矢沢頼康は真田幸隆の実弟・頼綱の子。第一次上田合戦で矢沢城に籠城し徳川軍を撃退。大坂の陣では真田信之の若き子息たちの後見役を務めた。真田家の重臣として松代移封にも従い、真田家の繁栄を支えた。
日本の戦国時代、数多の武将がその武勇を競ったが、真田一族の歴史において矢沢頼康(やざわ よりやす)という名は、特筆すべき重みを持つ。一般に、彼は天正13年(1585年)の神川合戦において、「右手に九尺柄の大長刀の石突を握って振り回し、片手討ちに敵を倒した」という、鬼神の如き武勇伝で知られている 1 。この逸話は、彼の人物像の核心を捉えるものであり、その勇猛さを鮮やかに今に伝えている。
しかし、矢沢頼康の真価は、単なる一介の猛将という側面に留まるものではない。彼の生涯を深く掘り下げると、真田家の血族としての出自、主家の存亡を賭けた戦いにおける戦略的役割、そして泰平の世へと移行する中で果たした政治的な重責など、より多角的で深遠な人物像が浮かび上がってくる。本報告書は、断片的な武勇伝の紹介に終わることなく、現存する史料や軍記物、各地の史跡の情報を統合的に分析し、矢沢頼康という一人の武将の生涯を徹底的に解明することを目的とする。彼の人生の軌跡は、戦国乱世を生き抜き、近世大名として新たな時代を築いた真田家の歴史そのものを映し出す鏡であり、その実像に迫ることは、真田一族の成功の要因を理解する上で不可欠である。
矢沢頼康の揺るぎない忠誠心と生涯にわたる献身を理解するためには、まず彼が主家である真田氏といかに近しい血縁関係にあったか、その出自を解き明かす必要がある。彼は単なる家臣ではなく、真田宗家と運命を共にする宿命を負った「一族」の一員であった。
矢沢氏の歴史は、真田氏のそれと分かち難く結びついている。両氏は共に、信濃国の名族・滋野氏の系譜に連なる一族であった 2 。滋野氏から海野氏が起こり、その分家として真田氏や祢津氏、望月氏などが存在した。矢沢氏もまた、この滋野一族の流れを汲む、小県郡矢沢郷(現在の上田市殿城町矢沢)を本拠とする国人であった 3 。
両家の関係における決定的な転換点は、頼康の父・矢沢頼綱(よりつな、綱頼とも)の代に訪れる。頼綱は、真田氏中興の祖である真田幸隆(幸綱)の実弟として生まれた 4 。しかし彼は真田家を継がず、当時、真田氏とは諏訪氏の一族として敵対関係にあった矢沢氏へ養子として入ったのである 4 。これは単なる家督相続の問題ではなく、真田幸隆による深謀遠慮の表れであった。この養子縁組は、潜在的な敵対勢力を内部から懐柔し、最も信頼できる血族へと変えるための高度な政略であった。これにより、真田氏は本拠地である真田郷に隣接する地域を安定させ、軍事行動における強力な翼を得ることに成功した。この戦略的血縁関係の構築は、真田氏が小県郡の小領主から戦国大名へと飛躍していく過程で、武力だけでなく外交・政略を巧みに駆使していたことを示す好例である。
矢沢頼康は、天文22年(1553年)、この真田家の重臣筆頭である矢沢頼綱の嫡男として生を受けた 1 。これにより、頼康は真田昌幸(幸隆の三男)の従兄弟という、極めて近しい血縁関係を持つことになった 6 。この主従関係を超えた強い絆は、彼の生涯にわたる忠誠心の源泉となり、他の家臣団とは一線を画す特別な信頼関係の基盤となった。彼の通称は三十郎であり、後には但馬守の官途名を名乗った 7 。なお、史料によっては「頼幸(よりゆき)」や「頼貞(よりさだ)」といった名で記されることもあるが、本報告書では一般的に知られる「頼康」で統一する 3 。
矢沢頼康の武将としてのキャリアは、真田家が最も輝きを放った時期と重なる。彼の武功は、単なる個人の武勇伝に留まらず、真田家の存亡を賭けた戦いにおいて、常に重要な戦略的役割を担っていた。
天正13年(1585年)、真田昌幸が徳川家康との同盟を破棄し、上杉景勝に臣従したことから、第一次上田合戦が勃発した。徳川軍は、真田家の本拠地である上田城に約7,000の大軍を差し向けた。この時、矢沢頼康の武名は、信濃全土に轟くこととなる。
彼の最も有名な武功として記録されているのが、上田城の支城である矢沢城(上田市)における神川での戦いである 11 。頼康は、わずか800の兵を率いて居城の矢沢城に拠り、徳川方の将・依田信蕃(源七郎)が率いる1,500の軍勢を迎え撃った 10 。兵力で劣る中、頼康は城から打って出て、前述の通り「九尺柄の大長刀の石突を握って振り回し、片手討ちに敵を倒した」と軍記物『真田三代記』などに記されるほどの奮戦を見せ、徳川軍に大損害を与えてこれを撃退した 1 。
