最終更新日 2025-06-26

相馬盛胤(相馬顕胤の子)

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戦国大名・相馬盛胤(第16代当主)の生涯と時代

序章:相馬盛胤という人物 ― 混同されがちな名跡の特定

日本の戦国史、特に奥州の動乱を語る上で、相馬氏の存在は欠かすことができない。その歴史の中で「相馬盛胤」という名は複数見られ、しばしば研究者や歴史愛好家の間で混同の原因となる。本報告書が主題とするのは、伊達氏三代にわたって激しい抗争を繰り広げ、戦国の南奥州にその名を刻んだ相馬家第16代当主、相馬弾正大弼盛胤(1529年~1601年)である 1

相馬氏の系譜には、本報告書の主題である16代盛胤の祖父にあたる14代当主・盛胤(1476年~1521年)も存在する 1 。この14代盛胤は、長年の宿敵であった標葉氏を滅ぼし、標葉郡全域を支配下に収めるなど、相馬氏の領土拡大に大きく貢献した武将であった 3 。しかし、本報告書が焦点を当てるのは、その孫であり、父・相馬顕胤の跡を継いで、伊達氏との存亡をかけた戦いにその生涯を捧げた人物である。

彼の生きた時代、相馬氏の領国(現在の福島県浜通り北部)は、西に当代随一の勢力を誇る伊達氏、南に海道の古豪・岩城氏、そして内陸部には田村氏や蘆名氏といった有力大名がひしめき合う、まさに四面楚歌の地政学的状況にあった 4 。この絶え間ない軍事的・外交的緊張こそが、相馬盛胤の生涯を規定し、その不屈の闘争精神を育んだ根源的な要因であったと言える。

本報告書は、この16代当主・相馬盛胤の生涯を、家督相続から伊達氏との宿命的な対立、巧みな外交戦略と領国経営、そして伊達政宗の台頭からその晩年に至るまで、あらゆる側面から徹底的に解明することを目的とする。

相馬氏主要当主系譜(13代~17代)

代数

氏名

生没年

続柄

主要な事績

13代

相馬高胤

1424-1492

12代・重胤の子

標葉氏との抗争中に陣没 1

14代

相馬盛胤

1476-1521

13代・高胤の子

標葉郡を平定 1

15代

相馬顕胤

1508-1549

14代・盛胤の子

伊達天文の乱で稙宗方に与す 6

16代

相馬盛胤

1529-1601

15代・顕胤の子

本報告書の主題。伊達氏三代と抗争 1

17代

相馬義胤

1548-1635

16代・盛胤の子

父と共に伊達政宗と死闘を繰り広げる 1

この系譜が示す通り、盛胤は父から伊達氏との対立という「負の遺産」を受け継ぎ、その戦いを子・義胤と共に継続するという、世代を超えた宿命を背負っていた。彼の生涯を追うことは、戦国期南奥州における小大名の生存戦略と、時代の大きなうねりに翻弄されながらも家名を保ち続けた一族の物語を解き明かすことに他ならない。

第一部:家督相続と伊達氏との宿縁

若き当主の誕生

相馬盛胤の生涯は、生まれながらにして伊達氏との複雑な関係性の中にあった。天文18年(1549年)、父・顕胤が42歳で没したことにより、盛胤は21歳という若さで相馬家の家督を相続した 2 。彼の母は、伊達家14代当主・伊達稙宗の娘(屋形御前)であり、盛胤は稙宗の外孫という立場にあった 2 。この血縁は、本来であれば両家の友好の証となるべきものであったが、現実にはより深刻な対立の火種を内包していた。

その根源は、奥州の勢力図を塗り替えた伊達家最大の内紛「天文の乱」(1542年~1548年)に遡る。この乱は、当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗との間の政策対立から生じた骨肉の争いであった。盛胤の父・顕胤は、自らの舅である稙宗を支持し、晴宗と真っ向から敵対した 6 。一時は敗れた稙宗を自領の小高城に保護するなど、最後まで稙宗方として戦い抜いたのである 6

しかし、この大乱は最終的に晴宗方の勝利に終わった。これにより、盛胤が家督を継いだ時点で、相馬家は南奥州の覇者となった伊達晴宗家と、もはや修復不可能な敵対関係に置かれていた 10 。これは盛胤が自ら選択した道ではなく、父から引き継がざるを得なかった宿命的な対立構造であった。彼の治世は、この「負の遺産」を背負い、強大な伊達氏の圧力に抗い続けることから始まったのである。

