「真田」の名を耳にする時、多くの人々が思い浮かべるのは、戦国乱世を智謀で駆け抜けた祖父・幸隆、徳川家康を二度までも退けた父・昌幸、徳川の世で家名を保った兄・信之(信幸)、そして大坂の陣で「日本一の兵」と謳われた甥・幸村(信繁)といった、英雄的な物語に彩られた人物であろう 1 。彼らの華々しい活躍は、講談や小説、近年の映像作品を通じて広く知られている。
しかし、この綺羅星のごとき真田一族の中に、兄・昌幸の実弟でありながら、その知名度において大きく水をあけられている一人の武将がいる。それが真田信尹(さなだ のぶただ)である。彼の名は、戦国史に深く通じた層を除けば、しばしば見過ごされがちである。
本報告書は、この知名度の差に埋もれた真田信尹という人物の実像を、現存する史料を基に徹底的に掘り下げることを目的とする。彼は単に「昌幸の弟」というだけの存在だったのか。あるいは、兄とは異なる道を歩みながら、一族の存続と時代の動乱の中で、いかにして独自の役割を果たしたのか。その問いを解き明かすため、彼の生涯の軌跡を詳細に追跡し、その行動の背景にある戦略性と人間性を分析する。
本論に入るに先立ち、信尹の86年間にわたる生涯と、日本の歴史における主要な出来事を対比させた以下の年表を提示する。これにより、読者は彼の人生の大きな流れと、彼が生きた時代の激動を直感的に把握することができ、以降の詳細な記述を理解する上での確固たる土台となるであろう。
西暦/和暦 |
信尹の年齢 |
信尹の動向・出来事 |
関連する真田一族の動向 |
日本の主な出来事 |
1547年(天文16年) |
0歳 |
真田幸隆の四男として誕生。幼名は源次郎 4 。 |
兄・昌幸も同年に誕生したとされる 2 。 |
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時期不詳 |
幼少期 |
兄・昌幸と共に武田家への人質として甲府に出仕 4 。 |
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時期不詳 |
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武田信玄の命により、甲斐の旧族・加津野昌世の養子となり「加津野信昌」と名乗る 4 。 |
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1571年(元亀2年) |
24歳 |
駿河・深沢城攻めで武功を立て、敵将・北条綱成の「黄八幡」の旗を奪う 4 。 |
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武田信玄、西上作戦を開始。 |
1575年(天正3年) |
28歳 |
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兄・信綱、昌輝が長篠の戦いで戦死。昌幸が真田家の家督を継ぐ 2 。 |
長篠の戦い。 |
1579年(天正7年) |
32歳 |
竜朱印状の奉者として居屋敷諸役免許状を発給 4 。 |
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1582年(天正10年) |
35歳 |
3月、武田氏滅亡。真田姓に復し「信尹」と改名 4 。当初上杉氏に属するも、後に徳川家康に仕える。兄・昌幸の徳川帰属を仲介 4 。 |
昌幸、織田・北条・上杉・徳川と主君を次々に変える。 |
3月、武田氏滅亡。6月、本能寺の変。天正壬午の乱が勃発。 |
時期不詳 |
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徳川家康から5000石(後に1万石)を与えられるも、出奔 4 。 |
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時期不詳 |
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池田輝政を介し、会津の蒲生氏郷に5000石で仕える 4 。 |
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1591年(天正19年) |
44歳 |
