本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活動した武将、石川康勝の生涯と事績を、現存する史料に基づき詳細に明らかにすることを目的とする。彼の出自、豊臣政権下での動向、関ヶ原の戦い、改易、そして大坂の陣での最期に至るまでを追い、その人物像と歴史的背景を考察する。
石川康勝は、父・石川数正の徳川家からの出奔という劇的な出来事の渦中にあり、その後豊臣大名として一定の地位を築いたものの、兄の改易に連座し、最終的には大坂の陣で豊臣方として戦没するという、時代の大きな転換期に翻弄された武将の一人として位置づけられる 1 。彼の生涯は、織豊政権から江戸幕府へと移行する激動の時代を色濃く反映している。父の徳川家出奔、関ヶ原の戦いにおける東軍としての参陣、そして最終的に大坂の陣で豊臣方として死を迎えるという経歴は、個人の忠誠や家の存続が常に問い直される困難な状況下での、武士の苦悩と選択を象徴していると言えよう。彼の行動は、当時の武士たちが直面した主君選択の難しさや、一度下した決定がその後の運命を大きく左右する時代の厳しさを示唆している。
石川康勝 略年表
年代 |
出来事 |
生年不詳 |
誕生(幼名:勝千代、諱:康勝、員矩とも) |
天正12年(1584年) |
徳川家康の次男・秀康(於義丸)に扈従し、人質として大坂へ赴く 2 |
天正13年(1585年) |
父・石川数正の徳川家出奔に伴い、父兄と共に豊臣秀吉に仕える 1 |
文禄元年(1592年) |
父・数正死去。遺領のうち信濃国安曇郡に1万5千石を分知相続し、奥仁科藩主となる 1 。文禄の役に従軍し、肥前名護屋城に滞陣 2 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦いに東軍(徳川方)として参加 1 |
慶長18年(1613年) |
豊国祭礼に豊臣秀頼の名代として参詣 1 。同年10月、兄・康長の大久保長安事件に連座し改易、所領を失う 4 |
慶長19年(1614年) |
大坂城に豊臣方として入城 2 。同年4月22日、古田織部より茶の湯の皆伝を受ける 2 。同年12月、大坂冬の陣・真田丸の戦いで負傷 2 |
元和元年(1615年)5月7日 |
大坂夏の陣・天王寺・岡山の戦いにおいて、真田信繁隊の寄騎として奮戦、乱戦の中で討死 1 |
石川氏は清和源氏義時流を称し、三河の譜代大名として代々徳川家(松平家)に仕えた名門の家柄である 6 。康勝の父である石川数正は、徳川家康の宿老として、酒井忠次と並び称されるほどの重臣であり、家康の初期の覇業を支えた中心人物の一人であった 6 。数正は、外交交渉や内政手腕に長け、家康からの信頼も厚かったと伝えられている。
しかし、天正13年(1585年)11月、数正は突如として徳川家康のもとを出奔し、当時家康と対立関係にあった豊臣秀吉に臣従するという衝撃的な事件を起こす 2 。この出奔は、徳川家中に大きな動揺を与えただけでなく、その後の石川家の運命、そして康勝自身の人生航路をも大きく変える決定的な出来事となった。数正出奔の理由については、今日に至るまで様々な説が唱えられており、歴史上の謎の一つとされている 7 。主な説としては、豊臣秀吉による調略説、家康との間に生じた確執や不和説(特に家康の嫡男・信康事件後の岡崎派と浜松派の対立の中で、信康の後見役であった数正の立場が悪化したとする見方)、あるいは、強大化する秀吉の勢力と徳川家の将来を憂慮し、徳川家を守るためにあえて汚名を被ったという説などが挙げられる。数正が徳川家の軍事機密や内情を熟知していたため、彼の出奔後、家康は軍法を武田流に一新せざるを得なかったという事実は 9 、この事件の重大性を物語っている。
