相馬利胤の生涯を理解するためには、まず彼が生まれた時代の奥州、そして相馬一族が置かれていた複雑な政治的状況を把握する必要がある。桓武平氏千葉氏の流れを汲む相馬氏は、鎌倉時代初期の奥州合戦における軍功により源頼朝から陸奥国行方郡を与えられて以来、数百年にわたり同地を治めてきた名門であった 1 。この「鎌倉以来の領主」という強い自負と本領への愛着は、後に一族が存亡の危機に瀕した際、利胤の行動を決定づける精神的な支柱となる。
利胤の父である第16代当主・相馬義胤の時代、相馬氏は隣国で急速に勢力を拡大する伊達政宗との間で、半世紀にわたる熾烈な抗争を繰り広げていた 1 。この絶え間ない緊張関係の中で、義胤は南方の常陸国を本拠とする佐竹氏との連携を強化することで、伊達氏に対抗する戦略をとった 6 。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に参陣し、本領を安堵されたことで、相馬氏は独立した戦国大名から、中央政権の秩序に組み込まれた豊臣大名へとその立場を変える 1 。この時期に形成された佐竹氏との強い同盟関係は、豊臣政権下での地位を安定させる一方で、後の関ヶ原の戦いにおいて相馬家の運命を大きく左右する伏線となった。
このような激動の時代、天正9年(1581年)、利胤は義胤の嫡男として小高城で生を受けた。幼名は虎王と名付けられた 5 。彼の母親については、長江盛景の娘とする説 5 と、三分一所義景の娘とする説 10 があり、当時の相馬家が周辺豪族と複雑な姻戚関係を築いていたことがうかがえる。慶長元年(1596年)、虎王は元服を迎える。この際、父・義胤が親密な関係にあった豊臣政権の重鎮・石田三成を烏帽子親とし、その諱から一字(偏諱)を拝領して「三胤(みつたね)」と名乗った 5 。これは、相馬家が三成を中心とする文治派、ひいては佐竹氏を含む反徳川的な勢力圏に属していたことを明確に示す政治的表明であった。同時に従五位下・大膳亮に叙任され、名門・蘆名盛隆の娘である江戸崎御前を正室に迎えることで 5 、若き当主としての地位を固めていった。
利胤の生涯は、三胤から蜜胤、そして利胤へと続く改名の歴史によって特徴づけられる。これは単なる名前の変遷ではなく、彼の政治的アイデンティティの変容であり、相馬家が時代の荒波を乗り越えるための巧みな生存戦略そのものであった。最初の「三胤」という名は、豊臣政権下での自らの立ち位置を鮮明にするものであった。しかし、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、この名は政治的な足枷となる。そこで彼は、徳川方への配慮から同音の「蜜」の字に改めることで、過去の政治的立場を清算し、交渉のテーブルに着くための環境を整えた 8 。そして最終的に、所領安堵後に幕府の実力者である土井利勝から「利」の一字を拝領し、「利胤」と名乗るに至る 8 。これは徳川政権への完全な帰順を宣言するものであり、相馬家が近世大名として新たなスタートを切ったことの象徴であった。利胤にとって名前とは、自己の証明であると同時に、激動の時代を生き抜くための極めて高度な政治的ツールだったのである。
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝討伐を掲げて会津へ軍を進めると、天下はにわかに緊張に包まれた。この会津征伐に際し、相馬義胤は家康の軍に加わらず、領国の境を固めるに留まった 5 。この行動の背景には、父祖以来の宿敵である伊達政宗が東軍(徳川方)の主力として参陣していたことに加え、相馬家が盟主と仰ぐ佐竹義宣との関係があった。義宣は石田三成と極めて親しい間柄であり、家康への協力をためらっていた 8 。相馬家は事実上、佐竹氏の与力大名として行動しており、盟主の意向を無視して単独で東軍に与することは極めて困難な状況だったのである 7 。
