最終更新日 2025-06-07

石亀信房

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石亀信房に関する調査報告

はじめに

本報告書は、日本の戦国時代に活動した武将、石亀信房(いしがめ のぶふさ)について、現存する史料に基づき、その出自、事績、家族構成、子孫、そして彼が属した南部氏の歴史における位置づけを多角的に検証し、総合的に明らかにすることを目的とする。石亀信房は、南部一族の一員として、また不来方城(こずかたじょう)の城代として、特に南方の斯波(斯波)氏に対する防衛の任を担った人物として伝えられている。利用者より提供された基礎情報、すなわち「南部家22代当主・南部政康の四男。兄の南部安信から石亀の地を与えられ、石亀姓を名乗った。不来方城主を務め、南方の斯波家に備えた」という点を踏まえつつ、より詳細な情報と歴史的背景を付加することで、石亀信房の実像に迫る。

以下に、石亀信房の生涯における主要な出来事を略年譜として示す。

表1:石亀信房 略年譜

時期(推定含む)

出来事

関連する南部氏当主・斯波氏の動向

典拠(例)

生年不詳

南部政康の四男として誕生

父:南部政康(22代)、長兄:南部安信(23代)

1

大永4年(1524年)頃

兄・南部安信による津軽平定に参加か

安信、弟たちを動員し津軽平定

3

不詳(安信の代)

三戸郡石亀村を拝領、石亀氏を称す

兄・安信による一族配置政策

2

不詳

不来方城代に任命される

南部氏の南方勢力圏拡大、斯波氏との緊張関係

1

天正十一年(1583年)

死去

斯波氏依然健在(滅亡は天正16年)

5

この略年譜は、信房の活動期間と、当時の南部氏および対立関係にあった斯波氏の動向を概観するものであり、本報告書を通じて各項目が詳細に検討される。

第一章:石亀信房の出自と南部家における位置づけ

1.1 南部政康の四男としての出自

石亀信房の出自については、三戸南部氏第22代当主である南部政康(なんぶ まさやす)の四男として生を受けたとされる記録が複数存在する 1 。彼の長兄は、南部氏第23代当主となる南部安信(なんぶ やすのぶ、1493年~1541年)である 1 。他にも兄として石川高信(いしかわ たかのぶ)、南長義(みなみ ながよし)がおり、弟には毛馬内秀範(けまない ひでのり)がいたと伝えられている 2

しかしながら、史料間には若干の異同も見られる。『寛政重修諸家譜』を典拠とする一部の資料では、信房を「南部氏二十三代安信の四男」と記述しているものがある 1 。一方で、 3 の資料は安信を政康の長男とし、信房を安信の四番目の弟、すなわち政康の子であると明確に記しており、他の多くの資料もこの説を支持している。本報告では、南部政康の四男、南部安信の弟という説を主軸として論を進める。このような情報の揺れは、当時の系図記録の複雑性や、参照する根本史料(例えば、『参考諸家系図』と『寛政重修諸家譜』)の違いに起因する可能性が考えられる 1 。江戸時代に編纂された諸系図は、必ずしも成立当初の情報を完全に正確に伝えているとは限らず、編纂時の政治的意図や情報収集の限界、あるいは南部氏のような広大な領地と多数の庶流を持つ大族特有の系図整理の困難さを示唆しているとも言えるだろう。

信房の初期の活動については、兄である南部安信が南部氏の戦国大名化を目指し、積極的な勢力拡大政策を推進したことと深く関わっている 4 。大永4年(1524年)、安信は石川高信ら3人の弟を動員して津軽地方の諸城を平定したとされており 3 、この中に信房も含まれていたと考えるのが自然である。この事実は、信房が若年期から兄の軍事行動に加わり、南部氏の勢力基盤の確立に貢献していたことを物語っている。信房は単なる家臣ではなく、南部宗家を支える有力な一門衆の一人として、その血縁的な近さからも重要な役割を期待されていた。戦国大名家においては、当主の一門が領国支配や軍事において中核を成す例は多く、信房もその一翼を担っていたと推察される。

