天正年間(1573年-1592年)の末期、日本の東北地方、特に南奥州は激しい動乱の渦中にあった。若き伊達政宗が破竹の勢いでその版図を拡大し、周辺の諸大名を次々と圧迫。これに対し、長年この地に覇を唱えてきた会津の蘆名氏は衰退の色を濃くし、関東の雄・佐竹氏は南奥州の国人領主たちと連携して「反伊達連合」を形成、政宗の野望に立ちはだかっていた。この複雑な勢力均衡の中で、自らの存亡を賭けて歴史の奔流に身を投じた一人の武将がいた。その名を矢田野義正という。
一般に、矢田野義正は「二階堂家臣。郡山合戦で伊達家と戦い活躍。伊達政宗が二階堂家を滅ぼした時にも居城に籠もって徹底抗戦し撃退。豊臣秀吉もその武勇を賞賛したという」と伝えられている 1 。この概要は彼の武勇伝の核心を捉えているが、その生涯の全貌を明らかにするには不十分である。本報告書は、矢田野義正という人物の出自から、主家・二階堂氏が置かれた絶望的な状況、伊達政宗との一連の戦いにおける具体的な動向、そして主家滅亡後の彼の軌跡に至るまでを、現存する史料や研究成果に基づいて多角的に検証し、その歴史的実像を徹底的に解明することを目的とする。彼の抵抗は、単なる一地方豪族の局地的な戦闘に留まらず、中央の豊臣政権による天下統一事業「奥州仕置」の帰趨にまで影響を及ぼした、特筆すべき事例であった。
本報告書では、まず彼の生涯における重要な出来事を時系列で把握するため、以下の年表を提示する。
表1:矢田野義正 関連年表
年代 |
出来事 |
典拠 |
永禄8年(1565年) |
箭田野行義の子として誕生。 |
2 |
天正16年(1588年) |
郡山合戦 にて、伊達方の猛将・伊東重信を討ち取る。 |
2 |
天正17年(1589年) |
須賀川城落城 。主家・二階堂氏が滅亡し、伊達政宗に降伏。 |
4 |
天正18年(1590年) |
豊臣秀吉の小田原征伐に際し、従軍中の伊達軍から 遁走 。 |
7 |
天正18年(1590年)7月頃 |
大里城籠城戦 を開始。伊達軍の猛攻に徹底抗戦する。 |
10 |
天正18年(1590年)秋頃 |
豊臣政権の重臣・浅野長政の仲介により、伊達軍が撤兵し 籠城戦が終結 。 |
7 |
慶長7年(1602年)頃 |
新たな主君・佐竹義宣の国替えに従い、出羽国へ移る。 |
2 |
元和9年(1623年) |
出羽国にて死去。 |
2 |
この年表が示すように、彼の人生のクライマックスは天正16年から18年にかけてのわずか3年間に凝縮されている。この激動の時代における彼の選択と行動を深く掘り下げることで、戦国末期を生きた一人の武将の鮮烈な生き様を浮き彫りにする。
矢田野義正の行動を理解するためには、まず彼が属した矢田野氏の成り立ちと、その主家である二階堂氏が当時置かれていた状況を把握する必要がある。
矢田野氏は、その源流を鎌倉幕府の名門・二階堂氏に持つ 4 。二階堂氏は藤原南家工藤氏の流れを汲み、初代・工藤行政が源頼朝に仕え、鎌倉に政所が設置されると初代執事(長官)に就任した文官の名族である 5 。その屋敷が永福寺の二階堂に近かったことから「二階堂」を称したと伝えられる 5 。
須賀川地方を支配した須賀川二階堂氏は、この鎌倉二階堂氏の一族が陸奥国岩瀬郡に下向して成立した戦国大名である 4 。矢田野氏は、この須賀川二階堂氏の庶流にあたり、一説によれば、須賀川二階堂氏の当主・二階堂為氏の三男である為房が、岩瀬郡矢田野(現在の福島県須賀川市矢田野)の地に居を構え、その地名を姓としたのが始まりとされる 2 。矢田野義正は、この系譜に連なる箭田野行義(行久)の子として、永禄8年(1565年)に生を受けた 2 。
矢田野氏の拠点は、二つの城から構成されていた。一つは、平時の居館として機能した平城の「矢田野城」 7 。そしてもう一つが、有事の際の防衛拠点となる山城の「大里城」(別名:牛ヶ城)である 7 。この平城と詰城を併用する体制は、中世から戦国期にかけての武士団の典型的な防衛戦略であり、後に伊達政宗に反旗を翻した際、大里城が難攻不落の要塞として重要な役割を果たすことになる。
