最終更新日 2025-07-26

矢田七郎左

矢田七郎左は因幡荒神山城主。尼子方から毛利方へ転じ、織田軍と戦うも落城。その後、商人として成功したという伝承があるが、史料的裏付けは乏しい。

因幡国荒神山城主・矢田七郎左の生涯 ― 乱世に翻弄された国人領主の実像

序章:乱世に翻弄された因幡の一城主、矢田七郎左

戦国時代の因幡国(現在の鳥取県東部)は、西から勢力を伸張する毛利氏、旧領回復を悲願とする尼子氏の残党、そして天下統一を目指し東から進軍する織田氏という、三大勢力の思惑が複雑に交錯する地であった。この激動の時代、一人の国人領主として自らの存亡を賭して戦い、そして歴史の波間に消えていった人物がいる。その名を矢田七郎左という。

一般に矢田七郎左は、「因幡荒神山城主であり、毛利氏に属したが、後に羽柴秀吉軍に敗れて下野し、商人として余生を送った」と認識されている 1 。この概要は彼の生涯の骨子を的確に捉えている。しかし、その背後には、尼子方への加担、毛利方への帰属、そして織田方との最終決戦という、より複雑で劇的な立場の変遷が存在した。武士としての道を絶たれた後の商人への転身という経緯についても、多くの謎が残されている。

本報告書は、この矢田七郎左という人物の実像に迫ることを目的とする。そのために、『山田家古文書』や『吉川史料館所蔵文書』といった一次史料、さらには『因幡民談記』などの近世に編纂された史料や各種研究成果を丹念に読み解き、断片的な記録をつなぎ合わせることで、彼の生涯を立体的に再構築する。特に、彼の行動原理、彼が拠点とした荒神山城の戦略的価値、そして彼を取り巻く大勢力の動向との関係性を深く分析し、戦国末期を生きた一地方武将のリアルな姿を浮き彫りにする。

まず、彼の複雑な立場の変遷を理解するため、その生涯に関わる主要な出来事を年表にまとめる。

表1:矢田七郎左と因幡国をめぐる動向年表

西暦(和暦)

出来事

矢田七郎左の所属・立場

関連人物

関連勢力

典拠史料

永禄年間 (1558-1570)

因幡武田高信の家臣として活動か。

武田氏配下

武田高信

山名氏、武田氏

『因幡民談記』など 2

元亀2年 (1571) 5月

尼子再興軍に与し、荒神山城に籠城するも、毛利方の山田重直に攻められ落城。矢田自身は討ち漏らされ、逃れる。

尼子方

山中幸盛、山田重直

尼子氏、毛利氏

『山田家古文書』 2

天正7年 (1579)

東伯耆の南条氏が毛利氏から離反し、織田方に付く。

(不明)

南条元続

毛利氏、織田氏

『新鳥取県史』など 4

天正8年 (1580)

織田方に反発した鹿野城の兵の一部が荒神山城に籠城。

毛利方

-

毛利氏、織田氏

『藩中諸家古文書纂』 2

天正9年 (1581) 6月

毛利方が対南条氏・織田氏の拠点として荒神山城を重視。吉川元長が兵糧を入れ、普請を命じる。

毛利方城主

吉川元長

毛利氏

『吉川史料館所蔵文書』 2

天正9年 (1581) 頃

織田方の鹿野城主・亀井茲矩の攻撃を受け、荒神山城は再び落城。

毛利方城主

亀井茲矩、羽柴秀吉

織田氏

『因幡民談記』など 2

天正9年以降

落城後、下野。倉吉に移り住み、商人として交易に従事したと伝わる。

浪人、商人

-

-

伝承 1

この年表が示すように、矢田七郎左の生涯は、因幡国における勢力図の変転と密接に連動している。彼の選択と運命は、彼個人の意思を超えた、より大きな時代の潮流によって決定づけられていたのである。

