最終更新日 2025-07-20

真里谷朝信

真里谷朝信は房総の武将。里見氏の内紛に介入し、正木時茂に討たれた。一族の内紛と大勢力の狭間で翻弄され、その死は真里谷氏没落の契機となった。

房総の動乱に散った武将、真里谷朝信の実像 ― 天文の内訌から刈谷原の戦いまで

序章:戦国期房総の動乱と真里谷武田氏

戦国時代、房総半島は関東の政治的縮図とも言うべき、複雑かつ流動的な権力闘争の舞台であった。室町幕府の権威が失墜し、享徳の乱(1455年-1483年)が勃発して以降、関東は古河公方足利氏と関東管領上杉氏の対立を主軸に、長きにわたる動乱の時代に突入した 1 。この巨大な権力闘争の波は、三方を海に囲まれた房総半島にも容赦なく押し寄せ、上総国には武田氏、下総国には千葉氏、そして安房国には里見氏といった国人領主たちが割拠し、互いに鎬を削っていた。さらに、東京湾を挟んだ西岸からは、相模国を拠点とする新興勢力・後北条氏がその版図を拡大すべく、房総への影響力を虎視眈々と強めていたのである 3

本報告書が主題とする真里谷朝信(まりやつ とものぶ)は、まさにこの混沌の時代、上総国に勢力を張った真里谷武田氏の一族として生きた武将である。彼の一生を理解するためには、まず彼が属した真里谷武田氏が置かれた地政学的な位置づけを把握することが不可欠である。真里谷氏の拠点である真里谷城(現在の千葉県木更津市)や椎津城(同市原市)は、東京湾岸と房総内陸部を結ぶ交通の要衝に位置していた 2 。この立地は、海上交易路の掌握という経済的な利潤をもたらす一方で、安房の里見氏と相模の後北条氏という、いずれも広域な領国経営を行う二大戦国大名の勢力が衝突する緩衝地帯、あるいは最前線となるという、極めて高い軍事的リスクを常に抱えることを意味していた。房総半島は、決して閉ざされた土地ではなく、むしろ関東各地の勢力が交錯する「開かれた海路の交差点」であり、その中心に真里谷氏は立っていたのである 4

真里谷朝信の悲劇は、単なる一個人の運命としてではなく、この構造的な要因の中にこそ見出される。甲斐武田氏という名門の出自を誇りながらも 7 、房総においては新興勢力に過ぎず、その勢力基盤は常に不安定であった。自立を維持するため、小弓公方・足利義明を擁立する 3 といった大胆な政治行動で一時的に勢力を拡大するも、それはより大きな勢力間の綱渡り外交を強いるものであった。この構造的な脆弱性が、朝信の時代に、隣国・里見氏の内紛という外部の動乱に巻き込まれ、一族の存亡を揺るがす致命的な結果を招く根本的な原因となった。彼の運命は、個人の能力や選択以前に、一族が置かれた地政学的な立場によって大きく規定されていたのである。本報告書は、この時代の大きなうねりの中で、真里谷朝信という一人の武将が如何に生き、そして散っていったのか、その実像に迫るものである。

第一章:上総武田氏の興隆と構造

真里谷朝信がその身を投じた上総武田氏は、甲斐源氏の名門、武田信玄を生んだ甲斐武田氏と祖を同じくする一族である。その房総における歴史は、康正2年(1456年)、甲斐守護・武田信満の次男であった武田信長が、古河公方・足利成氏の命を受け、関東管領上杉氏の勢力下にあった上総国へ侵攻したことに始まる 1 。信長は真里谷城(現・木更津市)と庁南城(ちょうなんじょう、現・長生郡長南町)を築城、あるいは攻略して拠点とし、ここに上総武田氏の基礎を築いた 7

時代が下り、信長の孫の代になると、一族は二つに分かれる。兄の信興(のぶおき)は真里谷城主となって「真里谷氏」を名乗り、弟の道信(みちのぶ)は庁南城主として「庁南武田氏」を継承した 3 。これにより、上総武田氏は真里谷・庁南の両家が並立する体制となったが、両家の関係は必ずしも平穏ではなかった。特に分家筋にあたる真里谷氏は、本家と目される庁南武田氏に対抗し、自らの正統性を確立しようとする強い意志を持っていた。その痕跡は、真里谷氏の菩提寺である真如寺に伝わる系図などに見出すことができる。一部の系図では、歴史的事実を改竄してでも自らの家系の権威を高めようとする意図がうかがえ、真里谷氏が常に自らの立場を権威づける必要性に迫られていたことを物語っている 11