1.2 石亀氏の成立

石亀信房は、兄である南部安信(あるいは父・政康の命を受けた安信)より、三戸郡石亀村(現在の青森県三戸郡田子町石亀にあたる) 5 およびその傍村を領地として与えられた 2 。そして、この拝領した土地の名(在名)をもって石亀氏を称するようになった 2 。これは、戦国時代の武士が自らの所領の地名を姓とすることが一般的であった慣習に沿ったものである。在地名を名乗ることは、その土地の領主としての責任を内外に示す行為であり、在地勢力との結びつきを強固にするという実際的な意味合いも持っていたと考えられる。

南部安信は、弟たちを領内の要所に配置することで南部氏の支配体制を強化する戦略を採っていた。具体的には、石川高信を津軽地方に、南長義を五戸地方(現在の青森県三戸郡五戸町周辺)に、そして石亀信房を石亀城に、毛馬内秀範を毛馬内城(現在の秋田県鹿角市)にそれぞれ配置したと記録されている 3 。石亀の地は、南部氏の本拠地である三戸城(現在の青森県三戸郡三戸町)からも比較的近く、戦略的に重要な拠点であったことは想像に難くない。信房への石亀の地の分与と石亀氏の創設は、単なる個人的な知行地の割り当てに留まらず、南部宗家による戦略的な一族配置であり、本拠地周辺の防衛と統治を強化し、領国支配体制を盤石なものにしようとする意図の現れであったと言えるだろう。

第二章:不来方城代としての活動と斯波氏への備え

2.1 不来方城の戦略的重要性とその経営

石亀信房に関する記述の中で特筆すべき事項の一つに、彼が不来方城(こずかたじょう)の城代(じょうだい)を務めたという記録がある 1 。城代とは、城主が不在の場合にその代理として城の管理・防衛を任された役職であり、信房が南部宗家から派遣された責任者であったことを示唆している。

不来方(現在の岩手県盛岡市中心部)は、北上川と雫石川が合流する地点に位置し、古来より奥羽地方における交通の要衝であった。信房が城代として関わった不来方城が、具体的にどのような規模や構造を持っていたかについては、注意が必要である。後の天正年間末期から慶長年間(1590年代後半から1600年代初頭)にかけて南部信直が築城を開始し、盛岡藩の藩庁となった盛岡城 10 とは、その時期も規模も異なると考えられる。信房の活動時期(没年は1583年)を考慮すると、彼が管理したのは、それ以前に同地に存在した既存の城砦、あるいは比較的小規模な館であった可能性が高い。当時の不来方は、南部領の南端に位置し、後述する斯波氏の勢力圏との境界線上にあったため、防衛拠点としての性格が強かったと推測される。

実際に、天正年間(1573年~1592年)には、米内右近(よない うこん)、日戸内膳(ひのと ないぜん)、福士淡路守(ふくし あわじのかみ)らが南部信直に従い不来方城を守ったとの記録があり 13 、これは信房の活動時期と重なるか、あるいは近接している。このことは、不来方の地には既に何らかの防衛施設が存在し、複数の武将がその維持・管理に関与していたことを示している。信房が関わった「不来方城」は、後の壮大な盛岡城へと発展する以前の、対斯波氏戦略における最前線基地としての役割を担う、より実際的な防衛拠点であったと考えるのが妥当であろう。南部氏が信房のような一門の有力者をこの不来方の城代に任じたという事実は、斯波氏の勢力圏と接するこの地を、南部氏が早くから戦略的に極めて重視していたことの現れに他ならない。後の南部信直による盛岡城築城も、この地の地理的・戦略的重要性を継承し、さらに発展させたものと理解することができる。

2.2 南方勢力・斯波氏との対峙

石亀信房が不来方城代として担った最も重要な任務は、南方に勢力を有する斯波氏に備えることであった 1 。これは、南部氏の領土防衛のみならず、南方への勢力拡大を視野に入れた上での最前線指揮官としての役割を意味していた。

対峙する斯波氏(高水寺斯波氏とも呼ばれる)は、足利氏一門の名家であり、かつては陸奥国において広大な勢力を誇っていた。しかし、戦国時代に至っては勢力は衰退し、斯波郡(現在の岩手県紫波町周辺)を中心とする一地方勢力となっていた 14 。それでもなお、名門としての権威は一定程度保持しており、周辺勢力にとっては無視できない存在であったと考えられる。南部氏とは長年にわたり対立関係にあり、特に南部氏が南進政策を推し進める上で、斯波氏の存在は大きな障害となっていた 15