第一章:矢田氏の出自と荒神山城

矢田七郎左の人物像を理解するためには、まず彼の出自と、その活動の拠点であった因幡荒神山城の特性について考察する必要がある。

1.1 矢田七郎左の出自と名乗り

矢田七郎左の出自に関する具体的な史料は極めて乏しい。しかし、いくつかの断片的な情報から、その背景を推測することは可能である。

一部の資料では、彼の名は「矢田七郎左衛門幸佐(やだ しちろうざえもん ゆきすけ)」と記されている 3 。この「幸佐」という諱(実名)が、どの程度信頼性の高い史料に基づくものかは定かではないが、人物を特定する上での貴重な手がかりとなる。

より重要な示唆を与えるのが、『新鳥取県史』に収録されている加知弥神社の棟札の記録である。ここには「出雲国住人」として矢田幸佐の名が見える 5 。この記述が事実であれば、彼のルーツは因幡ではなく、隣国の出雲にあった可能性が浮上する。この出雲出身という背景は、彼の生涯における最初の大きな政治的決断、すなわち尼子再興軍への加担を理解する上で、極めて重要な意味を持つ。尼子氏は出雲国を本拠地とする戦国大名であり、矢田氏と尼子氏の間に地縁的なつながりや、あるいは旧来の主従関係が存在した可能性が考えられる。彼の行動は、単なるその場の戦略的判断だけでなく、出自に根差した親近感や義理といった、より深い動機に基づいていたのかもしれない。

1.2 本拠・因幡荒神山城の戦略的価値

矢田七郎左の本拠地であった因幡荒神山城は、現在の鳥取市鹿野町河内に位置する山城である。標高466メートル、比高276メートルという険峻な山上に築かれており、天然の要害であったことがうかがえる 2

この城の最大の価値は、その地理的条件にある。城の傍らには、因幡と伯耆、さらには美作方面を結ぶ交通の要衝である滑石峠(なめいしとうげ)と佐谷越(さだにごえ)が通っていた 2 。これらの峠道を支配下に置くことは、物流と軍事の両面で絶大な意味を持ち、荒神山城はまさに「因伯の要衝」たる戦略拠点であった。

考古学的な調査によれば、城の遺構として、長さ170メートル、幅25メートルにも及ぶ長大な主郭を中心に、複数の曲輪群、堀切、そして斜面からの敵の侵入を防ぐための畝状竪堀群などが確認されている 3 。これらの構造は、矢田七郎左が単なる小規模な土豪ではなく、相当規模の軍事拠点を構築・維持する能力を持った有力な国人領主であったことを物語っている。

一方で、荒神山城の構造には、天守や壮大な石垣といった、織田・豊臣政権下で発展した近世城郭(織豊系城郭)の特徴は見られない 4 。これは、矢田氏が在地性の強い、中世以来の伝統的な武士であったことを示唆している。しかし、この城は後に毛利氏の手によって改修(普請)が加えられることになる 2 。この事実は、荒神山城が単なる一国人の居城から、戦国大名間の総力戦における前線基地へと、その性格を大きく変容させていったことを示している。つまり、荒神山城の歴史そのものが、矢田七郎左個人の盛衰を超えて、因幡国における戦争の質的変化、すなわち国人領主間の局地的な争いから、大名勢力間の広域的な戦争へと移行していく時代の流れを体現しているのである。

第二章:尼子再興軍との関わりと毛利氏への帰属

矢田七郎左の武将としてのキャリアは、因幡国内の複雑な勢力争いの中で始まり、やがて中国地方全域を巻き込む大戦乱へと身を投じていくことになる。

2.1 尼子方としての挙兵

『因幡民談記』や『因幡誌』といった江戸時代の地誌によれば、矢田七郎左は当初、因幡守護であった山名氏の重臣で、鳥取城を拠点に勢力を誇った武田高信の配下にあったとされる 2 。当時の因幡国は、守護山名氏の権威が失墜し、武田高信のような有力な国人たちが実権を巡って争う、下剋上の様相を呈していた 6 。矢田氏もまた、そうした群雄の一人として、まずは武田氏の麾下に属することで勢力の維持を図っていたと考えられる。

