真田信政(さなだ のぶまさ)は、江戸時代前期の大名であり、信濃松代藩の二代藩主である。彼の名は、智謀の父・真田信之や、「日本一の兵」と謳われた叔父・真田信繁(幸村)といった、戦国乱世を象徴する英雄たちの輝かしい名声の影に隠れがちである。しかし、信政の生涯を詳細に追跡すると、彼が単なる偉大な先人の後継者にとどまらず、戦国の気風が薄れ、徳川幕藩体制が確立していく「過渡期」という時代の大きな転換点において、真田家の存続と安定に極めて重要な役割を果たした人物であることが浮かび上がる。
本報告書は、真田信政を、近世大名・真田家の確立過程における鍵を握る人物として再評価することを目的とする。そのために、彼の出自と青年期、上野沼田藩および信濃松代藩における領国経営者としての実績、そして彼の死が引き金となった真田家最大のお家騒動の経緯を丹念に検証する。さらに、家族や家臣との関係性から、彼の人物像を多角的に分析し、その生涯が真田家の歴史に与えた決定的な影響を徹底的に解明する。
本報告書の構成は以下の通りである。第一部では、徳川家との深い血縁を持って生まれた彼の出自と、大坂の陣での初陣に至る若き日々を詳述する。第二部では、沼田藩主、そして松代藩主として、彼がどのような領国経営を行ったのか、その具体的な政策と実績を明らかにする。第三部では、彼の急死によって勃発し、真田家の運命を二分した家督相続問題、いわゆる「真田騒動」の全貌を追う。第四部では、これまでの分析を踏まえ、父や子、妻たちとの関係から、信政という人物の器量と限界を考察する。最後に、結論として、彼が真田家、ひいては近世大名史に残した遺産とは何であったのかを総括する。
表1:真田信政 生涯年表
西暦 |
和暦 |
信政の年齢 |
真田信政の出来事 |
家族・真田家の動向 |
幕府・社会の動向 |
1597年 |
慶長2年 |
0歳 |
11月、真田信之の次男として誕生 1 。 |
母は小松姫。兄・信吉(4歳)。 |
豊臣秀吉、死去(慶長3年)。 |
1600年 |
慶長5年 |
3歳 |
関ヶ原の戦い後、父・信之の忠誠の証として江戸へ人質に出される。家康より短刀「吉光」を拝領 2 。 |
父・信之、上田領を安堵される。祖父・昌幸と叔父・信繁は九度山へ配流。 |
関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。 |
1611年 |
慶長16年 |
14歳 |
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祖父・昌幸、九度山にて死去。 |
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1614年 |
慶長19年 |
17歳 |
大坂冬の陣に兄・信吉と共に参陣 4 。 |
父・信之は病気のため出陣せず。 |
大坂冬の陣。 |
1615年 |
元和元年 |
18歳 |
大坂夏の陣に参陣。毛利勝永隊と戦い敗走 1 。 |
叔父・信繁、大坂夏の陣で戦死。 |
大坂夏の陣。豊臣家滅亡。元和偃武。 |
1617年 |
元和3年 |
20歳 |
6月、従五位下大内記に叙任 1 。 |
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1620年 |
元和6年 |
23歳 |
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母・小松姫、死去。 |
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1622年 |
元和8年 |
25歳 |
父・信之の松代転封に伴い、信濃国内で1万7000石を分知され、埴科藩主となる 1 。 |
父・信之、上田から松代へ13万石で転封。兄・信吉は沼田3万石を領する。 |
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1634年 |
寛永11年 |
37歳 |
兄・信吉の死去に伴い、その子・熊之助の後見人となる 1 。 |
兄・信吉(41歳)、死去。 |
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1639年 |
寛永16年 |
42歳 |
