさに「下剋上」の成功例であった。この父の成功体験は、為続の行動原理に決定的な影響を与えたと考えられる。血統の正当性よりも、実力こそが支配の正当性を生み出すという戦国時代特有の価値観が、相良家内部に深く刻み込まれたのである。為続の生涯にわたる絶え間ない軍事行動は、単なる領土欲からだけではなく、「父が実力で築いた基盤を、自らの実力でさらに拡大することで、支配の正当性を証明し続ける」という、いわば「下剋上の継承者」としての強迫観念に近いものから発していたと分析できる 8

応仁の乱と九州の権力構造の変化

為続が家督を相続した応仁元年(1467年)は、奇しくも京都で応仁の乱が勃発した年であった。この11年に及ぶ大乱は、室町幕府の権威を失墜させ、その影響は遠く九州にまで及んだ 8 。肥後国においても、守護大名であった菊池氏の統制力は著しく弱体化し、相良氏をはじめ、阿蘇氏、名和氏といった国人領主たちが、中央の権威から自立し、勢力拡大を模索する群雄割拠の時代へと突入していった 11 。相良為続の生涯は、まさにこの権力の真空地帯で、旧来の秩序が崩壊し、実力主義が全てを支配する時代の幕開けと完全に重なっていたのである。父が築いた盤石な基盤と、時代の大きな変動期という二つの条件が、為続を飛躍させるための舞台を整えたと言えよう。


表1:相良為続の生涯年表

和暦

西暦

年齢

主要な出来事

文安4年

1447年

1歳

山田城にて、相良長続の三男として誕生。初名は頼元 13

応仁元年

1467年

21歳

父・長続の隠居に伴い家督を相続し、第12代当主となる 13 。応仁の乱が勃発。

文明元年

1469年

23歳

応仁の乱に際し、管領・細川勝元の命で上洛。当初は東軍に属す 14

文明2年

1470年

24歳

大内政弘に従い西軍に転じる。軍功により従五位下・左衛門尉に叙任 13

文明8年

1476年

30歳

牛山河原合戦。舅の菱刈道秀を救援し、島津氏らと連合して戦う 14

文明16年

1484年

38歳

数年にわたる抗争の末、名和顕忠の古麓城を攻略し、八代郡を掌握 13

長享元年

1487年

41歳

益城郡の豊福城を奪取し、相良氏の版図を最大とする 13

明応2年

1493年

47歳

「相良氏法度七条」を制定 13 。菊池重朝の死後、重臣・隈部朝夏の乱に同調 14

明応7年

1498年

52歳

菊池能運の反撃を受け、豊福城を失う 13

明応8年

1499年

53歳

敗戦を重ね、八代を放棄。球磨郡へ撤退を余儀なくされる 13

明応9年

1500年

54歳

家督を長男・長毎に譲り、失意のうちに死去。法名は西華蓮船 13


第一章:相良為続の家督相続と勢力拡大 ― 飛躍の時代

父・長続によって統一された球磨郡を継承した為続は、その安定した基盤を足掛かりに、一気呵成に領土拡大へと乗り出す。彼の前半生は、中央政局での経験を糧とし、巧みな外交と軍事力をもって、相良氏の勢力を史上最大にまで押し上げた、まさに飛躍の時代であった。

第一節:若き当主の誕生と中央政局での洗礼

為続は文安4年(1447年)、相良長続の三男として山田城(現在の熊本県山江村)で生を受けた 13 。初名を頼元(よりもと)といった 13 。長兄・頼金(よりかね)は病弱、次兄・頼幡(よりあきら)は夭折したため、三男であった為続が世子とされ、将来を嘱望された 14 。応仁元年(1467年)、父の隠居に伴い21歳の若さで家督を相続し、人吉城主となった 13