やがて畿内で石田三成が挙兵し、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この戦いにおいて、相馬家は東軍にも西軍にも明確に味方することなく、中立を保った。これは日和見主義的な態度というよりは、同じく去就を決めかねていた佐竹義宣の動向に歩調を合わせた結果であった 8 。佐竹氏が動かない以上、相馬氏もまた動くことができなかったのである。
しかし、この決断は最悪の結果を招く。関ヶ原の戦いがわずか一日で東軍の圧勝に終わると、徳川家康は戦後の論功行賞において、自らに味方しなかった大名に対し厳しい処分を下した。慶長7年(1602年)、相馬家は「佐竹一門」と見なされ、佐竹氏が常陸水戸54万石から出羽秋田20万石へと減転封されるのに連座する形で、所領没収、すなわち改易を命じられた 1 。鎌倉時代以来、約400年にわたって守り抜いてきた本領をすべて失うという、一族史上最大の危機であった。この時、佐竹義宣からは「秋田の新領地のうち1万石を分与するゆえ、共に移るように」との誘いがあった 8 。これは、相馬家が独立した大名としての地位を失い、佐竹家の家臣団に組み込まれることを意味していた。相馬家は、まさに存亡の岐路に立たされたのである。
所領没収という絶体絶命の通告を受け、父・義胤は長年の同盟関係にあった佐竹氏からの申し出を受け入れ、秋田へ移ることを決意した 5 。これは、戦国の世を生き抜いてきた武将としての現実的な判断であったかもしれない。しかし、この決断に嫡男の三胤(利胤)は敢然と異を唱えた。彼は父の前に進み出て、次のように訴えたと伝えられる。
「自分は尊慮の他に存奉る。当家代々将軍に扈従し、今飢寒を凌がんとて佐竹の旗下になり、苗字を汚さんは更に詮無し。自ら江戸へ出府し、両大君の御念を鎮め、少分の恩沢にも預かり、旗本に苗字を残すにおいては本望、左なくば家を滅するか罪科を受くべし」 8
これは、佐竹家の家臣となることで家名を汚すよりは、たとえわずかな領地でも旗本として家名を存続させるか、さもなくば潔く滅亡の道を選ぶべきだという、武家の誇りに満ちた主張であった。この22歳の若き嫡男の不退転の覚悟は、父・義胤の心を動かし、相馬家は滅亡を覚悟で江戸での直訴に最後の望みを託すことになった。
直訴を決意した三胤は、まず石田三成との関係を想起させる「三」の字を捨て、同音の「蜜胤」へと改名した 8 。これは、交渉相手である徳川方への最大限の配慮を示す、彼の冷静な政治感覚の表れであった。わずか14名の家臣とともに江戸へ向かった蜜胤であったが、幕閣に取り入る縁故は全くなく、交渉は暗礁に乗り上げていた 5 。
この窮地を救ったのは、金銭や権力ではなく、過去のささやかな善行という「人間関係の記憶」であった。事態が膠着する中、家臣の門馬吉右衛門が、父・義胤のかつての記憶を掘り起こした。それは、天正19年(1591年)の豊臣秀次関白就任の式典の折、義胤が夏の白洲の熱さに苦しむ見知らぬ武士に、そっと自らの円座を貸し与えたという出来事であった 5 。この時、礼を述べて名乗った武士こそ、後に徳川家康の側近となる旗本・島田重次(治兵衛)だったのである。このわずかな縁を手繰り寄せ、島田に接触したところ、彼は10年以上前の恩義を忘れず、「疎意あるべからず」と利胤への協力を快諾した 5 。この島田重次の尽力に加え、旧知の旗本であった小笠原丹斎、藤野宗右衛門らの協力も得て 5 、ついに幕府の最高実力者である本多正信への取り次ぎに成功する。
利胤は本多正信を通じ、家康と二代将軍秀忠へ嘆願の書状を提出した。その内容は、「石田三成とは太閤(秀吉)への取次を頼んだ関係にすぎず、西軍に与した事実はない。今後は徳川家の譜代の家臣同様に、二心なく忠誠を尽くす」というもので、その真摯さを神文を添えて誓うものであった 5 。本多正信は、この訴状が率直で私心がなく、利胤の人物が信頼に足るものであると判断。「御憐憫あらば、必ずや忠誠を尽くす者なり」と家康・秀忠を強く説得した 5 。
この説得が功を奏し、慶長7年(1602年)10月、徳川家は相馬家の旧領安堵を決定した 5 。一度改易された大名が、元の所領をそのまま回復するという、前代未聞の極めて異例な措置であった 9 。この決定には、宿敵であった伊達政宗からのとりなしもあったと伝わるが 13 、その背景には、相馬領に新たな大名が入ることで生まれる不安定要素を避けたいという政宗の戦略的判断があった可能性も指摘できる。いずれにせよ、この起死回生の交渉成功により、利胤は相馬家「中興の祖」としての評価を不動のものとし、一族を近世大名として存続させる輝かしい道を切り拓いたのである。