父・数正のこの決断は、康勝ら子供たちの人生に計り知れない影響を及ぼした。徳川譜代の重臣の子という安定した立場から一転して、敵対勢力であった豊臣政権下の大名の子へと、その社会的地位は根本から覆されたのである。この大きな環境の変化は、康勝の価値観の形成や人間関係、そして何よりも彼が抱く忠誠の対象に複雑な影響を与え、後の大坂の陣で豊臣方として戦うという彼の最終的な選択へと繋がる遠因となった可能性も否定できない。
石川康勝の正確な生年は史料に残されておらず、不明である 1 。幼名は勝千代と伝えられ 2 、諱(実名)は康勝のほかに員矩(かずのり)とも称したとされる 1 。
康勝の初期の経歴で特筆すべきは、天正12年(1584年)、徳川家康の次男である於義丸(後の結城秀康)が、豊臣秀吉への人質として大坂へ送られる際に、兄の康長(後の三長)と共に扈従(こしょう)し、小姓・勝千代として秀康に近侍したことである 1 。この時点では、父・数正はまだ徳川家の重臣であり、康勝も徳川方の武士としてそのキャリアを歩み始めていた。
しかし、その翌年の天正13年(1585年)、父・数正が徳川家を出奔して豊臣秀吉に仕えるという大きな転機が訪れると、康勝も父や兄と共に秀吉の家臣となった 1 。ただし、康勝が秀康の小姓という陪臣の身分を脱し、正式に秀吉の直臣となった正確な時期については明らかではない。当時まだ若年であったと推測されている 2 。
このように、康勝は若くして、仕えるべき主君が徳川家(正確には家康の子である秀康個人への従属)から豊臣家へと大きく変わるという経験をした。父の決断に従った形ではあったが、この主君の変転という経験は、彼の価値観や人間関係の形成に少なからず影響を与えたと考えられる。特に、豊臣家への帰属意識が芽生えるきっかけとなり、後の大坂の陣において豊臣方へ参加する際の心理的な抵抗を軽減した要因の一つとなった可能性も考えられるだろう。
文禄元年(1592年)、父・石川数正が死去すると 1 、その遺領である信濃国松本藩10万石は分割相続されることとなった。次男であった康勝は、安曇郡内に1万5千石を分知され、信濃奥仁科藩主として独立した大名となった 1 。
表1:石川数正 遺領分割
相続者 |
相続石高 |
備考 |
石川康長 |
8万石 |
長男、松本藩主 |
石川康勝 |
1万5千石 |
次男、奥仁科藩主 |
石川康次 |
5千石 |
三男 |
出典: 6
この遺領相続により、康勝は豊臣政権下で一定の勢力を持つ大名としての地位を確立した。父・数正が秀吉に重用されたことの恩恵も少なからずあったと考えられ、豊臣大名として順調なスタートを切ったと言える。
また、大名としての軍役も果たしている。同じく文禄元年(1592年)に始まった文禄の役(朝鮮出兵)に際しては、父・数正(数正の死が同年12月頃とされるため、出陣準備段階か緒戦期には存命)と共に、あるいは父の死後は自身が軍勢を率いて、肥前名護屋城に宿直し、滞陣した記録が残っている 1 。これは豊臣大名として当然の責務であり、彼のキャリアにおける重要な経験の一つであった。この時期の経験は、康勝にとって豊臣家への帰属意識を強固なものにした可能性があり、後の改易事件がなければ、そのまま豊臣恩顧の大名として生涯を終えていたかもしれない。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、石川康勝は東軍(徳川方)に属して参戦した 1 。これは、父・数正の出奔先であり、自身も大名として仕える豊臣家(西軍の中心)と、かつての主家である徳川家との間で、結果的に徳川方を選択したことを意味する。この選択の背景には、本家を継いだ兄・康長が東軍に与したことや、石川家全体の存続を考慮した戦略、さらには当時の複雑な政治情勢などが絡み合っていたと推測される。
しかしながら、関ヶ原の戦いで東軍として勝利に貢献した後も、康勝は豊臣家との繋がりを完全に断ち切っていたわけではなかった可能性が史料からうかがえる。慶長18年(1613年)に京都で行われた豊国祭礼(豊臣秀吉の七回忌または十七回忌)に際して、康勝は豊臣秀頼の名代として参詣したという記録が残っているのである 1 。豊国大明神の祭礼は豊臣家の権威を示す重要な行事であり、その名代を務めるということは、康勝が秀頼や豊臣家首脳部から一定の信頼を得ていたことを示唆する。