高水寺斯波氏は、天正16年(1588年)7月、南部信直によって本拠地である高水寺城(現在の岩手県紫波町)を攻略され、滅亡に至る 15 。石亀信房の没年は天正十一年(1583年)であるため 5 、彼は斯波氏がまだ健在であり、南部氏にとって現実的な脅威として存在していた時期に、その最前線で直接対峙していたことになる。信房の不来方城代としての任務は、単に防衛線を維持することに留まらず、南部氏の南方における勢力圏を確保し、さらには拡大するための具体的な軍事・政治活動を含んでいた可能性が高い。彼は、南部宗家の意向を体現し、最前線で斯波氏と向き合う実働部隊の指揮官として、その重責を担っていたのである。信房が活動した時期の斯波氏は、全盛期こそ過ぎていたものの、依然として南部氏にとっては軽視できない勢力であり続けた。それゆえに、南部宗家は信房のような血縁の近い有力な一門の者を最前線に配置する必要があったと言える。彼が不来方の防衛線を堅守したことが、後の南部信直による斯波氏攻略の成功に向けた重要な布石の一つとなった可能性も否定できない。

第三章:石亀信房の家族と子孫

石亀信房の血脈は、彼自身とその子孫たちによって、南部藩の歴史の中で様々な形で展開していく。以下に、信房を中心とした石亀氏の関連系図の概要を示す。

表2:石亀氏関連系図(概要)

  • 南部政康(22代当主)
  • 石亀信房(政康四男、石亀氏初代)
  • 石亀政頼(嫡男、二代)
  • 石亀直徳(政頼嫡男、三代、家老)
  • 石亀貞次(直徳嗣子、早世)
  • 石亀政直(貞次子、五代、本家断絶)
  • 石亀政勝(政直弟、分家存続)
  • 石亀直方(貞次弟、分家、2代で断絶)
  • 石亀政次(貞次弟、分家存続)
  • 女子(その子・成喜が母の名跡を継ぎ石亀氏を称す)
  • 石亀政房(貞次弟、分家存続)
  • 楢山義実(信房二男、楢山氏祖)
  • (楢山氏代々、幕末に楢山佐渡を輩出)
  • 楢山隆章(義実の孫・宗隆の弟の家系)
  • (子孫が慶応年間に石亀姓に復す)
  • (別系統・信房庶子の可能性が指摘される家系)
  • 石亀政明
  • 泉山古康(政明次男、泉山康朝養子)
  • 慈照院(古康娘、南部信直室、南部利直母)
  • 泉山康朝(政明弟、石亀兵庫)

この系図は、石亀信房の直系、分家(特に楢山氏)、そして南部藩政に影響を与えた泉山古康の系統との関連性を示している。これにより、石亀氏の血脈の広がりと、時には複雑な縁戚関係を概観することができる。

3.1 嫡流の継承と変遷

石亀信房(紀伊守)は、天正十一年(1583年)に死去したと記録されている 5。

その家督は嫡男である石亀政頼(大炊介)が相続した。政頼は南部藩士として250石を知行したが、文禄二年(1593年)に死去した 1。

政頼の跡を継いだのは、その嫡男である石亀直徳(七左衛門)であった。直徳の代になると石亀氏はさらに興隆し、当初250石であった知行は、慶長十九年(1614年)に150石を加増されて400石となり、藩の家老職を務めるに至った 1。これは、石亀氏本家が南部藩内で高い評価と地位を確立していたことを示している。直徳は晩年隠居し、慶安元年(1648年)に死去した 5。

直徳の嗣子であった石亀貞次(玄蕃亮)は、残念ながら父に先立って死去した(部屋住の身分であったとされる)5。このため、家督は貞次の子である石亀政直(甚五左衛門)が、祖父・直徳の跡を継ぐ形で嫡孫承祖した 5。貞次が父・直徳に先立って死去したため孫の政直が継承したという事実は、当時の家督継承における潜在的な不安定要素を示している。当主の早逝や後継者の夭折は、家の存続に大きな影響を与え得るものであった。

しかし、この石亀氏本家の繁栄は長くは続かなかった。五代目となった政直は、明暦三年(1657年)に何らかの「罪を得て」家名断絶の処分を受け、石亀信房に始まる嫡流(本家)はここに断絶することとなった 1。その「罪」の具体的な内容については史料に詳述されていないが、江戸時代初期の藩政においては、武家の取り潰しが比較的厳格に行われていたことを反映している事例と言えるだろう。藩内の政争、当主の不行跡、あるいは幕府の法令違反など、様々な要因が考えられるが、信房から直徳の代まで順調に家格を維持・向上させてきた石亀氏本家が、政直の代で突如として断絶したことは、戦国時代から江戸時代へと移行する時期の武家の運命の不確かさを示す一例である。

