石川昭光は伊達晴宗の四男。陸奥石川氏を継ぎ、将軍義昭から偏諱を受け独立領主となる。小田原征伐不参で改易されるも、甥の伊達政宗に庇護され、仙台藩一門筆頭として石川家を再興した。
日本の戦国時代、その歴史は数多の英雄や梟雄たちの物語によって彩られている。しかし、その華々しい表舞台の影には、時代の激しい変化の波に翻弄されながらも、一族の存続をかけて必死に生き抜いた無数の武将たちが存在する。石川昭光(いしかわ あきみつ)もまた、そうした武将の一人である。彼は、奥羽の覇者・伊達家の御曹司として生まれながら、鎌倉以来の名門・石川家の当主として生きるという数奇な運命を辿った。その生涯は、独立領主としての栄光と挫折、そして甥である伊達政宗との複雑な関係、天下統一という抗いがたい奔流の中で、劇的な転変を遂げる。
小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収されたという一点をもって、彼の生涯を「失敗」と断じるのはあまりに早計である。その失脚の裏には、南奥羽の複雑な政治力学と、中央政権の思惑が渦巻いていた。そして何よりも、彼はその最大の危機を乗り越え、最終的には仙台藩において「一門筆頭」という最高の地位を確立し、一族を近世大名の家臣として見事に再生させた。
本報告書は、石川昭光という一人の武将の誕生から死に至るまでの全生涯を、当時の南奥羽の政治情勢、伊達家と周辺大名との関係性、そして天下統一という時代の激動と関連付けながら、詳細に描き出すものである。彼の行動の背景にある政治的、そして個人的な動機を深く考察し、単なる事実の羅列に終わらない、洞察に富んだ人物伝を構築する。昭光の生き様を通して、戦国末期から江戸初期へと至る時代の大きな転換期を、一人の武将の生存戦略という視点から解き明かすことを目的とする。
石川昭光の生涯の第一幕は、伊達家の一員という出自と、石川家の当主という立場との間で、いかにして独立した領主としての自己を確立しようと苦闘したかの物語である。彼の前半生は、南奥羽の複雑な権力闘争の渦中で、自家の存続を賭けた綱渡りの連続であった。
石川昭光は、天文19年(1550年)、伊達家第15代当主・伊達晴宗の四男として、羽州長井荘(現在の山形県米沢市)で生を受けた 1 。幼名は小二郎、または藤四郎と伝えられる 1 。
彼が生まれた頃の伊達家は、父・晴宗とその祖父・稙宗(たねむね)との間で繰り広げられた骨肉の争い「天文の乱」の傷跡がまだ生々しい時期であった。この内乱を制した晴宗は、乱によって動揺した伊達家の勢力を再建し、南奥羽における覇権を再び確立すべく、積極的な外交・軍事政策を展開していた。その戦略の重要な一環が、婚姻や養子縁組による周辺国人領主の伊達家勢力圏への取り込みであった。昭光の誕生と、その後の彼の人生は、まさにこの伊達家の勢力拡大戦略の文脈の中に位置づけられるものであった。
永禄6年(1563年)10月、昭光は14歳で、陸奥国石川郡の三芦城(みよしじょう)を本拠とする領主・石川晴光の養嗣子となった 1 。この養子縁組は、単なる家督相続の問題ではなく、高度に政治的な意味合いを持つものであった。
養子先の石川氏は、清和源氏の流れを汲み、源頼親を祖とする鎌倉時代以来の奥羽の名家である 2 。しかし、戦国時代の当時、その勢力は衰微し、北からは会津の蘆名氏、南からは常陸の佐竹氏という二大勢力からの圧迫を受け、一族の存続すら危ぶまれる状況にあった 5 。一方の伊達家にとって、この石川氏を自らの影響下に置くことは、南進の足掛かりを得ると同時に、宿敵である蘆名氏や佐竹氏に対する防壁を築く上で、極めて重要な意味を持っていた。昭光の養子入りは、まさにこの両家の利害が一致した結果であり、伊達家による石川氏取り込みのための戦略的な政略であった 4 。
この縁組に際し、昭光は石川晴光の娘・照子を正室に迎え、名を「小二郎親宗(ちかむね)」と改めた 1 。この「宗」の一字は、実家である伊達家が代々用いてきた通字であり、彼が伊達家の血を引く者であることを明確に示すものであった 1 。また、伊達家からは佐藤信景ら6名の家臣が彼に随従し、石川家の家臣団に加わっている 1 。
永禄11年(1568年)3月、養父・晴光が隠居したことに伴い、親宗は19歳で石川家の家督を相続し、第25代当主となった 1 。その2年後の永禄13年(1570年)2月、彼は大きな政治的行動に出る。上洛して、当時名目上の日本の支配者であった室町幕府第15代将軍・足利義昭に拝謁したのである 1 。
