戦国時代の日本列島は、群雄が割拠し、下剋上が常態化した激動の時代であった。その歴史は、織田信長や武田信玄といった著名な大名の物語を中心に語られがちであるが、その陰には、地方の興亡に深く関与しながらも、歴史の表舞台にその名が大きく刻まれることのなかった無数の人物が存在する。本報告書が光を当てる「真里谷全方(まりやつ ぜんほう)」もまた、そうした人物の一人である。
彼の名は、戦国史の主要な文献において、断片的にしか登場しない。しかし、その断片をつなぎ合わせ、当時の房総半島における複雑な政治・軍事状況の中に彼を位置づけることで、一人の武将の生涯を超え、上総武だ氏(真里谷氏)という一族の運命を左右した「守護者」として、そして時代の奔流に翻弄された地方領主の実像が浮かび上がってくる。
本報告書の目的は、真里谷全方という人物の生涯を、現存する史料を網羅的に調査・分析し、周辺勢力の動向と緻密に連関させることで、可能な限り立体的に再構築することにある。単なる人物の経歴紹介に留まらず、彼が下した決断の背景、その行動がもたらした結果、そして彼の死が一族に与えた影響を深く考察し、房総戦国史における彼の真の役割と歴史的意義を明らかにすることを目指す。
まず、現時点で確認されている全方の基本的な情報を整理する。彼は上総武田氏の一族であり、真里谷城主・真里谷信勝(信嗣)の子として生まれた 1 。同氏の最盛期を築いた真里谷恕鑑(じょかん、実名は信清とされる)は彼の兄にあたる 1 。出家後の法名を「全方」または「全芳」と称し、「心盛斎」という斎号も持っていた 1 。官途名は「大学頭」であったことが記録されている 1 。彼の没年は、天文18年2月3日(西暦1549年3月2日)と伝わるが、確証はない 2 。また、子には後に佐貫城主となる真里谷義信がいた 1 。
しかし、その人物像には多くの謎が残されている。特に、彼の俗名(実名)は史料上不明であり、後世の系図などから「信保(のぶやす)」あるいは「信秋(のぶあき)」ではないかと推測されているに過ぎない 1 。また、法名も「源松」であった可能性が示唆されているが、これも推測の域を出ない 1 。これらの不明点は、彼の生涯を研究する上での大きな課題であり、本報告書ではこれらの謎にも触れつつ、史料に基づいた確かな足跡を追っていく。
真里谷全方の生涯を理解するためには、まず彼が生きた時代の舞台、すなわち16世紀前半の上総国(現在の千葉県中部)と、そこに根を張った真里谷武田氏の歴史的背景を把握する必要がある。
上総武田氏は、甲斐源氏の名門、武田氏の分流にあたる 5 。その祖は、甲斐守護・武田信満の次男であった武田信長とされる。信長は甲斐国内の権力闘争に敗れた後、関東公方に仕えた。そして、関東全域を巻き込んだ「享徳の乱」(1454年〜)において、古河公方・足利成氏方として軍功を挙げたことにより、康正2年(1456年)に上総国に所領を与えられた 6 。この時、信長は上総支配の拠点として真里谷城(現在の木更津市)と庁南城(現在の長生郡長南町)を築いたとされ、これが上総武田氏の始まりである 7 。その後、一族は真里谷城を本拠とする真里谷家と、庁南城を本拠とする庁南家に分かれて発展していく 7 。
全方の祖父・真里谷信興、父・真里谷信勝の時代になると、一族は周辺の国人領主との抗争を繰り広げながら着実に勢力を拡大し、上総国における有力な戦国領主としての地位を確立した 10 。
上総武田氏の勢力が頂点に達するのは、全方の兄である真里谷恕鑑(法名。実名は信清あるいは信保とされる)の代である 13 。当時、関東の政治的中心であった古河公方家では、足利政氏とその子・高基が対立し、関東は二分されていた。恕鑑はこの機を捉え、永正14年(1517年)、高基の弟で僧籍にあった空然(こうねん)を還俗させて足利義明と名乗らせ、これを擁立した 13 。そして、敵対していた原氏の拠点・小弓城(現在の千葉市中央区)を攻略し、義明を新たな公方(小弓公方)として迎え入れたのである 13 。
この「小弓公方」の擁立は、真里谷氏にとって画期的な出来事であった。彼らは小弓公方の後見人という絶大な権威を手に入れ、房総半島における影響力を飛躍的に高めた 7 。これにより、真里谷武田氏は単なる一地方領主から、関東の政治情勢をも左右しうる存在へと変貌を遂げ、その勢力は最盛期を迎えた。
