石川貞通は豊臣秀吉に仕え、武功と文治で活躍し大名となる。関ヶ原で西軍につき改易後、盛岡へ配流。子孫は盛岡藩士として家名を再興。豊臣政権の興亡と江戸初期の支配確立を体現した武将。
日本の歴史上、最も劇的な転換期の一つである関ヶ原の戦いは、数多の武将たちの運命を大きく変えた。その渦中で、豊臣政権下において一万石を超える大名にまで登りつめながら、戦いを境に歴史の表舞台からその名を消した一人の武将がいる。その名は、石川貞通(いしかわ さだみち)。彼の生涯は、豊臣秀吉に見出され、その政権を支え、そしてその崩壊と共に流転の後半生を送るという、まさに時代の激流に翻弄されたものであった。
石川貞通に関する研究は、徳川家康の重臣から秀吉のもとへ出奔した石川数正や、関ヶ原前哨戦の舞台となった犬山城主・石川貞清といった、同姓の著名な武将たちの影に隠れ、これまで断片的な記述に留まることが多かった。本報告書は、各地に散在する史料を丹念に繋ぎ合わせ、一人の武将の実像を可能な限り詳細に再構築することを目的とする。彼の出自から、豊臣政権下での活動、関ヶ原における決断、そして北国・盛岡での後半生と子孫の消息までを追跡することは、豊臣政権の構造、関ヶ原の戦いの多面的な影響、そして江戸幕府初期の支配体制の確立過程を、一個人の視点から深く理解するための貴重な事例研究となるであろう。
報告を進めるにあたり、読者の混乱を避けるため、まず石川貞通と混同されやすい主要な同姓武将との比較を以下の表にまとめる。この比較を通じて、本報告書の主題である貞通の独自の経歴と歴史的立ち位置を明確にしたい。
項目 |
石川 貞通(本報告書の主題) |
石川 貞清(犬山城主) |
石川 数正(徳川家重臣) |
出自・家系 |
越後石川氏(上杉家旧臣) 1 |
美濃石川氏(鏡島) 3 |
三河石川氏(徳川譜代) 5 |
主な主君 |
豊臣秀吉 → 秀頼 2 |
豊臣秀吉 → 秀頼 7 |
徳川家康 → 豊臣秀吉 8 |
主な所領 |
山城・丹波 1万2千石 2 |
尾張犬山 1万2千石 4 |
信濃松本 8万石 5 |
関ヶ原での動向 |
西軍(丹波田辺城攻め) 2 |
西軍(犬山城籠城後、本戦参加) 4 |
慶長2年(1597年)に死去 5 |
戦後の処遇 |
改易、南部利直へ預けられる 2 |
改易、助命される 7 |
(該当なし) |
石川貞通の家系は、徳川譜代の重臣である石川数正の三河石川氏や、関ヶ原の戦いで犬山城主であった石川貞清の美濃石川氏とは系統を全く異にする。由緒によれば、貞通の家は越後国沼垂郡石川邑(現在の新潟県周辺)を発祥とし、古くは越後上杉氏に仕えた一族であったと伝えられる 1 。この事実は、彼が豊臣政権内で自身の立場を確立する上で、重要な意味を持つことになる。
貞通の家の祖として、石川覚道(いしかわ かくどう)という人物の名が挙げられている 1 。覚道は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将であり、犬懸上杉家の当主・上杉憲藤に仕えた重臣であった。彼は、主君・憲藤が戦死した際、その遺児である幸松(後の上杉朝房)と幸若(後の上杉朝宗)の二人を保護し、鎌倉で養育したという忠節の逸話で知られる 12 。この覚道の功績により、犬懸上杉家は断絶を免れ、朝房と朝宗は後に関東管領に就任し権勢を誇った。石川氏は、長尾氏や斎藤氏、千坂氏と並び「北越の四家老」と称されるほどの古臣としての家格を有していたのである 12 。
石川貞通が豊臣政権下で、なぜ自身の出自を「越後上杉家旧臣・石川覚道の子孫」と強調したのか。これには、単なる事実の言明を超えた、高度な戦略的意図があったと推察される。
豊臣秀吉は、低い身分から天下人へと駆け上がったため、自身の政権の権威を補強する手段として、伝統的な家格や由緒を持つ武家を積極的に評価し、登用する傾向があった。貞通の前歴は定かではないが、天正年間の中国攻めの頃に秀吉に仕えたとされることから 2 、実力で頭角を現した新興の武将であった可能性が高い。そのような彼にとって、南北朝時代の忠臣を祖に持つ「由緒ある家柄」を標榜することは、豊臣政権内での自身の地位を固め、他の成り上がり大名との差別化を図る上で極めて有効な自己演出であったと考えられる。