甥・熊之助の早世により、上野沼田藩3万石の藩主となる。甥・信利に5000石を分与 1 。 |
甥・熊之助(7歳)、死去。 |
鎖国体制が完成。 |
1645年 |
正保2年 |
48歳 |
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次男・信守が三男・信武を殺害し自刃する事件が発生 7 。 |
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1649年 |
慶安2年 |
52歳 |
沼田領内の利根川・片品川筋に筏河岸を設置 8 。 |
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1656年 |
明暦2年 |
59歳 |
父・信之の隠居に伴い、信濃松代藩10万石の家督を相続。二代藩主となる 9 。 |
父・信之(90歳)、隠居。甥・信利が沼田領を継承。 |
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1658年 |
万治元年 |
61歳 |
2月5日、松代にて死去 1 。死後、家督を巡りお家騒動(真田騒動)が勃発。 |
6月、信政の遺言通り子・幸道(2歳)が三代藩主となる。10月、父・信之(93歳)死去。 |
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真田信政は、慶長2年(1597年)11月、真田信之の次男として生を受けた 1 。父・信之は、戦国の智将・真田昌幸の長男であり、徳川と豊臣の間で揺れ動く激動の時代を、卓越した政治感覚で生き抜き、真田家の存続を成し遂げた人物である。そして母は、徳川四天王の一人、本多忠勝の娘であり、徳川家康の養女として信之に嫁いだ小松姫(法名:大蓮院)であった 1 。この出自は、信政の生涯を方向づける上で決定的な意味を持った。彼はもはや、実力のみがものをいう戦国武将の子ではなく、徳川幕府という新たな支配秩序と極めて密接な血縁関係を持つ、いわば「生まれながらの貴公子」だったのである。
この血統は、兄・信吉との関係において、複雑な影を落としていた。信吉は信之の長男であったが、その母は側室(一説には真田信綱の娘・清音院殿)であったとされる 14 。対して信政は、徳川家から嫁いだ正室・小松姫の子である。近世大名家において、正室の子か側室の子かという生まれの違いは、家督相続における正統性を巡る潜在的な火種となり得た。後年、テレビドラマで信政役を演じた俳優・大山真志が、役作りの上で「兄にコンプレックスを持っている」「(生まれが)一月しか違わないのになぜ兄が嫡男なんだ」という感情を抱いたという解釈は、この複雑な兄弟関係の本質を鋭く突いている 15 。この兄弟間の潜在的な緊張関係は、信政の死後に勃発する家督相続問題の遠因の一つと考えることも可能であろう。
信政の幼少期を象徴する出来事が、関ヶ原の戦い直後の江戸への人質差し出しである。慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いにおいて、祖父・昌幸と叔父・信繁が西軍に与したことで、真田家は徳川方から厳しい目を向けられていた。父・信之は、徳川家への絶対的な忠誠を証明するため、当時わずか3歳(一説に4歳)であった次男・信政を、重臣の矢沢頼幸に随行させ、江戸の徳川家康のもとへ人質として差し出した 2 。これは、信之が家の存続のために払った苦渋の代償であり、真田家が置かれた危うい立場を物語るものである。
この時、一つの有名な逸話が生まれる。江戸城で家康の御前に出された幼い信政が、その威光に気圧されたのか泣き出してしまった。それを見た家康(一説には秀忠とも)は、信政を不憫に思い、自らが腰に差していた粟田口吉光作の名短刀を与えたという 2 。この短刀は、この逸話にちなんで「泣き吉光」と呼ばれ、真田家では家宝第一として最重要の機密書類と共に堅牢な長持に納められ、昼夜を問わず藩士が交代で警護するほど厳重に保管された 3 。