この時、彼は従五位下佐衛門太夫(じゅごいのげ さえもんのたいふ)に任官されると共に、将軍・義昭から偏諱(へんき)、すなわち名前の一字を賜るという栄誉を得た。そして、名を「親宗」から「昭光」へと改めた 1 。
この改名には、極めて重要な意味が込められていた。伊達家の通字である「宗」を名乗り続けることは、彼がいつまでも「伊達家から来た者」であり、石川家が伊達家の事実上の傀儡であることを内外に示すことに他ならなかった。これに対し、当代の将軍から「昭」の一字を拝領し「昭光」と名乗ることは、彼を単なる伊達家の一員という立場から、幕府によってその地位を公認された「独立した石川家の当主」へと昇華させる効果があった。これは、周辺の強大な勢力と渡り合っていく上で、実家である伊達家の威光に頼るだけでなく、幕府という最高の権威を自らの正統性の拠り所としようとした、昭光の主体的かつ巧みな生存戦略の現れであった。彼の生涯を貫くことになる「伊達家の血脈」と「石川家の当主」という二重のアイデンティティの葛藤を乗り越えようとする、最初の大きな一歩がこの改名に象徴されている。彼は、石川昭光という一人の独立した領主として、南奥羽の政治世界に立つことを宣言したのである。
表1:石川昭光の生涯と関連する主要人物・出来事年表
西暦 |
和暦 |
昭光の年齢 |
石川昭光の動向 |
伊達家(晴宗・輝宗・政宗)の動向 |
周辺勢力(蘆名・佐竹・田村等)の動向 |
中央(幕府・豊臣政権)の動向 |
1550年 |
天文19年 |
1歳 |
伊達晴宗の四男として誕生 1 |
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1563年 |
永禄6年 |
14歳 |
石川晴光の養子となり「親宗」と名乗る 1 |
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- |
1565年 |
永禄8年 |
16歳 |
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輝宗、家督相続 |
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1568年 |
永禄11年 |
19歳 |
石川家家督相続 1 |
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足利義昭、将軍就任 |
1570年 |
元亀元年 |
21歳 |
上洛し、将軍義昭より偏諱を受け「昭光」と改名 1 |
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- |
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1573年 |
天正元年 |
24歳 |
- |
- |
- |
室町幕府滅亡 |
1574年 |
天正2年 |
25歳 |
佐竹氏に服属し、三芦城に帰還 1 |
輝宗、関係諸家の調停に奔走 1 |
佐竹氏と蘆名氏が抗争 |
- |
1577年 |
天正5年 |
28歳 |
蘆名・田村連合軍に攻められ、養父晴光が連行される 1 |
- |
田村氏が佐竹氏から離反し蘆名氏と同盟 |
- |
1584年 |
天正12年 |
35歳 |
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政宗、家督相続 |
- |
- |
1585年 |
天正13年 |
36歳 |
人取橋の戦いで佐竹・蘆名連合軍として政宗と戦う 1 |
政宗、佐竹・蘆名連合軍と戦う |
佐竹・蘆名連合軍が伊達領に侵攻 |
- |
1589年 |
天正17年 |
40歳 |
摺上原の戦いの後、政宗に降伏 1 |
政宗、摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼす |
蘆名氏滅亡 |
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1590年 |
天正18年 |
41歳 |