しかし、真里谷氏が栄華を謳歌する一方で、房総半島を取り巻く環境は大きく変化しつつあった。西からは、伊勢宗瑞(北条早雲)に始まる後北条氏が伊豆・相模を平定し、東京湾を挟んで房総への圧力を強めていた 18 。南からは、安房国(現在の千葉県南部)を統一した里見氏が、上総への北上を窺っていた 18 。
この複雑な情勢に決定的な影響を与えたのが、天文2年(1533年)に発生した里見氏の家督争い、いわゆる「天文の内訌」である。この内紛において、里見氏当主の義豊に対し、その叔父(または従兄弟)にあたる里見義堯が反旗を翻した。この時、真里谷恕鑑は現当主である義豊を支援したが、対する義堯は相模の後北条氏綱に支援を求めた 13 。結果、後北条氏の援軍を得た義堯が勝利し、里見氏の新当主となった。
この出来事は、真里谷氏にとって二重の打撃となった。第一に、支援した義豊が敗れたことで、里見氏との関係が悪化した。第二に、里見氏が後北条氏と結んだことで、真里谷氏は房総半島において後北条・里見連合という強大な敵対勢力に包囲される形となったのである 21 。
ここに、真里谷氏の権力基盤が抱える構造的な脆弱性が露呈する。彼らの権勢は、自らの領国経営や家臣団の結束といった内的な力によってのみ支えられていたわけではなく、「小弓公方」という外部からもたらされた権威に大きく依存していた。この構造は、一見すると強力な後ろ盾を持つ安定した体制に見えるが、実態は小弓公方・足利義明個人の運命と一蓮托生であることを意味していた。ひとたび義明の権威が揺らげば、あるいは義明自身が倒れれば、真里谷氏の威光もまた、砂上の楼閣の如く崩れ去る危険性を常に内包していたのである。この極めて危うい権力構造こそが、後に全方が直面することになる一族存亡の危機、そして真里谷氏そのものの悲劇的な結末を準備したと言えるだろう。
真里谷武田氏が築き上げた栄華は、その頂点において早くも揺らぎ始める。天文3年(1534年)7月1日、一族の隆盛を牽引してきた当主・真里谷恕鑑が病によりこの世を去った 13 。彼の死は、それまで水面下で燻っていた家中の対立を一気に表面化させ、一族を二分する深刻な内紛の引き金となった。
家督を巡って対立したのは、恕鑑の二人の息子であった。一方は、側室の子でありながら年長の庶長子・真里谷信隆(のぶたか)。もう一方は、正室から生まれた正統な嫡男でありながら年若の真里谷信応(のぶまさ、または「のぶお」)である 7 。
この家督争いは、単なる兄弟間の諍いではなかった。それぞれの背後には、房総の覇権を狙う大勢力が控え、真里谷氏の内紛は、さながら彼らの代理戦争の様相を呈していく。
この対立構図は、真里谷氏が自らの家督問題さえも、外部勢力の力なくしては解決できないほどに自立性を失っていた現実を浮き彫りにしている。どちらが勝利するにせよ、真里谷氏が後北条氏か、あるいは小弓公方・里見連合のいずれかの強い影響下に置かれることは、もはや避けられない運命であった。
この内紛の生々しい経過を伝える貴重な一次史料が、鎌倉・鶴岡八幡宮の僧侶であった快元(かいげん)の日記『快元僧都記』である。その記述によれば、天文6年(1537年)5月、事態は大きく動く。
「天文6年5月14日。上総錯乱により、新地に楯籠る所の真里谷一族、惣領取り除くべき由申し上ぐるにより、大弓義明御進発。打ち過ぎて16日、峯上に向かう。御馬を寄せられ畢んぬ。」 26
この記録は、信応派の要請に応じ、小弓公方足利義明が自ら軍勢を率いて上総に進発し、信隆が籠城する峰上城を攻撃したことを明確に示している。この事実は、信応派が単独では信隆・後北条連合軍を制圧できず、小弓公方の直接的な軍事介入に頼らざるを得なかったという、彼らの苦しい立場を物語っている 18 。義明の出陣は、この内紛が単なる真里谷氏内部の問題ではなく、小弓公方体制の維持をかけた重要な戦いであったことを示唆している。
以上の経緯から、この家督争いの本質が、房総半島における「後北条氏」対「反後北条連合(小弓公方・里見氏)」という、より大きな対立構造の縮図であったことが理解できる。信隆は正統性で劣る自らの立場を、関東の新興勢力である後北条氏の力を借りることで補おうとした。一方、正統な後継者である信応と、彼を支える全方は、先代からの同盟関係を頼りに、既存の政治秩序の中で家督を守ろうとした。