この正統性への渇望が、真里谷氏を大胆な行動へと駆り立てた。永正14年(1517年)、当時の当主・真里谷信勝(またはその子・恕鑑)は、古河公方・足利高基と対立していたその弟・義明を擁立し、下総の小弓城を攻略。「小弓公方」として創設したのである 3 。この「公方」という最高の権威を担ぐことで、真里谷氏は房総における政治的主導権を握り、庁南武田氏を凌ぐほどの急成長を遂げた。その勢力は、真里谷城を中心に、椎津城、大多喜城(小田喜城)、久留里城など、上総一円に広がり、一時は二十五万石から二十八万石にも及んだと推定される一大勢力を築き上げた 7

しかし、この急成長は、一族の内部に深刻な分裂の種を内包する両刃の剣であった。小弓公方の擁立という「飛び道具」によって手にした強大な権力は、一族内の権力バランスを著しく不安定化させた。その歪みは、天文3年(1534年)に当主・真里谷恕鑑(じょかん、信清)が死去すると、一気に表面化する。恕鑑の庶長子であった真里谷信隆と、嫡子(あるいはその弟)とされる真里谷信応との間で、家督を巡る激しい相続争いが勃発したのである 12 。この内紛は単なる兄弟喧嘩ではなく、急成長した権力と所領を誰が継承するのかという、一族の将来を左右する構造的な問題であった。信隆は後北条氏の支援を、信応は里見氏や小弓公方の支援を背景に争い、真里谷武田氏は自ら分裂の道を突き進んでいく。

真里谷朝信は、まさにこの内紛が燻り、一族が極めて不安定な状況にあった時代に、その主要な武将として活動していた。彼が後に隣国・里見氏の内紛に介入していく際、彼自身の一族もまた分裂の危機に瀕していたという事実は、彼の行動と運命を理解する上で決定的に重要である。


表1:真里谷武田氏 主要人物略系図

世代

人物名

続柄・役職・備考

武田信長

甲斐武田氏出身。上総武田氏の祖。真里谷城・庁南城を築く 1

1代

武田信興

信長の孫。真里谷城主となり「真里谷氏」を称す。真里谷武田氏の初代 3

2代

真里谷信勝

信興の長男。小弓公方・足利義明を擁立し、勢力を拡大 3

3代

真里谷恕鑑 (信清)

信勝の子(または弟)。実名は信清説が有力 15 。真里谷氏の最盛期を築くが、彼の死が一族内紛の引き金となる 15

真里谷朝信

**本報告書の主題人物。**恕鑑(信清)の一族、あるいは子とされる。小田喜城主 16

4代 (対立)

真里谷信隆

恕鑑の庶長子。後北条氏と結び、弟の信応と家督を争う 13

4代 (対立)

真里谷信応

恕鑑の嫡子(または弟)。里見氏・小弓公方と結び、兄の信隆と家督を争う 13


第二章:天文の内訌 ― 里見氏の内紛と真里谷氏の選択

天文2年(1533年)、真里谷朝信の運命を決定づける画期的な事件が、隣国・安房で勃発する。安房里見氏の内部で発生した家督争い、通称「稲村の変」あるいは「天文の内訌」である 17 。この事件の真相と、それに対する真里谷氏の選択を理解することなくして、朝信の生涯を語ることはできない。

従来、この事件は、勝者である里見義堯(よしたか)の側から描かれた伝承、すなわち「作られた歴史」によって語られてきた。その物語によれば、里見氏当主・里見義豊が、幼君であった自分を後見してきた叔父・里見実堯(さねたか)の忠誠を疑い、讒言に惑わされて実堯とその重臣・正木通綱(時綱)を稲村城にて殺害した。これに対し、実堯の子である義堯が、父の無念を晴らすべく正義の兵を挙げ、非道な義豊を討ち果たして家督を継いだ、というものであった 17 。この物語において、義豊を支援した者は「悪に加担した」存在として描かれる。