伊達晴宗・輝宗との攻防 ― 領土を巡る死闘

盛胤の治世は、その大半が伊達氏との熾烈な領土紛争に費やされた。その相手は、実の伯父にあたる伊達晴宗、そしてその子で従兄弟の輝宗であった 2 。両家の争いは、単なる国境紛争に留まらず、天文の乱を源流とする根深い確執と、複雑な血縁関係が絡み合った、まさに宿命の戦いであった。

抗争の主戦場となったのは、現在の宮城県南部にあたる伊具郡や亘理郡であった。これらの地域は、かつて伊達領であったが、天文の乱の混乱に乗じて相馬氏が勢力を伸長させた経緯があり、伊達氏にとっては奪還すべき失地、相馬氏にとっては死守すべき新たな版図であった。盛胤は、弘治3年(1557年)に名取郡で晴宗軍と衝突した座流川(沙留川)の戦いをはじめ、幾度となく伊達軍と干戈を交えた 11 。特に伊具郡の丸森城や金山城を巡る攻防は激しく、盛胤は一時期これらの城を攻め落とすなど、国力で劣るにもかかわらず、伊達氏を相手に一歩も引かない粘り強さを見せつけた 12

しかし、盛胤が直面した脅威は外部からのものだけではなかった。永禄6年(1563年)、譜代の家臣である青田顕治・胤治父子や、対伊達の重要拠点である中村城の城代・草野直清が、伊達氏と内通して謀反を起こすという、家中の根幹を揺るがす事態が発生した 2 。外部の敵が内部の不満分子と結びつくという、戦国大名が最も恐れる危機に直面したのである。

この危機に対し、盛胤は迅速かつ果断に対応した。自ら兵を率いて出陣し、当時まだ若かった嫡男・義胤を初陣させて反乱の鎮圧にあたらせた 11 。この戦いで佐藤好信らの家臣が功を立て、反乱は鎮圧された(貝殻坂・石積坂の戦い) 11 。特筆すべきは、その後の処遇である。反乱の首謀者の一人であった青田胤治は、近隣に聞こえた智勇兼備の将であったが、一度は敵対した田村清顕のもとへ逃亡した 2 。しかし盛胤は後にその罪を許し、彼を相馬家へ呼び戻して再び重臣の列に加えている 2 。この一連の対応は、盛胤が単なる勇猛な武将であるだけでなく、家臣団を統制し、有能な人材を見極めて活用する、優れた統治者としての器量と政治力を備えていたことを物語っている。彼の評価を単なる「伊達への抵抗者」から、「激動の時代に領国を維持した名君」へと引き上げる重要な逸話と言えよう。

第二部:乱世を生き抜く外交と領国経営

婚姻政策による活路 ― 田村氏との同盟

四方を強敵に囲まれた相馬盛胤にとって、武力のみで領国を維持することは不可能であった。彼の真骨頂は、むしろ巧みな外交戦略にこそ見出される。その戦略の基軸となったのが、内陸の有力大名・田村氏との同盟関係であった。盛胤は家督を継ぐと、西方の安全を確保することを最優先課題とし、妹の於喜多(御北御前)を三春城主・田村清顕に嫁がせた 2

この婚姻は、単なる政略結婚の域を超えた、相馬家の存亡をかけた戦略的決断であった。その証左として、盛胤は婚姻に際し、標葉郡内の南津島、葛尾、岩井沢、古道の四か村を、妹の「化粧料」として田村氏に割譲している 2 。これは、同盟の堅固さを内外に示すための多大な投資であり、相馬家にとって田村氏との連携がいかに死活問題であったかを物語っている。この同盟によって、盛胤は最大の脅威である伊達氏と対峙する上で、背後を突かれる懸念を払拭し、戦力を北方に集中させることが可能となった。

しかし、この戦略的な一手は、後に予期せぬ形で相馬・伊達の関係をさらに複雑化させる。この同盟から生まれた娘こそ、のちに「独眼竜」伊達政宗の正室となる愛姫であった 5 。これにより、盛胤は「伊達政宗の妻の伯父」という、極めて捻れた立場に置かれることになったのである。この縁戚関係は、天正14年(1586年)に田村清顕が嗣子なく没した際に、田村家の後継者問題を巡るお家騒動(天正田村騒動)へと発展し、相馬・伊達両家が介入する形で再び激しい対立の火種となった 15 。盛胤が未来を託した同盟は、時を経て、次世代のさらなる闘争の遠因となったのである。