さらに、『御普請帳』と呼ばれる史料の中の「大坂衆」の項目に、「一万五千石 石川肥後守」との記載が見られることも指摘されている 3 。これは、康勝が依然として大坂(豊臣方)に近い立場、あるいは豊臣家臣団の一員として認識されていた可能性を示している。通称である「肥後守」は、彼が豊臣政権下で正式な官途名として任官されたものか、あるいは自称であったとしても周囲に広く認知されていたことを示しており 13 、彼が単に父の威光に頼るだけでなく、自身の能力や存在感によって豊臣家中で一定の評価を得ていた可能性を示唆する。
関ヶ原で東軍についたにもかかわらず、豊臣家との間にこのような繋がりを維持していた事実は、康勝の立場が単純な徳川方一辺倒ではなかったことを物語っている。父・数正以来の豊臣家との縁、大名としての政治的バランス感覚、あるいは個人的な恩義や感情など、複数の要因が彼の行動に影響を与えていたと考えられる。この複雑な関係性は、後の改易事件を経て、最終的に大坂の陣で豊臣方へ身を投じるという彼の決断に繋がる重要な伏線となったと言えるだろう。
慶長18年(1613年)、江戸幕府を揺るがす大事件が露見する。大久保長安事件である。長安は、徳川家康のもとで鉱山開発や検地奉行、佐渡金山奉行などを歴任し、その才覚によって大きな権勢を振るった人物であった。しかし、彼の死後、不正蓄財や幕府に対する謀反の疑いなどが発覚(あるいは捏造され)、長安に関係した多くの大名や旗本が処罰される大規模な粛清事件へと発展した。
この事件の余波は、石川康勝の兄であり、松本藩主であった石川康長にも及んだ。康長は、長安と姻戚関係(康長の娘が長安の長子・藤三郎に嫁いでいた)にあったことに加え、長安と結託して新田開発を行いながらその石高を幕府に過少申告した(隠田)、あるいは幕府の許可を得ずに分不相応な城地の造成や改修を行ったなどの罪状を問われた 5 。
その結果、同年10月、康長は改易処分となり、所領の松本藩8万石は没収され、自身は豊後国佐伯藩主・毛利高政にお預けの身となった。そして、この兄・康長の改易に連座する形で、弟である康勝(奥仁科藩1万5千石)および康次(半三郎、5千石)もまた、全ての所領を召し上げられ、改易の憂き目に遭ったのである 1 。
石川氏改易の表向きの理由は兄・康長の不正への連座とされたが、その背景には、成立間もない江戸幕府による権力基盤の確立と、潜在的な敵対勢力となりうる大名、特に豊臣恩顧の大名や、石川氏のように父・数正の徳川家出奔という「前科」を持つ家に対する粛清の意図があったとする見方も有力である 5 。大久保長安事件は、そうした幕府の政策を断行するための格好の口実として利用された側面があったのかもしれない。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦功を挙げたにもかかわらず、兄の縁戚関係や不正疑惑(それらが事実であったか、あるいは後付けの理由であったかは議論の余地がある 5 )によって一方的に全ての所領と地位を奪われたことは、康勝にとって徳川幕府に対する強い不信感と深い絶望感をもたらしたであろう。豊臣家との繋がりを依然として保っていた康勝にとって 1 、この理不尽とも言える処遇は、豊臣方へ身を投じる心理的な障壁を大きく引き下げ、むしろ積極的に加担する強い動機となった可能性は極めて高い。この改易事件こそが、康勝の人生における最大の転換点であり、彼を大坂の陣へと導く直接的な原因となったと言っても過言ではない。武士としての面目を潰され、生きる道を奪われた康勝が、再起を期して、あるいは一矢報いるために豊臣方を選んだとしても不思議ではない。