しかし、近年の古文書研究の進展により、この通説は大きく覆されつつある。史実として有力視されているのは、全く逆の構図である。すなわち、正統な当主であった義豊が、上総への進出に伴い勢力を強め、自らの地位を脅かす存在となりつつあった叔父・実堯を、当主としての権威を守るために誅殺した。これに対し、家督簒奪の好機と見た実堯の子・義堯が、里見氏にとっては宿敵であったはずの相模の後北条氏の軍事援助を得てクーデターを敢行し、正統な当主である義豊を滅ぼして家督を奪い取った、というのが事件の真相に近いと考えられている 17 。勝者となった義堯は、自らの家督簒奪と、そのために宿敵の力を借りたという不都合な事実を隠蔽するため、義豊を「非道の君主」、自らを「正義の復讐者」として描く歴史を創作した可能性が極めて高いのである 17

この房総の勢力図を揺るがす大事件に、真里谷氏は明確な立場で介入した。当主・真里谷恕鑑(信清)は、一貫して里見義豊を支援したのである 16 。通説の視点に立てば、これは非道な君主への加担となるが、史実の視点に立てば、その意味合いは全く異なる。当時の真里谷氏は小弓公方・足利義明を擁立しており、里見義豊もまた小弓公方陣営に属する同盟者であった 17 。したがって、真里谷氏の行動は、単なる隣国の内紛への介入ではなく、小弓公方を中心とする同盟関係に基づき、正統な当主である義豊を救援するという、戦国武将として極めて合理的かつ義理にかなった選択であった。真里谷朝信がこの戦いに身を投じたのも、主君の命令に従い、同盟者への義理を果たすためであったと解釈できる。彼の行動の評価は、「稲村の変」の真相をどう捉えるかによって180度転換するのである。

さらに、この内紛は単なる里見氏一族の争いに留まらなかった。義豊の背後には小弓公方と真里谷氏がおり、対する義堯の背後には後北条氏が明確に存在した 17 。つまり、「稲村の変」は、房総半島の覇権を巡る「小弓公方・真里谷氏・里見義豊」連合と、「後北条氏・里見義堯・正木氏」連合との間の代理戦争の様相を呈していた。真里谷氏が義豊を支援するという決定は、必然的に後北条氏と、そして義堯に与した正木氏を敵に回すことを意味した。この選択を下した時点で、真里谷朝信と、父を殺された正木時茂との宿命的な対決は、もはや避けられないものとなったのである。


表2:天文の内訌(稲村の変)関係者相関図

陣営

主要勢力・人物

関係性

備考

里見義豊方

里見義豊

里見氏当主(正統)

叔父・実堯を誅殺 17

小弓公方 足利義明

支援

義豊方の政治的権威の源泉 17

真里谷恕鑑 (信清)

支援・同盟

小弓公方を介した同盟関係。義豊救援の軍を派遣 16

真里谷朝信

参戦

恕鑑の命を受け、義豊救援の実行部隊として活動 16

里見義堯方

里見義堯

里見実堯の子(分家)

父の仇討ちを名目に挙兵。家督を簒奪 17

後北条氏綱

支援・同盟

義堯に軍事援助を与え、房総への影響力拡大を図る 17

正木通綱 (時綱)

義堯の父・実堯の重臣

義豊により実堯と共に殺害される 17

正木時茂

参戦

通綱の子。父の仇である義豊方と、その支援者である真里谷氏に強い敵意を抱く 20


第三章:真里谷朝信 ― 小田喜城主の生涯

本報告書の中心人物である真里谷朝信は、上総武田氏の一族であり、上総国夷隅郡に位置する小田喜城(おだきじょう、後の大多喜城)の城主であったことが確認されている 16 。彼の出自、特に父が誰であるかについては、冒頭で示された「信清の子」という情報があるが、これは一族の当主であった真里谷恕鑑(法名)の実名が「信清」であるとする近年の有力説 15 と関連付けて考える必要がある。朝信は、この当主・恕鑑(信清)の指揮下で行動する、一族の有力な武将の一人であったと見なすのが最も妥当であろう。

朝信が拠点とした小田喜城は、大永元年(1521年)に真里谷信清(恕鑑か、あるいは同名の別人物か)によって築かれたとされ 21 、房総半島の内陸部を東西に結ぶ交通路を抑える、極めて戦略的価値の高い城であった 23 。真里谷氏の本拠地が真里谷城(現・木更津市)を中心とする西上総にあったことを考えると 2 、東方に離れた小田喜城を任されていた朝信は、真里谷氏の勢力圏の東部、すなわち安房の里見氏や周辺の国人衆との境界領域を管轄する、方面軍司令官とも言うべき重要な役割を担っていたことが推察される。彼が里見氏の内紛である「稲村の変」に際して、真っ先に軍事行動を起こしたのも、この地理的・軍事的な職責からすれば当然のことであった。

