相良長祇は相良氏14代当主。父の死後、相良長定と犬童一族の謀略で人吉城を追われ水俣で自害。その死は相良氏再興の転換点となった。
肥後国(現在の熊本県)南部の人吉球磨地方を拠点とした相良氏は、鎌倉時代から明治維新に至るまで約700年にわたり、同一の土地を統治し続けた日本史上でも稀有な一族として知られている 1 。九州山地の険しい山々に囲まれた地理的条件は、外部勢力の侵攻を困難にし、この驚異的な長期支配を可能にする一因となった。しかし、その安定した統治の歴史は、同時に血で血を洗う内紛の歴史でもあった。南北朝の動乱期における一族内の対立 3 に始まり、室町時代を通じて幾度となく繰り返された反乱や権力闘争 4 は、相良氏の歴史に暗い影を落としている。この一見矛盾する「長期安定支配」と「頻発する内訌」という二つの特徴は、相良氏の歴史を貫く重要な力学を示唆している。すなわち、地理的要害が外敵という「外向きの脅威」を減少させた一方で、そのエネルギーが内向きに転化され、一族内部の権力闘争をより先鋭化させる土壌を育んだのである。
相良長祇(さがら ながまさ)が生きた戦国時代初期は、こうした相良氏の「内向きのエネルギー」が最も激しく噴出した時代であった。彼の曽祖父にあたる第11代当主・相良長続(ながつぐ)は、下克上によって宗家を乗っ取り、球磨郡を統一 7 。続く祖父の第12代当主・為続(ためつぐ)は、戦国大名の分国法として名高い『相良氏法度七ヵ条』を制定し 3 、相良氏を単なる地方国人から、領国経営を志向する近世的な権力体へと変貌させる礎を築いた。
この戦国大名化への移行期に、相良氏は史上最大の内訌に見舞われる。それが、長祇の短い治世から、彼の兄である相良義滋(よししげ)による権力掌握に至るまでの一連の争乱、後に「永正・大永の乱」とも称される権力闘争である 10 。この内乱は、相良氏の権力構造を根底から揺るがし、若き当主・長祇を悲劇的な運命へと導いた。本報告書は、相良長祇の生涯を軸に、この内訌の実態を解き明かし、彼の死が相良氏の歴史に何をもたらしたのかを徹底的に考察するものである。
相良長祇の父であり、相良氏第13代当主であった相良長毎(ながつね、1469-1518)は、相良氏の歴史の中でも屈指の有能な当主であった。父・為続の代からの懸案であった八代郡の奪還に執念を燃やし、肥後守護・菊池氏の内紛に巧みに介入 12 。宿敵であった名和顕忠(なわ あきただ)と干戈を交え、永正元年(1504年)には遂に八代の古麓城を開城させ、球磨・葦北・八代の三郡を支配下に収めるという悲願を達成した 12 。さらに、父が定めた『相良氏法度』を補完する形で、新たに『相良氏法度十三ヵ条』を制定し、領国経営の制度的基盤を強化した 12 。長毎の治世は、相良氏の勢力が頂点に達した時代であったと言える。
しかし、この有能な当主・長毎も、後継者問題という難題に直面した。長毎には、長祇よりも年長の庶長子・長唯(ながただ、後の義滋)が存在した 15 。にもかかわらず、永正9年(1512年)、長毎は隠居を表明し、嫡男である長祇に家督を譲ることを決定した 12 。
この決断の背景には、当時の武家社会における「嫡庶の別」、すなわち正室の子(嫡子)と側室の子(庶子)の厳格な区別があった。長唯は年長で能力もあった可能性が高いが、庶子であったために宗家を継ぐ正統な立場にはないと見なされたのである 15 。戦国時代初期、多くの大名家が家督争いで国力を疲弊させていた状況を鑑みれば、長毎が家督相続の正統性を明確にすることで、将来の紛争の芽を摘もうとしたことは、当時の価値観においては極めて合理的かつ穏当な判断であった。
しかし、この一見合理的な判断は、結果として二つの深刻な火種を相良家内部に抱え込ませることになった。第一に、能力がありながら家督相続の道から外された庶長子・長唯とその周辺に、潜在的な不満が燻ること。そして第二に、本家の家督継承から分かれた別の「正統」を自認する一族に、家中の不満を束ねて介入する格好の口実を与えてしまうことであった。長毎の選択は、秩序の維持を目的としながら、皮肉にも未来の秩序崩壊の遠因を自ら作り出す結果となったのである。
永正9年(1512年)、相良長祇は若くして第14代当主の座に就いた。しかし、実権は依然として隠居した父・長毎が「後見」として掌握し続けていた 12 。これは、若年の長祇を補佐し、スムーズな権力移譲と治世の安定を図るための過渡的な措置であったと考えられる。長毎の威光が健在である限り、家中の不満分子も表立って行動することはできなかった。
