戦国乱世の終焉を告げる大坂の陣において、徳川家康を最後まで追い詰め、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と敵味方から称賛された武将、真田左衛門佐信繁(幸村)。その鮮烈な生き様と壮絶な死は、後世に数多の伝説を生んだ。しかし、その強烈な存在が、遺された子らの運命に如何なる光と影を落としたのか。本報告書は、信繁の次男として生を受け、徳川の世を生き抜いた真田守信(さなだ もりのぶ)、幼名・大八(だいはち)の生涯を徹底的に追跡するものである。彼の人生は、父の名声という宿命を背負い、敗者の子として時代の荒波に立ち向かった「もう一つの真田」の物語を、我々に静かに語りかける。
守信の生誕は、慶長17年(1612年)、父・信繁と祖父・昌幸が関ヶ原の戦いの結果、高野山での蟄居を命じられていた紀伊国九度山(現在の和歌山県九度山町)であった 1 。母は、信繁の正室であり、豊臣家臣・大谷吉継の娘である竹林院(ちくりんいん) 1 。この出自は、彼が生涯にわたって背負うことになる「逆臣の子」という烙印の原点となる。慶長19年(1614年)、父・信繁は豊臣秀頼からの招聘に応じ、九度山を脱出。守信もまた、母や兄・幸昌(大助)、姉らと共に大坂城へと入城した 5 。九度山で過ごしたわずか数年の平穏な家族生活は、時代の大きな奔流によって、唐突に終わりを告げたのである。
慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣のクライマックスである天王寺・岡山の戦いにおいて、父・信繁は徳川家康の本陣に決死の突撃を敢行し、壮絶な討死を遂げた。兄である嫡男・幸昌もまた、主君・豊臣秀頼に殉じ、大坂城内で自刃する 6 。この時、わずか四歳の幼子であった大八(守信)の運命は、まさに風前の灯火であった。
しかし、その命脈は奇跡的に保たれることとなる。その背景には、父・信繁の先見の明と、敵将の器量があった。通説によれば、信繁は決戦前夜、道明寺の戦いで敵方として対峙した伊達家重臣・片倉小十郎重長(当初は重綱)の知勇兼備の将器を見抜き、娘の阿梅(おうめ)らを託すことを決意したとされる 8 。この決断が、結果的に大八の命を救う最大の要因となったのである。阿梅の保護については、片倉家の記録である『片倉代々記』などに、戦場での混乱の中で捕らえられた「乱取り」であったとする記述も存在する 11 。しかし、信繁が重長を「天晴れな武臣」と見込んで子女を託したという逸話は広く伝わっており、この二つの説が守信保護の背景を複雑かつ人間味あふれるものにしている。
大坂城落城の修羅場の中、大八は幸村の家臣であった西村孫之進、吾妻佐渡といった忠臣たちに固く守られ、他の姉妹と共に片倉重長の陣へと送り届けられた 6 。彼らは伊達の軍勢に紛れる形で京都を脱し、江戸を経て奥州白石に至るという、長く危険な旅路を経て、ついに「日本一の兵」の血脈を未来へ繋ぐという重責を果たしたのである。
この一連の出来事は、単なる武士の情けや美談としてのみ解釈することはできない。片倉重長による幸村の子女保護、特に男子である大八の受け入れは、主君である伊達政宗の暗黙の、あるいは明確な承認なしには到底不可能な行動であった。政宗は、豊臣秀吉や徳川家康の時代を通じて、常に天下への野心を隠さない「遅れてきた英雄」として知られる 14 。彼は徳川幕府に従順な姿勢を見せつつも、葛西・大崎一揆の扇動を疑われるなど 18 、その権威を試すような行動を繰り返し、幕府から常に警戒される存在であった 19 。そのような緊張関係の中で、幕府最大の敵であった真田幸村の遺児、とりわけ男子を保護することは、極めて高い政治的リスクを伴う。これは、幕府に対する伊達家の潜在的な反骨精神の表明であり、万が一の際に幕府と交渉するための、一種の「政治的カード」を保持する意図があった可能性が考えられる。したがって、守信の保護は、伊達家という巨大な外様大名の「矜持」と、中央集権化を推し進める幕府に対する「牽制」という、高度な政治的文脈の中で理解されるべきなのである。