「稲村の変」が勃発すると、朝信は主君・恕鑑の命を受け、同盟者である里見義豊の救援に向かった。一部の系図史料(『三浦系図伝』)には、朝信の娘が義豊の妻であったと記されているが 16 、両者の活躍年代を考慮すると世代的に無理があり、この説には疑問が呈されている。近年の研究では、この婚姻関係は当主である恕鑑(信清)の事績との混同である可能性が指摘されている 16 。いずれにせよ、朝信は義豊救援の主力として奮戦した。しかし、後北条氏の支援を受けた里見義堯・正木時茂の軍勢の前に義豊は敗死 17 。支援に失敗した朝信であったが、その後も抵抗を続け、一時は安房国の天津城を占拠して城主となるなど、なおも戦意を失わなかったことが記録されている 16

このように、朝信に関する記録には、当主である恕鑑(信清)の事績との混同が見られる。これは、後世の記録者が一族の対外的な行動を記述する際に、代表者である当主の名で一括りにしてしまったため、最前線で実際に軍の指揮を執った朝信個人の具体的な行動が、歴史の影に埋もれてしまった結果と考えられる。朝信は、一族の戦略を決定する政策決定者(当主・恕鑑)ではなく、その決定を戦場で忠実に実行する、有能かつ剛勇な「現場の将」であった。彼の断片的な記録を丹念に追うことは、歴史の表舞台に立つ当主の影で、その勢力を支えた無名に近い一族の将の働きを掘り起こす作業に他ならない。

第四章:「槍大膳」正木時茂 ― 復讐の刃

真里谷朝信の前に、宿敵として立ちはだかったのが、里見氏の重臣・正木時茂(まさき ときしげ)である。彼の存在なくして、朝信の最期を語ることはできない。時茂は、単なる一武将ではなく、戦国時代の房総が生んだ屈指の猛将であった。

時茂の行動を突き動かした最大の原動力は、父・正木時綱(通綱)を「稲村の変」で失ったことに対する、強烈な復讐心であった。天文2年(1533年)、里見義豊は叔父・実堯を誅殺する際、実堯の腹心であった時茂の父・時綱と、その兄も同時に殺害した 17 。この時、時茂自身も傷を負いながら辛くも難を逃れたと伝えられており 20 、家督を継いだ彼は、父と兄の仇である里見義豊、そして彼を支援した真里谷氏に対して、燃えるような敵意を抱くことになった。

時茂は、里見義堯に仕える身となったが、その関係は単なる主従というよりも、義堯の覇業を軍事面で支える不可欠の同盟者に近い存在であった 25 。彼は槍術に極めて優れ、その武勇は「槍大膳(やりだいぜん)」の異名をもって広く知れ渡っていた 20 。その名は房総半島に留まらず、遠く離れた他国の武将たちにも轟いていた。

その証左となるのが、越前の名将・朝倉宗滴が語った言葉をまとめたとされる同時代の一級史料『朝倉宗滴話記』の記述である。この中で宗滴は、当時の日本で「国持人使の上手(くにもちひとづかいのじょうず)」、すなわち優れた家臣を使いこなす名将として、今川義元、武田信玄、三好長慶、長尾景虎(上杉謙信)、毛利元就、織田信長といった、戦国時代を代表する錚々たる大名の名を挙げている。そして、その中に「関東正木大膳亮方」として、正木時茂の名が堂々と列挙されているのである 27 。これは、時茂が単なる一地方の猛将ではなく、全国的な知名度と評価を得ていた、当代屈指の武将であったことを明確に示している。

真里谷朝信が対峙したのは、このような傑物であった。朝信の死は、個人的な復讐心に燃える時茂の執念と、内紛を制して上総への領土拡大を目指す主君・里見義堯の戦略とが、完全に合致した結果もたらされたものであった。時茂の朝信への攻撃は、私怨による単独行動ではなく、勢いに乗る里見氏の公式な軍事行動として、圧倒的な力をもって行われた。内紛によって弱体化し、後ろ盾であった小弓公方の力も及ばない状況にあった真里谷氏の一将である朝信と、里見氏の軍事的中核を担う全国区の名将・時茂とでは、戦う前からその勝敗の趨勢は大きく傾いていたと言わざるを得ない。朝信の悲劇は、不運にも、戦国時代屈指の能力を持つ武将を敵に回してしまったことにも起因するのである。