しかし、永禄12年(1569年)に山中幸盛(鹿介)らが尼子勝久を奉じて挙兵し、尼子家再興の戦いが始まると、状況は一変する。この尼子再興軍の動きに呼応し、矢田七郎左は主筋であった武田氏から離反し、尼子方として荒神山城に籠城したのである 2 。第一章で考察したように、彼の出自が出雲にあったとすれば、この決断は旧主家への忠義に基づくものであった可能性も否定できない。

2.2 元亀二年(1571年)の落城と「討ち漏らし」の謎

尼子方に与した矢田七郎左の行動は、当然ながら尼子氏と敵対する毛利氏の知るところとなった。元亀2年(1571年)5月、毛利氏は因幡・伯耆方面の軍事を担当していた重臣・山田重直に荒神山城の攻略を命じる。

この時の戦いの様子は、山田重直の子孫の家に伝わった一次史料『山田家古文書』に生々しく記録されている。それによれば、山田重直は兵糧攻めに加え、何らかの計略を用いたとされる。追い詰められた矢田方は、自ら城の本丸に火を放って城を放棄し、荒神山城は落城した 2

この古文書には、続けて非常に興味深い一文が記されている。「矢田事被討洩候て無曲之由(矢田の事、討ち漏らされ候て無曲の由)」 2 。これは、城主であった矢田七郎左が、この落城の際に討ち取られることなく、無事に落ち延びたことを意味する。

この「討ち漏らされ」という表現は、単に偶然逃げ延びたというよりも、毛利方が意図的に彼を逃した、すなわち温存した可能性を強く示唆する。戦国時代の合戦において、敵将をあえて生かしておくことは、後の調略や自陣営への再登用を視野に入れた、高度な戦略的判断であることが少なくない。当時の毛利氏は、西の九州では大友氏と、そして東からは急速に勢力を拡大する織田信長と対峙しており、全面戦争の危機が迫っていた。そのような状況下で、因幡の国人領主を一人残らず根絶やしにするよりも、その軍事的能力や地理的知見を評価し、将来的に自陣営に組み込む方がはるかに得策である。毛利氏にとって、荒神山城という戦略的要衝を知り尽くした矢田七郎左は、利用価値の高い存在と映ったはずである。

この元亀2年の「討ち漏らし」は、単なる矢田個人の幸運ではなく、将来の対織田戦を見据えた毛利氏の深謀遠慮の結果であったと解釈できる。この出来事は、矢田七郎左の運命が、彼自身の意図を超えた、より大きな戦略の中に組み込まれていったことを示す最初の画期であった。

第三章:織田氏の中国侵攻と毛利方としての再起

一度は毛利氏に城を追われた矢田七郎左であったが、時代の大きなうねりは、彼に再び歴史の表舞台に立つ機会を与えることになる。

3.1 天正年間の情勢激化

天正年間に入ると、織田信長による天下統一事業は最終段階を迎え、その矛先は中国地方の毛利氏に向けられた。天正5年(1577年)、信長は羽柴秀吉を総大将とする中国方面軍を派遣。秀吉軍は播磨、但馬を平定し、因幡国へと迫った。

この織田軍の侵攻は、因幡・伯耆の国人たちの動向を大きく揺さぶった。中でも決定的な出来事が、天正7年(1579年)に起きた東伯耆の有力国人・南条氏の離反である。羽衣石城を本拠とする南条元続は、これまで毛利方に属していたが、秀吉の調略に応じて織田方へと寝返った。これにより、因幡と伯耆の国境地帯における毛利方の防衛線は崩壊し、毛利氏は織田方の直接的な脅威に晒されることになった 4