九戸政実の乱鎮圧に参加 4 。 |
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1595年(文禄4年) |
48歳 |
主君・蒲生氏郷が死去。蒲生家の混乱により再び浪人となる 4 。 |
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1598年(慶長3年) |
51歳 |
再び徳川家康に帰参し、甲斐で4000石を与えられる 4 。 |
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豊臣秀吉、死去。 |
1600年(慶長5年) |
53歳 |
関ヶ原の戦いにおいて、東軍の御使番として参陣 4 。 |
昌幸と幸村(信繁)は西軍に、信之は東軍に属し、真田家は分裂 2 。 |
関ヶ原の戦い。 |
1614年(慶長19年) |
67歳 |
大坂冬の陣に軍使として参陣。家康の命で甥・幸村に寝返りを説得するも、拒絶される 4 。 |
幸村、豊臣方に味方し大坂城へ入城。「真田丸」で活躍。 |
大坂冬の陣。 |
1615年(慶長20年) |
68歳 |
大坂夏の陣後、討死した幸村の首実検を行う 9 。 |
幸村、夏の陣で討死。 |
大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。 |
寛永年間 |
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大坂の陣の功により1200石を加増され、計5200石の旗本となる 4 。 |
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1632年(寛永9年) |
86歳 |
5月4日、病没。享年86。旗本真田家の祖となる 4 。 |
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真田信尹は、天文16年(1547年)、信濃の国衆・真田幸隆の四男として生を受けた 5 。幼名は源次郎と伝えられる 4 。同母兄には、長男・信綱、次男・昌輝、そして三男・昌幸がいた 4 。興味深いことに、兄である昌幸も同年の生まれとされており、双子であった可能性も指摘されるが、確たる史料はない 2 。
父・幸隆が甲斐の武田信玄に仕え、上杉氏との抗争の最前線で活躍し、旧領回復と勢力拡大を図る中で、信尹は兄・昌幸と同様に、幼少期から武田家への忠誠の証として、人質として甲斐の府中(甲府)に出仕した 1 。これは、単なる服従の証ではなく、将来の真田家を担う子弟が、主君の膝元で武田家の軍略や統治を学び、家臣団の中枢と人脈を形成するための重要な機会でもあった。
甲府に出仕した信尹の人生において、最初の大きな転機は、主君・武田信玄の直接の命令によって訪れた。信玄は、信尹に甲斐の旧族である加津野昌世の養子となることを命じ、その名跡を継がせたのである 4 。これにより、彼は「加津野市右衛門尉信昌(かづの いちうえもんのじょう のぶまさ)」と名乗り、武田家臣団の一員として公式にキャリアをスタートさせた。
この養子縁組は、単に一つの家を継がせるという以上の、高度な政治的意図を含んでいた。信玄は、外様の有力国衆である真田氏の子弟を、譜代の家臣層である甲斐の旧族の名跡に組み込むことで、家臣団全体の結束を強化し、一体化を図ろうとした。これは、信玄が信尹(信昌)の将来性を見込み、武田家の中枢を担う人材として育成しようとしていたことの証左である。信尹はこの時点で、単なる人質ではなく、武田家から将来を嘱望されるエリート候補として認識されていたことが窺える。
加津野信昌として、信尹は武田家中で着実に実績を積み重ねていく。武田勝頼の代には、その近侍として槍奉行を務めたことが知られている。『甲陽軍鑑』の「信玄代惣人数書上」によれば、彼が率いた部隊は騎馬15騎、足軽10人という規模であった 4 。これは、主君の側近くに仕えるだけでなく、実戦部隊を指揮する能力を公に認められていたことを示している。
さらに彼の能力は、軍事面に留まらなかった。兄・昌幸と同様に、武田家の公印である竜朱印を用いた公文書の発給担当者、すなわち奉者としての役割も担っていた。天正7年(1579年)6月25日付で、彼が二宮神社の神主宛に居屋敷の諸役を免許する書状を発給した記録が現存しており、彼が軍事だけでなく政務にも通じた有能な官僚として、武田家の統治機構の一翼を担っていたことを明確に物語っている 4 。
