戦国時代の信濃にその名を刻んだ真田一族。その歴史は、謀将として名高い父・真田幸隆(幸綱)、類稀なる知略で徳川家康を二度も退けた弟・真田昌幸、そして「日本一の兵」と謳われた甥・真田信繁(幸村)といった、綺羅星のごとき英雄たちの物語として語り継がれている 1 。しかし、この華々しい系譜の中に、その実力に比してあまりにも語られることの少ない一人の武将がいる。真田幸隆の次男、真田昌輝である。
彼の名は、多くの場合、兄・信綱と共に長篠の戦いで討死したという、悲劇的な結末と共にわずかに記されるに留まる 4 。その生涯は、偉大な父と弟、そして伝説的な甥の輝かしい功績の影に隠れ、歴史の脚注として扱われがちであった。
しかし、本報告は、この歴史的評価に再考を促すものである。断片的な記録を丹念に繋ぎ合わせることで浮かび上がる真田昌輝の姿は、単なる悲劇の武将ではない。彼は武田信玄からその才能を認められ、一軍を率いる将として数々の戦功を挙げた、まぎれもない驍将であった。そして、彼の生と死は、単なる一族の悲劇に終わらず、真田家の運命を根底から変え、昌幸と信繁の伝説が生まれる土壌を整えた、極めて重要な転換点であったことを論証する。本稿は、真田昌輝を歴史の陰から光の中へと導き、その知られざる実像に迫ることを目的とする。
真田昌輝の生涯を理解するためには、まず彼の出自と、武田信玄という稀代の英主のもとでいかにして頭角を現したかを見ていく必要がある。彼の初期の経歴は、後の活躍を予感させる輝かしいものであった。
項目 |
詳細 |
氏名 |
真田 昌輝 (さなだ まさてる) |
別名 |
信輝 (のぶてる) |
幼名 |
徳次郎 (とくじろう) |
生誕 |
天文12年(1543年)6月 |
死没 |
天正3年5月21日(1575年6月29日) |
享年 |
33歳 |
戒名 |
嶺梅院殿風山良薫大禅定門 (れいばいいんでんふうざんりょうくんだいぜんじょうもん) |
官位 |
兵部丞 (ひょうぶのじょう)、兵部少輔 (ひょうぶしょうゆう) |
父 |
真田 幸綱(幸隆)(さなだ ゆきつな/ゆきたか) |
母 |
恭雲院 (きょううんいん)(河原隆正の妹、または飯富虎昌の娘) |
兄弟 |
信綱、昌幸、信尹、金井高勝 |
妻 |
相木昌朝 (あいき まさとも)の娘 |
子 |
信正(幸明)(のぶまさ/こうめい)、娘(湯本三郎右衛門室か) |
主君 |
武田信玄 → 武田勝頼 |
墓所 |
設楽ヶ原古戦場(愛知県新城市)、信綱寺(長野県上田市)、西墓地(福井市、供養墓) |
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真田昌輝は、天文12年(1543年)6月、信濃の岩尾城で生まれたとされる 6 。この時期は、父・幸隆が武田信玄の信濃攻略において謀略の才を発揮し、その地位を盤石なものにしつつあった重要な局面であった。母は恭雲院といい、真田家の重臣・河原隆正の妹、あるいは武田家の重臣・飯富虎昌の娘とも伝えられる 6 。兄には嫡男の信綱、弟には後に真田家の家運を飛躍させる昌幸、そして信尹がおり、彼ら兄弟は真田家の次代を担う中核として育てられた 2 。
昌輝の妻は、同じ信濃の国衆であり武田配下の将であった相木昌朝の娘である 6 。これは、武田家の支配下にある信濃の国衆同士の結束を強めるための政略的な婚姻であり、真田家と相木家が武田軍の中で連携する同盟関係にあったことを示唆している 11 。
昌輝の武将としてのキャリアは、武田信玄の小姓として近侍することから始まった 6 。これは有力な家臣の子弟に共通する出仕の形態であり、主君の戦略や統治術を間近で学ぶ絶好の機会であった。
彼の才能は早くから信玄の目に留まった。昌輝は、信玄直属の精鋭部隊である「百足衆(むかでしゅう)」に抜擢される 5 。百足衆は、その名の通り百足の旗指物を掲げた部隊で、有力武将の子弟の中から選りすぐられた者たちで構成されていた 13 。彼らは単なる親衛隊ではなく、戦場では伝令や遊撃隊としての役割を担う、高度な機動力と信頼性が求められるエリート集団であった。