奥州白石城に辿り着いた幸村の遺児たちであったが、その境遇は男女で大きく異なっていた。姉の阿梅らが白石城の二の丸で比較的公然と養育されたのに対し、男子である大八は「徳川方からすると生かしてはいけない存在」であったため、その存在は厳重に秘匿された 9 。徳川幕府による豊臣方残党の追及は苛烈を極めており、男子の存在が露見すれば、伊達家そのものが存亡の危機に立たされる可能性すらあったからである。
このため、成長した大八は真田の名を隠し、保護者である片倉重長にちなんで「片倉久米之介守信」あるいは「片倉四郎兵衛守信」と名乗った 1 。これは、彼の存在を世間から完全に隠蔽するための措置であった。彼は片倉家から食客禄として一千石という破格の待遇を与えられ、白石城外で密かに養育された 6 。これは単なる庇護ではなく、片倉家がいかに彼を重要人物として遇していたかを示すものである。
興味深いことに、守信の出自には、彼が生存して片倉家を頼ったという通説の他に、もう一つの記録が存在する。それは、真田家の菩提寺である高野山蓮華定院に残された記録で、「(大八は)5月5日、京都に於て印地打ち成され、御死去候」と、石投げ遊びが原因で夭逝したと記されているものである 1 。さらに、本家である信州真田家の史料にも、大八が早くに亡くなったとする記録が残っている 1 。
これらの「夭逝説」は、単なる異説や記録違いとして片付けることはできない。むしろ、これこそが守信の潜伏生活を可能にした、極めて戦略的な価値を持つ「防御壁」であった。後の章で詳述するが、仙台藩が幕府からの追及を受けた際、この「真田家の菩提寺の公式記録」という権威ある史料の存在が、彼らの絶好の言い分となったのである。この夭逝説の存在があったからこそ、仙台藩は守信を匿うことができた。彼の人生は、いわば「公式には死んだ人間」として生きるという、極めて特異な状況下から始まったのであった。
白石の地で密やかに成長した守信は、寛永17年(1640年)、30歳にして人生の転機を迎える。この年、彼は「真田四郎兵衛守信」として伊達家二代藩主・伊達忠宗に召し抱えられ、正式に仙台藩士となったのである。当初の俸禄は蔵米三百石であり、家格は永代召出二番座という、相応の待遇であった 6 。
しかし、この出仕は、案の定、江戸幕府の知るところとなった。幕府は仙台藩に対し、「逆臣の子を召し抱えたのではないか」として詰問状を送付する 6 。藩の存亡に関わるこの危機に対し、仙台藩は極めて巧妙な偽装工作で対抗した。まず、前章で述べた高野山蓮華定院の記録を持ち出し、「信繁の次男・大八は、記録にある通りすでに夭逝している」と主張。その上で、藩士とした守信は「早くから徳川に仕えた真田信尹(幸村の叔父)の孫である」と、出自を偽って報告したのである 1 。徳川家に忠誠を尽くした人物の血筋であるとすることで、幕府の追及をかわそうという、二段構えの周到な弁明であった。この巧妙な対応が功を奏し、仙台藩はお咎めなしという結果を得る。しかし、この一件により真田姓を公に名乗ることの危険性が改めて浮き彫りとなり、守信は再び「片倉」姓に戻ることを余儀なくされた 6 。
藩士としての守信は、寛永21年(1644年)に蔵米取から知行取へと改められ、刈田郡矢附村・曲竹村、栗原郡一迫八沢村などに合計三百石の領地を与えられた。特に矢附村には在郷屋敷を構え、この地が後の仙台真田家にとって本貫とも言うべき縁の深い土地となった 6 。