若き日の信尹(信昌)の武名を一躍高からしめたのが、元亀2年(1571年)1月、武田信玄による駿河・深沢城攻めにおける伝説的な武功である。この戦いで、信尹は目覚ましい働きを見せ、敵将・北条綱成の象徴であった「地黄八幡(じおうはちまん)」の旗指物を奪い取ったと伝えられている 4 。
この逸話の価値を理解するためには、敵将・北条綱成という武将の存在をまず知る必要がある。綱成は北条家屈指の猛将として知られ、合戦の際には常に自軍の先頭に立ち、「勝った、勝った」と叫びながら敵陣に突撃する勇猛さで、敵味方から畏怖されていた 7 。その彼が用いた「地黄八幡」の旗は、まさに綱成の武勇の象徴であり、その旗が翻るだけで敵の士気は大きく揺らいだという。その旗を奪い取るという行為は、単なる戦功を超えて、敵の精神的な支柱を打ち砕き、自らの武名を天下に轟かせる極めて象徴的な意味を持っていた。
この大功を、主君・信玄自身が最大限に評価した。伝承によれば、信玄は奪い取った「黄八幡」の旗を信尹に与える際、「左衛門大夫(綱成)の武勇にあやかるように」と激励の言葉をかけたとされる 7 。この旗はその後、真田家に代々伝えられ、現在、長野市の真田宝物館に現存している 7 。
この「黄八幡」旗奪取の逸話は、信尹が、兄・昌幸の「智謀」とは一線を画す、「武勇」という実力によって自らの存在価値を確立したことを示す、決定的なエピソードである。信玄直々の評価という「お墨付き」を得たことで、彼は武田家臣団の中で確固たる地位を築いた。この若き日に打ち立てた武人としての高い評価こそが、主家滅亡後の流転の人生において、彼が常に好待遇で迎えられるキャリアの基盤となった。信尹の生涯は、この「黄八幡」の旗をその手にした瞬間、大きく方向づけられたと言っても過言ではないだろう。
栄華を誇った武田氏も、長篠の戦いを境に翳りを見せ始め、天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐によって、ついに滅亡の時を迎える。この主家滅亡という激動の渦中で、加津野信昌は大きな決断を下す。養子先の加津野姓を離れ、実家である真田姓に復し、名を「信尹」と改めたのである 4 。これは、武田家臣「加津野信昌」としての役割を終え、信濃の国衆「真田信尹」として、主無き乱世に新たな道を歩み出すという、彼の強い決意の表れであった。
武田氏の旧領は、一旦は織田家の家臣たちによって統治された。しかし、同年6月、京都で「本能寺の変」が勃発し、織田信長が横死すると、甲斐・信濃・上野の広大な地域は瞬く間に権力の空白地帯と化した。この機を逃さず、隣接する徳川家康、北条氏直、そして上杉景勝が雪崩を打って侵攻を開始し、旧武田領は三つ巴の壮絶な草刈り場と化した。これが世に言う「天正壬午の乱」である 15 。
この大混乱の中、信尹の身辺もめまぐるしく動く。当初、彼は越後の上杉景勝に属し、信濃の牧之島城に配属された 4 。しかし、兄・昌幸が北条氏直に与すると、信尹もこれに呼応し、北条軍を城内に手引きしようと画策する。だが、この調略は城兵であった山田右近尉の断固たる拒絶に遭い、失敗。信尹は城を追放されるという手痛い経験をすることになる 4 。これは、兄の智謀に頼るだけでは乗り切れない、乱世の厳しさを彼に突きつけた出来事であった。
天正壬午の乱の戦局が推移する中、兄・昌幸は北条氏からの離反を決意する。そして、次なる主君として徳川家康に狙いを定めた。この極めて危険な鞍替えを成功させる上で、決定的な役割を果たしたのが、弟の信尹であった 4 。
天正10年9月、信尹は兄に先んじて徳川家康に仕えることで、真田本家が徳川方に付くための道を切り開いたのである 4 。この信尹の仲介による昌幸の帰属は、信濃における勢力図を大きく塗り替えるものであり、徳川方にとって計り知れない価値があった。家康がこの報に接し、「誠にもって祝着」「快悦」と、その喜びを隠さなかったと史料は伝えている 18 。
この一連の動きの中に、兄・昌幸と弟・信尹の、真田家存続に向けた生存戦略の明確な違いが浮かび上がってくる。