この百足衆への抜擢は、単に父・幸隆の功績によるものではなく、昌輝自身の武才と器量が信玄に高く評価されたことの証左である。それは、彼が「信綱の弟」という立場に留まらず、一個の武将として早くから期待されていたことを物語っている。この抜擢により、昌輝は信玄の直轄戦力として、真田本隊とは異なるキャリアパスを歩み始め、独立した指揮官への道を切り拓いていったのである。
昌輝の人物像を語る上で、しばしば引用される逸話がある。それは、彼の官位である兵部丞(ひょうぶのじょう)にちなみ、信玄が「兵部は我が両眼なり」とまで言ってその才能を高く評価した、というものである 6 。この言葉は、主君からの最大級の賛辞であり、昌輝が信玄にとって不可欠な存在であったことを示すものとして伝えられてきた。
しかし、この逸話には慎重な検討が必要である。なぜなら、「我が両眼の如し者」という酷似した評価は、弟の昌幸と、その同僚であった原昌胤に対して信玄が述べた言葉として、より広く知られているからである 3 。事実、昌輝に関するこの逸話が記載されている史料には、その信憑性を問う「要検証」の注記が付されている場合もある 6 。
このことから、いくつかの可能性が考えられる。第一に、元々は昌幸に対する評価であったものが、後世に混同され、あるいは意図的に兄である昌輝にも当てはめられた可能性。第二に、信玄が複数の有望な若手に対して用いた定型的な賛辞の一つが、後世、最も有名になった昌幸の逸話として定着した可能性。そして第三に、『甲陽軍鑑』などの軍記物語が、悲劇的な死を遂げた昌輝の記録を飾るために創作した可能性である。
結論として、この「兵部は我が両眼なり」という言葉が、文字通り信玄によって語られたかどうかの確証は得難い。しかし、このような逸話が生まれること自体が、昌輝が信玄から高く評価された有能な若武者であったという当時の評判を反映していると解釈できる。それは、伝説的な弟に比肩する評価を、悲運の兄にも与えたいという後世の人々の想いの表れとも言えるだろう。本報告では、この逸話を検証可能な事実としてではなく、彼の武将としての評価を象徴する伝承として扱う。
信玄の近習としてキャリアをスタートさせた昌輝は、やがて兄・信綱と共に、武田軍の主力として数々の戦場を駆け巡ることになる。父・幸隆が「謀将」として知られたのに対し、信綱・昌輝兄弟は、戦場で槍を振るう「猛将」として、武田軍の勝利に貢献していった 16 。
軍記物語『甲陽軍鑑』によれば、信玄は昌輝に別家を立てることを許し、真田本家を率いる兄・信綱の200騎とは別に、50騎の騎馬隊を預かる将としたと記されている 6 。これにより、昌輝は独立した部隊を指揮する将となり、信濃の国衆で構成される「信濃先方衆」において、兄を補佐する副将格の地位を確立した 8 。
この部隊編成は、武田軍内における真田一族の役割分担を明確に示している。嫡男である信綱が200騎の本隊を率いる中核的な指揮官である一方、昌輝は50騎の機動部隊を率いて兄を補佐し、時には単独での作戦行動もとる柔軟な役割を担った 8 。父・幸隆が後方で戦略を練り、弟・昌幸が甲府で信玄の側近として仕える中、信綱と昌輝は真田家の「武」を象徴する存在として、戦場の最前線に立ち続けた。二人は一対の猛将として、武田軍の強力な一翼を担っていたのである 16 。
昌輝の武功は、武田信玄がその勢力を最大に広げた時期の主要な合戦に刻まれている。
武田家が今川領への大規模な侵攻を開始した際、昌輝は兄・信綱と共に先鋒を務めた 8 。武田軍の先鋒を任されることは、その武勇と信頼性の高さを証明するものであり、真田兄弟が武田家臣団の中でも屈指の戦闘部隊と目されていたことを示している。
この戦いは、信玄が後北条氏の本拠地である小田原城まで迫った後、甲斐へ撤退する過程で発生した。当初の情報で「小田原城の攻防戦で北条氏照を破る」とされているのは、この一連の軍事行動を指しているが、より正確には、小田原城攻囲そのものではなく、その帰路における三増峠での戦いが、昌輝の武功が記録される舞台となった 20 。