3.2 分家と楢山氏の成立

石亀信房の血筋は、本家が断絶した後も、複数の分家によって幕末まで伝えられることとなる。

特筆すべきは、信房の二男である石亀義実(帯刀)が興した楢山氏である。義実は二戸郡楢山村(現在の岩手県二戸郡の地域か)を領地とし、その在名(地名)をもって楢山氏を称した 1。これが楢山氏の始まりであり、その子孫からは幕末の南部藩で重きをなした家老・楢山佐渡(ならやま さど)のような人物も輩出している 6。戦国武家の家が、分家を立てることでリスクを分散し、血脈を後世に伝えようとするのは一般的な戦略であり、楢山氏の成立と発展はその好例と言えるだろう。

また、『奥南旧指録』や『深秘抄』といった史料には、信房の二男が西越村(三戸郡)を知行し、下田氏の祖となったという記述も存在する 1。この人物が楢山義実と同一人物であるのか、あるいは別の庶子であったのかはさらなる検証を要するが、信房の子が複数の分家を興した可能性を示唆している。

楢山氏の系統では、後に石亀姓に復する動きも見られる。楢山義実の孫である宗隆の弟で分家した楢山七左衛門隆章の家系の子孫は、幕末の慶応四年(1868年)になって本姓である石亀に復し、楢山益人を石亀益人、後に此馬(このま)と改称したと伝えられている 1 。数百年を経て元の姓に戻るという行為は、初代・石亀信房への回帰の意識や、「石亀」という姓に対する誇りや愛着が子孫の間で受け継がれていたことを強く示唆している。これは、幕末維新という動乱期において、自らのルーツを再確認し、アイデンティティを再構築しようとした動きの一環とも解釈できる。

石亀氏本家が五代・政直の代で断絶した後も、信房の血を引く他の分家が存続した。政直の弟である石亀政勝は分家しており、当初50石(後に73石)を知行し、その子孫はさらに加増されて200石となり幕末まで家名を保った 6 。また、三代・直徳の子で、四代・貞次の弟たちにあたる石亀直方、石亀政次、石亀政房もそれぞれ分家を立てた。直方の家は2代で断絶したが、政次と政房の家系は幕末まで続いたとされている 6 。さらに興味深い例として、政次の娘の子である成喜は、母が藩主南部行信の娘である光源院付の老女という高い地位にあったため、その母の名跡を継ぐ形で石亀氏を称したという記録もある 6 。これは、女系を通じてであっても家名が意識され、継承され得たことを示す事例であり、家格や由緒を重んじる当時の武家社会の価値観を反映している。

3.3 石亀氏と南部信直・利直体制との間接的関わり(泉山古康の系統)

石亀信房の直系一族とは別に、同じく三戸郡石亀村を発祥の地とするもう一つの石亀家が存在したことが史料からうかがえる 6 。この家系は、石亀政明(いしがめ まさあき)と泉山康朝(いずみやま やすとも、石亀兵庫とも称される 19 )の兄弟を祖とする。この兄弟の正確な出自については、『参考諸家系図』においても不明とされているが、石亀信房の庶子であった可能性も否定できないとの指摘がある 6

この系統で特に重要な人物が、泉山古康(いずみやま ふるやす)である。彼は石亀政明の次男であり、叔父にあたる泉山康朝の養子となった 6 。一部史料では泉山出雲政弘とも記されている 20 。泉山古康の娘は、南部氏の歴史において極めて重要な役割を果たすことになる。彼女は南部氏第26代当主である南部信直(なんぶ のぶなお)の室となり、慈照院(じしょういん)と称された 6 。南部信直は、石亀信房の兄である石川高信の子であり、信房にとっては甥にあたる人物である 4 。そして、この慈照院こそが、南部氏第27代当主であり盛岡藩初代藩主となる南部利直(なんぶ としなお)の生母なのである 6 20 に掲載されている系図には、慈照院について「泉山出雲政弘女 改石亀氏」との記述があり、彼女と石亀氏との関連が意識的に強調されている様子がうかがえる。