慶長18年(1613年)の改易によって全ての所領を失った石川康勝は、その翌年の慶長19年(1614年)、豊臣秀頼の招きに応じる形で、豊臣方として大坂城に入城した 1 。注目すべきは、康勝が大坂城に入る際に、かつての石川家の旧臣の多くが彼に従ったと記録されている点である 2 。これは、改易され浪人の身となった後も、康勝が旧家臣団からの人望や求心力を依然として保っていたことを示唆している。
当時、大坂城には、関ヶ原の戦いで西軍に与して敗れ、改易されたり所領を大幅に減らされたりした浪人武将たちが、再起や旧主家への忠義、あるいは徳川幕府への反発といった様々な動機を胸に、全国から多数馳せ参じていた 15 。真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登といった、後に「浪人五人衆」などと称される名だたる武将たちもその中にいた。石川康勝もまた、彼らと同様に、改易された大名として、豊臣方に最後の望みを託し、武士としての名誉回復、石川家の再興、そして徳川幕府への意趣返しを期して大坂方への参加を決意した一人であったと考えられる。彼にとって、大坂城への入城は単なる豊臣方への加担以上の、まさに起死回生を賭けた行動だったのである。
慶長19年(1614年)11月に始まった大坂冬の陣において、石川康勝は豊臣方の一武将として戦闘に参加した。同年12月、大坂城南方に築かれた出城・真田丸をめぐる攻防戦(真田丸の戦い)において、康勝に関する具体的なエピソードが伝えられている。
この戦いで康勝は、徳川方の松平忠直(越前藩主、家康の孫)の軍勢に対して砲撃を試みた。しかしその際、康勝配下の兵が操作を誤ったのか、あるいは火薬の品質に問題があったのか、不運にも火薬が誤爆する事故が発生し、康勝自身もこの爆発によって負傷してしまったという 2 。
興味深いことに、この火薬の誤爆音とそれに伴う混乱を、城外の徳川方は、城内の誰かが豊臣方を裏切り、内応の合図として烽火を上げたと勘違いした。これを好機と捉えた徳川軍の一部は真田丸への強襲を開始したが、待ち構えていた真田信繁らの豊臣方の激しい反撃に遭い、多大な損害を出して撃退されたとされている 2 。
このエピソードは、康勝が積極的に戦闘に関与していたことを示すと同時に、戦場における不運や偶発的な出来事が、時として戦況に予期せぬ影響を与えることを物語っている。火薬の誤爆という不手際ではあったが、結果的に徳川方の誤解を招き、敵の攻撃を誘発しつつもそれを撃退する一因となったという展開は、戦の複雑な様相を映し出している。また、この戦いで負傷しながらも、康勝がその後も戦線に留まり続けたことは、彼の豊臣方勝利にかける不退転の決意の表れであったとも考えられる。
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発し、豊臣方の命運を賭けた最終決戦が迫っていた。同月7日に行われた天王寺・岡山の戦いは、大坂の陣における最大の激戦であり、豊臣方の事実上最後の組織的戦闘となった。この決戦において、石川康勝は真田信繁(幸村)隊の寄騎(よりき)として布陣し、奮戦したことが記録されている 2 。「寄騎」とは、戦国時代において、ある有力な武将(寄親)の指揮下に配属され、その指示に従って行動する独立した部隊を持つ武士や小領主を指す言葉である 19 。康勝は自身の旧臣を中心とする部隊を率いて、信繁の指揮下に入ったと考えられる。
当時の布陣図によると、豊臣軍は茶臼山(ちゃうすやま)に真田信繁が本陣を構え、その西側のやや前方に、福島正守、福島正鎮、篠原忠照、浅井長房らの部隊と共に、石川康勝が約2,500の兵を率いて布陣したとされている 17 。これは、豊臣軍の左翼の一角を担う重要な配置であった。
戦いは熾烈を極め、真田信繁隊は寡兵ながらも徳川家康の本陣に幾度も突撃を敢行し、家康を一時危地に陥れるほどの猛攻を見せた。石川康勝もまた、この天王寺口での激戦の中で、信繁の指揮のもと勇猛果敢に戦ったと推測される。しかし、衆寡敵せず、豊臣方は次第に徳川方の圧倒的な兵力と火力によって追い詰められていった。