この三増峠の戦いで、武田軍は追撃してくる北条軍を迎え撃つことになった。この時、昌輝は兄・信綱、そして武田家の重臣である内藤昌豊らと共に、全軍の退却を支える最も危険で名誉ある任務、「殿(しんがり)」を務め、見事にその役割を果たして戦功を挙げた 8 。
なお、この戦いで「一番槍」の高名を挙げたとされるのは、当時「武藤喜兵衛」と名乗っていた弟の昌幸であり、昌輝の功績とは区別される 20 。しばしば兄弟の功績は混同されがちであるが、昌輝の功績は、全軍の命運を左右する殿軍という重責を全うした点にある。これは、個人の武勇だけでなく、部隊を統率し、冷静に戦況を判断する指揮官としての高い能力を示すものであった。
信玄の西上作戦のクライマックスとも言える、徳川家康との決戦「三方ヶ原の戦い」にも、昌輝は参陣している 3 。この戦いで武田軍は徳川軍を完膚なきまでに打ち破り、家康に生涯最大の敗北を喫させた。昌輝はこの歴史的な勝利の一翼を担い、信玄配下の歴戦の将として、その経歴にまた一つ輝かしい戦歴を加えたのである。
武田信玄の死後、家督を継いだ武田勝頼のもとでも、真田兄弟の武勇は変わることなく武田軍の中核を担い続けた。しかし、天正3年(1575年)5月、彼らの運命を、そして真田家の未来を永遠に変える戦いが訪れる。長篠・設楽原の戦いである。
天正3年(1575年)5月、徳川方の長篠城を包囲した武田勝頼軍に対し、織田信長・徳川家康連合軍が後詰として大軍を率いて現れた 6 。両軍は設楽原(したらがはら)で対峙し、日本の合戦史を塗り替える決戦の火蓋が切られた。
この決戦において、武田軍は鶴翼の陣を敷いたとされ、真田隊はその右翼に配置された 25 。右翼全体の主将は武田四天王の一人、馬場信春。そのすぐ左に兄・信綱の部隊が、そしてさらにその隣に昌輝の部隊が陣取った 8 。彼らの正面には、織田軍の左翼を担う佐久間信盛の部隊が、丸山と呼ばれる小高い丘を中心に鉄砲隊と馬防柵で固めた強力な陣地を構えていた 6 。
5月21日の早朝、戦闘が開始されると、武田軍右翼は佐久間信盛の陣地へ向けて猛然と突撃を開始した。『甲陽軍鑑』や『真武内伝』といった軍記物は、この時の真田兄弟の奮戦ぶりを克明に伝えている 16 。
信綱と昌輝が率いる真田隊は、織田軍が誇る三重の馬防柵に対し、凄まじい勢いで突入した。彼らは敵の猛烈な抵抗をものともせず、ついに第一の柵を突破することに成功する 6 。この乱戦の最中、昌輝は指揮官でありながら自ら敵兵を討ち取り、首級を挙げるという抜群の武勇を示した 6 。
しかし、彼らの奮闘も及ばなかった。織田軍は、当時としては革新的な3,000挺ともいわれる鉄砲を組織的に運用し、間断なき一斉射撃を浴びせかけた 24 。馬防柵の背後から放たれる鉛玉の豪雨の前に、いかに勇猛を誇った武田の騎馬隊も次々と倒れていった。この銃撃により、兄・信綱が被弾して落馬。そして昌輝もまた深手を負い、兄の後を追うようにして設楽原の露と消えた 2 。享年33、あまりにも短い生涯であった 6 。
この兄弟の最期は、単なる戦死としてではなく、一つの時代の終わりを象徴する出来事として語り継がれている。設楽原の古戦場、三子山(みこやま)と呼ばれる場所には、現在も兄弟の墓碑が並んで建てられており、二人が同じ場所で壮絶な死を遂げたことを静かに伝えている 6 。また、故郷の信濃には、信綱の首級を家臣の白川勘解由兄弟が「血染めの陣羽織」に包んで持ち帰ったという悲痛な伝説が残り、その陣羽織は菩提寺である信綱寺に今も寺宝として伝えられている 32 。
年代記の記述、戦場に残る石碑、そして故郷の寺に伝わる遺品と伝承。これらが一体となって、旧来の騎馬突撃戦術が、組織的な鉄砲運用という新しい戦術の前に敗れ去った歴史的瞬間に、勇猛果敢に立ち向かい、そして散っていった真田兄弟の姿を鮮やかに描き出している。
長篠での信綱・昌輝兄弟の戦死は、真田家にとって計り知れない損失であった。しかし、この悲劇は皮肉にも、真田家が戦国史の表舞台に躍り出るための、決定的な転換点となった。