この南部宗家との強い姻戚関係により、泉山古康は南部信直・利直の体制下で家老に抜擢され、藩政の中枢で重きをなすようになった 6 。これは、戦国時代から江戸時代初期にかけての藩政において、藩主との個人的な信頼関係や血縁関係が家臣の昇進や地位に極めて大きな影響を与えたことを示す典型的な事例である。藩政初期には、藩主の個人的な信頼に基づく側近政治が行われやすく、泉山古康の立身もそのような当時の武家社会の力学を反映していると言えよう。

たとえ石亀信房の直系ではなく、また庶流であった可能性を考慮したとしても、泉山古康の娘・慈照院が南部信直の正室となり、次期当主である利直を産んだという事実は、「石亀」という名を持つ家系が南部宗家と極めて強固な結びつきを持ったことを意味する。これにより、石亀信房自身の家系とは別に、「石亀」の名が南部藩の歴史において重要な意味を持つことになった。信房の直系本家が断絶した後も、「石亀」という名称は南部藩の権力中枢と結びついて語り継がれることになったのである。石亀信房自身が南部一門の有力武将として活躍し、さらに別系統とはいえ「石亀」ゆかりの女性が藩主の母となったことで、「石亀」という名乗りが南部藩内で一定の「ブランド価値」のようなものを持った可能性も考えられる。これが、後に楢山氏の一部が石亀姓に復する遠因の一つとなったと推測することも、あながち不自然ではないだろう。

第四章:石亀信房の終焉と石亀氏のその後

4.1 信房の死とその時期

石亀信房は、天正十一年(1583年)に死去したと伝えられている 5 。その死因や具体的な状況についての詳細は、現存する資料からは残念ながら明らかではない。

彼の死は、南部氏の歴史において重要な時期に訪れた。南部氏が長年の宿敵であった斯波氏を高水寺城に滅ぼすのが天正十六年(1588年)であるから、信房はその5年前に世を去ったことになる。また、彼の甥にあたる南部信直が南部家の家督を継承し(その相続時期については永禄八年/1565年説や天正十年/1582年説など諸説ある 21 )、九戸政実の乱(天正十九年/1591年)という大きな内乱を鎮圧して領内の統一を成し遂げ、さらには盛岡城の築城を開始する(1598年頃)といった、南部氏が戦国大名としての地位を確立し近世大名へと移行していく激動期のまさに前夜とも言える時期であった。信房自身は、その後の南部氏の大きな飛躍、すなわち信直による領内統一事業の完成や盛岡藩の成立といった歴史的転換を見ることなく、戦国武将としての生涯を終えたことになる。

信房は対斯波氏の最前線である不来方を守るという極めて重要な軍事的役割を担っていたため、彼の死は一時的にではあれ、南部氏の南方戦線における指揮系統や戦略に何らかの影響を与えた可能性は否定できない。後任の配置や戦略の再編が必要となったことも十分に考えられるが、具体的な記録は乏しい。

4.2 戦国時代末期から江戸時代にかけての石亀一族の動向

石亀信房の死後も、「石亀」を名乗る人々やその血を引く一族は、南部藩の歴史の中で存続し、あるいは変遷を遂げていった。

前述の通り、信房の嫡流である本家は、孫の石亀直徳の代には400石を知行し家老職を務めるなど隆盛を誇ったが、曾孫にあたる石亀政直の代、明暦三年(1657年)に「罪を得て」断絶した 1 。しかし、武家社会における家の存続戦略の典型例として、石亀氏の血脈は分家によって受け継がれた。本家が不慮の事態で断絶しても、分家が血脈や家名を伝える役割を担うことは一般的であった。

具体的には、本家五代・政直の弟である石亀政勝の家系は、200石取りの南部藩士として幕末まで存続した 6 。また、三代・直徳の子で、嗣子・貞次の弟たちにあたる石亀直方、政次、政房の家系も、直方の家は2代で絶えたものの、政次と政房の家は幕末まで続いたとされている 6

信房の次男・義実が興した楢山氏は、南部藩の家臣として独自の発展を遂げ、幕末には藩政に大きな影響力を持った楢山佐渡を輩出した。そして、その一部は前述の通り、慶応年間に石亀姓へと復している 5