第五章:刈谷原の戦いと朝信の最期

「稲村の変」を制した里見義堯と正木時茂は、その勢いを駆って上総国への本格的な進出を開始した。その最大の障壁となったのが、東上総に勢力を維持する真里谷氏、そしてその最前線を守る小田喜城主・真里谷朝信であった。安房天津城を落とされ、徐々に劣勢に立たされた朝信は、一族の内紛によって有効な援軍も得られず、上総が里見・北条両氏の草刈り場と化していく中で、孤独な戦いを強いられることになった 16

そして天文13年(1544年)、ついに朝信の運命を決定づける戦いの火蓋が切られる。正木時茂・時忠兄弟が率いる里見軍主力が、小田喜城を目指して北上。これを迎撃すべく出陣した朝信の軍と、上総国夷隅郡刈谷原(かりやばら、現在の千葉県いすみ市)において激突した 16 。これが「刈谷原の戦い」である。

この合戦は、単なる小競り合いではなかった。「稲村の変」から始まった、里見・正木連合による真里谷氏勢力圏への侵攻作戦の、いわば総仕上げとも言うべき決戦であった。東上総の支配権の帰趨を決するこの戦いで、朝信は奮戦したと伝えられるが、衆寡敵せず、ついに宿敵・正木時茂によって討ち取られた 16 。彼の死をもって、真里谷軍は総崩れとなり、拠点であった小田喜城も時茂の手に落ちた 16

この一戦は、単に一人の武将が命を落としたというだけではなく、この地域の勢力図を恒久的に塗り替える画期的な出来事であった。勝者である正木時茂は、奪った小田喜城を自らの本拠とし、以後「小田喜正木氏」として東上総に君臨することになる 16 。一方で、朝信の死と小田喜城の失陥は、真里谷氏が東上総から完全に駆逐されたことを意味し、その後の没落を決定づけた。

なお、朝信の最期については異説も存在する。『三浦系図伝』という史料によれば、朝信は刈谷原で戦死したのではなく、子の信正と共に一族の湾岸拠点である椎津城に逃れ、その地で戦死したとも記されている 16 。敗走の末に一族の城に籠り、最後の抵抗を試みたという筋書きも十分に考えられる。しかし、このように記録が錯綜していること自体が、敗者の最期がしばしば曖昧にしか伝わらないという、歴史の非情な現実を反映している。勝者である正木氏の武功は明確に記録として残る一方で、滅びゆく真里谷氏側の正確な動向は、混乱の中で断片的にしか伝わらなかった可能性が高い。

現在、古戦場とされる千葉県いすみ市刈谷原には、合戦を記念する碑などはなく、その正確な場所を特定することは困難である 32 。しかし、周辺地域には戦の悲惨さを物語る「地獄橋」といった地名伝承も残っており 34 、かつてこの地で房総の歴史を揺るがす激戦が繰り広げられたことを、静かに今に伝えている。

終章:真里谷氏の没落と房総勢力図の変容

真里谷朝信の死と、彼が守護していた小田喜城の喪失は、上総武田氏にとって回復不能な打撃となった。東上総への足がかりを完全に失った真里谷氏は、これを境に凋落の一途をたどる。既に家督を巡る信隆と信応の内紛によって一族は分裂しており 13 、朝信という有能な将を失ったことで、その衰退は決定的となった。外部勢力である里見氏と後北条氏の介入はますます激しくなり、真里谷氏の領地は次々と蚕食されていく。かつては小弓公方を擁して房総に覇を唱えんとした名門も、歴史の奔流の前にはなすすべもなく、ついに天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に伴う徳川家康の関東入部によって、その歴史に幕を閉じた 7

一方で、朝信を討ち取った里見義堯と正木時茂は、上総における支配権を確固たるものとした。彼らは次なる標的を、房総への野心を隠さない相模の後北条氏へと定め、第一次・第二次の国府台合戦をはじめとする、関東の覇権を巡る大規模な抗争へと突入していくことになる 3 。真里谷朝信の死は、房総の勢力図が、中小国人が割拠する時代から、里見・北条という二大勢力が激突する時代へと、大きく転換する契機の一つとなったのである。