家督相続の翌年、応仁の乱の京都から帰国した父・長続が病死すると、為続のもとへも管領・細川勝元から上洛の要請が届く。為続は兵を率いて上洛し、当初は父と同様に東軍に属したが、やがて足利義視と勝元が不和になると、西軍の総帥であった守護大名・大内政弘に従うという、大胆な戦略的転換を行った 13 。これは、九州における大内氏の強大な影響力を冷静に分析した、極めて現実的な判断であった。為続は京都で度々軍功を上げ、その働きが認められて文明2年(1470年)には従五位下・左衛門尉に叙任されている 14

この応仁の乱への参陣は、為続のその後の人生を決定づける重要な転機となった。彼は京都という中央政治の舞台で、日本最大の内乱を直接経験し、細川、大内といった当代一流の権力者たちの下で、大規模な軍の動員、兵站、そして複雑怪奇な外交・謀略戦を目の当たりにした。この経験は、彼を単なる肥後の地方豪族から脱皮させ、大局的な戦略眼を持つ戦国武将へと成長させる、またとない機会となったのである。彼が後に肥後国内で展開する、島津氏との同盟や天草衆の糾合といった巧みな外交戦略は、まさしく京都での経験に裏打ちされたものであった。中央での経験がなければ、彼の戦略はより小規模で近視眼的なものに留まっていた可能性が高い。

第二節:八代・葦北への進出 ― 相良氏最大版図の実現

京都から帰国した為続は、中央で培った経験を存分に発揮し、領土拡大へと邁進する。その戦略の要は、婚姻政策と軍事同盟を巧みに組み合わせた外交にあった。まず、薩摩国の有力国人である薩州家の島津国久と同盟を結び、南方の安定を図った 13 。さらに、妻の父である菱刈道秀が攻撃された際には、島津・北原氏と連合軍を形成してこれを救援(牛山河原合戦)。この戦功により、薩摩北部の牛屎院(うしくそいん、現在の鹿児島県伊佐市大口)の支配権を一時的に獲得するなど、着実に勢力を伸ばした 13

為続の次なる目標は、肥後南部の要衝である八代郡であった。この地を巡っては、父・長続の代に恩義から相良氏へ割譲された高田郷の領有権を主張する名和顕忠(なわ あきただ)との間で、長年にわたる対立が続いていた 13 。為続は顕忠の度重なる裏切りに対し、ついに全面対決を決意する。彼は島津氏、菱刈氏といった既存の同盟者に加え、海を隔てた天草の国人衆(天草五人衆)までをも巻き込んだ大連合軍を組織するという、卓越した外交手腕を見せた 14 。数年にわたる攻防の末、文明16年(1484年)、為続はついに名和氏の本拠地である古麓城(ふるふもとじょう)を陥落させ、八代郡一帯を完全にその手中に収めた 13

八代掌握に成功した為続の勢いは止まらない。長享元年(1487年)には、さらに北進して益城郡の豊福城(とよふくじょう)を奪取 13 。この時点で、相良氏の支配領域は、本拠地の球磨郡に加え、葦北郡、八代郡、そして益城郡の一部にまで及び、為続の代において史上最大の版図を築き上げるに至ったのである。

第二章:肥後国衆の盟主を目指した策謀と挫折 ― 栄光からの転落

最大版図を築き、肥後国に覇を唱えんとした為続であったが、その栄光は長くは続かなかった。彼の野心は、肥後国全体の秩序を司る守護・菊池氏との全面対決という、あまりにも大きな代償を伴う破局を招くことになる。成功体験への過信が、彼を栄光の頂から失意のどん底へと突き落とした。

第一節:守護・菊池氏との複雑な関係

当初、為続と肥後守護・菊池氏との関係は決して険悪なものではなかった。為続という名に含まれる「為」の字も、当時の守護であった菊池為邦(ためくに)からの一字拝領であり、両者の間には一定の主従関係が存在した 13 。しかし、為続が自らの勢力拡大のために、周辺国人の内訌に積極的に介入し始めると、その関係に徐々に亀裂が生じていく。特に、阿蘇氏の家督相続争いにおいて、為続が菊池重朝(しげとも)の支持する候補と敵対したことで、両者の対立は顕在化した 13