そして、この乱戦の最中、石川康勝は奮戦及ばず討死を遂げた 1 。その正確な時刻や状況、享年などは詳らかではないが、豊臣家の滅亡と共に、彼の波乱に満ちた生涯もまた戦場で幕を閉じたのである。
康勝が、大坂の陣において最もその名を轟かせた武将の一人である真田信繁の寄騎として、その最期の戦いに臨んだという事実は、彼が豊臣方において一定の武将としての評価と信頼を得ていたことを示唆している。信繁は、敗色濃厚な中でも最後まで諦めず、徳川本陣を脅かすほどの戦いぶりを見せたことで知られる 21 。その指揮下で戦うことを選び、命を散らした康勝の覚悟は相当なものであったろう。彼の最期は、豊臣家滅亡という歴史的転換点における、一人の武将の壮絶な生き様を象徴しており、改易され全てを失った彼が、最後に選んだ戦場で命を燃やし尽くした姿は、武士としての意地と誇りを示しているとも解釈できる。
大坂の陣には、康勝と同様に、関ヶ原の戦いでの敗戦などにより改易された大名や有力武将が多く参陣していた。いわゆる「浪人五人衆」(真田信繁、長宗我部盛親、後藤基次、毛利勝永、明石全登)に代表される彼らは 15 、それぞれが再起や旧主家への忠義、あるいは幕府への反発といった強い動機を抱えていた。例えば、長宗我部盛親や後藤基次もまた、関ヶ原の戦いやその後の経緯で改易され、再起を期して大坂方に馳せ参じた点で康勝と共通する背景を持つ 24 。康勝を個別の武将としてだけでなく、大坂の陣に参集したこれらの浪人武将群の一人として捉えることで、当時の社会情勢や武士の意識をより広範に考察することが可能となる。
石川康勝は、戦場での勇猛さだけでなく、文化人としての一面も持ち合わせていたことが史料からうかがえる。特筆すべきは、茶の湯に対する深い造詣である。康勝は、兄の康長と共に、当代一流の茶人であり、自身も武将であった古田織部(古田重然)に茶の湯を学び、慶長19年(1614年)4月22日付で、織部から茶の湯の皆伝を受けていることが確認されている(「南部家文書」による) 2 。
古田織部は、千利休の高弟の一人であり、利休亡き後の茶道界を牽引した人物である。彼は「織部好み」と称される、大胆かつ斬新で、しばしば歪みや破調を取り入れた自由闊達な美意識で知られ、茶器や建築、庭園などにその独創性を発揮した 27 。そのような当代随一の数寄者から皆伝を授けられるということは、康勝が茶の湯に対して並々ならぬ関心と熱意を注ぎ、高度な技量と深い理解を有していたことを示している。
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将たちにとって、茶の湯は単なる嗜好品や趣味の域を超え、精神修養の手段、重要な社交の場、さらには政治的な駆け引きや情報交換の舞台としての意味合いも持つ、極めて重要な文化であった 31 。織田信長や豊臣秀吉が茶の湯を奨励し、名物茶器を権力の象徴として利用したことはよく知られている。
康勝が大坂の陣で勇猛に戦った武将としての側面と、古田織部という一流の文化人から茶の湯の皆伝を受けるほどの洗練された文化的素養を併せ持っていたことは、彼の人物像に深みと奥行きを与える。師である古田織部自身も、武将でありながら数寄の道にも深く通じた人物であった 27 。康勝もまた、師の影響を受け、武と数寄の調和を目指した文化人武将であった可能性が考えられる。この事実は、康勝が単なる武骨な武人ではなく、精神性や美意識を重んじる豊かな内面を持っていたことを示唆し、彼の人間的魅力を伝えるものである。
興味深いのは、康勝が古田織部から皆伝を受けたのが慶長19年(1614年)4月22日という時期である点だ。これは、彼が大坂城に入城する直前、あるいは入城して間もない頃にあたる。改易され、浪人の身となり、まさに死地へ赴こうとする直前に茶の湯の奥義を究めたという事実は、彼が極限状況にあっても精神的な支えや美意識を求め続けたことの証左かもしれない。