真里谷氏は、自らの内紛に外部勢力を深く引き込んだことで、もはや争いの主体ではなく、大国の思惑が交錯するチェス盤の上の駒と化してしまった。この内紛は、外部勢力にとって、房総半島へ自らの影響力を浸透させる絶好の機会を提供することになったのである。この混迷の時代にあって、一族の舵取りを任されたのが、真里谷全方であった。
人物名 |
読み |
恕鑑との関係 |
派閥 |
主な拠点 |
主な支援勢力 |
備考 |
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真里谷恕鑑 |
まりやつ じょかん |
本人 |
- |
真里谷城 |
小弓公方、里見氏(義豊) |
天文3年(1534年)に死去。彼の死が内紛の引き金となった 13 。 |
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真里谷信隆 |
まりやつ のぶたか |
庶長子 |
信隆派 |
峰上城 |
後北条氏 |
庶子だが年長。後北条氏の支援を得て家督を狙う 18 。 |
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真里谷信応 |
まりやつ のぶまさ |
嫡男 |
信応派 |
真里谷城 |
小弓公方、里見氏(義堯) |
正室の子で正統な後継者。叔父・全方の補佐を受ける 18 。 |
|
真里谷全方 |
まりやつ ぜんほう |
弟 |
信応派 |
(真里谷城) |
小弓公方、里見氏(義堯) |
一族の長老格。甥である信応を擁立し、内紛を主導した 2 。 |
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足利義明 |
あしかが よしあき |
(小弓公方) |
- |
小弓御所 |
真里谷氏、里見氏 |
信応派を支援し、自ら出陣して信隆の峰上城を攻撃した 26 。 |
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里見義堯 |
さとみ よしたか |
(安房国主) |
- |
(稲村城) |
(後北条氏→離反) |
天文の内訌では後北条氏の支援を受けたが、後に小弓公方側に転じ信応を支援 21 。 |
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北条氏綱 |
ほうじょう うじつな |
(相模国主) |
- |
小田原城 |
真里谷信隆 |
房総への勢力拡大を狙い、信隆を支援して真里谷氏の内紛に介入した 2 。 |
一族が分裂し、外部勢力の介入によって存亡の危機に瀕する中、真里谷氏の運命をその双肩に担ったのが、先代当主・恕鑑の弟である真里谷全方であった。一族の長老格という彼の立場は、その動向が内紛の帰趨を決定づけるほどの重みを持っていた。
全方が、数多いる一族の中から嫡流である甥の信応を支持するという決断を下した背景には、彼の冷静な政治判断があったと推察される。彼の選択は、単なる甥への個人的な肩入れではなく、「真里谷武田氏」という家門そのものをいかにして守護するか、という大局的な視点に基づいていた。
第一に、彼は血筋の正統性を重んじた。戦国時代とはいえ、家督相続における嫡流の優位性は、家中の秩序を維持する上で依然として重要な原則であった。若年であっても正統な後継者である信応を立てることは、内紛を収拾し、家臣団の結束を回復するための最も正当性のある道筋であった。
第二に、彼は既存の政治的枠組みを維持することの重要性を理解していた。真里谷氏の権勢は、小弓公方との同盟関係の上に成り立っていた。庶長子・信隆に加担し、小弓公方と敵対する後北条氏と結ぶことは、これまでの父祖の路線を完全に覆し、一族を未知の危険に晒すことを意味した。全方は、後北条という外部の新興勢力による事実上の乗っ取りを防ぎ、小弓公方体制という慣れ親しんだ秩序の中で一族の命脈を保つという、保守的ながらも現実的な道を選んだのである 2 。
史料には、この内紛における彼の働きについて「全芳は信応を補佐し活躍」したと、ごく簡潔に記されている 1 。しかし、この短い記述の背後には、彼の多岐にわたる活動が隠されている。当時、新当主の信応はまだ若年であったため、信応派の事実上の総大将として、軍事作戦の指揮から外交交渉に至るまで、あらゆる政務を全方が取り仕切っていたと考えるのが自然である。