一つは、兄・昌幸が選んだ道である。彼は独立した小大名として、周辺大国の間を巧みに渡り歩き、権謀術数の限りを尽くして自家の領土と権力を最大化することを目指した。これは、成功すれば大きな見返りが期待できる一方で、一歩間違えれば滅亡に直結する、まさにハイリスク・ハイリターンの戦略であった。
もう一つは、弟・信尹が選んだ道である。彼は、有力な大大名、この場合は徳川家康に仕官し、その巨大な家臣団の中で自らの武勇と実務能力を武器に、確固たる地位を築くことを目指した。これは、兄の道に比べれば大きな領土拡大は望めないものの、安定した立場を確保できる、ミドルリスク・ミドルリターンの戦略と言える。
この二人の異なるアプローチは、決して対立するものではなかった。むしろ、真田一族という共同体全体として見れば、それは極めて高度なリスク分散戦略であったと評価できる。昌幸が本家として独立を追求し、時には徳川と敵対するリスクを冒す一方で、信尹が分家として巨大勢力である徳川家中に深く食い込み、楔を打ち込んでおく。これにより、万が一、昌幸の道が閉ざされたとしても、信尹の道によって「真田家」そのものが生き残る可能性を格段に高めていたのである。
信尹の徳川への仕官は、単なる兄への追従や、流転の末の選択ではない。それは、一族の百年を見据えた、冷静かつ計算された戦略の一環であった。彼は兄・昌幸の「影」ではなく、異なる戦場で、異なる戦術をもって真田家の存続という共通の目標のために戦う、「もう一人の主役」だったのである。
兄・昌幸の帰属を成功させ、自らも徳川家康の家臣となった信尹は、当初、破格の待遇で迎えられた。知行として5,000石を与えられ、後には1万石にまで加増されたという 4 。これは、家康がいかに彼の能力と、真田家を味方に引き入れた功績を高く評価していたかを示している。
しかし、信尹はこの厚遇にもかかわらず、ある時点で徳川家を出奔するという不可解な行動に出る。その理由については、史料によって異なる記述がなされており、真相は定かではない。
一つは「恩賞不満説」である。後の小田原征伐において、武蔵江戸城の無血開城などで功績を立てたにもかかわらず、家康からの恩賞がその働きに見合わないと不満を抱いたため、というものである 4。
もう一つは、正反対の「自負心説」である。家康から1万石という大身に引き立てられたことに対し、「それだけの働きはしていない」として、自らの信条に照らして分不相応であるとし、潔く身を引いた、というものである 4。
後者の「働きをしていない」という言葉は、単なる謙遜とは考えにくい。むしろ、彼の持つ高いプライドと、実力主義者としての一面の裏返しであった可能性が指摘できる。武田家において槍奉行や奉者として軍事・政務の最前線で能力を発揮してきた彼にとって、徳川家という巨大な組織の中で、自身の能力を十分に発揮できる「場」が与えられていないことへの、ある種の物足りなさや不満があったのではないか。これは、現代社会において、有能なプロフェッショナルが、給与や待遇以上に、やりがいや自己実現の機会を求めて職場を移る心理とも通底するものがある。
徳川家を離れた信尹が次なる主君として選んだのは、当代きっての名将と謳われた蒲生氏郷であった。池田輝政の仲介を経て、奥州・会津に92万石という広大な領地を与えられた氏郷の下へ赴き、5,000石で仕えることになった 4 。
氏郷は、北の雄・伊達政宗への抑えと、広大な領国を経営するため、信玄流の軍学や統治手法を持つ武田の旧臣を積極的に登用していた。信尹と同じく武田旧臣であった曽根昌世も、この時期に氏郷に仕えており、信尹は旧知の同僚と再び相まみえることになった 4 。新天地を得た信尹は、天正19年(1591年)に北奥で発生した九戸政実の乱の鎮圧にも参加しており 4 、再び武人としての活躍の場を見出したのである。
信尹の、徳川家から蒲生家へという主君替えは、現代的な価値観や、近世以降に確立された「一所懸命」の倫理観から見れば、「不忠」や「節操のなさ」と短絡的に評価されかねない。しかし、戦国乱世の終焉から近世へと移行するこの過渡期においては、彼の行動はむしろ、自らの「市場価値」を冷静に見極め、最も高く評価し、活躍の機会を与えてくれる主君を選ぶという、極めて現実的かつ高度なプロフェッショナルとしての処世術であったと解釈すべきである。