古田織部は、漫画『へうげもの』などで描かれるように、既成の価値観や権威にとらわれない自由奔放な精神の持ち主、「へうげもの(剽げ者)」として知られている 27 。康勝がそのような革新的な人物に師事し、その教えの神髄を体得したということは、彼自身もまた、ある種の柔軟性や既成概念に挑戦する気質、あるいは既存の枠組みに収まりきらない個性を持っていた可能性を示唆する。父・数正の徳川家出奔、関ヶ原の戦いでの東軍参加、そして最終的な大坂の陣での豊臣方としての参陣という、康勝の複雑で波乱に富んだ経歴は、ある意味で既存の忠誠観や武士の生き方の規範からはみ出す、「へうげた」生涯であったと捉えることもできるかもしれない。古田織部との交流が、彼のそのような価値観や行動様式の形成に何らかの影響を与えた可能性も否定できないだろう。なお、師である古田織部自身も、大坂夏の陣後、豊臣方に内通したとの嫌疑をかけられ、徳川家康の命により切腹させられている 36 。弟子である康勝の豊臣方への加担が、織部の運命に影響した可能性も皆無とは言えない。
石川康勝の生涯を貫くテーマの一つは、激動の時代における「忠誠」と「選択」の問題である。彼の人生は、父・石川数正の徳川家出奔という、予期せぬ外的要因によって大きくその軌道を変えられた 2 。これにより、彼は徳川譜代の家臣の子から豊臣大名の子へと立場を変え、豊臣政権下で大名としての道を歩み始めることになった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、康勝は東軍(徳川方)に与して戦った 1 。この選択は、兄・康長の方針に従った結果なのか、石川家全体の存続を最優先に考えた現実的な判断だったのか、あるいは旧主家である徳川家への何らかの配慮があったのか、その真意を特定することは難しいが、当時の力関係や政治状況を考慮した上での苦渋の決断であった可能性が高い。
しかし、この東軍への参加も、彼のその後の運命を安泰なものにはしなかった。慶長18年(1613年)、兄・康長が徳川幕府内の政争とも言える大久保長安事件に連座して改易されると、康勝もまたそれに巻き込まれる形で全ての所領を没収され、浪人の身へと転落する 1 。関ヶ原での功績も顧みられず、理不尽とも言える処遇を受けたことは、康勝の徳川幕府に対する不信感や怨嗟の念を決定的なものにしたと考えられる。
この絶望的な状況下で、康勝は最後の選択をする。慶長19年(1614年)、豊臣秀頼の招きに応じ、大坂城に入城し、豊臣方として徳川幕府と対峙する道を選んだのである。そして、大坂冬の陣・夏の陣を通じて、旧臣たちを率いて奮戦し 2 、最後は真田信繁の寄騎として天王寺・岡山の戦いで壮絶な討死を遂げた 2 。この行動は、失った名誉と所領の回復を期した最後の賭けであったと同時に、徳川幕府に対する武士としての意地を込めた抵抗であったとも解釈できる。
康勝の胸中には、豊臣家に対する「恩」と、徳川家に対する「怨」が交錯していたのではないだろうか。父・数正と共に豊臣家に仕え、大名としての地位と所領を与えられたこと 1 は、豊臣家への恩義を感じさせるに十分であったろう。慶長18年の豊国祭礼に秀頼の名代として参詣したという事実は 1 、その心情の表れの一つであったのかもしれない。一方で、関ヶ原で味方したにもかかわらず、謂れのない嫌疑で改易されたことは、徳川家への強い不信感と反発心を抱かせたであろう。大坂の陣での彼の行動は、この豊臣家への「恩」に報い、かつ徳川家への「怨」を晴らすという、二重の動機に突き動かされた結果であったとも考えられる。