特に、小弓公方足利義明や安房の里見義堯との連携を主導し、彼らの軍事介入を成功させた中心人物は、まさしく全方であった可能性が極めて高い。彼は、一族の長老としての人脈と政治力を駆使し、信応派の勝利に不可欠な外部からの支援を取り付けたのである。
全方の主導のもと、小弓公方・里見氏の強力な支援を得た信応派は、ついに勝利を収める。天文6年(1537年)、追い詰められた信隆は拠点としていた峰上城を明け渡し、支援者であった後北条氏を頼って亡命した 2 。これにより、約3年間にわたって一族を苦しめた内紛は、信応の勝利という形で終結した。
この勝利は、ひとえに全方の政治力と軍事的手腕の賜物であったと言える。彼は、分裂の危機にあった真里谷氏をまとめ上げ、正統な血筋による家督相続を実現させた。個人的な野心に走ることなく、一族全体の利益と安定を最優先に行動した全方は、まさに惣領家の「守護者」としての重責を見事に果たしたのである。彼はまた、若き信応を当主の座に据えたことで、事実上の「キングメーカー」としての役割も担った。この内紛を通じて、全方の存在は真里谷氏にとって不可欠なものとして、その重みを増していくことになる。
家督争いを勝利に導いた真里谷全方は、その後、甥である新当主・信応を支える重鎮として、政権の中枢で重要な役割を担い続ける。彼の功績は高く評価され、それは具体的な論功行賞として形に現れた。
内紛が終結した後、全方は、敵対した信隆の旧拠点であった峰上城を与えられた 1 。峰上城は、上総国南部の湊川流域を押さえ、安房国へと通じる街道を睨む要衝であった 24 。この城の拝領は、単なる恩賞以上の、深い戦略的意図を含んでいた。
第一に、敵対派閥の根拠地を、最も信頼のおける一族の長老に与えることで、信隆派の残党による再蜂起の芽を完全に摘み取るという目的があった。旧敵の拠点を接収し、最大の功労者に与えるという行為は、信応による新体制が確立したことを内外に強く示す象徴的な意味合いを持っていた。
第二に、その地理的位置が極めて重要であった。峰上城は、真里谷氏の支配領域の南西端に位置し、同盟者でありながら潜在的な競合相手でもある里見氏の領地に隣接していた 24 。また、東京湾にも近く、海を越えて侵攻してくる後北条氏への備えともなる最前線であった 30 。この戦略的拠点に、一族で最も経験豊富で軍事・政治能力に長けた全方を配置することは、信応政権の防衛戦略の要であった。彼は、いわば新当主・信応を守る「盾」として、最も危険な、しかし最も重要な場所に送り込まれたのである。この人事から、信応政権が全方に寄せていた絶対的な信頼の厚さをうかがい知ることができる。
峰上城主となった後も、全方は真里谷氏の中枢にあって信応を支え続けた。史料には「信応の補佐役として小弓公方との交渉にあたった」と記されており 1 、これは彼が信応政権の外交政策を実質的に取り仕切っていたことを示唆している。若き当主の名代として、同盟の要である小弓公方との折衝を一手に引き受けるその姿は、彼が単なる相談役ではなく、政権の屋台骨を支える実務家であったことを物語っている。
しかし、全方の確かな足跡は、天文11年(1542年)を最後に史料の上から途絶える 1 。これ以降、彼が天文18年(1549年)に没するまでの約7年間の動静は、詳らかではない。この「空白の7年間」については、いくつかの可能性が考えられる。
一つは、真里谷氏そのものの政治的地位の低下である。後述する天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で後ろ盾であった小弓公方が滅亡したことにより、真里谷氏の関東における重要性は著しく低下した。その結果、鶴岡八幡宮の快元のような外部の記録者の関心を引かなくなり、史料に残らなくなったという可能性である。
もう一つは、信応の成長である。内紛当時は若年であった信応も、この頃には20代後半から30代に達しており、当主として親政を開始するに十分な年齢となっていた。それに伴い、後見人としての役割を終えた全方が、高齢を理由に政治の第一線から退き、峰上城で穏やかな隠居生活を送っていたという可能性も考えられる。