3.2 対織田戦線の拠点としての荒神山城

南条氏の離反という危機的状況に直面した毛利氏は、新たな防衛体制の構築を迫られた。そこで戦略拠点として再評価されたのが、かつて山田重直が攻略した荒神山城であった。荒神山城は、織田方についた南条氏の領地と、秀吉軍の因幡攻略の橋頭堡である鹿野城の中間に位置し、両者を分断・牽制するための絶好の拠点であった 4

毛利氏がこの城をいかに重視したかは、吉川元春の子・元長が発給した書状(『吉川史料館所蔵文書』)によって明らかである。天正9年(1581年)6月、吉川元長は荒神山城に対し、兵と兵糧を重点的に補充し、さらなる普請(防御工事の強化)を命じている 2 。この時点で、荒神山城は毛利方の対織田戦線における最重要拠点の一つと化していた。

そして、この重要な城の守将として再び歴史の舞台に登場したのが、矢田七郎左であった。元亀2年(1571年)に尼子方の敗将として城を追われた彼が、約10年の時を経て、今度は毛利方の防衛司令官として古巣である荒神山城に復帰したのである。彼の立場は、敗軍の将から、大大名の命運を左右する防衛線の指揮官へと劇的に変化した。

この「復活劇」は、戦国末期の流動的かつ実利的な主従関係を象徴している。一度は敵対し、城を奪われた相手である毛利氏から、今度は戦略的要衝を任される。これは、過去の経緯や家格よりも、矢田七郎左が持つ荒神山城とその周辺地理に関する知見、そして国人としての軍事的能力そのものが高く評価された結果に他ならない。毛利氏にとって彼は、南条氏の動向を監視し、鹿野城の亀井茲矩に圧力をかけるための、かけがえのない「駒」であった。元亀2年の「討ち漏らし」という布石が、10年の歳月を経て、ここで見事に活かされたのである。

第四章:羽柴秀吉軍との決戦と落城

毛利方の将として再起した矢田七郎左であったが、彼が対峙しなければならなかったのは、織田軍の中でも最も有能な司令官の一人、羽柴秀吉とその配下の猛将たちであった。

4.1 鹿野城主・亀井茲矩との対峙

羽柴秀吉は因幡攻略にあたり、その拠点として鹿野城を重視し、腹心である亀井茲矩を城主に据えた。茲矩は、後に朱印船貿易で活躍するなど、軍事のみならず政治・経済にも長けた知将であった 7 。彼は秀吉の鳥取城攻めに先立ち、その後背を固めるため、周辺に点在する毛利方の城砦に対する掃討作戦を開始した 8

この亀井茲矩にとって、矢田七郎左が守る荒神山城は、自らの本拠・鹿野城の背後を常に脅かす、最も厄介な抵抗拠点の一つであった。因幡の完全平定を目指す秀吉軍と、それを阻止しようとする毛利方の最前線が、鹿野と荒神山の間で形成されることになったのである。

4.2 天正九年(1581年)頃の再落城と武士の終焉

両者の対決が不可避となる中、戦端を開くきっかけは、亀井茲矩によって巧妙に作られた。江戸時代に成立した『因幡民談記』によれば、その経緯は次のように伝えられている。亀井茲矩は、本来矢田七郎左の支配下にあるはずの村々の農民に対し、年貢を納めるよう催促した。農民たちがこれを拒否すると、茲矩はこれを矢田氏による織田方への反逆行為とみなし、それを口実として大軍を率いて荒神山城へ攻め寄せたのである 2

この「年貢催促」は、単なる経済的な要求ではない。それは、その土地の支配権(領有権)がもはや毛利方ではなく、織田方にあるという一方的な宣言であり、相手の反応を試す極めて政治的・軍事的な挑発行為であった。矢田氏がこれを拒否することは、織田方の支配を公然と否定することに繋がり、亀井茲矩に攻撃のための正当な名分を与えてしまう。これは、戦国時代の「喧嘩両成敗」の法理を逆手に取った、周到に計算された開戦事由の創出であった。