だが、この安定した後見体制は、永正15年(1518年)5月11日の長毎の死によって、あまりにも早く崩壊する 12 。強力な後ろ盾を失った若き当主・長祇は、父が築き上げた広大な領地と、その裏で渦巻く家中の複雑な権力闘争の渦に、独りで立ち向かわなければならない状況に突き落とされた。父の死は、家中の権力バランスを抑えていた重石を取り払う決定的な出来事であり、長祇の悲劇へと続く扉を開くことになったのである。
父・長毎の死後、若き当主・長祇の前に立ちはだかったのが、相良一族の相良長定(さがら ながさだ)であった。彼の存在が、長祇の治世を根底から覆すクーデターの引き金となる。
表1:主要人物関係図
関係 |
人物名 |
備考 |
祖 |
相良長続 (11代当主) |
下克上により宗家を継承。球磨郡を統一。 |
┣ 長男の家系(本流) |
相良頼金 |
長続の長男。不具・病弱のため家督を継げず 16 。 |
┃ ┗ その子 |
相良長定 |
簒奪者 。「我こそが正統な嫡流」と主張し、クーデターを主導 16 。 |
┗ 三男の家系(継承流) |
相良為続 (12代当主) |
長続の三男。兄に代わり家督を継承。『相良氏法度』を制定 9 。 |
┗ その子 |
相良長毎 (13代当主) |
為続の子。八代を奪還し、相良氏の最大版図を築く 12 。 |
┣ 庶長子 |
相良長唯 (後の義滋) |
16代当主 。長祇の異母兄。当初は家督から外されるが、後に内乱を収拾 15 。 |
┣ 嫡子 |
相良長祇 |
14代当主 。 本報告書の主人公 。長毎の嫡男として家督を継ぐが、追放・殺害される 12 。 |
┗ 庶子 |
相良瑞堅 |
長祇の異母弟。僧侶。兄・長唯に協力して長定と戦う 15 。 |
この関係図が示す通り、長定の主張は単なる我欲ではなく、彼の立場から見れば一定の正当性を持つものであった。彼は、本来ならば家督を継ぐべき本流の血筋であり、長祇の家系は傍流であるという認識を持っていた。この「奪われた家督」という意識が、彼の行動の根源的な動機となったのである。
相良長定は、11代当主・長続の長男であった相良頼金の子として生まれた。しかし、父の頼金は「不具で病弱」という理由で家督を継ぐことができず、家督は弟の為続(長祇の祖父)の系統に移った 16 。このため長定は、自らこそが相良氏の「正統なる嫡流」であるという強い自負と、現当主家に対する鬱屈した感情を抱きながら成長した 16 。彼の眼には、若年の長祇は正統性を欠く簒奪者の末裔であり、自らの行動は単なる下克上ではなく、本来あるべき姿に家督を戻す「回復」行為として映っていたのである。
長定個人の野心だけでは、クーデターの成功はあり得なかった。彼の謀反を現実のものとしたのは、相良氏の奉行(家老級の重臣)を務める有力家臣・犬童長広(いんどう ながひろ)との強固な連携であった 11 。犬童氏は、相良氏の家臣団の中でも古くから力を持つ一族であり、その動向は当主の権力を左右するほどの影響力を持っていた 18 。
犬童長広が長定に与した直接的な動機は史料に明記されていない。しかし、この行動の裏には、戦国期の主君と有力家臣の間に存在する、構造的な緊張関係が見て取れる。強力なリーダーシップを発揮した長毎の死後、若年の長祇が当主となったことで、家中のパワーバランスは崩壊した。犬童氏のような有力家臣団にとって、この状況は自らの発言力を強化し、家中の主導権を握る絶好の機会であった。彼らは、より御しやすく、恩賞も期待できる長定を新たな当主として擁立することで、相良家における実権を掌握しようと図ったと考えられる。長定が掲げる「正統性」という大義名分は、現体制を打倒するための格好の旗印となったのである。
長定と犬童長広による謀反の噂は、事前に長祇の耳にも達していた。この時、家中の反応は二つに割れた。家臣の村山治部左衛門は「風説かもしれない」として慎重な事実確認を進言したのに対し、忠臣の園田又四郎は「先々の仇となるのは長定」と断じ、即座の誅殺を主張した 11 。この対応の分裂は、すでに長祇の求心力が盤石ではなかったことを示している。
結局、長祇は慎重論を採り、長定に詰問の使者を送るに留めた。長定は「逆心なし」との誓文を提出して巧みにその場を凌ぐ。長祇が安堵したまさにその夜、大永4年(1524年)8月24日、長定と犬童長広は60余名の手勢を率いて人吉城を急襲した 11 。不意を突かれた城内は混乱に陥り、長祇はなすすべもなく城を脱出。薩摩国出水(いずみ)へと落ち延びることを余儀なくされた 11 。こうして長定は、周到な計画と有力家臣の支持を背景に、流血を伴うクーデターを成功させ、相良宗家の家督を強引に奪い取ったのである。