しかし、この神川での奮戦は、単独の英雄的行為としてのみ評価すべきではない。それは、真田昌幸が描いた壮大な総合防衛戦略の一部であった。この時、徳川軍と呼応した北条氏直の軍勢が、東方から真田領の重要拠点である沼田城に猛攻を仕掛けていた。この沼田城を守っていたのが、頼康の父・矢沢頼綱であった 14 。頼綱は、寡兵ながらも巧みな采配で北条軍の数度にわたる攻撃を完璧に防ぎきっている 7 。
つまり、第一次上田合戦における真田家の勝利は、西の上田城(昌幸)、東の沼田城(頼綱)、そしてその中間に位置する矢沢城(頼康)という三つの拠点が有機的に連動した結果だったのである。徳川・北条連合軍による挟撃の危機に対し、頼綱・頼康父子がそれぞれの持ち場で敵の別働隊を食い止めたことで、昌幸は上田城での決戦に全戦力を集中させることができた。頼康の神川での武功は、この戦略的連動性の中でこそ、その真価が最大限に発揮されたと言える。
慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣は、矢沢頼康の役割が、一人の猛将から、次代を担う若き主君を支える重臣へと進化したことを示す重要な転機であった。
この時、真田家の当主であった真田信之(昌幸の嫡男)は病のため、自ら大坂へ出陣することが叶わなかった。そこで信之の名代として、その子である信吉・信政の兄弟が真田軍を率いて徳川方として参陣することになった。この若き兄弟を補佐し、軍事を実質的に取り仕切る後見役(こうけんやく)という重責を任されたのが、当時60歳を超えていた宿老・矢沢頼康であった 6 。
この出陣に際し、信之が頼康に宛てて送った書状には、彼の絶対的な信頼が込められている。「何事も油断なく、間に入って頼み入り候」(何事においても油断することなく、信吉と信政の間に入って万事よろしく頼む) 6 。この一文は、信之が頼康に求めたものが、単なる軍事指揮官としての役割だけではなかったことを物語っている。戦の指揮はもちろんのこと、若き兄弟の生命を守り、彼らに武功を立てさせ、そして無事に帰還させるという、軍事・政治・教育の全てを統括する「傅役(もりやく)」としての働きを期待していたのである。
戦国の世が終わり、徳川による泰平の世が確立されようとしていたこの時期、戦で功を立てること以上に、幕府に対して真田家の忠誠を示し、次代の当主が無事に経験を積むことが極めて重要であった。この複雑かつ繊細な任務を遂行できる人物として、頼康が選ばれたという事実は、彼の武勇だけでなく、長年の忠勤によって培われた高い見識と篤実な人格が、主君信之に深く信頼されていたことの何よりの証左である。頼康のキャリアは、戦国の「武」を体現する者から、泰平の世を支える「臣」の理想像へと、円熟の境地に至っていた。
真田家が存続の危機に瀕した関ヶ原の戦い、そして江戸幕府体制下での新たな出発。矢沢頼康は、これらの激動の時代においても、常に冷静な判断力と揺るぎない忠誠心をもって主君を支え、近世大名・真田家の礎を築くために不可欠な役割を果たした。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いに際し、真田家は「犬伏の別れ」として知られる苦渋の決断を下す。父・昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、嫡男・信之は東軍(徳川方)に付くことで、どちらが勝利しても真田の家名を存続させようという戦略であった。
この一族分裂という最大の危機において、矢沢頼康は一貫して信之に属し、東軍として行動した 6 。これは、主家の将来を見据え、徳川との関係を重視した信之の判断を全面的に支持し、自らの立場を明確にした重要な決断であった。戦後、西軍に与した昌幸・信繁父子は高野山への配流を命じられたが、信之は父から受け継いだ上田領の安堵を徳川家康から認められた。この時、頼康は信之の息子・信政を伴い、家康のもとへ人質として送り届けるという、極めて繊細かつ重要な任務を遂行している 6 。これは、彼の忠誠心と実直な人柄が、敵方であった徳川家からも一定の評価と信頼を得ていた可能性を示唆している。
元和8年(1622年)、江戸幕府の命により、真田家は父祖伝来の地上田から信濃国松代へ10万石で移封となった。矢沢頼康もこれに従い、新たな土地で松代藩の藩政確立に尽力した 16 。