奇跡的な本領回復を果たした利胤は、その後の治世において、相馬家を徳川体制下に盤石な地位を占める近世大名へと脱皮させるべく、精力的に藩政の基礎固めに取り組んだ。彼が単なる交渉上手なだけでなく、優れた構想力を持つ為政者であったことは、その多岐にわたる施策が示している。
旧領安堵後、利胤は徳川家への忠誠を具体的な形で示していく。まず、幕府の重臣であった土井利勝の仲介により、二代将軍・徳川秀忠の養女(岡田元次の娘で、土屋忠直の異父妹)を継室として迎えた 8 。これにより、相馬家は将軍家と直接の姻戚関係を持つことになり、その家格と政治的安定性は飛躍的に向上した。この婚姻の際、仲介役の土井利勝から「利」の一字を拝領して名を「利胤」と改め、官位も従四位下に昇叙された 8 。外様大名でありながら、将軍家との縁戚となり、幕閣の実力者から偏諱を受けるという厚遇は、相馬家が徳川政権から特別な信頼を得たことを内外に示すものであった。この利胤が築いた基盤により、後の代には譜代並(帝鑑間詰)の待遇を受けるに至る 10 。
慶長20年(1615年)に勃発した大坂夏の陣において、利胤は徳川秀忠軍の先鋒として参陣し、奮戦した 8 。これは、かつて関ヶ原で東軍に与しなかったという過去の汚名を返上し、徳川家への揺るぎない忠誠を戦場での働きによって証明する絶好の機会であった。この軍功により、相馬家の徳川体制下における武家としての立場は、より一層強固なものとなった。
藩主としての地位を固めた利胤は、近世大名としての新たな支配体制を構築すべく、大規模な領国経営に着手する。慶長16年(1611年)、居城を相馬氏代々の本拠であった小高城から中村城(現在の相馬市)へと移した 8 。この移転は、改易の凶報を受けた牛越城を「不吉な城」として避けたという逸話 9 もあるが、より本質的には、大規模な城郭と計画的な城下町を建設することで、藩政の中心地を刷新する狙いがあった。
利胤は、中村城下を京都の街並みを模した整然たる碁盤目状に整備した 8 。この計画的な都市開発は、単なる防御拠点としての城下町ではなく、政治・経済の中心地としての機能を重視したものであり、現在の相馬市の都市構造の基礎を築いた 16 。これは、利胤が長期的なビジョンを持った都市計画家であったことを示している。
利胤の功績は、政治や軍事、都市計画に留まらない。彼は文化や産業の振興にも目を向け、藩の経済的・文化的価値を高めることにも注力した。その代表例が、藩の特産品となる「相馬駒焼」の創始である 8 。利胤は家臣に陶芸の技術を学ばせ、藩直営の窯を築いた。ここで作られる相馬駒焼は、藩主の自家用や幕府・諸大名への贈答品として用いられる「御留窯(おとめがま)」として藩の厚い保護を受け、その品質を高めていった 17 。武力だけでなく、文化力や経済力によって藩の威信を高めようとするこの試みは、利胤が近世大名としての新しいリーダーシップを理解し、実践していたことを示す好例であり、彼の持つ卓越した先見性を物語っている 19 。
藩政の基盤を着々と固め、相馬中村藩の初代藩主として優れた手腕を発揮した利胤であったが、その治世は長くは続かなかった。寛永2年(1625年)9月10日、利胤は父・義胤に先立ち、45歳という若さでその生涯を閉じた 8 。墓所は、現在も福島県南相馬市に位置する同慶寺にある 8 。
利胤の死により、相馬家は再び試練の時を迎える。遺されたのは、継室である秀忠養女との間に生まれた嫡子・虎之助(後の相馬義胤)と、娘(後に唐津藩主・寺沢堅高の継室となる)などであった 8 。家督を継いだ虎之助は、当時わずか6歳という幼さであり、藩政を担うことは到底不可能であった 9 。