そして、両者の関係を決定的に破綻させたのが、明応2年(1493年)に起きた菊池家の内紛であった。菊池重朝が没し、若年の能運(よしかず、初名は武運)が家督を継ぐと、これを好機と見た重臣の隈部朝夏(くまべ ともなつ)が謀反を起こした。この時、為続は菊池家の弱体化を狙い、反乱軍である隈部氏に同調して菊池領へ出兵するという、極めて危険な賭けに出たのである 14 。これは、菊池家に取って代わり、肥後国における主導権を完全に掌握しようとする為続の野心が生んだ、大胆かつ無謀な策謀であった。

しかし、この行動は為続にとって最大の戦略的誤算となる。彼は、名和氏や阿蘇氏との争いで成功した「内紛への介入」という方程式を、守護・菊池氏にも安易に適用してしまった。彼は二つの重大な点を見誤っていた。第一に、菊池氏が単なる国人領主ではなく、室町幕府から公的に認められた「守護」という、肥後一国における絶対的な権威を持っていたこと。第二に、若き当主・能運が、為続が想像したような凡庸な若君ではなく、逆境でこそ類稀な指導力を発揮する傑物であったことである 18 。結果として、為続の行動は「守護への反逆」という大義名分を能運に与え、激しい怒りを買った能運によって、かつて結ばれた為続の孫娘と能運との婚姻の約束も反故にされ、両家は義絶するに至った 14 。為続の策謀は、自らの成功体験に固執したことによる「学習の失敗」であり、自ら破滅の引き金を引くことになったのである。

第二節:敗北と領国の縮小

為続の裏切りに憤激した菊池能運の反撃は、熾烈を極めた。明応7年(1498年)、能運は筑後国や豊後国の援軍を得て大軍を組織し、為続が築いた北の拠点・豊福城に殺到、これを攻略した 13

この一敗を機に、為続の築き上げた勢力圏は砂上の楼閣の如く崩れ始める。為続の敗北を見た周辺の豪族たちは、勝ち馬に乗ろうと次々と菊池方へ離反。さらに肥前の有馬氏までもが菊池方に味方し、水軍を派遣して八代の古麓城を海上から攻撃した 13 。陸海から攻められ、完全に孤立無援となった為続に、もはや抗う術はなかった。

翌明応8年(1499年)、為続は十数年の歳月をかけて手に入れた八代の地を放棄し、本拠地である人吉・球磨への撤退を余儀なくされる 13 。北方の領土を全て失い、拡大戦略は完全に破綻した。さらに、菊池軍の追撃に備えるため、かつて島津氏との友好の証として得た牛屎院を返還し、南方の守りを固めざるを得ない状況にまで追い込まれた 13

栄光の絶頂からわずか数年で、全てを失った為続の失意は計り知れない。明応9年(1500年)、彼は家督を子の長毎(ながつね)に譲ると、その年の6月4日、波乱に満ちた54年の生涯を閉じた 13

第三章:統治者・文化人としての相良為続 ― 戦争だけではない遺産

相良為続の生涯は、軍事的な成功と失敗に彩られているが、彼の評価はそれだけに留まらない。彼はまた、拡大した領国を統治するための法を整備した優れた政治家であり、中央の文化にも通じた教養人でもあった。戦場での武勇とは異なる、彼の統治者・文化人としての側面は、相良氏のその後の歴史に大きな影響を与えた。

第一節:「相良氏法度七条」の制定とその画期的な意義

為続の治世における最大の功績の一つが、明応2年(1493年)に制定された、全7ヶ条からなる分国法、通称「相良氏法度」である 13 。この法度が制定された背景には、八代・葦北へと領土が急拡大した結果、出自も慣習も異なる多様な家臣団や国人衆を一つの秩序の下に統制する必要に迫られたという、為続の現実的な課題があった 22

法度の条文は、土地の売買における買戻しの慣習の追認、質の悪い銭貨(悪銭)と良質の銭貨との交換比率の規定、領内から逃亡した下人の相互返還義務など、当時の社会経済が直面していた具体的な問題に対応する、極めて実用的な内容で構成されている 15