小田原征伐に不参。奥州仕置により所領没収(改易) 4 |
政宗、小田原に遅参し、減封される |
- |
豊臣秀吉、小田原征伐・奥州仕置を断行 |
1598年 |
慶長3年 |
49歳 |
角田城主となり、伊達一門筆頭となる 8 |
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秀吉死去 |
1603年 |
慶長8年 |
54歳 |
嫡男・義宗に家督を譲り隠居するが、後に後見人となる 10 |
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徳川家康、江戸幕府を開く |
1614年 |
慶長19年 |
65歳 |
大坂冬の陣に従軍 1 |
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- |
大坂冬の陣 |
1615年 |
元和元年 |
66歳 |
大坂夏の陣・道明寺の戦いで武功を挙げる 10 |
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- |
大坂夏の陣、豊臣氏滅亡 |
1622年 |
元和8年 |
73歳 |
角田城にて死去 7 |
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- |
石川家の当主となった昭光を待ち受けていたのは、茨の道であった。石川氏の所領は、北の伊達、会津の蘆名、南の佐竹、そして東の田村といった、いずれも自家より強大な勢力に四方を囲まれた、地政学的に極めて困難な位置にあった。独立領主・石川昭光の統治時代は、これらの大国の狭間で、いかにして自家の存続を図るかという、絶え間ない緊張と外交の綱渡りの上に成り立っていた。
天正2年(1574年)、南奥羽の覇権を巡り、佐竹義重と蘆名盛氏との間で大規模な抗争が勃発すると、石川氏はその渦中に巻き込まれる。当初、石川氏は蘆名氏の支援を受ける白河氏と連携していたが、佐竹軍の猛攻の前に白河氏が大敗を喫すると、状況は一変する 1 。昭光は、自家の存続のため、最終的に佐竹氏に服属するという苦渋の決断を下し、それによってようやく本拠である三芦城への帰還を許された 1 。
この一連の動きの背後で、実兄である伊達輝宗(政宗の父)が、昭光を含む関係諸家の調停に奔走していたという事実は、昭光の置かれた立場の複雑さを物語っている 1 。彼は佐竹氏に頭を下げながらも、伊達家との繋がりを維持しなければならなかった。彼の行動は、主体的な勢力拡大を目指すものではなく、常に大国の意向に左右される受動的なものであり、伊達、佐竹、蘆名という三つの極の間で、自家の存続のみを目的とした必死の勢力均衡外交を展開せざるを得なかったのである。
しかし、そのような努力も、戦国の非情な現実の前には脆くも崩れ去る。天正4年(1576年)、それまで佐竹氏と同盟関係にあった田村清顕が、突如として同盟を破棄し、蘆名氏と手を結ぶという事件が起こる 1 。この裏切りは、石川氏にとって致命的な打撃となった。
翌天正5年(1577年)、新たに結成された蘆名・田村連合軍が石川領に侵攻。昭光はなすすべもなく、領地は制圧され、あろうことか養父の晴光が人質として蘆名氏の本拠・黒川城へと連行されるという最大の屈辱を味わうことになった 1 。昭光自身も居城である石川城に追い詰められるが、辛うじて落城は免れ、踏みとどまったと記録されている 1 。
この一連の苦難は、昭光個人の力量不足というよりも、彼のような中小国人領主が置かれていた構造的な限界を如実に示している。同盟は利害によって簡単に覆され、昨日の友は今日の敵となる。このような絶え間ない緊張と裏切りに満ちた経験は、昭光に極めて高い忍耐力と、甘い期待を排して状況を冷静に分析する現実的な判断力を植え付けたに違いない 11 。独立領主としては成功を収めることができなかったかもしれないが、この苦難の時代に培われた資質こそが、後に伊達家の重臣として重用されることになる彼の人間性の素地を形成したのである。彼の生涯は、戦国時代における単純な「勝者」と「敗者」の二元論では到底語ることのできない、複雑な「生存者」の物語であった。