矢田野義正が歴史の表舞台に登場する頃、主家の二階堂氏は深刻な危機に瀕していた。天正9年(1581年)に当主の二階堂盛義が死去、その跡を継いだ嫡男・盛隆は会津蘆名氏の家督を継いでいたため、盛隆の弟である行親が二階堂氏の当主となったが、彼もまた若くしてこの世を去ってしまう 5 。これにより、二階堂氏は強力な指導者を失い、事実上の権力の空白が生まれる。
この危機的状況下で、城主として家を束ねることになったのが、盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる大乗院(阿南の方)であった 5 。しかし、彼女はあくまで名目上の当主であり、実権は家老たちが掌握。そして、家中は伊達政宗という巨大な脅威を前に、深刻な路線対立に陥っていたのである。
二階堂氏の滅亡は、単に伊達政宗という外部からの軍事的圧力によってもたらされたわけではない。その根底には、致命的な内部分裂が存在した。家中は大きく二つの派閥に分かれていた。一つは、須賀川城代として実務を担っていた須田盛秀を中心とする、関東の佐竹氏と連携して伊達氏に対抗しようとする「親佐竹・反伊達」派 17 。もう一つは、保土原行藤らに代表される、伊達氏との連携を模索する「親伊達」派であった 17 。
伊達政宗はこの内部対立を見逃さなかった。彼は叔母である大乗院や、親伊達派の重臣である保土原行藤らに書状を送り、反伊達派の筆頭である須田盛秀の追放を画策するなど、巧みな調略を展開していた 19 。この状況は、矢田野義正の戦いを理解する上で極めて重要である。彼が忠誠を誓った二階堂家は、一枚岩どころか、いつ内部から崩壊してもおかしくない砂上の楼閣であった。後に彼が伊達軍と戦う時、その敵は伊達政宗の軍勢だけではなかった。かつての同僚でありながら主家を裏切った者たちもまた、彼の前に立ちはだかることになる。矢田野義正の忠義と抵抗は、崩壊しつつある主家の中で、最後までその名分と誇りを守ろうとした、孤高で悲劇的な闘争だったのである。
主家の内情が揺れ動く中、矢田野義正は武将としてその名を戦場に轟かせる。彼の武勇は、南奥州の覇権を巡る伊達政宗との直接対決において、遺憾なく発揮された。
天正16年(1588年)、伊達政宗と、蘆名・佐竹を中心とする反伊達連合軍との間で、南奥州の命運を賭けた「郡山合戦」が勃発した。この戦いで二階堂氏は反伊達連合の一員として参陣し、矢田野義正も主君のために槍を振るった。
この合戦の最中、義正は伊達軍の勇将として知られた伊東重信(通称:伊東肥前)を討ち取るという、目覚ましい戦功を挙げた 2 。伊東重信は伊達軍の有力な部将であり、退却する味方を救うために敵陣深く切り込み、混戦の中で義正に討たれたと記録されている 3 。彼の死後、仙台藩第4代藩主・伊達綱村によってその忠節を称える碑が建立されており、その碑は現在も郡山市の日吉神社に「伊東肥前の碑」として残り、市の文化財に指定されている 3 。このような後世の顕彰からも、彼を討ち取った矢田野義正の武功がいかに大きなものであったかが窺える。この一戦により、「矢田野義正」の名は、敵である伊達家中にも広く知れ渡ることになったであろう。
郡山合戦から一年後の天正17年(1589年)、政宗は摺上原の戦いで宿敵・蘆名氏を滅ぼし、会津を手中に収めた。その勢いを駆って、次なる標的として須賀川の二階堂氏に狙いを定める 5 。
この須賀川城攻防戦において、第一章で述べた二階堂家中の内部分裂が決定的な敗因となった。政宗の調略に応じた親伊達派の保土原行藤は、須賀川城攻めの先陣を務めるという裏切り行為に及んだ 17 。さらに、二階堂四天王の一人に数えられた重臣・守谷俊重までもが政宗に内応。彼は守備を任されていた搦手口(裏門)近くにある二階堂氏の菩提寺・長禄寺に火を放ち、城下に大混乱を引き起こした 5 。