人吉城を掌握し、当主の座を簒奪した相良長定であったが、彼の権力基盤は極めて脆弱であった。薩摩へ逃れた長祇の存在は、自らの正統性を脅かす最大の脅威であり続け、常に不安の種となっていた 11 。この不安を根絶するため、長定は非情な謀略に打って出る。
クーデターの翌年、大永5年(1525年)、長定は長祇を誘殺する策を巡らせた。彼は長祇に対し、「此度の謀反は逆臣に唆されての短慮でした。お詫びとして水俣(みなまた)の地を隠居領として差し上げますので、どうかお許し願いたい」といった内容の、恭順を装った偽りの書状を送った 11 。これは、父・長毎がかつて支配した葦北郡の要衝であり、長祇にとっても馴染みのある土地を提示することで、彼の警戒心を解こうとする狡猾な罠であった。
そして長定は、この書状を送ると同時に、配下で芦北・津奈木の地頭であった犬童匡政(いんどう まさざね)に対し、水俣にやってきた長祇を殺害せよとの密命を下していた 11 。この陰謀は、噂として領内に広まっていたとされるが 11 、流浪の身であった長祇は、この甘言を信じて水俣城へと入ってしまう。
この絶体絶命の危機に、一人の忠臣が立ち上がった。園田又四郎である。彼はかつて長定の危険性をいち早く見抜き、その誅殺を主張したために追放処分となっていた人物であった 11 。又四郎はこの謀略を察知すると、主君の身を案じ、急ぎ水俣へと駆けつけた。
水俣城で又四郎と再会した長祇は、そこで初めて全ての真相を知る。自らの迂闊さを悔いた長祇は、涙を流して又四郎の忠義に感謝し、主従は共に水俣城の後方にそびえる立山へと逃亡を図った 11 。この一連の出来事は、後世の史書、特に人吉藩の公式史である『求麻外史』などによって、強い物語性をもって描かれている。長祇の「お人好しで警戒心に欠ける性格」、長定の「狡猾で非情な策略」、そして園田又四郎の「主君への絶対的な忠義」という三者の人物像が鮮明に対比されており、これは単なる事件の記録に留まらない。武士社会における「忠」と「不忠」のあり方を後世に伝えるための、道徳的な教訓譚としての側面を強く持っているのである。
しかし、時すでに遅かった。犬童匡政が率いる追手は、立山へと逃れた主従にたちまち追いついた。逃げ場を完全に失ったことを悟った二人は、その場で自害を決意する。
大永5年(1525年)1月8日、相良長祇は、忠臣・園田又四郎の介錯によって腹を切り、その短い生涯を閉じた。享年25であった 11 。主君の最期を見届けた又四郎も、その場で後を追い、主君に殉じた。長祇の首級は、犬童匡政によって球磨の長定のもとへと届けられ、検分の後、人吉城下の梅花筒口にあった法寿寺に葬られた 11 。16年後、兄の義滋は八代の高雲寺を長祇の菩提寺と定め、その霊を弔っている 20 。
相良長祇を死に追いやり、最大の脅威を取り除いたかに見えた相良長定であったが、その暴挙は相良一門および家臣団の決定的な離反を招き、自らの破滅を早める結果となった。
長祇殺害の報は、家中を激しく動揺させた。特に、長祇の異母兄であった長唯(義滋)と、僧籍にあった弟の瑞堅(長隆)は、長定の非道なやり方に激怒し、公然と不信任を表明した 11 。彼らの動きに呼応するように、それまで日和見を決め込んでいた他の家臣たちも次々と長定から離反し、人吉城への出仕を拒否。家中は、人吉城に籠る長定派と、城外で長唯を新たな当主として擁立する反長定派に完全に分裂した 11 。
大永6年(1526年)5月11日、事態は動く。反長定派の急先鋒であった瑞堅が、配下の僧兵など200余名を率いて人吉城に夜襲を敢行した 16 。不意を突かれた長定と犬童長広は狼狽し、妻子を連れて八代へと逃亡する。しかし、八代の家臣たちも長定に従わず、彼は完全に孤立。以後、流浪の身となって葦北などを転々とする没落の道を辿ることになる 16 。
長定が敗走した人吉城には、一門・家臣団から推戴される形で、兄の長唯が新たな当主として入城した。これが後の第16代当主、相良義滋である 11 。当初は家督相続から外されていた庶子の彼が、この内乱の最大の勝者となった。義滋は「殺された弟・長祇の仇討ち」という、誰もが反論できない絶対的な大義名分を掲げることで、家臣団の心を一つにまとめ上げた。長祇の悲劇は、義滋にとって権力を掌握し、対立勢力を一掃するための絶好の機会となったのである。