いずれにせよ、彼は天文18年2月3日(1549年3月2日)にその生涯を閉じた 1 。その死因や亡くなった場所については、一切記録が残されていない。彼の死は、静かであったが、真里谷武田氏の未来に暗く、決定的な影を落とすことになる。
真里谷全方が守り抜いた一族の結束と栄光は、彼が生きている間に、その土台から大きく揺らぎ始めていた。そして彼の死は、かろうじて保たれていた均衡を崩壊させ、一族を破滅的な終焉へと導く直接的な引き金となった。
全方が家督争いを収拾した翌年の天文7年(1538年)10月、房総の勢力図を塗り替える一大決戦が行われた。真里谷氏が支える小弓公方足利義明・里見義堯連合軍と、後北条氏綱軍が、下総国府台(現在の千葉県市川市)で激突したのである(第一次国府台合戦)。この戦いで、連合軍は壊滅的な敗北を喫し、総大将であった足利義明は討死を遂げた 7 。
小弓公方の滅亡は、真里谷氏にとって致命的な打撃であった。彼らがその権勢の拠り所としてきた権威の源泉が、一夜にして消滅したからである。この敗戦以降、真里谷氏は自立性を完全に失い、同じく敗れながらも勢力を保った安房の里見氏の庇護下に入ることで、かろうじて存続する従属的な立場へと転落した 18 。
このような苦境の中にあっても、全方が存命であった間は、真里谷氏は里見氏との協調路線を維持し、体制の安定を図っていたと考えられる。彼こそは、小弓公方・里見氏との同盟によって家督争いを制した経験から、房総における勢力均衡の重要性を誰よりも深く理解していた人物であった。彼が政権の「重し」として機能している限り、一族が破滅的な選択をすることはなかった。
しかし、天文18年(1549年)にその全方が死去すると、状況は一変する。経験豊富で冷静な判断力を持つ「守護者」を失った真里谷氏は、その舵取りを誤り始める。
全方の死からわずか3年後の天文21年(1551年)頃、当主・信応は、にわかには信じがたい行動に出る。彼は、かつて家督を争った宿敵・信隆の子である真里谷信政(甥にあたる)と手を結び、長年にわたって自らを庇護してきた里見氏に対して、突如として反旗を翻したのである 7 。信応は里見氏に反発する信政の居城・椎津城(しいづじょう、現在の市原市)に入り、公然と敵対姿勢を示した 7 。
この行動は、政治的自殺行為に等しかった。長年の従属関係からの脱却を図った無謀な賭けであったのか、あるいは里見氏に対抗しようとする後北条氏からの調略に乗ってしまったのか、その真意は定かではない 31 。しかし、確かなことは、もし全方が生きていれば、このような無謀かつ恩を仇で返すような戦略を容認したとは到底考えられないということである。全方という最後の「重し」を失ったことで、当主・信応は政治的判断を根本的に誤り、自滅への道を突き進んでしまったのである。
裏切りを知った里見義堯の怒りは凄まじかった。天文21年(1552年)11月4日、里見義堯・義弘親子は自ら大軍を率いて椎津城に殺到した 32 。後北条氏の援軍も得た真里谷軍であったが、里見軍の猛攻の前に大敗。城主・真里谷信政は城内で自刃して果てた 31 。そして、そのわずか3日後の11月7日、当主であった真里谷信応もまた、後を追うように自害に追い込まれた 7 。
これにより、武田信長以来、約1世紀にわたって上総に君臨した真里谷武田氏の宗家は、事実上滅亡した。その終焉は、あまりにも呆気なく、そして自滅的であった。
宗家が滅びる一方で、全方の血脈はどうなったのか。史料によれば、彼の子・真里谷義信は佐貫城主であったと伝わる 1 。佐貫城は東京湾岸の要衝であり、義信が一定の勢力を保持していたことを示唆するが、その後の詳細な動向は不明である。一族の他の分家(庁南武田氏など)はその後もしばらく存続するが、最終的には豊臣秀吉の小田原征伐に伴う徳川家康の関東入部によって没落し、戦国大名としての上総武田氏の歴史は完全に幕を閉じた 6 。
真里谷全方の生涯を振り返るとき、我々は彼を単なる「兄の弟」や「当主の叔父」といった脇役として片付けることはできない。彼は、一族が分裂と滅亡の危機に瀕した際、卓越した政治手腕と決断力をもってその危機を乗り越えさせた、紛れもない中心人物であった。