しかし、この法度の真に革新的な意義は、個別の条文内容以上に、その根底に流れる統治思想にある。特に注目すべきは第七条の一節、「何事にても候へ、其所衆以て談合し相計らうべく候」(何事であっても、その土地の人々が話し合いによって決めるのがよい)という文言である 15 。これは、他の多くの戦国大名の分国法が、大名によるトップダウンの命令という性格が強いのに対し、相良氏法度が在地領主層の「衆議」、すなわち合議制を尊重する「一揆契状」的な性格を持っていたことを示している 23

為続は、新たに支配下に置いた八代や葦北の国人衆に対し、一方的に法を押し付けるのではなく、彼らの伝統的な自治権をある程度認め、「談合」による自治的な解決を法の基本原則とした。これは、彼らを統治のパートナーとして取り込むことで、支配への反発を和らげ、円滑な領国経営を目指すという、極めて現実的で高度な政治判断であった。この法度は、為続が単なる武力による征服者ではなく、多様な勢力を束ねるための「調停者」としての役割を自覚していたことを示す、何よりの証拠である。武力による拡大と、法による統合という、硬軟両様の戦略を駆使した統治者像がここから浮かび上がってくる。


表2:相良氏法度七条(為続法)の概要と解説

条文番号

条文(書き下し文)

現代語訳

解説と分析

第一条

買免(かいめん)の事。売主買主過ち候て、以後子々孫々文(ふみ)無く候はば、相違無く本主の子孫に返すべし。

土地売買について。売主と買主の双方に手落ちがあり、後年、売買証文がなくなってしまった場合は、元の所有者の子孫にその土地を返還しなければならない。

証文の重要性を説きつつも、それが失われた場合には、伝統的な所有権(本主)を尊重するという、在地社会の慣習に配慮した内容。在地秩序の安定を重視する姿勢が見られる。

第二条

文無く買免の事、一方過ち候はば、本主知行すべし。

証文のない土地売買について、売主か買主のどちらか一方に手落ちがあった場合は、元の所有者がその土地を支配することができる。

第一条を補足する規定。契約上の不備があった際の裁定基準を明確化し、紛争の未然防止を図っている。

第三条

買取候田地を又人に売り候て、後其主退転の時者、本々売主付くべし。

買い取った田地を別人に転売した後、その転売先の主人が没落した場合、その土地は最初の売主の元に戻るべきである。

土地所有権の複雑な変転に対応する規定。土地と人との結びつきが強い中世的な所有観念を反映している。

第四条

譜代の下人の事者是非に及ばず候、領中の者婦子によらず、来り候ずるを相互に返さるべく也、寺家社家同前に為るべし。

代々仕える下人については言うまでもなく、領内の者が(他領へ)逃亡した場合は、その者が婦女子であっても互いに送還しなければならない。寺社の領民も同様である。

領主にとって重要な労働力であった下人や農民の逃亡を禁じ、領主間の相互返還義務を定めることで、領国経済の基盤である人的資源の流出を防ぐ目的があった。

第五条

悪銭の時の買地の事、十貫字大鳥四貫文にて請けらるべし、黒銭十貫文の時者、五貫に為すべし。

質の悪い銭貨で土地を売買する場合、宋銭(字大鳥)10貫文は良銭4貫文、明銭(黒銭)10貫文は良銭5貫文の価値として換算するべきである。

当時、質の悪い私鋳銭(悪銭)の流通が社会問題化していた。公的な交換レートを定めることで、経済取引の混乱を収拾し、安定化させようとする意図が見える。

第六条

何事にても候へ、法度の事申し出候する時は、いかにも堅固に相互に仰せ定めらるる肝要候。

何事であれ、この法度に関して申し立てがあった場合は、関係者間で固く取り決めを交わすことが重要である。

法の遵守と、その運用における当事者間の合意形成の重要性を説く。法の権威を高めようとする姿勢が窺える。

第七条

四至境、其の餘の諸沙汰、以前より相定め候する事は申すに及ばず候。何事にても候へ、其所衆以て談合し相計らうべく然るべく候。

土地の境界やその他の様々な問題について、以前からの取り決めがある場合は言うまでもない。何事であっても、その土地の人々が話し合いによって決めるのがよい。

この法度の核心を示す条文。大名による一方的な支配ではなく、在地領主層(其所衆)の自治的な談合(合議)を尊重する姿勢を明確にしている。為続の現実的な統治術の表れである。