当主となった義滋は、直ちに二つの行動を開始した。一つは長定の追討、もう一つはクーデターに加担した犬童一族の徹底的な粛清である。義滋は、有力一門である上村頼興・長種兄弟に軍権を委ね、犬童氏の拠点であった芦北の佐敷城や湯浦城を次々と攻略させた 11 。享禄3年(1530年)までには、クーデターの首謀者であった犬童長広、長祇殺害の実行犯である犬童匡政をはじめ、一族の主だった者たちが捕縛・処刑され、その勢力は完全に解体された 17 。
そして享禄4年(1531年)11月11日、義滋は最後の仕上げに取り掛かる。流浪を続けていた長定に対し、許しを与えるという甘言を用いて球磨に呼び戻すと、長祇が葬られた法寿寺の門外で待ち伏せ、謀殺した 16 。さらに、筑後に残っていた長定の長男や、母と共に父を訪ねてきた次男も刺客によって殺害され、長定の血筋は根絶やしにされた 16 。ここに、約7年間にわたる相良氏の内訌は、義滋の完全勝利という形で終結した。
一連の内乱を冷徹な手腕で終息させた相良義滋は、上村頼興らの補佐を受け、卓越した内政手腕を発揮していく。分国法をさらに整備して家中の統制を強化し、八代の徳淵湊を拠点とした明との貿易によって財政を潤すなど、内乱で疲弊した相良氏の国力を見事に再興させた 15 。長祇の死とそれに続く壮絶な内乱は、結果として相良氏がより中央集権的な統治機構を持つ戦国大名へと脱皮していくための、大きな転換点となったのである。
相良長祇は、父・長毎の死後、家中に渦巻く権力闘争の激流を制御することができず、志半ばで非業の最期を遂げた悲劇の若き当主として、歴史にその名を留めている。彼の治世はあまりに短く、具体的な治績を後世に伝えることはなかった。彼の人物像は、謀略に容易に陥る「お人好し」で「迂闊」な君主として描かれることが多いが、それは強大な父の後を継ぎ、複雑な血統の対立と有力家臣の野心という、あまりにも重い十字架を背負わされた結果であった。
しかし、彼の存在と死が相良氏の歴史に与えた影響は決して小さくない。彼の死は、相良氏内部に長年潜伏していた「正統性」を巡る二つの血統の対立と、当主の権力を脅かす有力家臣団の野心を、白日の下に晒す触媒となった。彼は、相良氏が抱える構造的矛盾を一身に体現し、その犠牲となった象徴的な存在であったと言える。
この「永正・大永の乱」と称される一連の内訌は、相良氏にとって甚大な痛みを伴う試練であった。だが、その過程で血族内の対立分子と不忠な家臣団が一掃され、権力は強力なリーダーシップを持つ相良義滋のもとへ一本化された。この危機を乗り越えたことで、相良氏は中世的な国人領主連合体としての性格を脱ぎ捨て、より強固な支配体制を持つ戦国大名として領国経営に邁進する体制を整えることができたのである。
したがって、相良長祇の悲劇的な死は、単なる一個人の不幸な物語に終わるものではない。それは、相良氏という一族が、戦国乱世を生き抜くためのより強固な権力体へと脱皮するために支払わなければならなかった、避けられない「産みの苦しみ」であったと総括することができるだろう。彼の短い生涯は、戦国時代における権力継承の非情さと、歴史の皮肉を我々に雄弁に物語っている。
年代 |
出来事 |
典拠 |
永正9年(1512) |
相良長毎が隠居し、嫡子・長祇が家督を継承。父・長毎が後見人となる。 |
12 |
永正15年(1518) |
5月11日、父・長毎が死去。長祇による親政が始まる。 |
12 |
大永4年(1524) |
8月24日、相良長定が犬童長広と謀り、人吉城を急襲。長祇は薩摩国出水へ逃亡する(クーデター勃発)。 |
11 |
大永5年(1525) |
1月8日、長定の謀略により、長祇が水俣の立山にて自害(享年25)。忠臣・園田又四郎も殉死。 |
11 |
大永6年(1526) |
5月11日、長祇の兄・瑞堅(長隆)が長定を攻撃。長定は人吉城から八代へ敗走する。 |
16 |
大永7年(1527) |
長祇の兄・長唯(後の義滋)が16代当主となり、クーデターに加担した犬童一族の粛清を開始。 |
15 |
享禄3年(1530) |
3月、クーデターの首謀者・犬童長広らが捕縛・処刑される。 |
17 |
享禄4年(1531) |
11月11日、義滋の命により、流浪していた相良長定が球磨にて謀殺される。その一族も根絶やしにされる。 |
16 |