さらに重要なのは、徳川家康の懐刀であった石川数正が徳川家を出奔し、豊臣家に仕えるという衝撃的な事件が起きた時期と、貞通が豊臣家で台頭する時期が重なる点である。政権内には、数正と同じ三河石川氏の一族と見なされることによる政治的リスクが存在した。そこで貞通は、「我々は数正の三河石川氏とは全く無関係の、由緒正しい別系統の石川である」と明確に主張した 2 。これは、自身の政治的アイデンティティを確立し、無用な憶測や派閥争いを避けるための、計算された行動であった可能性が極めて高い。彼は、自らの家系を語ることで、豊臣政権という新たな舞台で生き抜くための確固たる足場を築いたのである。
石川貞通が歴史の表舞台に登場するのは、羽柴秀吉に仕えてからである。その前歴は明らかではないものの、天正年間(1573年~1592年)の中国攻めの頃に秀吉の家臣団に加わったと見られている 2 。彼は武官として着実に戦功を重ね、天正12年(1584年)の小牧・長久手の役、そして天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍した 2 。特に小田原の陣では、田中和泉守と共に下野国小山城に駐屯する任を負っている 2 。これは、前線への兵站供給や後方連絡網の維持といった、大規模な軍事作戦における枢要な役割であり、貞通が単なる一兵卒ではなく、部隊を率いる能力を持つ武将として信頼されていたことを示している。
貞通の能力は、戦場での武勇だけに留まらなかった。天正17年(1589年)、彼は毛利高政と共に山城国の検地奉行に任命されるという大役を拝命する 2 。太閤検地は、全国の土地を測量し、石高を確定させることで、豊臣政権の経済的・軍事的基盤を確立する国家事業であった。この事業の奉行を務めるには、算術や法規に関する知識、そして在地勢力との交渉能力といった高度な実務能力が不可欠であった。貞通がこの役に抜擢されたことは、彼が武勇だけでなく、文治官僚としての優れた資質を秀吉から高く評価されていたことの証左に他ならない。この功績により、彼は山城国内で100石を加増され、その後の飛躍の足掛かりとした 2 。
検地奉行としての成功を皮切りに、貞通の知行は着実に増加していく。天正19年(1591年)には、丹波国天田郡の伊東村・前田村・今村において、合計2,021石を加増された 2 。さらに文禄3年(1594年)には、豊臣政権の新たな本拠地である伏見城の普請を分担している 2 。城の普請は、大名に課せられる重要な軍役であり、この時点で彼が相応の地位と動員力を持つ領主として認められていたことがわかる。そして慶長4年から5年(1599年~1600年)頃には、山城国および丹波天田郡において1万2,000石を領する大名へと成長を遂げた 2 。越後の旧臣の末裔は、実力によって豊臣大名の仲間入りを果たしたのである。
石川貞通の人物像を理解する上で、彼が持っていた文化人としての一面は非常に重要である。慶長4年(1599年)3月6日、彼は吉野で催された花見の会に参加している。この会の参加者の顔ぶれは、当時の政権中枢の文化サロンを映し出している。茶人として名高い古田織部、金森可重、そして後に大名茶人として大成する小堀遠州(政一)といった武士たち、さらには津田宗凡ら堺・京の裕福な町衆が名を連ねていた 2 。
この事実は、貞通が単なる地方領主ではなく、秀吉の側近たちが形成する中央の文化・政治サークルの一員であったことを強く示唆している。古田織部や小堀遠州は、単に茶の湯に長けていただけではなく、秀吉の文化政策を支え、大名間の社交や情報交換を司るキーパーソンであった。貞通が彼らと肩を並べて風雅を楽しむ間柄であったことは、彼が政権中枢と密接な繋がりを持っていたことを物語る。