最新の兵器と圧倒的な物量を誇る秀吉軍の攻撃の前に、一国人の城である荒神山城が長く持ちこたえることは不可能であった。天正9年(1581年)頃、城はついに落城。この時、毛利本隊は秀吉による鳥取城への兵糧攻め(鳥取の渇え殺し)への対応に追われており、荒神山城を救援する余力はもはや残されていなかった。

この二度目の、そして決定的な落城により、矢田七郎左は城と領地という武士の基盤のすべてを失った。ここに、因幡の国人領主・矢田七郎左の武士としての生涯は、完全に終わりを告げたのである。彼の敗北は、羽柴秀吉軍の周到な因幡平定戦略の前に、一地方勢力が抗う術もなく飲み込まれていく過程を象徴する出来事であった。

第五章:商人としての後半生 ― 伝説と史実の検証

武士としての道を断たれた矢田七郎左は、その後どのような人生を送ったのか。彼の後半生については、確たる史料は存在せず、伝説の領域で語られる部分が大きい。

5.1 「倉吉の商人」という伝承

複数の二次史料や地域の伝承において、落城後の矢田七郎左は、伯耆国の倉吉(現在の倉吉市)に落ち延び、商人へと転身して大いに繁栄したと語り継がれている 1 。一部の資料では「米子の商人」とも記されており 1 、伝承には地理的な揺れが見られるものの、「武士を辞めて商人として成功した」という物語の筋は共通している。

この伝承は、敗残の武将が刀を捨て、新たな時代の価値観である「商才」によってたくましく生き抜いたという、非常に魅力的な物語である。

5.2 史料上の検証と浮かび上がる乖離

しかし、この「商人成功譚」を史実として裏付けることは、極めて困難である。

江戸時代の倉吉は、城下町として商業が栄え、特に「倉吉淀屋」の屋号を持つ牧田家は、大阪の豪商・淀屋と深い関係を持ち、倉吉を代表する豪商として知られていた 10 。もし矢田氏が商人として「繁栄した」のであれば、こうした有力商家に関する記録や、市の歴史をまとめた『倉吉市史』などに、その名が何らかの形で現れてもよいはずである。しかし、現存する倉吉の商家に関する各種資料や文化財の記録の中に、「矢田」姓の有力商人が活動したという記述は一切見当たらない 12 。同様に、『米子商業史』などの米子に関する記録を渉猟しても、戦国末期から江戸初期にかけて、矢田姓の商人が活躍したという具体的な証拠は確認できない 15

この「史料上の不在」は、何を意味するのか。これは、「商人として繁栄した」という伝承が、史実そのものではなく、後世に形成された物語である可能性が高いことを示唆している。

では、なぜこのような伝承が生まれたのか。一つの可能性として、落城後に矢田七郎左が実際に倉吉あたりで小規模な交易などに従事して糊口をしのいだという事実が、時を経て人々の記憶の中で誇張され、美化されていったという過程が考えられる。また、より重要な背景として、敗残の武将の末路を悲劇的なままで終わらせず、「武士の誇りを捨ててでも、新たな時代(泰平の世)に商才で生き抜いた」という、より希望に満ちた物語へと昇華させたいという、後の時代の人々の願望が反映された結果とも解釈できる。

結論として、矢田七郎左の後半生を、歴史的な「事実」として具体的に追跡することは、現存史料の制約から不可能に近い。彼の後半生は、むしろ、一人の武将の記憶が地域社会の中でどのように語り継がれ、変容していったかという、「伝承」の成立過程を分析する対象として捉えるべきであろう。

終章:矢田七郎左の生涯が物語るもの

因幡国荒神山城主・矢田七郎左。彼の生涯は、尼子方への加担、毛利方への帰属、そして織田方との決戦という、目まぐるしい立場の変転に彩られていた。二度の落城を経て武士としての道を絶たれ、その後の人生は商人として成功したという伝説の中に溶け込んでいく。