父・頼綱と共に真田家三代(幸隆・昌幸・信之)に仕え、戦乱の世から泰平の世への大転換期を主家と共に生き抜いた頼康は、寛永3年(1626年)にその74年の生涯を閉じた 6 。彼の人生は、真田家の苦難と栄光の歴史そのものであった。
矢沢頼康の功績は、彼一代で終わるものではなかった。彼と父・頼綱が築き上げた信頼と実績は、矢沢家という一族全体に対する永続的な遺産となり、後世にまで大きな影響を残した。
矢沢頼康には実子がいなかったため、彼の死後、その家督は遺言によって弟の頼邦が継承した 6 。通常、嫡流が途絶えることは家の衰退に繋がりかねないが、矢沢家は例外であった。
頼康と父・頼綱の功績により、矢沢家は松代藩において他の家臣とは別格の地位を確立した。子孫は代々、藩の「筆頭家老格」である無役席(むやくせき)という最高の家格を維持し、明治維新に至るまで真田家を支え続けたのである 6 。その知行高は2,000石を超え、40人もの同心を預かる大身として、藩政に重きをなした 3 。
この事実は、頼康の生涯が彼個人の物語に留まらなかったことを示している。彼の忠誠と武功は、矢沢家という一族全体に対する「永代の信頼」という形で報われ、松代藩の支配体制の中に制度として組み込まれた。これは、主君・信之が、父祖の代からの功臣を手厚く処遇することで、藩の支配基盤を盤石にしようとした深慮の表れでもあった。頼康の遺産は、血の繋がりではなく、一族全体の永続的な繁栄という形で後世に受け継がれたのである。
矢沢頼康の生涯と、彼の一族の歴史を物語る史跡が、信濃の地に今も残されている。
矢沢頼康の生涯を俯瞰するとき、我々は彼が一つの側面だけでは語り尽くせない、稀有な武将であったことを知る。彼は、神川の戦いで見せた「剛勇の士」であると同時に、主家と血を分けた「一族の守護者」であり、泰平の世の礎を築いた「忠実な家臣」でもあった。
戦場での卓越した武勇(武)、主君の跡継ぎを慈しみ導く人間性(仁)、そして一族存続のために冷静な政治判断を下す知性(知)を、彼は生涯を通じて兼ね備えていた。その人生は、戦国乱世という極限状況下で、真田氏という一個の武家がいかにして結束を保ち、幾多の困難を乗り越え、次代へと命脈を繋いでいったかの縮図である。矢沢頼康は、その輝かしい成功の物語を、内側から支え続けた、まさに理想の「譜代の臣」であったと言えよう。
西暦(和暦) |
頼康の年齢 |
矢沢頼康の動向および矢沢家の出来事 |
真田家および日本の主な出来事 |
典拠 |
1553(天文22) |
0歳 |
矢沢頼綱の嫡男として信濃国矢沢に誕生。 |
武田信玄、第四次川中島の戦い。 |
1 |
1575(天正3) |
23歳 |
|
長篠の戦いで真田信綱・昌輝が戦死。昌幸が家督を継ぐ。 |
4 |
1582(天正10) |
30歳 |
|
武田氏滅亡。真田昌幸、独立大名となる。 |
7 |
1585(天正13) |
33歳 |
【第一次上田合戦】 矢沢城に籠城し、徳川軍を撃退。父・頼綱も沼田城で北条軍を撃退。 |
真田昌幸、徳川家康と断交し上杉景勝に従属。 |
7 |
1590(天正18) |
38歳 |
昌幸の長男・信之に仕え、上野沼田城に入る。 |
豊臣秀吉、小田原征伐。天下統一を果たす。 |
7 |
1597(慶長2) |
45歳 |
父・頼綱が死去。家督を相続したと見られる。 |
|
4 |
1600(慶長5) |
48歳 |
【関ヶ原の戦い】 真田信之に属し、東軍として行動。戦後、信之の子・信政を家康への人質として送る。 |
犬伏の別れ。昌幸・信繁は西軍、信之は東軍へ。 |
6 |
1614(慶長19) |
62歳 |
【大坂冬の陣】 信之の名代である信吉・信政兄弟の後見役として出陣。 |
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6 |
1615(慶長20) |
63歳 |
【大坂夏の陣】 引き続き後見役を務める。 |
豊臣氏滅亡。 |
6 |
1622(元和8) |
70歳 |
真田家の松代移封に従う。 |
真田信之、上田から松代へ移封。 |
16 |
1626(寛永3) |
74歳 |
死去。弟の頼邦が家督を継ぐ。 |
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6 |