この「泣き吉光」の逸話は、単なる心温まる美談として片付けることはできない。それは、極めて高度な政治的意味合いを帯びたパフォーマンスであった。関ヶ原直後の真田家は、西軍に与した昌幸・信繁を抱える、いわば「要注意大名」であった。その状況下で、信之は正室の子である信政を人質に差し出すという、最大限の忠誠の形を示した。これに対し、天下人たる家康は、処罰ではなく「恩賞」という形で応えたのである。これは、信之の選択が正しかったと公的に認め、今後、信之の家系を徳川の支配体制の中に正式に組み込むという強力な意思表示に他ならない。武士にとって刀の下賜は主従関係の承認を意味し、それを幼子に与えるという異例の形は、この承認が真田家の次世代にまで永続的に及ぶことを象徴していた。この短刀が真田家で「徳川公認の証」として、家宝の筆頭に位置づけられ、代々語り継がれたのは、まさにこの政治的価値ゆえであった。
慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣は、青年期に差し掛かった信政にとっての初陣となった。父・信之は当時、病気がちであったため自らは参陣せず、代わりに長男・信吉(当時19歳)、次男・信政(当時17歳)を徳川方として大坂へ送った 4 。父の心配は大きく、家臣の矢沢頼幸に宛てた書状では、油断なく軍法を守ること、そして叔父にあたる徳川方の勇将・本多忠朝の指揮下に入るよう厳命しており、若年の息子たちを戦場に送る不安と、徳川方としての責務を果たさせようとする強い意志が読み取れる 18 。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、信吉・信政兄弟が率いる部隊は、豊臣方の猛将・毛利勝永の隊と激突し、奮戦及ばず敗走を喫した 1 。この敗戦は、信政兄弟の武将としての未熟さを示すものと見なされがちである。しかし、対戦相手の力量と当時の戦況を詳細に分析すると、その評価は一変する。
第一に、対峙した毛利勝永は、叔父・信繁に勝るとも劣らない当代屈指の名将であった。江戸時代の軍記物には「惜しいかな後世、真田を云いて、毛利を云わず」と記され、その采配ぶりは敵方の黒田長政や加藤嘉明をも感嘆させるほどであった 21 。朝鮮出兵や関ヶ原を戦い抜いた歴戦の勇士が率いる精鋭部隊は、豊臣方でも最強の戦闘力を誇っていた。
第二に、徳川方全体の状況である。関ヶ原の戦いから15年が経過し、徳川方の多くは代替わりが進み、実戦経験の乏しい武将が増えていた 9 。豊臣方の浪人衆の決死の猛攻は徳川方の想定を上回り、信繁の突撃によって家康の本陣が崩壊寸前にまで追い込まれた事実は、徳川方全体が苦戦を強いられていたことを示している 9 。
信政にとって、この戦いは初陣であり、実戦経験は皆無であった。対する勝永は百戦錬磨の将。この経験値の差は決定的であったと言わざるを得ない。したがって、信政の敗走は、個人的な資質の問題というよりは、相手が当代屈指の猛将であったこと、豊臣方の士気が極めて高かったこと、そして徳川方全体が苦戦していたことという複合的な要因によるものと分析するのが妥当である。この初陣での手痛い敗北は、信政にとって、もはや個人の武勇が全てではない「泰平の世の統治者」としての自己認識を形成する上で、重要な原体験となった可能性が高い。
大坂の陣の後、信政はしばらく信濃国内で1万7000石を領する大名(埴科藩主)として過ごすが、彼の人生における最初の大きな転機は沼田藩主への就任であった。寛永11年(1634年)に兄・信吉が40歳で死去すると、その跡を継いだ信吉の嫡男・熊之助はまだ幼かったため、信政がその後見人を務めた 1 。しかし、その熊之助も寛永16年(1639年)にわずか7歳で早世。これにより、信政が上野沼田藩3万石の藩主となった 1 。
信政の沼田藩における治世は、軍事から内政へと大名の役割が転換した近世初期の「開発領主」としての姿を典型的に示している。彼の政策は、領国の地理的特性を的確に捉え、その弱みを補い、強みを最大限に活かすという、実利に基づいたものであった。
第一に、農業生産力の向上を目指した治水・利水事業である。彼は領内の開発を積極的に進め、「四か村用水」などの用水路を開削した記録が残る 26 。特に、上野国中之条(現在の群馬県吾妻郡中之条町)の伊勢町に築かれた「間歩(まぶ)用水」は、信政の時代の事業と伝えられており、真田氏が開いた用水のおかげで地域が潤ったとされている 27 。