一方、石亀信房との直接の血縁関係は明確ではないものの、その庶子の可能性があるとされた石亀政明・泉山康朝の兄弟に始まる泉山家も、泉山古康が南部信直・利直の外戚として家老職を務めたことから、南部藩士として一定の地位を保持し続けたと考えられる。藩主の外戚としての地位は、その後の家運に少なからぬ影響を与えたであろう。

さらに、 22 の資料には、南部信直が朝鮮出兵(文禄の役、1592年頃)に赴いた際に作成されたと見られる「48ヶ城注文」の中に、南部東膳助直重(なんぶ とうぜんのすけ なおしげ)という人物が石亀氏として記されている。この人物が石亀信房の系統に連なるのか、泉山家の系統なのか、あるいはまた別の石亀氏なのかは判然としないが、信房の死後も「石亀」を名乗る武士が南部家中において活動していたことを示す貴重な記録である。

これらの事実から、「石亀」という名称は、石亀信房の直系、その複数の分家、そして信房との血縁関係が必ずしも明確でない(あるいは庶流の可能性がある)泉山古康の系統、さらには南部東膳助直重のような人物に至るまで、複数の家系によって担われていたことがわかる。これは、「石亀」という地名やそこから派生した氏が、南部藩の歴史の中で単一の血統に限定されず、地縁、婚姻、あるいは主君からの下賜など、様々な要因によって複数の家系に結びつき、多層的な意味合いを持つに至ったことを示唆している。この多層性こそが、「石亀氏」という存在の歴史的広がりと複雑さを物語っていると言えるだろう。

おわりに

石亀信房は、戦国時代の南部氏において、宗家の一員として、また一族の有力武将として、領内統治と、とりわけ南方における軍事的防衛という極めて重要な役割を担った人物であった。彼の出自は南部氏22代当主・南部政康の四男とされ、兄である23代当主・南部安信の時代から、その弟として南部氏の勢力拡大に貢献した。三戸郡石亀村を領して石亀氏の祖となり、不来方城代としては、当時南部氏にとって大きな脅威であった斯波氏に対する最前線を守るという重責を果たした。この信房の活動は、その後の南部氏による斯波氏攻略、そして領土の拡大と安定に少なからず貢献したと考えられる。

信房の直系である石亀氏本家は、孫の直徳の代に家老職を務めるなど隆盛したが、江戸時代初期の明暦三年に断絶という悲運に見舞われた。しかし、彼の血脈は、次男・義実が興した楢山氏(幕末に楢山佐渡を輩出)や、本家から分かれた他の複数の分家によって幕末まで伝えられた。さらに、信房の庶子の可能性があるとされる石亀政明の子孫である泉山古康の娘・慈照院が南部信直の室となり、後の盛岡藩初代藩主・南部利直の母となったことは、「石亀」という名が南部藩の中枢と深く結びつく契機となった。これにより、信房の家系とは異なる流れではあるが、「石亀」の名は南部藩の歴史において重要な位置を占め続けることとなった。

今後の研究への展望としては、石亀信房個人の具体的な戦闘や政務に関する一次史料の発見は現状では困難であるかもしれない。しかしながら、南部氏関連の古文書や、彼が活動拠点とした石亀村(現在の青森県田子町)や不来方(現在の岩手県盛岡市)周辺の地方史資料をさらに渉猟することにより、当時の地域の状況、斯波氏との具体的な緊張関係の様相、あるいは信房配下の武士団の構成など、周辺情報から彼の実像にさらに迫ることができる可能性がある。

また、石亀氏本家五代の石亀政直が「罪を得て」断絶した具体的な理由や経緯、そして泉山古康の家系(石亀政明・康朝兄弟)の明確な出自と石亀信房との関係性の詳細な解明は、南部藩成立初期の家臣団の構成や権力構造、さらには武家の家意識や系図編纂のあり方を理解する上で、引き続き興味深い研究テーマとなりうるであろう。これらの課題に取り組むことで、石亀信房という一人の武将を通じて、戦国末期から江戸初期にかけての奥羽地方の歴史、そして南部氏の発展の様相をより深く理解することに繋がるものと期待される。

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  19. 泉山康朝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%B1%B1%E5%BA%B7%E6%9C%9D
  20. 近世こもんじょ館 https://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/index.cgi?cat=komonjo&mode=details&code_no=5980&start=
  21. 南部信直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E7%9B%B4
  22. 「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の作成とその歴史的背景について - 近世こもんじょ館 https://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/report/report_view.cgi?mode=details&code_no=55