康勝の生涯は、父の出奔や兄の改易といった外的要因に大きく翻弄されたものであった。しかし、その都度、彼自身が状況を判断し、自らの意思で行動を選択してきた側面も見逃せない。彼の行動原理は、単純な「忠臣」や「裏切り者」といった紋切り型のレッテルでは到底捉えきれるものではない。むしろ、時代の大きなうねりの中で、自らの家と武士としての矜持を守ろうと苦闘した結果、複雑で波乱に満ちた経路を辿った人物として理解すべきであろう。
石川康勝は、父・石川数正の劇的な徳川家出奔に始まり、豊臣大名として信濃奥仁科に1万5千石の所領を得て一定の地位を築きながらも、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その後、兄・康長の改易に連座して全ての所領を失うという不運に見舞われ、最後は大坂の陣で豊臣方として参戦し、元和元年(1615年)に戦死するという、まさに波乱万丈の生涯を送った武将である。
彼の人生は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての、武士の生き様、忠誠のあり方、そして時代の大きな転換期に翻弄される個人の姿を象徴していると言える。康勝個人が歴史の大きな流れに与えた影響は限定的であったかもしれない。しかし、彼の存在は、いくつかの重要な歴史事象を多角的に理解するための一つの視座を提供する。第一に、徳川家康の重臣であった石川数正の子としての側面から、数正の出奔が家族に与えた影響を具体的に見ることができる。第二に、大久保長安事件の連座者として、江戸幕府初期の権力闘争や大名統制の実態を垣間見ることができる。そして第三に、大坂の陣における豊臣方参加武将として、敗れ去った側の論理や動機、そして彼らが抱いたであろう最後の望みや抵抗の様相を考察する上で貴重な事例となる。
特に、関ヶ原の戦いで一度は東軍(徳川方)に属しながらも、その後の改易という理不尽な処遇を経て、最終的に豊臣方として徳川幕府と戦い、散っていったという経緯は、当時の武将たちが置かれた複雑な状況と、彼らの内面の葛藤、そして忠誠の対象が必ずしも一様ではなかったことを如実に物語っている。
石川康勝の直系の子孫に関する情報は乏しく、大坂の陣で討死したため、その血脈が後世に繋がったかは定かではない 5 。石川廉勝という人物の名が史料に見えるが、これは石川忠総(数正の従兄弟の子孫とされる系統)の子であり、康勝の直接の子孫ではない 40 。康勝自身の墓所や供養塔についても、父・数正のものは信州などにいくつか存在が伝えられているが 42 、康勝自身のものは明確ではない。大坂で戦死したという状況を考えれば、特定の墓所が手厚く残されている可能性は低いかもしれない。
後世の軍記物などにおける康勝の記述は、父・数正や兄・康長、あるいは大坂の陣で活躍した他の著名な武将たちに比べて少ないかもしれない 44 。しかし、大坂の陣を描いた屏風絵などには、彼の率いた部隊が描かれている可能性があり 46 、そうした視覚史料を通じて、その存在を僅かながらもうかがい知ることができる。
康勝は最終的に歴史の「敗者」側に属することになった。しかし、彼の生涯を詳細に追うことで、徳川幕府成立という大きな歴史的出来事を、単に勝者の視点からだけでなく、敗れ去った側の論理や感情、そして彼らが抱いたであろう正義や忠誠の形をも含めて、より多角的に理解することができる。彼の存在は、歴史の多面性を認識し、単純な勝者史観に陥ることを避けるための重要な材料を提供する。特に、改易の経緯と大坂方への参加という彼の選択は、幕府の政策に対する反発や、豊臣家への恩義といった、敗者側の動機を具体的に示していると言えよう。
記録の少なさ自体が、歴史の中でどのように人物が記憶され、あるいは忘れ去られていくかという問題を提起する。しかし、断片的な記録を丹念につなぎ合わせ、その行間を読み解くことで、石川康勝のような歴史の陰に埋もれた人物にも光を当て、その生きた証を再構築することの意義は大きい。彼の生涯は、時代の奔流に抗い、あるいは翻弄されながらも、自らの信じる道を選び取ろうとした一人の武士の姿を、私たちに伝えているのである。