この繋がりを決定づけるのが、慶長3年(1598年)の秀吉の死に際し、貞通が遺物として名刀「守光」を拝領したという事実である 2 。遺品の分与は、故人が特に信頼し、近しいと感じていた者に対して行われる。この栄誉は、貞通が秀吉個人から深い信頼と寵愛を受けていた「近臣」の一人であったことを何よりも雄弁に物語っている。彼のキャリアを総合すると、貞通は武功と文治の両面で能力を発揮する官僚型大名であり、同時に秀吉が作り上げた「豊臣体制」そのものに深く帰属する人物であった。この強固な帰属意識こそが、後の関ヶ原における彼の運命を決定づけることになるのである。
慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐を契機に天下分け目の戦いが勃発すると、石川貞通は迷うことなく西軍に与した 2 。これは、前章で詳述した彼の経歴を鑑みれば、極めて自然な選択であった。彼は秀吉個人に抜擢され、その政権中枢でキャリアを築き、文化的な交流を通じて豊臣体制に深く組み込まれていた。彼にとって、家康が主導する新秩序に従うことは、自らの主君であり恩人である秀吉とその遺児・秀頼への裏切りに他ならなかった。彼の西軍参加は、利害打算を超えた、豊臣家への忠誠心の発露であったと考えられる。
開戦後、貞通はまず大坂の守備を担当したのち、小野木重勝の指揮下に入り、丹波田辺城(現在の舞鶴城)の攻略戦に参加した 2 。この城には、東軍に与した細川忠興の父・細川幽斎(藤孝)がわずかな兵と共に籠城していた。
この田辺城攻めは、単なる軍事行動以上の意味合いを持っていた。細川幽斎は、武将であると同時に、歌道の古今伝授を受けた当代随一の文化人であり、朝廷とも深い繋がりを持つ人物であった。彼を攻め滅ぼすことは、文化的な損失を招き、朝廷の心証を損なう恐れがあった。事実、後陽成天皇が勅命を発し、幽斎の身柄と彼が持つ文化的な至宝を保護するに至る。貞通がこの重要かつ繊細な戦線に投入されたことは、彼の武将としての能力が西軍首脳部から高く評価されていたことを示している。彼は、西軍の勝利のために、その武力をためらうことなく行使したのである。
しかし、主戦場である関ヶ原での本戦は、小早川秀秋の裏切りなどにより、わずか一日で西軍の壊滅的な敗北に終わった。この結果、西軍に与した諸将は、戦後処理の対象となる。石川貞通も例外ではなかった。西軍に与し、田辺城攻めという具体的な軍事行動に積極的に参加した彼の行為は、家康に対する明確な敵対行為と見なされた。その結果、彼は所領である山城・丹波1万2,000石を全て没収され、大名としての地位を失う「改易」という最も厳しい処分を受けたのである 2 。
関ヶ原の戦いにおける貞通の行動は、他の多くの西軍武将のそれとは一線を画すものであった。この戦いでは、戦況を日和見したり、密かに東軍と内通して戦いを放棄したりする武将が少なくなかった。例えば、犬山城に石川貞清らと共に籠城した稲葉貞通や関一政らは、東軍の井伊直政に密書を送って内応を約束し、戦わずして城を明け渡している 4 。
これに対し、貞通は田辺城攻めに一貫して従事し、西軍の一員としての責務を最後まで果たそうとした。このような非妥協的な姿勢は、彼の豊臣家への忠誠心の篤さを示すものである。しかし、それは同時に、時勢を読んで身の振り方を柔軟に変えるといった、政治的な駆け引きには長けていなかったことも示唆している。戦後の処遇は、この「敵対行為の度合い」によって大きく左右された。単に西軍に属しただけで積極的な行動を取らなかった大名の中には、所領を減らされながらも家名の存続を許された者もいた。しかし、貞通のように明確な戦闘行為に参加した者は、容赦なく改易の処分を下された。彼の愚直なまでの忠誠心が、皮肉にも彼を大名の座から引きずり下ろす結果となったのである。
関ヶ原の戦後、改易処分となった石川貞通は、死罪を免れたものの、「預(あずけ)」の身となった。江戸幕府における「預」とは、武家法に由来する刑罰の一種であり、罪を犯した者の身柄を、大名家などの然るべき人物や団体に預けて監視・拘禁させる制度である 17 。