彼は、若き嫡流の甥・信応を擁立して家督争いを制し、その政権を安定させた「守護者」であり、信応を当主の座に就かせた「キングメーカー」であったと評価できる。彼の行動原理は、個人的な野心ではなく、あくまで「真里谷武田氏」という家門の存続と安定にあった。後北条氏という新興勢力の浸透を防ぎ、既存の政治秩序の中で一族の命脈を保とうとした彼の選択は、保守的ながらも、当時の地方領主としては最も現実的かつ責任感の強いものであった。
しかし、彼の奮闘も、時代の大きな奔流には抗いきれなかった。彼が守り抜いたはずの一族は、その権力基盤の脆弱性ゆえに、後ろ盾であった小弓公方の滅亡と共に衰退の道をたどる。そして、彼自身の死が、一族の最後の理性を奪い、自滅的な終焉を招く引き金となった。彼の生涯は、戦国中期における地方国人領主が、いかに大勢力の狭間で苦悩し、その存続に腐心したかを体現している。
彼の存在を裏付ける史料が断片的であること自体が、彼の、そして真里谷氏の運命を象徴している。実名すら定かではなく、具体的な軍功や晩年の詳細も謎に包まれている。一族の菩提寺である天寧山真如寺(木更津市真里谷) 35 には、始祖・信興の墓は伝わるものの 38 、全方をはじめとする他の多くの人々の墓所は確認されていない 10 。これは、一族の急激な衰亡と混乱の中で、彼らを記憶し、祀る余裕さえもが失われていったことを物語っているのかもしれない。
結論として、真里谷全方は、房総戦国史の片隅に埋もれた、しかし極めて重要な人物である。彼の存在と、そしてその死がもたらした空白を理解することなくして、上総武田氏という一勢力の盛衰、ひいては16世紀前半の房総の政治力学を正確に理解することはできない。彼は、成功した守護者であり、同時に、時代の流れに逆らいきれなかった悲劇の人物でもあった。その知られざる生涯を丹念に掘り起こす作業は、戦国という時代の多様性と複雑性を我々に教えてくれる。
西暦 |
和暦 |
真里谷全方および真里谷氏の動向 |
関連勢力(小弓公方、後北条氏、里見氏等)の動向 |
典拠史料 |
(生年不詳) |
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真里谷信勝の子、恕鑑の弟として誕生。 |
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1 |
1517年 |
永正14年 |
兄・恕鑑が父・信勝と共に足利義明を擁立し、小弓公方を成立させる。 |
小弓公方足利義明、原氏を破り小弓城に入る。 |
13 |
1533年 |
天文2年 |
兄・恕鑑が里見氏の内紛(天文の内訌)に介入し、里見義豊を支援。 |
里見義堯が後北条氏綱の支援を得て義豊を破り、里見氏当主となる。 |
13 |
1534年 |
天文3年 |
7月、兄・恕鑑が死去。庶長子・信隆と嫡男・信応による家督争いが勃発。全方は信応を支持。 |
11月、『快元僧都記』に「上総真里谷椎津城、相掛くる」との記述。 |
13 |
1537年 |
天文6年 |
全方は信応を補佐して活躍。内紛は信応派の勝利で終結。信隆は後北条氏へ亡命。 |
5月、小弓公方足利義明が自ら出陣し、信隆の籠る峰上城を攻撃。 |
2 |
(1537年以降) |
|
内紛の功により、信隆の旧領・峰上城を与えられる。信応の補佐役として小弓公方との交渉にあたる。 |
里見義堯の仲介で、信応派と後北条氏綱が和解。 |
1 |
1538年 |
天文7年 |
10月、真里谷氏は小弓公方・里見連合軍として第一次国府台合戦に参陣。 |
小弓公方足利義明が後北条氏綱に敗れ、戦死。小弓公方は滅亡。 |
7 |
1542年 |
天文11年 |
この年以降、確かな史料における全方の動静は不明となる。 |
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1 |
1549年 |
天文18年 |
2月3日、死去。 |
|
1 |
1551年 |
天文20年 |
(全方の死後)当主・信応が、信隆の子・信政と共に里見氏に反旗を翻し、椎津城に入る。 |
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7 |
1552年 |
天文21年 |
11月、信応と信政が里見義堯・義弘に攻められ、相次いで自刃。真里谷氏宗家は事実上滅亡。 |
11月4日、里見軍が椎津城を攻略。 |
7 |