第二に、藩財政の基盤を強化するための経済政策である。慶安2年(1649年)、信政は領内を流れる利根川と片品川の要所に、複数の「筏河岸(いかだがし)」を設置した 8 。これは、沼田領の豊富な森林資源を筏に組んで江戸市場へ輸送するための拠点を整備するものであり、藩の財政を直接的に潤す、極めて戦略的な経済政策であった。
このように、信政の藩政は、戦国時代の領土拡張から、江戸時代の藩財政の安定化へと統治者の目標がシフトしたことを示す好例である。彼の堅実な領国経営は、後に甥の信利が本家松代藩への対抗心から無謀な検地や重税を課し、領民の直訴を招いて改易に至った悪政 28 と比較することで、その計画性と実務能力が一層際立つ。
なお、沼田藩主を継承した際、信政は相続した3万石のうち5000石を、亡き熊之助の弟である甥の信利(当時、兵吉)に分与している 1 。また、自身がそれまで領有していた松代藩内の1万7000石は、弟の信重に譲っており 1 、一族内のバランスに配慮した様子もうかがえる。
沼田藩主として17年間の治世を経た信政に、最大の転機が訪れる。明暦2年(1656年)、父・信之が90歳という高齢でついに隠居。これに伴い、信政は60歳で信濃松代藩10万石の家督を相続し、二代藩主となった 4 。しかし、この家督相続は決して円満なものではなかった。
複数の記録によれば、この時期の信之と信政の父子関係は著しく悪化していたとされる 1 。信政は、父が兄・信吉の血を引く系統、すなわち甥の信利に家督を譲ることを望んでいるために、意図的に隠居を遅らせているのではないかと邪推していた。しかし、これは悲劇的なすれ違いであった。実際には、信之は何度も幕府に隠居を願い出ていたが、当時まだ幼少であった四代将軍・徳川家綱を支える重鎮として、幕府から「天下の飾り」として留任を強く要請されていたのが真相だったのである 1 。この相互不信が、父子の間に深い溝を生んだ。
この確執は、信政が松代へ入る際の家臣団の構成にも影響を与えた。信政は、家老の鎌原外記(かんばらげき)をはじめとする120人余りの家臣団を沼田から引き連れて松代へ移った 10 。この、信政子飼いの家臣団である「沼田衆」は、信之と共に上田から移ってきた旧来の家臣団「上田衆」との間で、藩内に新たな対立軸を生んだ可能性がある 36 。藩内での役職や知行地を巡り、旧来の勢力と新参の勢力との間に利害の対立や感情的な軋轢が生じたことは想像に難くない。この家臣団の派閥対立の顕在化は、信政の死後に起こるお家騒動の直接的な引き金となった。
松代藩主としての信政の治世は、あまりにも短かった。藩主就任からわずか2年後の万治元年(1658年)2月5日、信政は急逝する 1 。彼の遺言状には、父・信之に関する事柄が一切記されていなかったといい、これを知った信之は激怒したと伝えられている 1 。父子の確執は、最後まで解消されることはなかったのである。
信政の急死は、松代真田家を根底から揺るがすお家騒動、いわゆる「真田騒動」の幕開けとなった。藩主の座を巡り、二つの血筋が激しく対立したのである 9 。
一方の候補者は、信政が死の直前に側室との間にもうけた六男・幸道(ゆきみち)。当時わずか2歳の幼児であった 1 。彼の正統性の根拠は、信政が死に際に残した「幸道を後継者とする」という明確な遺言状であった 9 。信政自身の直系である幸道を支持する声は、特に信政と共に沼田から移ってきた家臣団を中心に、松代藩内では多数を占めていた 35 。
もう一方の候補者は、信政の甥であり、当時すでに沼田領主となっていた真田信利であった 32 。彼の主張の根拠は、自らが信之の「長男」である信吉の血を引く「兄の系統」であるという点にあった。彼は、正室の子である叔父・信政の系統よりも、側室の子であっても長男の系統である自分にこそ、真田本家の家督を継ぐ正統性があると主張したのである。さらに信利は、正室が土佐藩主山内家の娘であることや、母方の縁で時の幕府大老・酒井忠清を強力な後ろ盾に持つなど、幕府中枢への政治的コネクションを最大限に活用し、家督相続を幕府に訴え出た 9 。
この複雑な対立構造を理解するため、以下の関係図を示す。
表2:真田家家督相続 関係図
Mermaidによる関係図
この図が示すように、騒動は単なる個人の争いではなく、真田家の血筋が「沼田(兄系統)」と「松代(弟系統)」に分かれて対立する構造を持っていた。