反伊達連合の形成 ― 蘆名・佐竹氏との連携

田村氏との同盟を外交の基軸に据えた盛胤は、次なる手として、伊達氏という共通の脅威に対抗するための多国間同盟、すなわち「反伊達包囲網」の形成に着手した。その主要な連携相手となったのが、会津の蘆名氏と常陸の佐竹氏であった。

永禄4年(1561年)、盛胤は会津の蘆名盛舜と同盟を締結した 4 。内陸の雄である蘆名氏と手を結ぶことは、伊達氏を東西から挟撃する形勢を作り出す上で極めて有効であったが、同時に伊達氏との対立を決定的にする諸刃の剣でもあった 4 。盛胤はこのリスクを承知の上で、伊達氏の圧力を分散させる道を選んだ。

一方、南方の佐竹氏との関係は、より複雑な変遷を辿った。永禄5年(1562年)には、盛胤が佐竹義昭の居城・太田城を攻めようと常陸多賀まで進軍し、合戦に及ぶなど、当初は敵対関係にあった 11 。しかし、両者ともに伊達氏の勢力拡大を警戒しており、やがて利害が一致。和睦を経て、次第に協調路線へと転換していった。この関係の深化を象徴するのが、盛胤の嫡男・義胤の名である。その名に含まれる「義」の一字は、佐竹氏の当主・佐竹義重から与えられた偏諱であるとされ、両家が単なる軍事同盟を超えた、強い結びつきを持っていたことを示唆している 18

この盛胤の代から続く外交努力が最も効果的に機能したのが、天正13年(1585年)の「人取橋の戦い」であった。伊達政宗の父・輝宗が二本松義継によって拉致・殺害された事件に端を発し、政宗が二本松城を攻めたことに対し、佐竹義重を総大将とする蘆名・白川・石川らの南奥州諸大名連合軍が結成された 19 。盛胤の子・義胤もこの連合軍の主力として参戦し、総勢3万の兵力で、7千の伊達軍を壊滅寸前にまで追い込んだ 11 。政宗自身も鎧に銃弾を受けるほどの窮地に陥ったが、佐竹本国の急変の報により連合軍が突如撤退したため、伊達氏は九死に一生を得た 19 。この戦いは、盛胤が長年にわたり築き上げてきた反伊達連合が、奥州の覇権を揺るがすほどの力を持ち得たことを証明するものであった。

浜通りを基盤とした領国経営

絶え間ない戦争と複雑な外交を展開する上で、その基盤となる領国の安定と経済力の強化は不可欠であった。相馬盛胤の統治者としての手腕は、その領国経営にも明確に現れている。

相馬領は太平洋に面した浜通りに位置しており、盛胤はこの地理的特性を最大限に活用した。特に重要視されたのが、戦略物資である「塩」の生産と流通の支配である。弘治年間(1555年~1558年)には、塩の専売権を巡って一族内で対立が生じたが、盛胤はこれを制して専売制を確立し、相馬家の重要な財源とした 4 。内陸部の大名にとって塩は貴重品であり、これを掌握することは経済的な利益だけでなく、外交上の強力なカードともなり得た。また、領内の港湾機能を整備し、海運による物流を支配することで、さらなる富を築いていたと考えられる 4

軍事面では、本拠地である小高城の防備を固めると同時に 4 、対伊達氏の最前線である中村城の戦略的価値を高く評価し、次男の隆胤を城代として配置するなど、領土防衛体制の強化に余念がなかった 11 。城郭の整備は、単に敵の侵攻を防ぐだけでなく、領民に安心感を与え、家臣団の結束を高める効果もあった。

そして、相馬氏の領国経営を象徴するのが、現在も続く伝統行事「相馬野馬追」である。その起源は相馬氏の祖とされる平将門にまで遡るとされ、単なる祭礼ではなく、野生の馬を敵兵に見立てて追う、極めて実践的な軍事演習としての性格を色濃く持っていた 23 。盛胤の時代、この野馬追は騎馬軍団の練度を維持・向上させ、家臣団の士気を鼓舞するための重要な行事であった。馬の飼育や武具の維持には多大な経済的負担が伴うが 25 、盛胤はこれを領国経営の一環として奨励し、伊達氏の強大な軍事力に対抗するための精神的・物理的な支柱としたのである 26 。これは、文化、経済、軍事を一体化させた、小大名ならではの巧みな統治戦略であったと言えよう。

第三部:伊達政宗の台頭と盛胤の晩年

「二屋形」体制の確立

天正6年(1578年)、盛胤は50歳を前にして家督を嫡男の義胤に譲り、隠居の身となった 2 。しかし、これは決して政治の第一線からの完全な引退を意味するものではなかった。むしろ、これは相馬家が直面する厳しい情勢に対応するための、新たな統治体制への移行であった。