この制度は、特に大名や旗本といった高い身分の者が処罰される際に用いられた。これは、彼らを牢獄に入れることが武士の体面を損なうという身分制社会の建前と、拘禁施設が未整備であったという現実的な理由によるものであった 18 。関ヶ原の戦後処理においては、改易された元大名を、幕府が信頼する大名家に預けることが広く行われた。これは、対象者の再起を防ぐための監視という目的と同時に、預かった大名家に対して幕府への忠誠心を示す機会を与えるという、二重の意図を持っていた。預人の生活は、食事の内容や使用する食器、箸の長さに至るまで細かな規定が設けられることもあり 19 、決して自由なものではなかったが、一方で身の安全は保障された。
慶長6年(1601年)9月、石川貞通は、同じく西軍に与して改易された因幡鳥取城主・宮部長房、和泉岸和田の領主であった松浦安大夫(宗清)、そして岸田伯耆守らと共に、陸奥国盛岡藩の初代藩主・南部利直に預けられることが決定した 2 。彼らは、かつて栄華を誇った京や大坂を離れ、遠く北の地・盛岡へと送られることになったのである。
預かり先となった南部利直は、徳川家康から虎を拝領したという逸話が残るほど 22 、幕府からの信頼が厚い大名であった。そのような有力大名に預けられたこと自体、幕府が貞通らを厳重な監視下に置く意図があったことを示している。貞通らの盛岡での具体的な扶持(給与)や生活の様子を直接的に示す史料は乏しい。しかし、後に同じく南部藩預かりとなった栗山大膳(黒田騒動により配流)の事例を見ると、彼は盛岡では罪人として扱われることなく、比較的穏やかに過ごしたと伝えられている 23 。このことから、貞通らも元大名としての体面は保たれた処遇を受けていた可能性が高い。
石川貞通らにとって、南部家への「預」という処遇は、多層的な意味合いを持っていた。
第一に、それは紛れもなく「監視と統制」であった。幕府にとって、旧豊臣系の大名を、江戸から遠く離れた東北の雄である南部家に預けることは、彼らの政治的影響力を完全に断ち切り、再起の機会を奪うための物理的な隔離策であった。同時に、南部家に対しては、幕府への忠誠を示す「御用」を課すことで、その支配をより確実なものにする狙いがあった。
第二に、それは「保護と存続」の道でもあった。改易され浪人となれば、いつ敵対勢力から命を狙われるか分からない不安定な身となる。大名家預かりとなることで、少なくとも身の安全は保障され、さらに重要なことに、子孫がその大名家の家臣として再仕官し、家名を未来に繋ぐ道が開かれる可能性があった 2 。それは刑罰であると同時に、武家社会における一種のセーフティネットでもあったのである。
そして第三に、この配流が意図せずして「文化の伝播」という側面を持った可能性が考えられる。貞通は、古田織部や小堀遠州と交流のあった文化人であり 2 、共に配流された宮部長房の父・継潤は秀吉の御伽衆を務めたほどの人物であった 25 。彼らのような、豊臣政権の中枢で洗練された文化や政治に触れてきた人々が盛岡に移り住んだことは、当時の最先端であった京・大坂の文化、武家の故実、政治の裏話といった情報が、北の地に直接もたらされる貴重な機会となったはずである。彼らは単なる「預人」という存在に留まらず、図らずも中央の文化を地方へ伝える「担い手」としての役割を果たしたかもしれない。この点は、盛岡藩の文化史を考察する上で、見過ごすことのできない重要な視点と言えるだろう。
石川貞通が盛岡でいつ没したのか、その正確な没年は不詳である 2 。しかし、彼の血脈が途絶えることはなかった。史料には、貞通の子孫が南部家の家臣、すなわち盛岡藩士として家名を存続させたことが明確に記されている 2 。これは、預人という不遇の身から、主君に仕える武士として再びその地位を回復し、家の再興を成し遂げたことを意味する。父・貞通が関ヶ原で失ったものを、その子孫は北の大地で取り戻したのである。
盛岡藩が編纂した公式な家臣団の系譜集である『参考諸家系図』 26 や、藩の日常的な記録である『盛岡藩雑書』 27 、あるいは『奥南旧指録』 28 といった藩政史料には、数多くの「石川」姓の藩士が登場する 29 。これらの石川氏の中には、貞通の家系に連なる者たちが含まれていたと考えられる。