外部からの猛攻と、信頼すべき重臣による内部からの放火という二重の攻撃を受け、須賀川城はわずか一日で陥落 4 。ここに、鎌倉時代から続いた名門・須賀川二階堂氏は、戦国大名としてその歴史の幕を閉じた。
主家が滅亡したことで、矢田野義正もまた、伊達政宗への降伏を余儀なくされた。しかし、彼に下された処遇は過酷なものであった。『白河風土記』によれば、彼は所領の三分の二を没収された上、その身柄は会津の黒川城(若松城)に移され、政宗への奉公を命じられたという 6 。これは、かつて伊達の猛将を討ち取った義正に対する、政宗の警戒心の表れであったのかもしれない。いずれにせよ、この屈辱的な処遇は、義正の心に反骨の炎を燃え上がらせるには十分すぎるものであり、来るべき反抗への伏線となったのである。
主家を失い、伊達政宗の軍門に降った矢田野義正。しかし、彼の物語はここで終わらなかった。翌年、彼は天下の情勢を鋭く見極め、奥州の独眼竜に対して一世一代の反撃に打って出る。
天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、関東の北条氏を討伐するため、全国の大名に小田原への参陣を命じた。遅参すれば領地没収という厳しい命令に、伊達政宗もやむなく応じ、軍勢を率いて小田原へ向かった。この時、会津で奉公していた矢田野義正も、政宗の軍に組み込まれ従軍していた 6 。
しかし、政宗が下野国(現在の栃木県)に滞在中、義正は突如として陣中から姿をくらました 6 。これは単なる感情的な脱走や、故郷への思慕に駆られた行動ではなかった。その背後には、当時の日本の権力構造の転換を的確に捉えた、高度な政治的戦略が存在した。
この頃、豊臣秀吉は「惣無事令」を発布し、大名間の私的な合戦を厳しく禁じていた。政宗による蘆名氏や二階堂氏の攻略は、この惣無事令に明確に違反する行為であった。義正の狙いは、この政宗の違法行為を天下人である秀吉に直接訴え、二階堂家再興の望みを繋ぐことにあった 8 。彼は、もはや地方の武力だけで物事が決する時代は終わり、中央の権威と法こそが最終的な決定権を持つことを理解していたのである。
その計画を実行に移すため、義正はまず、長年伊達氏と敵対してきた佐竹義宣の陣に駆け込み、保護を求めた 8 。佐竹氏もまた、政宗の惣無事令違反を秀吉に訴えており、義正の存在は格好の証人となり得た。そして、これと並行して、国許の旧臣たちに蜂起を指示。秀吉の裁定が下るまでの時間稼ぎと、政宗の違法性を天下に示すための「劇場」として、大里城での籠城戦の準備を進めさせた。彼の反乱は、武勇だけでなく、高い戦略眼と政治感覚に裏打ちされた、計算され尽くした行動だったのである。
政宗の陣から遁走した義正の行動は、すぐさま伊達軍に衝撃を与えた。政宗は「矢田野は国許に帰って反乱を起こすに違いない」と判断し、直ちに討伐を命じた 8 。
籠城の舞台となったのは、平時の居館であった矢田野城ではなかった。矢田野城は政宗の命令によってすでに破却されており、籠城には不向きであった 8 。旧臣たちが立て籠もったのは、急峻な崖に囲まれた天然の要害、山城の「大里城」であった 8 。
この籠城戦の指揮官が誰であったかについては、史料によって見解が分かれる。矢田野義正本人が城内で直接指揮を執ったとする記述 2 がある一方で、『政宗記』などの記録によれば、義正自身は佐竹氏のもとに身を寄せており、城内では彼の弟である善六郎や、家臣の明石田左馬介、そして領地を守るために決起した農民(地下人)たちが中心となって戦ったとされている 8 。いずれにせよ、城兵の士気は極めて高かった。
伊達軍は、政宗の叔父であり須賀川城の新城主となった石川昭光を総大将に、軍監として知将・片倉小十郎景綱を派遣。さらに、かつての義正の同僚であった保土原行藤もこの攻撃に参加した 7 。圧倒的な兵力差を背景に、伊達軍は幾度となく城に攻め寄せたが、籠城側は鉄砲による射撃のほか、大石や材木を投げ落とすなど、地形の利を最大限に活かした戦術でこれを悉く撃退した 7 。力攻めが通用しないと見た伊達軍は、城の水源を断つ兵糧攻めに切り替えたが、これも効果はなく、城を落とすことはできなかった 7 。