昭光の前半生が南奥羽の地域的な権力闘争であったとすれば、その後半生は、甥・伊達政宗の台頭と、豊臣秀吉による天下統一という、抗うことのできない日本史全体の大きなうねりの中に身を投じていく過程であった。この時代、彼は独立領主としての道を完全に断たれることになる。
天正12年(1584年)、昭光の人生を大きく左右する出来事が起こる。兄・伊達輝宗が隠居し、その嫡男、すなわち昭光の甥にあたる伊達政宗が、わずか18歳で伊達家の家督を継いだのである。若き新当主・政宗は、父・輝宗や祖父・晴宗が進めてきた周辺勢力との協調路線を覆し、力による急進的な拡大政策へと舵を切った。
この政宗の攻撃的な方針転換は、南奥羽の勢力図を根底から揺るがした。特に、長年にわたり佐竹氏や蘆名氏との関係を慎重に維持することで、かろうじて命脈を繋いできた昭光にとって、政宗の行動は自らの外交努力と立場を完全に無に帰すものであった 6 。伊達家の一員でありながら、その当主である甥とは全く相容れない外交路線を取らざるを得ないという、絶望的なジレンマに陥った昭光は、結果として政宗と対立する道を選ばざるを得なかった。
この対立は、単なる個人的な感情のもつれや、叔父と甥の主導権争いではない。それは、昭光が代表する「南奥羽の旧来の秩序」、すなわち諸勢力の協調と均衡によって成り立つ世界と、政宗がもたらした「新たな覇権主義」、すなわち力による統一を目指す世界との、二つの時代のイデオロギー闘争であった。
天正13年(1585年)、政宗の拡大政策に危機感を抱いた佐竹義重や蘆名義広は、反政宗連合軍を結成し、伊達領に侵攻する。世に言う「人取橋の戦い」である。この時、昭光は自らの存立基盤を守るため、佐竹・蘆名を中心とする連合軍の一員として、甥である政宗に公然と弓を引いた 1 。
その後も昭光は、南奥羽の旧勢力と共に政宗への抵抗を続けた。しかし、時代の趨勢は、明らかに政宗に傾いていた。天正17年(1589年)、政宗は「摺上原の戦い」で宿敵・蘆名氏を壊滅させ、南奥羽の覇権を完全に手中に収める。この決定的な勝利を目の当たりにして、昭光はついに抵抗を断念。白河義親ら、最後まで抵抗を続けていた他の国人領主たちと共に、政宗の前に降伏し、その軍門に下った 1 。
この降伏は、鎌倉時代から続いた独立領主としての石川氏の歴史が、事実上終焉を迎えた瞬間であった。それはまた、昭光個人の敗北であると同時に、南奥羽の国人領主たちが自立性を失い、伊達家という単一の巨大な権力の下に従属していく時代の大きな転換点を象徴する出来事でもあった。彼は時代の変化を読み誤ったのではなく、抗いがたい変化の波そのものに飲み込まれたのである。そして、この降伏は、敗北であると同時に、新たな時代に適応するための、彼なりの現実的な選択でもあった。
政宗に服属し、伊達家臣団の一員となった昭光を、さらに大きな運命の渦が待ち受けていた。それは、中央で天下統一を推し進める豊臣秀吉の存在であった。
天正18年(1590年)、関白・豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして、関東に一大勢力を築いていた後北条氏の討伐を開始する(小田原征伐)。これに際し、秀吉は全国の大名に対し、小田原への参陣を命じた。これは、秀吉への服従を誓わせるためのものであり、これに従わない者は、豊臣政権への反逆者と見なされた 12 。
この参陣命令は、奥州の諸大名にも下された。そして、石川昭光のもとにも、秀吉から直接の参陣命令が届いた。彼が従五位下という高い官位を有していたため、政宗の陪臣という立場でありながら、独立した大名に準ずる存在として扱われたのである 6 。
命令を受けた昭光は、当然、小田原へ参陣するつもりであった。秀吉の命令に背くことが、いかに破滅的な結果を招くか、彼には痛いほどわかっていたからである。しかし、彼の主君となったばかりの甥、伊達政宗がその行動を制止した 4 。
政宗が昭光の参陣を止めた理由は、複雑な政治的思惑によるものであった。一つには、自らの家臣団に対する完全な統制を秀吉に見せつけるためであった可能性が高い。「自分の家臣は、陪臣であろうと、自分の命令によってのみ動く」という姿勢を誇示することで、伊達家当主としての権威と、奥州の覇者としてのプライドを守ろうとしたのである。しかし、これは中央の政治力学を読み違えた、極めて危険な賭けであった。