彼の生涯は、歴史の教科書に名を残す英雄たちの華々しい物語とは対照的である。しかし、その波乱に満ちた軌跡は、戦国時代末期から近世初期への移行期を生きた、一地方武将の典型的な姿と、彼らが直面した過酷な現実を雄弁に物語っている。

第一に、彼の生涯は、自立した領主ではなく、毛利・尼子・織田といった大名の動向によって自らの運命が左右される、国人領主の限界を示している。彼の決断は常に、より大きな勢力図の中での選択を迫られるものであり、最終的にはその巨大な力の奔流に飲み込まれていった。

第二に、彼の武将としての浮沈は、個人の武勇や忠誠心以上に、彼が拠点とした荒神山城の戦略的価値という、地政学的な要因によって大きく規定されていた。尼子方として敗れた後も毛利に温存され、後に毛利方の将として再起できたのは、彼自身と彼の城が持つ軍事的な利用価値が高かったからに他ならない。これは、能力と利用価値がすべてに優先する、戦国乱世の非情な現実を映し出している。

そして第三に、武士としての道を断たれた後、商人として生き抜いたという伝承は、たとえそれが史実であったか否かを越えて、重要な歴史的意味を持つ。それは、武力(武士)が絶対的な価値を持った時代が終わり、経済力(商人)が社会を動かす新たな力となる、近世という時代の到来を象徴しているからである。矢田七郎左の物語は、この大きな価値観の転換期を、一人の人間の生き様を通して示しているのである。

矢田七郎左は、歴史の主役ではなかったかもしれない。しかし、彼の生涯を丹念に追うことは、華々しい合戦の陰で、時代の荒波に抗い、あるいは順応しながら必死に生き抜いた無数の人々の姿を我々の前に浮かび上がらせる。彼の物語は、戦国という時代の厳しさ、そしてそこに生きた人間のしたたかさと悲哀を今に伝える、貴重な歴史の証言と言えるだろう。

引用文献

  1. 『信長の野望嵐世記』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/ransedata.cgi?did=&or16=%93s%8Es&p=4&print=20&tid=
  2. 因幡荒神山城(因伯の要衝) | 筑後守の航海日誌 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/blog/tottori/inaba_koujinyamajo/
  3. 因幡 荒神山城[縄張図あり]-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/inaba/kojinyama-jyo/
  4. 因幡の中世城館 -因伯の境目の気多郡を中心に- - 鳥取県 https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1223930/maibunkouza9.pdf
  5. 島根県中世史料集成-新鳥取県史 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/kodai/tyuseisiryo.data/shimane_newtottori.xlsx
  6. 立見峠の怨霊-伝説が秘める因幡の戦国時代・2-|Yuniko note https://note.com/yuniko0206/n/nae48804a3f31
  7. 琉球守を拝受した武将 - 紀行歴史遊学 - TypePad https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2022/05/%E4%BA%80%E4%BA%95.html
  8. 亀井さん検定 - 鳥取市鹿野往来交流館 童里夢 https://shikano-dream.jp/relays/download/65/250/55/0/?file=/files/libs/3474//202202151602012028.pdf
  9. 今月の特集 - 西いなば気楽里 https://nishiinaba.jp/pages/49?detail=1&b_id=215&r_id=209
  10. 淀屋清兵衛 - 倉吉観光情報 https://www.kurayoshi-kankou.jp/yodoyaseibe/
  11. 倉吉淀屋 - 倉吉観光情報 https://www.kurayoshi-kankou.jp/yodoya/
  12. 谷田亀寿(Wordファイル:279KB) https://www.yurihama.jp/uploaded/attachment/5366.doc
  13. 会した。県政にはし、二十世紀梨に代表され - 鳥取県 https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1311866/rika-007.pdf
  14. 矢田次夫 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E7%94%B0%E6%AC%A1%E5%A4%AB
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