しかし、彼のキャリアには常に出自の影がつきまとった。明暦3年(1657年)、幕府との交渉役である「公儀使」という要職に任命されるも、即日免職となるという不可解な事件が起こる 6 。表向きの理由は「悪筆(文字が下手であること)」とされたが、これは明らかに口実であった。公儀使は広い知識と教養を要する重要な役職であり 6 、守信が一度はその候補に挙がったこと自体、彼が藩内で有能な人物として評価されていた証左である。しかし、その職務は幕府との直接的な折衝を伴う。彼の顔と名前が公式に江戸城に出入りすることは、仙台藩がかつて幕府に対して行った「偽装工作」を自ら危うくする行為に他ならない。この一件は、守信が仙台藩内で「能力は認められているが、公の場には出せない存在」という、極めて矛盾した立場に置かれ続けていたことを浮き彫りにする。彼の人生は、常に「真田幸村の子」という出自によって規定され、その能力を十全に発揮する機会を構造的に奪われていたのである。
そして寛文10年(1670年)10月30日、守信は59年の生涯を閉じた 1 。その生涯は、父から受け継いだ宿命と対峙し続けた、静かなる闘いの連続であった。
父・守信の死後、その遺志を継いだのは息子の辰信(たつのぶ)であった。守信は、姉・阿梅の菩提寺でもある白石の当信寺に葬られた 1 。彼の墓碑は長らくその存在が知られていなかったが、昭和17年(1942年)に偶然発見され、現在は姉・阿梅の墓標と仲良く並んで祀られている 20 。墓石には、真田の家紋である「六文銭」ではなく、それを憚ったかのように「一文銭」が一つだけ刻まれており、血脈を辛うじて繋いだ一族の境遇を象徴しているかのようである 9 。
守信の跡を継いだ辰信も、当初は父と同様に「片倉」姓を名乗り、仙台藩士として仕えた。しかし、彼の代に一族にとって画期的な出来事が起こる。正徳2年(1712年)、大坂の陣から97年、父・守信が幕府の追及を逃れるために片倉姓に戻ってから72年の歳月を経て、辰信はついに「真田」姓への復姓を許されたのである 6 。
この復姓は、仙台藩からの「もはや将軍家をはばかる必要はない」との内意を受けてのものであった 6 。この時、辰信は片倉家から与えられていた食客禄一千石を返還している 6 。これは、片倉家の庇護下にある存在から、独立した仙台藩士「真田家」として正式に確立したことを示す、極めて象徴的な行為であった。
この復姓が許可された正徳2年(1712年)という年は、歴史的に重要な意味を持つ。この時代は将軍で言えば徳川家宣・家継の治世にあたり、大坂の陣を直接知る世代はもはや世にいなかった。徳川幕府の支配体制は磐石となり、「真田幸村の血筋」という存在が、もはや体制を揺るがす政治的脅威とは見なされなくなっていたのである。仙台藩が復姓を許可した背景には、幕府との関係が安定し、もはやそのような「遠慮」をする必要がなくなったという時代の変化があった。したがって、辰信の復姓は、単なる一個人の悲願達成にとどまらず、徳川幕府の支配が「武断」から「文治」へ、そして「緊張」から「安定」へと完全に移行したことを示す、時代の転換点を象徴する出来事として捉えることができる。
復姓後、仙台真田家は仙台藩士として幕末まで存続した。幕末期の9代当主・真田幸歓(さなだ ゆきよし)は洋式兵学者として活躍し、戊辰戦争にも従軍している 1 。家系は、存続のために養子を迎えながらも途絶えることなく、現代の13代当主である真田徹氏まで、幸村の血脈を確かに伝えている 25 。
代 |
氏名(改姓) |
生没年 |
続柄・特記事項 |
初代 |
片倉 四郎兵衛 守信 |
1612-1670 |
真田信繁(幸村)次男。幼名:大八。 |
2代 |
片倉 辰信 → 真田 辰信 |
不詳 |
守信の子。正徳2年(1712年)に真田姓へ復姓。 |
3代 |
真田 信成 |
不詳 |
辰信の子。 |
4代 |
真田 信経 |
不詳 |
信成の子。 |
5代 |
真田 信親 |
不詳 |
養子。田村顕道三男。 |
6代 |
真田 信珍 |
不詳 |
養子。大條頼始三男。 |
7代 |
真田 信凭 |
不詳 |
信珍の子。 |
8代 |
真田 幸清 |
不詳 |