表2:大里城攻防戦 勢力比較(推定)
|
籠城側(矢田野軍) |
攻撃側(伊達軍) |
指揮官 |
矢田野義正 or 弟・善六郎 |
石川昭光(総大将)、片倉景綱(軍監) |
有力武将 |
明石田左馬介 |
保土原行藤 |
推定兵力 |
約400~500名 24 |
約10,000名 24 |
城郭形態 |
山城(天然の要害) 14 |
- |
主な戦術 |
鉄砲、投石、地形利用 7 |
力攻め、水の手攻め 7 |
この表が示す通り、戦いは絶望的な兵力差で行われた。にもかかわらず、数ヶ月にわたって伊達の大軍を釘付けにした大里城の戦いは、矢田野一族の卓越した指揮能力と、郷土を守ろうとする領民たちの不屈の闘志の賜物であった。
数ヶ月に及ぶ攻防の末、大里城はついに落ちなかった 10 。そして、事態は矢田野義正の狙い通りに推移する。小田原で北条氏を降し、名実ともに関東・奥州の支配者となった豊臣秀吉の政権が、この局地的な戦闘に介入したのである。
秀吉の重臣であり、五奉行の一人であった浅野長政が仲介役として派遣され、伊達政宗に対して大里城の包囲を解くよう命令を下した 7 。天下人の命令は絶対であり、政宗もこれに従わざるを得ず、伊達軍はついに撤兵した。矢田野義正の籠城戦は、軍事的な勝利ではなく、政治的な勝利によって幕を閉じたのである。
この一件は、政宗の領土拡大政策に大きな影響を与えた。秀吉は、惣無事令を無視して領土を切り取った政宗の行為を問題視し、戦後の「奥州仕置」において、政宗が攻略した会津と旧二階堂領(須賀川一帯)を没収するという厳しい裁定を下した 10 。矢田野義正の命を賭した抵抗は、伊達政宗の野望に痛烈な一撃を加え、主家の無念を晴らすという形で、見事に結実したと言えるだろう。その武勇は、会津へ向かう途上でこの経緯を知った豊臣秀吉自身も賞賛したと伝えられている 2 。
大里城での壮絶な籠城戦を戦い抜き、伊達政宗の野望に一矢を報いた矢田野義正。彼の人生は、その後、新たな主君のもとで北国の大地へと続いていく。
大里城の攻防が終結した後、義正は自身を保護し、その戦略を後押しした佐竹義宣に正式に仕えることになった 2 。彼はもはや二階堂氏の旧臣ではなく、関東の名門・佐竹氏の家臣として新たな道を歩み始めたのである。
しかし、その後の天下の情勢は、再び彼の運命を大きく揺さぶる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、主君・佐竹義宣は徳川家康と石田三成のどちらに味方するかで家中が分裂し、結果的に曖昧な態度を取った。これが戦後、東軍を率いた徳川家康の咎めるところとなり、佐竹氏は慶長7年(1602年)、長年本拠地としてきた常陸水戸54万石から、出羽秋田20万石への大幅な減封・転封を命じられた 29 。矢田野義正もまた、多くの佐竹家臣団と共に、この過酷な国替えに従い、故郷から遠く離れた北の地、秋田へと移り住んだ 2 。
秋田に移った後の義正の動向について、詳細な記録は多くない。しかし、現存する系図には、彼が「国替の時に佐竹義宣について出羽に入り、院内に住んだ」と記されている 2 。この「院内」という地名は、彼の後半生を考察する上で非常に重要な手がかりとなる。
院内(現在の秋田県湯沢市院内)は、当時、秋田藩の財政を支える最重要拠点であった。この地には、江戸時代を通じて日本有数の産出量を誇った「院内銀山」が存在したからである 31 。秋田藩は藩政初期からこの銀山経営に力を入れており、藩の財源の大きな柱となっていた 34 。