徳川家康という巨大な組織を一度離れ、当時、織田信長や豊臣秀吉からも高く評価されていた名将・蒲生氏郷の下で実績を積んだという経験は、信尹の武将としてのキャリアに、さらなる箔を付ける結果となった。しかし、その氏郷も文禄4年(1595年)に40歳の若さで急死。その後、蒲生家はお家騒動に見舞われ、大幅に減封されるという混乱に陥る 4 。これにより、信尹は再び仕えるべき主君を失うことになった。
しかし、彼の能力は、天下人となった徳川家康にとっても依然として魅力的であった。慶長3年(1598年)、信尹は再び家康に召し出され、旧領である甲斐国に4,000石の知行を与えられて徳川家に帰参する 4 。一度は自らの意思で去った家臣を、家康が再び迎え入れたという事実は、信尹が持つ武勇、交渉力、そして諜報能力といった専門性が、来るべき天下分け目の決戦を前にして、徳川家にとって必要不可欠であると判断されたことを何よりも雄弁に物語っている 22 。この一連の流転のキャリアは、信尹が自身の価値を巧みにマネジメントし、乱世を生き抜いていった様を見事に示している。
徳川家への二度目の仕官を果たした信尹は、忠実な家臣としてその任務をこなしていく。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、彼は御使番として東軍に属し、徳川方として参陣した 4 。この戦いにおいて、兄・昌幸と甥・幸村(信繁)は石田三成方の西軍に与するという、真田一族にとって最大の危機が訪れる。その中で、信尹は一貫して東軍の立場を貫き、徳川への忠誠を行動で示した。この選択が、戦後の真田家の運命を左右する上で、兄・信之の東軍参加と並んで、極めて重要な意味を持つことになった。
関ヶ原の戦いを経て、徳川の世が盤石のものとなりつつあった慶長19年(1614年)、豊臣家との最後の決戦である大坂の陣が勃発する。この戦いにおいて、信尹は軍使として再び重要な役割を担うことになるが、それは彼にとって、武将としての生涯で最も苦しい立場に置かれた局面であった 4 。
その理由は、他ならぬ甥・真田幸村の存在であった。九度山での長い蟄居生活を終え、豊臣方の招聘に応じて大坂城に入った幸村は、冬の陣において城の南側に「真田丸」と呼ばれる強力な出城を築き、徳川方の先鋒部隊に壊滅的な打撃を与えた。幸村の予想外の武勇と采配に驚嘆した徳川家康は、力攻めだけでは犠牲が大きいと判断し、幸村自身を味方に引き入れる調略を画策する。そのための使者として、家康が白羽の矢を立てたのが、幸村の叔父にあたる信尹だったのである 8 。
家康の命を受けた信尹は、甥が守る真田丸の陣中を訪れた。家康が提示させた条件は、諸説あるものの、いずれも破格のものであった。「信濃にて三万石」 8 、「信濃十万石」 11 、あるいは「信濃一国(四十万石)全てを与える」 9 といった条件で寝返りを促したとされる。しかし、幸村の決意は固かった。彼は叔父の説得に対し、こう答えたと伝えられる。「関ヶ原の役以来、浪人であった私を、この度、秀頼公は召し出してくださり、多くの兵と持ち場を与えられました。これは、いかなる領地を与えられるよりもありがたいことです。ですから、約束を違えてそちらに味方することはできません」 8 。さらに、「信濃一国はおろか、日本国中の半分をいただけるとしても、私の気持ちは変わりません。この戦は勝利を得られる戦ではないと初めから覚悟しており、討ち死にするつもりです。どうか、もう二度とおいでになりませぬように」と述べ、きっぱりとこれを拒絶した 8 。徳川の臣としての任務と、甥への情愛の板挟みとなった信尹の説得は、こうして実を結ぶことはなかった。
慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣の最終局面において、幸村は徳川家康の本陣に凄まじい突撃を敢行し、家康をあと一歩のところまで追い詰めた末に、壮絶な討死を遂げた。その首は、越前松平家の家臣・西尾宗次(仁左衛門)によって討ち取られた。
戦後、家康は、この徳川方を最後まで苦しめた宿敵の首が本物であるかを確認するため、「首実検」を行った。その際、身内である信尹が呼び出され、首の真偽を確かめるよう命じられたのである 9 。この時の信尹の対応については、史料によって矛盾する、いくつかの逸話が残されている。