藩の分裂、ひいては改易の危機に直面し、隠居の身であった93歳の老将・信之が最後の力を振り絞って立ち上がった 9 。信之は、信利を後援する大老・酒井忠清の絶大な権勢にも臆することなく、あくまで息子・信政の遺言の正当性を幕府に強く主張した 9 。
信之の行動は迅速かつ断固たるものであった。彼は、藩内の分裂を抑え、松代藩の総意が幸道の相続にあることを幕府に示すため、切腹をも覚悟の上で、家臣550人から幸道への家督相続を支持する血判状を取りまとめた 9 。この老将の鬼気迫る姿勢と、藩内の総意を示す動かぬ証拠が決め手となり、幕府の評定はついに信之の意見を採用した。万治元年(1658年)6月、信政の遺言通り、幸道の松代藩相続が正式に決定されたのである 9 。
このお家騒動は、幕府の裁定によって一つの決着を見る。幕府は、信利の面子を立てる意味合いもあったのか、沼田領3万石を松代藩から完全に分離・独立させ、信利を初代沼田藩主とすることで事態の収拾を図った 25 。これにより、真田家は松代10万石の本家と、沼田3万石の分家に正式に分かれることとなった 13 。この騒動の行く末を見届けたかのように、信之はその年の10月に93年の波乱に満ちた生涯を閉じた 4 。
真田信政の人物像を理解する上で、彼を取り巻く家族との複雑な関係は避けて通れない。
父・信之との関係:
信政にとって、父・信之は偉大な存在であると同時に、乗り越えるべき高い壁でもあった。その関係は、敬意と焦燥感が入り混じった、アンビバレントなものであったと推察される。信之のあまりに長い治世は、結果として信政の家督相続を60歳という高齢にまで遅らせた。信政が父の真意を測りかね、確執を深めていった背景には、後継者としての自負と、いつまでも藩主になれない焦りがあったことは想像に難くない 1。
息子たちとの悲劇:
後継者問題は、信政の生涯を通じての苦悩の種であった。長男の信就(のぶなり)は、側室である二代目小野お通との間に生まれた子であったが、故あって相続の対象から外されている 1。さらに、正保2年(1645年)には、次男の信守(17歳)が異母弟である三男の信武(16歳)を城中で殺害し、自らも刃に伏すという、凄惨極まりない事件が発生している 1。相次ぐ後継者の不幸が、死の直前に生まれた幼い幸道への家督継承に、彼を固執させた一因であった可能性は高い。
妻たちとの関係:
信政には、正室と複数の側室がいたことが記録されている。
これまでの分析を総合すると、真田信政は、大坂の陣での敗走という武人としての挫折を経験しながらも、沼田藩主としては治水や経済振興に確かな手腕を発揮した、有能な「行政官僚型」の大名であったと評価できる。彼の政策は、戦国の武勇伝ではなく、領国を豊かにするという近世大名の新たな責務を実直に果たそうとする姿勢を示している。
しかし、彼の生涯は悲劇の色を帯びる。偉大な父との確執、息子たちの連続した悲劇、そして家臣団の派閥対立といった、人間関係の軋轢を最後まで乗り越えることはできなかった。彼の急死と、それが引き起こしたお家騒動は、彼の生涯が個人的な成功だけでは完結し得なかった、過渡期の大名が背負った宿命を象徴している。信政の存在は、彼自身の意図を超えて、松代・沼田両真田家のその後の運命を決定づける、まさに歴史の「結節点」となったのである。
真田信政の生涯は、父・信之が戦国の荒波から守り抜いた真田家を、徳川の泰平の世に適合した「近世大名家」として安定させるための、苦闘の過程そのものであった。彼の沼田藩における堅実な藩政は、統治者としての確かな能力を証明している。
しかし、皮肉なことに、彼の最大の遺産は、その死が引き金となった「真田騒動」の決着とその後の帰結にある。この騒動を経て、松代藩は信政の遺言通り幸道が継承したことで、藩内の支配体制が一元化され、幕末まで続く安定の礎が築かれた 43 。一方で、この騒動によって独立した沼田藩は、藩主となった信利の悪政により、わずか一代で改易の憂き目に遭う 13 。
すなわち、真田信政の生と死は、真田家が二つに分かれ、片や名門として幕末まで家名を保ち、片や早々に歴史の舞台から姿を消すという、その後の両家の明暗を決定づけたのである。彼は、自らの意図とは別に、その存在自体が真田家の歴史における一大分岐点となった人物として、記憶されるべきであろう。彼の生涯は、偉大な父祖を持つ後継者の苦悩と、新しい時代を生きる統治者の責任とが交錯する、人間ドラマに満ちたものであった。