しかし、この危機を救ったのが、80歳を超えてなお矍鑠としていた祖父・義胤の存在であった。義胤は隠居の地であった泉田から中村城に戻り、幼い孫の後見役として再び政務の第一線に立った 4 。戦国乱世の修羅場をくぐり抜けてきた老練な義胤の存在は、若き藩主の急逝による藩内の動揺を最小限に抑え、安定した統治を可能にした。利胤が命がけで勝ち取った徳川家との良好な関係と、経験豊かな父・義胤の存在という二重の安全網が、藩主交代に伴う危機から相馬家を守ったのである。
相馬利胤の最大の功績は、単に改易の危機から所領を回復したことだけに留まらない。彼の真の功績は、戦国時代の武力中心の価値観が終焉を迎えつつあった時代の転換期において、いち早く「交渉」「政治力」「婚姻政策」、そして「文化・産業振興によるブランド構築」といった新しい時代の武器を駆使し、一族の危機を乗り越えたことにある。彼は、相馬家を近世大名として生き残らせるための「型」を創り上げたのである。彼が築いた徳川幕府との強固な関係、計画的に整備された城下町、そして藩の誇りとなった相馬駒焼といった文化産業は、すべてその後260年以上にわたって続く相馬中村藩の平和と安定の礎となった。相馬利胤は、戦国武将の不屈の魂と、近世大名の冷静な政治力を兼ね備えた、稀有なリーダーであったと評価できよう。
西暦(和暦) |
利胤の年齢 |
相馬利胤・相馬家の動向 |
国内の主要な出来事 |
1581年(天正9年) |
0歳 |
相馬義胤の嫡男として誕生。幼名は虎王 8 。 |
- |
1590年(天正18年) |
10歳 |
父・義胤が小田原征伐に参陣、豊臣秀吉に臣従 1 。 |
豊臣秀吉、天下を統一。 |
1596年(慶長元年) |
16歳 |
元服し、石田三成の偏諱を受け「三胤」と名乗る。従五位下・大膳亮に叙任 8 。 |
- |
1600年(慶長5年) |
20歳 |
関ヶ原の戦い。相馬家は中立を保つ 11 。 |
関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍が勝利。 |
1602年(慶長7年) |
22歳 |
所領を没収(改易)される。父を説得し、江戸で直訴。「蜜胤」と改名 8 。10月、本多正信らの尽力で旧領安堵を勝ち取る 5 。 |
徳川家康、征夷大将軍に就任(翌年)。 |
1603年(慶長8年) |
23歳 |
居城を牛越城から小高城へ移す 9 。 |
江戸幕府が開かれる。 |
1609年頃 |
29歳頃 |
徳川秀忠の養女を継室に迎える。土井利勝の偏諱を受け「利胤」と改名。従四位下に昇叙 8 。 |
- |
1611年(慶長16年) |
31歳 |
居城を小高城から中村城へ移し、城下町を整備 8 。 |
- |
1615年(慶長20年) |
35歳 |
大坂夏の陣に徳川方として参陣し、奮戦する 8 。 |
大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡。 |
時期不詳 |
- |
家臣に陶芸を学ばせ、相馬駒焼の基礎を築く 8 。 |
- |
1625年(寛永2年) |
45歳 |
9月10日、父・義胤に先立ち死去。墓所は同慶寺 8 。 |
- |
相馬盛胤 (15代当主)
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相馬義胤 (16代当主)
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(母: 長江盛景の娘 ※) 相馬及胤 (弟)
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相馬利胤 (初代中村藩主)
(虎王→三胤→蜜胤→利胤)
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(正室: 江戸崎御前) (継室: 長松院殿)
(蘆名盛隆の娘) (徳川秀忠養女、岡田元次の娘)
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相馬義胤 (2代藩主) 娘
(虎之助) (寺沢堅高継室)
※ 母については三分一所義景の娘とする説もある 10 。