隠居した盛胤は、対伊達氏の最前線である中村城の西曲輪(西館)に居を構え、「相馬西殿」と称された 27 。一方、新当主となった義胤は本拠地の小高城にあり、ここに当主(屋形)と大御所(御屋形)が並立する、いわゆる「二屋形」体制が確立された 28 。この体制下で、盛胤は依然として強大な政治的・軍事的影響力を保持し続けた。隠居後も、各地の城代となっていた次男・隆胤や三男・郷胤の後見を務め 2 、時には義胤と共に軍を率いて伊達領へ侵攻するなど、その活動は衰えを知らなかった 11

この二頭政治は、経験豊富で大局観を持つ父・盛胤が戦略的な意思決定や外交を主導し、血気盛んで武勇に優れた息子・義胤が軍事行動の先頭に立つという、効果的な権力分担と役割分担を意図したものであったと考えられる。盛胤が最前線の中村城に、義胤が後方の小高城に拠点を置いたことも、この役割分担を象徴している。この体制は、伊達輝宗の代までは有効に機能し、相馬家の領土を保全する上で大きな力となった。しかし、この父子による巧みな統治も、やがて登場する伊達政宗という傑物の前には、その限界を露呈することになる。

奥州の覇権を巡る最終局面

伊達政宗が家督を継ぐと、南奥州の勢力均衡は急速に崩壊し、相馬氏は存亡の危機に立たされた。政宗の攻勢は、父・輝宗の代とは比較にならないほど苛烈を極めた。天正17年(1589年)、政宗は亘理重宗を大将とする軍勢を相馬領に差し向け、北方の重要拠点である駒ヶ嶺城と新地城が相次いで陥落した 2 。これにより、相馬氏は長年争ってきた伊具・宇多郡の拠点のほとんどを失い、伊達氏の圧力が本拠地・小高城にまで迫る、絶体絶命の窮地に追い込まれた。

この危機に際し、相馬家中で降伏か玉砕かを巡る最後の軍議が開かれた。ここで、隠居の盛胤と当主の義胤の間に、世代間の価値観の違いが鮮明に現れる。盛胤は、政宗からの降伏勧告に対し、「もはや奥州の覇権は政宗に握られており、千葉介常胤以来のわが家を失うことは人主としてあるまじきこと」と述べ、家名の存続を最優先に考え、一時的に政宗に従属することもやむなしという現実的な判断を示した 2

これに対し、当主・義胤は敢然と反論する。「政宗如き者に従うなど思いもよらず。仮に家を失うとも政宗に従うなど恥ずべきことだ。下知に従って家名を汚すより、潔く討ち死にいたす」と、武士としての名誉を重んじ、徹底抗戦を主張した 2 。家臣たちが沈黙する中、義胤の決意を聞いた盛胤は、息子の覚悟を受け入れ、「義胤がそのような考えであれば異論はない。存分になされるよう。我も義胤の下知に従って中村城で討死いたす」と述べ、父子共に玉砕する覚悟を決めた 18 。この逸話は、現実主義者の父と理想主義者の息子の対比、そして最終的には当主の決断を尊重する盛胤の姿を浮き彫りにしている。

しかし、運命は皮肉な形でこの父子にさらなる悲劇をもたらす。天正18年(1590年)5月、政宗が小田原征伐へ向かう直前、その置き土産とも言うべき伊達軍が中村城に攻め寄せた。城を守っていた盛胤の次男で、剛勇無双と謳われた相馬隆胤は、寡兵で奮戦するも、潼生淵の地で討死を遂げた 2 。これが、相馬・伊達両家の最後の直接戦闘となり、盛胤にとっては半世紀にわたる戦いの末に、愛息を失うという最も痛ましい結末となった。

豊臣政権の介入と戦国の終焉

相馬父子が玉砕を覚悟し、まさに家名の灯が消えようとしていたその時、中央から吹いた風が彼らの運命を劇的に変えた。天下統一を進める豊臣秀吉が「惣無事令」を発布し、小田原北条氏の征伐を開始したのである。これにより、諸大名間の私闘は禁じられ、政宗の相馬侵攻も強制的に中断させられた。相馬氏は、自力ではなく中央の巨大権力によって、滅亡の淵から救われたのであった 11