真里谷朝信の生涯を振り返るとき、それは戦国時代における「中間管理職」の悲哀の物語として捉えることができる。彼は一族のトップ(当主)ではなかった。当主の決定に従い、一族の存亡を背負って最前線で戦う「現場の将」であった。彼は、上層部(当主・恕鑑)からの「同盟者(里見義豊)を救援せよ」という命令と、自らが率いる兵を指揮して強大な敵(正木時茂)と対峙するという現実に挟まれていた。しかし、その作戦の前提となるべき一族の結束は内紛によって既に失われ、支援すべき同盟相手は敗北し、そして対峙する敵は予想をはるかに超える傑物であった。彼は、自らが直接コントロールできない数々の大きな要因によって、抗いがたい敗北と死へと追いやられたのである。

利用者が最初に提示した「朝信は稲村の変で義豊を後援し、時茂に討たれた」という情報は、歴史を個別の事象、すなわち「点」として捉えたものである。しかし、本報告書の調査が明らかにしたように、その背景には「上総武田氏の出自と内紛」「里見氏の家督争いの真相」「後北条氏の関東進出」といった複数の歴史の潮流、すなわち「線」が存在した。そして、それらが複雑に交錯する「面」として、戦国期房総の動乱があった。真里谷朝信の死という「点」は、これらの複雑な力学のベクトルが集中した結果として生じた、ある種の必然的な出来事であったと言えよう。彼の生涯を徹底的に調査することは、単に一人の無名に近い武将の伝記を掘り起こすに留まらず、結果として戦国時代という大きなシステムのダイナミズムそのものを解き明かすことに繋がるのである。房総の露と消えたこの武将の生涯は、戦国という時代の過酷さと、その中で翻弄されながらも己の役割を全うしようとした人々の宿命を、雄弁に物語っている。

引用文献

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  2. 【上総国 真里谷城】千葉県の山奥に築かれた武田氏のお城!~北条氏と里見氏との関連はあるのか!?~ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=WjNgs3sa034
  3. 真里谷信保 https://nariyama.sppd.ne.jp/myner/m11.html
  4. 【3】里見氏の城 - 館山市立博物館 http://history.hanaumikaidou.com/archives/7755
  5. 里見氏の安房統一の栄光と挫折~関東の覇権をかけてのちに北条氏と争う~ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/2892/
  6. 「里見義堯」千葉の房総半島を舞台に北条氏康と激闘を展開! 万年君と称せられた安房国の戦国大名 https://sengoku-his.com/1738
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  9. 『南総里見八犬伝』と房総の戦国大名里見氏 | 暮らし | 連載コラム「エコレポ」|| EICネット『エコナビ』 https://econavi.eic.or.jp/ecorepo/live/532
  10. 真里谷城 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/mariyatsujo.htm
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  27. 正木時茂 (正木時綱子) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%9C%A8%E6%99%82%E8%8C%82_(%E6%AD%A3%E6%9C%A8%E6%99%82%E7%B6%B1%E5%AD%90)
  28. 真里谷朝信 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E7%9C%9F%E9%87%8C%E8%B0%B7%E6%9C%9D%E4%BF%A1
  29. 『信長の野望嵐世記』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/ransedata.cgi?or16=%95%90%8F%AB&print=20&tid=&did=&p=12
  30. 勝浦城!勝浦正木氏の城。「お万の布さらし」伝説の地 - パソ兄さん https://www.pasonisan.com/rvw_trip/chiba/katuura-jou.html
  31. 小田喜城>-里見氏の城と歴史 | たてやまフィールドミュージアム - 館山市立博物館 http://history.hanaumikaidou.com/archives/7799
  32. 歴史の中のいすみ https://www.city.isumi.lg.jp/gyosei/about_isumi/4224.html
  33. 歴史名所 - いすみ市 https://www.city.isumi.lg.jp/soshikikarasagasu/suisanshokoka/kankopromotionhan/2/3/1614.html
  34. (大多喜町)地獄橋 - 千葉県 https://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/b-shigen/08minwa/ootaki20.html
  35. 里見氏・北条氏関係略年表 - 館山市立博物館 http://history.hanaumikaidou.com/archives/7296