一つは「判別不能説」である。『慶長見聞記』などの記録によれば、家康に首を見せられた信尹は、幸村の顔にあったはずの傷の有無などについて記憶が曖昧であると述べ、「昨冬に面会した際も、夜で暗く、また幸村が奥に座っていたため、顔を十分に見ることができませんでした」などと、要領を得ない返答に終始した。これに業を煮やした家康は、「昨年会ったばかりの甥の顔を忘れたのか」と、信尹を厳しく叱責したという 10 。この逸話は、信尹が徳川の臣としての立場上、首実検を拒否できないまでも、甥の無念の死を公の場で認めたくないという、最後の情けから意図的に証言をぼかした可能性を示唆している。
もう一つは、正反対の「特定説」である。『武辺咄聞書』などの記録では、信尹が首を見て、真田家に伝わる鹿の角の兜が付いていたことや、幸村の特徴であった欠けた前歯を確認したことから、それが紛れもなく幸村の首であると特定した、とされている 25 。
この矛盾する逸話群は、信尹が置かれた極めて複雑な立場を如実に物語っている。徳川の忠臣としての「公」の義務と、真田一族の叔父としての「私」の情念が、首実検という場で激しく衝突したのである。家康の手前、首実検の任務を放棄することは許されない。しかし、手柄を立てた武士が誇らしげに語る甥の最期の姿を、冷静に肯定することもまた、彼には忍びなかったであろう。
信尹の曖昧な態度は、単なる個人的な情からだけではなく、高度な政治的配慮であった可能性も否定できない。「日本一の兵」とまで称された甥・幸村の名誉が、疲労困憊の末に一介の武士に討たれたという形で汚されるのを防ごうとしたのかもしれない。結果として、この首実検における信尹の謎めいた振る舞いは、後世に「幸村生存説」といった伝説を生む一因となり、真田の物語をより一層奥深いものにした。信尹は、最後まで兄・昌幸とは異なる方法で、真田家の名誉と物語を守ろうとしたと言えるのかもしれない。
大坂の陣という徳川家最後の戦乱が終結すると、信尹の功績も改めて評価された。彼は1,200石を加増され、最終的に合計5,200石を知行する大身の旗本となった 4 。これにより、彼は兄・信之が藩主となった信濃松代藩の真田本家とは別に、徳川将軍家に直接仕える「旗本真田家」を興し、その初代当主となったのである 4 。これは、真田一族が、徳川の治世下において、大名家と旗本家という二重の安泰を確保したことを意味する、極めて重要な成果であった。
戦国の動乱を生き抜いた信尹は、その後、幕臣として穏やかな晩年を過ごした。そして寛永9年(1632年)5月4日、病によりその長い生涯の幕を閉じた。享年86 4 。当時の平均寿命を考えれば、驚異的な長寿であった。その墓所は、かつての知行地であった山梨県北杜市長坂町の龍岸寺に、今も静かに佇んでいる 4 。
信尹が築いた旗本真田家の基盤は、強固なものであった。彼の子である真田幸政以降、その子孫は代々旗本として幕府に仕え続けた 4 。その家系は後に4つの系統に分かれたが、そのうちの2家(それぞれ500石と900石)は、幕末の動乱を乗り越え、明治維新まで家名を存続させることに成功している 4 。これは、信尹が徳川家中で築いた信頼と、彼が遺した家が、いかに安定したものであったかを証明している。
真田信尹の生涯を俯瞰する時、我々は彼を兄・昌幸と比較することで、その本質をより深く理解することができる。兄・昌幸が、時に味方を欺き、敵をも利用する「表裏比興の者」と評される天才的な謀略家として、権謀術数の限りを尽くして一族の独立を維持しようとしたのに対し、弟・信尹は、一貫して自らの武勇と実務能力という「実」をもって、巨大な権力組織の中で自らの価値を証明し、生き抜いた武将であった。
この観点から、真田信尹を再評価する必要がある。彼は、決して兄・昌幸の「影」や、単なる「弟」という従属的な存在ではなかった。彼は、武田家臣時代には「黄八幡」を奪うほどの武勇で名を馳せ、主家滅亡後は冷静な情勢分析と卓越した交渉力で一族の危機を救った。その後も、自らの専門性を武器に主君を渡り歩いてキャリアを構築した、まさに独立したプロフェッショナルな武将だったのである。
彼の生涯は、戦国乱世の終焉と、江戸幕藩体制という新たな秩序の確立という、時代の大きな転換点を象徴している。大名になる道を選ばず、あるいは選ぶことができず、幕府直臣たる旗本として家名を後世に残した、多くの有能な武士たちの生き様を、信尹の人生は体現している。彼が興した旗本真田家の存在は、信濃松代藩の真田本家と共に、戦国の世を乗り越えた真田一族の驚異的な生存戦略の成功を物語る、もう一つの重要な証なのである。