秀吉は奥州の諸大名にも小田原への参陣を命じた。義胤もこれに従うが、伊達氏との戦闘状態が続いていたため、到着が大幅に遅れてしまう 5 。この「遅参」は、秀吉の怒りを買い、改易されてもおかしくない大失態であった。しかし、ここで相馬家にとっての命綱となったのが、豊臣政権の官僚として実務を取り仕切っていた石田三成であった。三成の執り成しにより、義胤は罪を許され、宇多・行方・標葉の三郡にわたる本領を安堵されたのである 13 。この一件を通じて、相馬家と三成の間には強い信頼関係が生まれ、義胤は後に嫡男の元服に際し、三成を烏帽子親としてその一字をもらい「三胤」(後の利胤)と名乗らせるほどであった 32 。この繋がりは、豊臣政権下では大きな利点となったが、後の関ヶ原の戦いでは、相馬家の立場を危うくする要因ともなった。

奥州仕置によって戦乱が終息すると、盛胤の晩年は、戦いで失った者たちへの鎮魂の日々であった。天正19年(1591年)、盛胤は次男・隆胤をはじめとする戦死者の菩提を弔うため、高野山へ参詣し、真言宗に深く帰依した 2 。高野山は、織田信長や豊臣秀吉をはじめ、多くの戦国武将が信仰を寄せ、供養塔を建立した聖地であり 34 、盛胤もまた、戦乱の世を生きた一人の武将として、その地に魂の安寧を求めたのである。帰国後は、中村城下に西光院を建立するなど、静かな信仰生活を送った 2

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、相馬家は東軍にも西軍にも与せず中立を保った。その翌年の慶長6年(1601年)、徳川政権下での相馬家の処遇が定まらない混沌の中、盛胤は73年の波乱に満ちた生涯を閉じた 2 。その死は、一つの時代の終わりを告げるものであった。

終章:相馬盛胤の歴史的評価

相馬盛胤は、戦国時代の南奥州において、類稀なる粘り強さと戦略眼をもって自家の存続を全うした、特筆すべき領主である。彼の歴史的評価は、以下の三つの側面に集約される。

第一に、「伊達氏三代と渡り合った不屈の武将」としての側面である。盛胤は、国力において圧倒的な差があった伊達氏に対し、晴宗、輝宗、そして政宗という三代の当主と約半世紀にわたり一歩も引かぬ戦いを繰り広げた 9 。特に、伊具郡を巡る攻防では、一時的に丸森城や金山城を奪取するなど、軍事的な成功も収めている 13 。その生涯は、大国の理不尽な圧力に屈することなく、家と領民を守り抜こうとした地方領主の気概と執念の記録そのものである。

第二に、「近世大名・相馬中村藩存続の礎を築いた統治者」としての側面である。盛胤と義胤父子の奮闘がなければ、相馬氏は政宗の代で歴史から姿を消していた可能性が極めて高い。豊臣秀吉の「惣無事令」という幸運に恵まれたことは事実であるが、その幸運を享受できる時点まで家を存続させたのは、紛れもなく盛胤の功績である。彼が築いた対伊達の防衛体制と外交網、そして経済基盤がなければ、相馬氏が近世大名として明治維新まで家名を保つことは不可能であった 11

第三に、「武略と外交を兼ね備えた戦略家」としての側面である。盛胤は、戦場で自ら指揮を執る勇猛な武将であると同時に、田村氏との婚姻政策や、蘆名・佐竹氏との合従連衡を巧みに操る外交官であった 2 。さらに、塩の専売制を確立して財政基盤を固めるなど、優れた内政手腕も発揮した 4 。武力、外交、内政という三つの要素を駆使して四面楚歌の状況を乗り切ったその手腕は、戦国期南奥州を代表する優れた統治者の一人として、高く評価されるべきである 13

相馬盛胤の生涯は、華々しい天下取りの物語ではない。しかし、それは逆境の中で知恵と勇気を振り絞り、次世代へと家名を繋いだ一人の領主の、誇り高き生存の記録である。彼の存在なくして、今日の相馬の歴史と文化を語ることはできない。

引用文献

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  34. 世界遺産 高野山とは?見どころや歴史、宿坊など、多彩な魅力を徹底解剖! https://www.wakayama-kanko.or.jp/features/koyasan
  35. 高野山とは | 高野山 持明院 公式サイト https://jimyoin-koyasan.com/koyasan/
  36. 別所館、小高城、村上城、牛越城 - 北緯 36度付近の中世城郭 http://yaminabe36.tuzigiri.com/fukusima/souma.htm
  37. 相馬義胤 - 猛将妄想録 - ココログ http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-af25.html