第二節:文化人としての側面 ― 政治的資産としての教養

為続は戦場を駆け巡る武将であると同時に、連歌(れんが)に深く通じた一流の文化人でもあった 13 。その教養は単なる趣味の域に留まらず、彼の政治的権威を高めるための重要な資産として機能した。

その文化人としての名声を不動のものとしたのが、連歌の第一人者であった宗祇(そうぎ)が編纂した准勅撰連歌集『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』への入撰である。「洞然長状(どうねんちょうじょう)」という記録によれば、為続は九州の武将としてただ一人、この権威ある連歌集に句が選ばれるという快挙を成し遂げた 13

戦国時代において、和歌や連歌といった京都風の文化に対する素養は、武将の「格」を示す重要な指標であった。この『新撰菟玖波集』への入撰は、為続が中央の文化圏にも認められた文化人であることを公的に証明するものであり、その名声を肥後国内に留まらず、九州全域、さらには中央にまで轟かせる絶大な効果があった 25 。この文化的な権威は、島津氏や菊池氏といった他の有力大名との外交交渉において、対等な立場で渡り合うための「ソフトパワー」として機能したのである。特に、父・長続が分家から実力で台頭したという経緯を持つ相良家にとって、こうした文化的権威をまとうことは、その支配の正当性を補強し、単なる田舎の成り上がりではないことを内外に示す上で、極めて重要な意味を持っていた。為続にとって連歌は、彼の政治的野心を達成するための、もう一つの武器だったのである。

結論:相良為続の功罪と歴史的遺産

相良為続は、戦国黎明期の肥後国に鮮烈な光芒を放ち、そして消えていった武将である。彼の生涯を総括する時、その功績と罪過は表裏一体となって浮かび上がる。

彼の最大の功績は、父・長続が統一した球磨郡を揺るぎない基盤とし、一代で八代・葦北・益城にまで版図を広げ、相良氏を肥後有数の戦国大名へと押し上げた、その卓越した軍事的手腕と戦略眼にある。さらに、「相良氏法度」を制定し、拡大した領国を統治するための法的・政治的な枠組みを創出したことは、その後の相良氏の歴史の根幹を成す、不朽の功績と言える 7

しかし、その輝かしい功績の影には、深い罪過も存在する。肥後の覇権を目指すあまりに膨れ上がった野心は、守護・菊池氏との全面対決という破局的な結末を招いた。その結果、晩年には十数年かけて獲得した領土のほとんどを失うという、痛恨の失敗を喫した 13 。彼の成功と失敗は、まさに戦国初期の武将が持つ力の可能性と、その限界・危うさを象徴している。

だが、為続の挑戦は決して無駄ではなかった。彼が切り拓いた北方への道、失った領土は、その子・長毎の代に一部回復されるなど、後の世代へと引き継がれていく 8 。為続が築いた武威、制定した法度、そして文化的な名声は、目に見えぬ遺産として残り、相良氏がその後、明治維新に至るまで約700年にわたり人吉の地を治め続けるという、全国的にも稀有な歴史を歩む上での、精神的・制度的な礎となった。

相良為続は、成功と失敗の両面において、相良氏が地方の国人領主から戦国大名へと飛躍し、そして激動の時代を生き残るための、極めて重要な画期を創り出した人物として、歴史に記憶されるべきである。彼の夢見た肥後の覇権は幻と消えたが、その遺産は確かに、後の相良氏の繁栄の中に息づいている。

引用文献

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