例えば、『参考諸家系図』には「石川久膳」の家系が記されており、その祖である石川門之丞昌清が寛文年間(1661年~1673年)に召し出されたとある 29 。この家系は代々、銅山奉行や勘定方といった藩の財政や行政を担う役職を歴任しており、藩内で一定の地位を築いていたことが窺える。貞通が持っていた文治官僚としての素質が、子孫にも受け継がれていたのかもしれない。これらの断片的な記録を繋ぎ合わせることで、貞通の血脈が盛岡藩の中でどのように根付き、貢献していったのかを垣間見ることができる。
貞通とその一族が眠る場所はどこか。その有力な候補として、盛岡市愛宕町に現存する恩流寺(おんりゅうじ)が挙げられる。盛岡藩の記録によれば、この恩流寺の墓地に石川氏の墓が存在したと記されている 31 。
この恩流寺は、単なる一寺院ではない。特筆すべきは、同じく南部藩預かりの身であった筑前福岡藩の元家老・栗山大膳の墓所としても知られていることである 23 。栗山大膳は、主君を巡る「黒田騒動」で幕府に直訴した結果、盛岡に配流された著名な人物である。
恩流寺に、石川氏と栗山大膳という、共に「預人」であった者たちの墓が存在するという事実は、極めて示唆に富んでいる。これは、盛岡に配流された者たちが、生前、そして死後においても、特定の寺院を介して一種のコミュニティを形成していた可能性を示唆している。
故郷を遠く離れ、監視下で暮らすという共通の境遇にあった彼らが、同じ寺を精神的な拠り所とし、菩提寺とすることは自然なことであっただろう。また、藩の側からしても、預人たちを特定の寺院にまとめることは、管理のしやすさという点で合理的であったかもしれない。
したがって、恩流寺は単なる墓所ではなく、盛岡における「預人文化」の中心地であったという仮説を立てることができる。貞通の子孫が盛岡藩士として正式に仕えるようになった後も、一族の出自、すなわち豊臣大名であった父祖の記憶を留める場所として、この寺を大切に守り続けたのではないだろうか。共に預人となった宮部長房の子孫は、後に多賀姓に改め、家老職を務めるまでに至った 33 。他の預人たちの家系のその後と、彼らの菩提寺を比較調査することで、この仮説はさらに強固なものとなるだろう。石川貞通本人の墓碑が今なお現存するかは定かではないが、恩流寺が、彼の流転の生涯とその一族の終着点を象徴する場所である可能性は極めて高いと言えよう。
石川貞通の生涯を丹念に追跡する作業は、歴史の大きな物語の陰に埋もれた、一人の武将の鮮やかな実像を浮かび上がらせる。彼の人生は、豊臣政権下での立身出世、秀吉個人への深い忠誠、そして関ヶ原の戦いでの敗北という、多くの豊臣恩顧の大名が辿った典型的な軌跡をなぞっている。しかし、その細部には、彼ならではの個性と、時代を生き抜くための強靭さが刻まれている。
第一に、彼は自らの出自を戦略的に用いる知性を備えていた。越後の名門・石川覚道の子孫と称することで、豊臣政権内での自身の価値を高め、政治的な立場を巧みに確立した。第二に、彼は武勇と文治の両面に優れた能力を持つ、豊臣政権が理想とした官僚型大名であった。戦場での武功に加え、検地奉行として国家事業を遂行し、さらには当代一流の文化人たちと交流する洗練された一面も持ち合わせていた。第三に、関ヶ原における彼の選択は、日和見や裏切りが横行する中で、一貫して西軍として戦い続けるという、愚直なまでの忠誠心を示している。この非妥協的な姿勢が、結果として彼を改易へと導いた。
そして最後に、彼の物語は敗北で終わらなかった。北国・盛岡へ預人の身として送られながらも、彼とその一族は断絶することなく、子孫は盛岡藩士として家名を再興させた。これは、江戸幕府初期の「預人」制度が、単なる刑罰ではなく、旧勢力を無力化しつつも、体制内に再編・吸収していくという高度な統治技術であったことを示す好例である。
石川貞通は、歴史の大きな転換点に翻弄されながらも、武士としての矜持を保ち、家名を未来へと繋いだ一人の人間であった。彼の埋もれた生涯に光を当てることは、戦国末期から江戸初期という激動の時代を、勝者の視点からだけでなく、より深く、より多層的に理解するための貴重な鍵となる。彼の存在は、歴史の敗者としてではなく、自らの信念に殉じ、新たな環境で家を存続させた強かな武将として、再評価されるべきである。