昭光は主君の命令に逆らうことができず、やむなく政宗に自身の名代として刀や馬などの献上品を託した 6 。だが、当の政宗自身が小田原への参陣の判断を先延ばしにし、大幅に遅参したことで秀吉の激しい怒りを買っていた。その結果、昭光は理由の如何を問われず、小田原に参陣しなかったと見なされてしまったのである。
小田原城を陥落させ、北条氏を滅ぼした秀吉は、その絶大な軍事力を背景に、奥州の領土再編、すなわち「奥州仕置」を断行する。その目的は、奥州の複雑な領主関係を整理し、豊臣政権の支配を徹底させることにあった。
この奥州仕置において、石川昭光は「小田原不参」の罪を問われ、先祖代々受け継いできた石川郡の所領を全て没収されるという、最も厳しい処分を受けた 6 。ここに、源氏の名門として500年以上にわたり続いた陸奥石川氏は、独立した大名としての歴史に完全に幕を下ろした 14 。
昭光にとって、これはまさに青天の霹靂であった。彼は、政宗のプライドと秀吉の天下戦略という、二つの巨大な意図が衝突した一点で、その犠牲となったのである。秀吉にとって、昭光の不参は、反抗的な奥州の大名・国人たちへの見せしめとし、伊達家の力を削ぐための格好の口実であった。この悲劇は、しかし、皮肉にも昭光の未来を拓く伏線となる。自らの判断が原因で叔父を路頭に迷わせてしまったという事実は、政宗に強い責任感と負い目を植え付けた 5 。この政宗の罪悪感こそが、後の昭光に対する破格の厚遇へと繋がっていくのである。人生最大の危機は、石川家が仙台藩の中で最も安定した高い地位を得るための、予期せぬ序章となった。
独立領主としての道を完全に絶たれた石川昭光。しかし、彼の人生はここで終わらなかった。むしろ、ここからが彼の真価が問われる第二の人生の始まりであった。彼は過去のプライドを乗り越え、新たな時代の役割に適応することで、一族を永続的な繁栄へと導いていく。
所領を失い、全てを失った昭光に手を差し伸べたのは、彼の改易の原因を作った甥の伊達政宗であった。強い責任を感じていた政宗は、昭光を自らの家臣として召し抱えた 5 。当初は松山城(現在の宮城県大崎市)を与えられたが 5 、慶長3年(1598年)、最終的に伊具郡角田(かくだ)に1万石の知行を与えられ、角田城主となった 8 。この所領は後に加増され、子孫の代には新田開発なども含めて2万1千石を超える大身となっている 3 。
政宗が昭光に与えたのは、領地だけではなかった。それは、仙台藩の家臣団における最高の家格である「一門」の、さらにその筆頭(首席)という、破格の待遇であった 3 。
「一門」とは、本来、伊達氏と対等の家格を持つ大名でありながら、伊達氏に帰順した名門に与えられる特別な地位である 3 。政宗は、昭光の伊達家の血筋と、石川家という源氏の名門としての歴史を最大限に尊重し、彼を家臣団の頂点に据えたのである。これは、単なる温情や罪滅ぼしではなかった。政宗にとって、かつては自分と渡り合ったほどの人物であり、南奥羽に広く名を知られた叔父・昭光を家臣団の筆頭に置くことは、自らの支配体制に権威と正統性を与えるための、極めて計算された統治術であった。それは、他の家臣たちに対して「功績と家格は正当に評価する」という明確なメッセージになると同時に、伊達家の懐の深さを内外に示す絶好の機会でもあった。
さらに、この関係は血縁によっても強化される。後に、昭光の嫡孫である石川宗敬(むねたか)のもとに、政宗の次女・牟宇姫(むうひめ)が嫁いだのである 16 。これにより、角田石川家は伊達家と二重三重の絆で結ばれ、その地位は盤石なものとなった。
角田城主となった昭光は、領内の統治にその手腕を発揮した。彼は城下町の建設、産業の振興、教育の奨励などに尽力し、その後の角田の発展の基礎を築いたとされている 9 。その統治の具体的な様子は、石川家の重臣であった和田家に伝来した『内留(うちどめ)』といった史料からも窺い知ることができる。この記録には、石川家の奥向きの年中行事や、領内の寺社への参詣、他家との交際、家中の制度などが詳細に記されており、昭光とその一族が角田の地で新たな領主として根付いていく過程が示されている 21 。
昭光は、独立領主としては時代の波に敗れた。しかし、彼は組織人として、新たな時代の価値観に適応することで大いなる成功を収めたのである。戦国的な「一国一城の主」という価値観から、近世的な「大名家中の重臣」という新たな役割へと自らを再定義し、その中で最高の地位を掴み取った。これこそが、彼の生涯における最大の功績であり、一族に永続的な安泰をもたらした英断であった。