真田家の当主である信綱と、その右腕であり事実上の後継者候補であった昌輝を同時に失ったことは、一族を存亡の危機に陥れた 3 。真田家の主筋が、設楽原の戦場で断絶してしまったのである。
この未曾有の事態に際し、武田勝頼は、甲斐の名族・武藤家の養子となっていた三男の昌幸に、真田姓に復して家督を継ぐよう命じた 1 。昌幸は武田本陣に詰めていたため、長篠の惨劇を免れていた。もし兄たちが生きていれば、昌幸は「武藤喜兵衛」として、武田家の一家臣として生涯を終えた可能性が高い 40 。勇将として知られた信綱が率いる真田家は、武田家の忠実な家臣として存続したであろうが、歴史にその名を大きく刻むことはなかったかもしれない。
しかし、兄たちの死によって図らずも家督を継いだ昌幸は、父・幸隆譲りの謀略の才を開花させる。武田家滅亡後、織田、北条、上杉、徳川といった強大な勢力に囲まれながらも、巧みな外交と比類なき知略を駆使して独立を保ち、上田城を築城。ついには徳川の大軍を二度にわたって撃退し、「表裏比興の者」としてその名を天下に轟かせた 1 。
昌輝の死は、真田家のリーダーシップを「武勇」の信綱から「知略」の昌幸へと移行させる直接的な契機となった。この悲劇がなければ、昌幸の才能が真田家当主として発揮されることはなく、後の信之、信繁(幸村)の活躍もなかったであろう。その意味で、昌輝の死は、真田家が最も輝かしい時代を迎えるための、痛ましくも必要不可欠な序章であったと言える。彼自身の功績を覆い隠してしまうほどの伝説は、彼の死によって始まったのである。
昌輝の血脈は、長篠で途絶えたわけではなかった。元亀2年(1571年)に生まれた彼の子、真田信正(幸明とも)は、父の死と武田家の滅亡という動乱を生き延びた 6 。
天正10年(1582年)の武田家滅亡後、信正は徳川家に仕え、松平忠輝、次いで松平忠昌に配属された 6 。忠昌が越前福井藩に移封されると、信正もこれに従って越前の地に移り住んだ。こうして、昌輝の子孫は越前松平家に仕える家臣として存続し、「越前真田家」としてその系譜を後世に伝えたのである 8 。
現在、福井市の西墓地に昌輝の供養墓が存在するのは、この越前真田家の子孫たちが、夭折した祖先の霊を弔うために建立したものである 2 。これは、昌輝の血脈が戦国の世を越えて確かに受け継がれていたことの、何よりの証である。
真田昌輝の記憶は、彼が戦い、散り、そしてその子孫が根付いた各地の墓所によって、今なお偲ばれている。
戦死の地、故郷の菩提寺、そして子孫が仕えた地。これら三つの場所に残る墓所は、真田昌輝という武将の生涯と、その死が後世に与えた影響を地理的に物語っている。
真田昌輝の生涯は、33年という短さで幕を閉じた。その名は、父・幸隆、弟・昌幸、甥・信繁といった一族の巨星たちの輝きに隠され、歴史の表舞台で大きく語られることは少なかった。しかし、彼の生涯を丹念に追うとき、我々は一人の優れた武将の姿を見出すことができる。
昌輝は、兄・信綱と共に、真田一族の「武」を体現する存在であった。父が謀略に、弟が知略に長けていたとすれば、信綱・昌輝兄弟は武田軍の最前線で武勇を示す、紛れもない猛将であった。信玄に見出されて百足衆に抜擢され、駿河侵攻では先鋒を、三増峠では殿を務め、そして長篠では敵陣に肉薄し首級を挙げるなど、その戦歴は武田軍精鋭としての評価を裏付けている。
彼の死は、決して無意味なものではなかった。それは真田家にとって最大の悲劇であったと同時に、最大の転機でもあった。昌輝の死がなければ、昌幸が真田家の家督を継ぐことはなく、真田家が戦国大名として飛躍することも、後世に語り継がれる数々の伝説が生まれることもなかったであろう。
真田昌輝は、歴史の悲劇的な脚注としてではなく、武田信玄に高く評価された有能な指揮官であり、その壮絶な犠牲の上に真田家の最も輝かしい時代が築かれた、重要な礎として再評価されるべきである。彼は、上田や大坂で繰り広げられた伝説の、知られざる土台を築いた武将であった。その物語は、歴史が勝者や生存者だけでなく、時に敗れ、散っていった者たちの死によっても大きく動かされることを、我々に強く教えてくれる。