佐竹義宣が、忠義に厚く、伊達政宗を相手に一歩も引かなかったほどの武勇と戦略眼を持つ矢田野義正を、藩の生命線ともいえるこの重要な経済拠点の近隣に住まわせたことは、単なる偶然とは考えにくい。彼には、この院内銀山の警備、あるいは銀山の運営に関わる何らかの役職が与えられていた可能性が高い。主家を失い、一時は浪人の身となる寸前だった義正は、新天地でその能力を新主君に高く評価され、重要な任地を託されることで、武士として再びその存在価値を示したのである。これは、戦国乱世から徳川の治世へと移行する時代を生きた武士の、一つのリアルな再起の姿と言えるだろう。
こうして北国で新たな役割を得た矢田野義正は、元和9年(1623年)6月3日、59歳でその波乱に満ちた生涯の幕を閉じた 2 。
矢田野義正の子孫は、その後も秋田藩士として家名を存続させたと推測される。その詳細な動向や藩内での地位を明らかにするためには、さらなる史料調査が不可欠である。具体的には、江戸時代に作成された大名家の家臣団の名簿・禄高を網羅した『秋田武鑑』 35 や、秋田藩成立期の藩政を多角的に記録した家老・梅津政景の自筆日記『梅津政景日記』 36 、そして秋田県に現存する藩政史料『秋田藩家蔵文書』 29 などを精査することで、矢田野一族のその後の足跡を追うことができるであろう。これらの一次史料の分析は、本報告書の範囲を超えるが、今後の研究に向けた重要な課題として指摘しておく。
矢田野義正は、戦国時代の終焉という大きな歴史の転換点において、南奥州の地で確かな足跡を残した武将であった。彼の生涯は、単なる一地方武将の抵抗物語に留まらず、武勇、戦略、そして時代の変化を見通す知性を兼ね備えた人物像を我々に示している。
武将としての矢田野義正は、まずその卓越した武勇によって評価される。郡山合戦において伊達軍の猛将・伊東重信を討ち取った武功は、彼の個人的な武技の高さを証明している 2 。さらに、大里城の籠城戦では、1万ともいわれる伊達の大軍をわずか500足らずの兵で数ヶ月間防ぎきった 24 。これは、地形を巧みに利用し、兵士たちの士気を高く維持する、優れた指揮官としての能力の現れである。豊臣秀吉がその武勇を賞賛したという伝承 1 は、直接的な一次史料で裏付けることは困難であるが、『武将感状記』 39 のような後代の逸話集を通じて、彼の奮戦が「天下人の耳に届くほどの見事な戦い」として語り継がれるに値するものであったことを示唆している。
本報告書で繰り返し論じてきたように、矢田野義正の真骨頂は、単なる武辺者であった点に留まらない。彼は、戦国乱世の論理から、中央集権的な豊臣政権の論理へと時代が移行しつつあることを鋭敏に察知していた。彼が伊達軍から遁走し、大里城に籠城したのは、豊臣秀吉が定めた「惣無事令」という新たな秩序を、自らの生存と主家再興のための武器として利用しようとした、高度な政治的戦略であった。地方の武力闘争の結果を、中央の法的裁定によって覆そうとした彼の試みは、戦国末期の武士がいかにして新しい時代のルールに適応しようとしていたかを示す、極めて興味深い事例である。彼は、武勇と知略を駆使して時代の波を乗りこなそうとした、稀有な戦略家であった。
矢田野義正の抵抗の物語は、400年以上の時を経た今もなお、戦いの舞台となった福島県岩瀬郡天栄村に生き続けている。彼の居城であった大里城(牛ヶ城)跡は、伊達政宗の猛攻を退けた難攻不落の名城として、地域の誇りとなっている 27 。特筆すべきは、地元の天栄村立大里小学校の児童たちが、この籠城戦を題材とした創作劇「大里城物語」を定期的に上演していることである 27 。郷土の歴史を学び、勇猛果敢に戦った祖先の姿を演じるこの活動は、歴史が単なる過去の記録ではなく、地域共同体のアイデンティティを形成し、次世代へと受け継がれる生きた記憶であることを示している。
結論として、矢田野義正は、伊達政宗という巨大な力に対し、武勇と知略、そして不屈の精神をもって敢然と立ち向かい、その野望に一矢を報いた反骨の将であった。彼の生涯は、滅びゆく主家への忠義を貫き、時代の変化を読み解いて最後まで戦い抜いた、戦国武士の矜持を体現している。その名は全国的な知名度こそ高くないものの、奥州の歴史に、そして故郷の人々の心に、深く、そして鮮やかに刻み込まれているのである。