伊達家一門筆頭として確固たる地位を築いた昭光は、晩年に至ってもその存在感を示し続けた。その武勇は老いてなお衰えることを知らず、数々の戦場で活躍した。
昭光は、豊臣政権下で行われた文禄の役(朝鮮出兵)にも従軍している 1 。そして、彼の武人としての最後の輝きは、徳川家と豊臣家の最終決戦であった大坂の陣で見られた。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には、65歳という高齢にもかかわらず、自ら兵を率いて伊達軍の一員として参陣した 1 。翌年の慶長20年(1615年)、大坂夏の陣における最も激しい戦闘の一つであった「道明寺の戦い」では、伊達軍の主力として奮戦し、敵兵の首を5つ挙げるという、年齢を全く感じさせない驚異的な武功を立てた 10 。かつて南奥羽の群雄の間で翻弄された老将が、天下分け目の戦場で若者顔負けの働きを見せたこの逸話は、彼が最後まで武人としての誇りを失わなかったことを示している。
大坂の陣の後、世は元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれる平和な時代を迎える。昭光は慶長8年(1603年)に一度、嫡男の義宗に家督を譲って隠居していたが、その義宗が早世したため、嫡孫である宗敬の後見人として、引き続き角田石川家の舵取りを担った 10 。
そして元和8年(1622年)7月10日、昭光は波乱に満ちた生涯の幕を、居城である角田城で静かに閉じた。享年73(一説に75歳) 1 。彼の死に際して、7名もの家臣が殉死(追腹)したと記録されている 1 。これは、彼が家臣たちからいかに深く敬愛され、強い主従関係で結ばれていたかの証左に他ならない。
昭光が築いた角田石川家は、彼の死後も、明治維新に至るまでの約270年間にわたり角田の地を治め、仙台藩における伊達一門筆頭の家格を代々保ち続けた 9 。彼の墓所は、菩提寺である角田市の長泉寺にあり、その荘厳な廟所は市の文化財(史跡)に指定され、今も大切に守られている 9 。
そして、彼の数奇な運命は、現代にも一つの繋がりを残している。かつて彼が独立領主として苦闘した旧領・福島県石川町と、改易後に新たな本拠地として再起を果たした新領・宮城県角田市は、石川昭光という一人の武将が結んだ縁によって、昭和53年(1978年)に姉妹都市の盟約を結び、今なお交流を続けている 16 。これは、時代に翻弄されながらも生き抜き、確かなものを次代に遺した彼の生涯が、数百年後の現代においてもなお、人々の心に語りかけている証と言えよう。
石川昭光の生涯を総括する時、我々は一人の武将の数奇な運命を通して、日本の歴史における巨大な構造転換を目の当たりにする。彼は、伊達家の血脈と石川家の家名という二重の宿命を背負い、南奥羽の独立領主として時代の波に抗い、そして敗れた。彼の物語がそこで終わっていれば、彼は数多いる「滅び去った戦国領主」の一人として、歴史の片隅に名を残すのみであっただろう。
しかし、昭光の真骨頂は、その敗北の先にあった。彼は、自らの改易の原因を作った甥・伊達政宗のもとで、家臣として再起するという、常人には耐え難い屈辱を受け入れた。そして、その新たな環境の中で自らの役割を再定義し、過去のプライドよりも一族の未来を優先する現実主義に徹した。その結果、彼は仙台藩における最高位「一門筆頭」の座を掴み取り、一族に近世を通じての安泰をもたらしたのである。
彼の人生は、戦国乱世の終焉と、近世封建体制の確立という、時代の大きなパラダイムシフトを一身に体現している。彼の選択と行動は、もはや個人の武勇や領地の広さだけでは生き残れない時代の複雑さの中で、忍耐、適応、そして冷静な現実認識がいかに重要な生存戦略であったかを我々に教えてくれる。
石川昭光は、歴史の表舞台を飾る派手な「天下人」や「英雄」ではない。しかし、彼は激動の時代をその身一つで受け止め、挫折から這い上がり、見事に生き抜いて、次代に確かなものを遺した「偉大な生存者」であった。そのしなやかで強靭な生き様は、歴史の勝者と敗者を分けるものが、単なる戦の勝ち負けだけではないことを、静かに、しかし力強く物語っている。石川昭光は、その忍耐と適応の生涯をもって、再評価されるべき人物である。