養子。分家・真田信知の長男。矢附で「真田塾」を開く。 |
9代 |
真田 幸歓 |
不詳 |
幸清の子。通称:喜平太。洋式兵学者。戊辰戦争に従軍。 |
10代 |
真田 昌棟 |
不詳 |
幸歓の子。 |
11代 |
真田 徹寿 |
不詳 |
先代の弟の子。 |
12代 |
真田 治彦 |
不詳 |
先代の子。 |
13代 |
真田 徹 |
1949- |
先代の子。現当主。真田家に関する講演活動を行う。 |
出典: 1
真田守信の人物像を伝える史料は断片的であるが、その行間からは彼の人間性を垣間見ることができる。仙台藩主・伊達忠宗から家臣になるよう誘われた際、それを固辞して真田家に戻ることを望んだという逸話は 6 、彼が自身の出自と家名を重んじ、真田家への強い忠誠心と誇りを抱いていたことを示唆している。その一方で、公儀使への任命と即日免職という一件は、彼の不遇な立場を何よりも雄弁に物語っている。
守信と仙台真田家の足跡は、現代に至るまで宮城県の白石市と蔵王町に色濃く残されている。白石市にある当信寺は、守信と姉・阿梅の墓が並んで祀られており、一族を語る上で最も重要な聖地である 24 。姉・阿梅の墓石が歯痛に効くという伝承は広く知られているが 28 、守信自身に関する具体的な伝承は乏しい 27 。これは、彼の存在が江戸時代を通じていかに秘匿されてきたかを物語っているのかもしれない。
一方、知行地であった蔵王町の矢附・曲竹地区には、在郷屋敷跡や、8代当主・真田幸清が寺子屋「真田塾」を開いたことを記念する筆子塚などが残り 26 、現在では「仙台真田氏ゆかりの郷」として史跡公園が整備されている 31 。これらの史跡は、仙台真田家が単に血を繋いだだけでなく、地域に根差し、領民から敬愛される存在であったことを示している。
ここで一つの疑問が生じる。関ヶ原の戦いで東軍につき、徳川幕府の下で松代藩主として家名を保った本家・真田信之の家系と、西軍につき「逆賊」の子として奥州に潜んだ守信の家系。この二つの真田家の間に、江戸時代を通じて何らかの交流はあったのだろうか。結論から言えば、それを直接示す書状などの記録は見当たらない 34 。信之は九度山に蟄居する弟・幸村の生活を気遣う書状を残しているが 36 、その遺児たちの庇護に直接関与した形跡はない。
この交流の欠如は、単なる疎遠ではなく、江戸時代の政治体制がもたらした必然的な「分断」と見るべきである。松代藩主・真田信之は、徳川家への揺るぎない忠誠を示すことで家名を保った「勝者」側の人間であった 35 。一方、守信は「敗者」であり「逆賊」の子として、その存在自体が政治的に極めて危険視されていた。もし信之が守信の存在を公に認め、支援するようなことがあれば、それは自身の藩主としての立場を危うくし、幕府からの猜疑心を招く行為に他ならなかったであろう。この交流の不在は、関ヶ原の戦いと大坂の陣という二つの大戦が、真田一族の内部にさえ、江戸時代を通じて越えがたい断絶を生み出したという、近世武家社会の非情な現実を象徴しているのである。
真田守信、そして彼から始まる仙台真田家の歴史は、徳川の世における「敗者の子」がいかにして生き抜いたかを示す、巧みな生存戦略の記録である。それは、伊達・片倉両家の決死の庇護、高野山の記録を利用した巧妙な身分偽装、そして時代の変化をひたすらに待つ忍耐、これらの要素が奇跡的に組み合わさって初めて成し遂げられたものであった。
守信の生涯は、歴史の表舞台に立つ英雄たちの華々しい武功譚とは対極にある。しかし、その影で、出自という抗いがたい宿命と静かに対峙し、父の名を汚さぬよう耐え忍び、確かに血脈と家名を未来へと繋いだ人々の存在の重要性を、我々に教えてくれる。仙台真田家の物語は、戦場での武勇ではなく、逆境の中での「生の執念」と「家の誇り」の物語であり、真田一族が持つ多層的な歴史の中に、欠かすことのできない、深く重い一層をなしているのである。