最終更新日 2025-05-17

石川高信

「石川高信」の画像

石川高信に関する調査報告

1. 序論:石川高信とその時代背景

石川高信(いしかわ たかのぶ)は、日本の戦国時代、15世紀末から16世紀後半にかけて主に陸奥国(現在の東北地方の一部)で活動した武将である。彼の生きた時代は、室町幕府の権威が失墜し、日本各地で戦国大名が群雄割拠して実力による領国支配を競い合った動乱期にあたる。特に陸奥国では、南部氏、葛西氏、大崎氏といった伝統的豪族に加え、伊達氏のような新興勢力が台頭し、さらに北辺では安東氏(のちの秋田氏)や津軽地方の在地勢力などが複雑な権力闘争を繰り広げていた。

石川高信は、このような背景のもと、陸奥国北部に広大な勢力圏を有した南部氏の一族として、一族の勢力拡大と維持、とりわけ戦略的に重要な津軽地方の統治において中心的な役割を担った人物である。彼の生涯は、中央政権の統制が及びにくい辺境地域における、在地勢力間の絶え間ない抗争と、一族内部の権力構造の複雑さを色濃く反映していると言えよう。高信の津軽における活動と彼の死(その時期や状況については諸説存在する)は、結果として南部氏の津軽支配に大きな転換点をもたらし、後の津軽為信の独立と津軽氏の成立に深く関わることとなる。本報告では、現存する諸史料に基づき、石川高信の生涯と事績、そして彼が歴史上果たした役割について詳細に検討する。

2. 石川高信の出自と南部氏における立場

2.1. 生誕と家系

石川高信は、明応4年(1495年)、南部氏の本拠地である三戸城(現在の青森県三戸町)において、南部家第22代当主・南部政康(なんぶ まさやす)の次男として誕生した 1 。兄には、後に南部氏第23代当主となる南部安信(なんぶ やすのぶ)がいる 2 。南部氏は甲斐源氏の流れを汲む名門であり、鎌倉時代以来、陸奥国糠部郡などを領してきた有力な武家であった。戦国時代に至り、南部氏はその勢力をさらに拡大し、陸奥国北部における最有力大名の一つとしての地位を確立していた。

南部氏のような大族においては、惣領以外の男子、特に高信のような次男以下の者は、本家の勢力基盤を強化・安定させるための重要な役割を担うことが多かった。具体的には、分家を創設して一族の支配領域を拡大したり、あるいは戦略的要衝や係争地の統治を任されたりするケースが一般的であった。高信が後に石川城を拠点とし、津軽地方の統治を任されたことは、まさにこのような戦国武家の慣行に沿ったものであったと言える。南部政康の次男という出自は、彼が南部氏の中核に近い血縁者であることを意味し、これが後の活動における信頼の基盤となった一方で、兄・安信やその子である甥・晴政との関係性においては、時に微妙な立場に置かれる可能性も内包していた。

2.2. 呼称(石川姓の由来)

石川高信は、当初は南部姓を名乗っていたと考えられるが、後に石川姓を称するようになる。これは、大永4年(1524年)、兄である南部安信の命を受けて津軽地方の平定に赴き、津軽石川城(現在の青森県弘前市石川町)を居城としたことに由来するとされる 3 。武士がその居城や所領の地名を姓とすることは「在名(ざいみょう)」と呼ばれ、その土地に対する支配権を確立し、地域社会における自らの存在を明確に示す行為であった。したがって、「石川」という姓は、高信が津軽の石川城を拠点とする南部氏の代理人であり、津軽統治の責任者としての立場を象徴するものと言える。

また、高信は糠部帯刀左衛門(ぬかのぶ たちわきさえもんのじょう)や石川左衛門尉(いしかわ さえもんのじょう)といった官途名や通称でも呼ばれていた 2 。これらの呼称は、当時の武士社会における彼の地位や役割を示すものであった。「石川高信」という呼称が後世の記録において定着していることは、彼が南部本宗家とは一定の距離を保ちつつも、津軽という特定地域に深く関与し、その地における南部氏の権益を代表する人物であったことを示唆している。

2.3. 南部氏における役割と信頼

盛岡藩の編纂した後世の古文書によると、石川高信は「智勇兼備の名将」と評され、兄である南部安信から絶大な信任を得て、津軽地方の統治という重責を任されたと記録されている 1 。安信の死後、その跡を継いだ甥(安信の子)である南部晴政(なんぶ はるまさ)の代になっても、高信への信任は変わらず、引き続き重用され、若年の晴政を補佐する役割も担ったとされる 1

戦国時代の武家社会において、一族内の強固な信頼関係は、組織の安定と勢力拡大に不可欠な要素であった。高信が南部氏の惣領家から寄せられた深い信頼は、彼の個人的な能力や資質もさることながら、惣領家に近い血縁者であったことにも支えられていたと考えられる。特に、中央の目が届きにくい遠隔地であり、かつ複数の在地勢力が存在した津軽地方の統治を任せるにあたり、裏切りのリスクが少ない近親者を起用するという判断は、当時の状況を鑑みれば合理的であったと言えよう。高信が安信・晴政という二代の当主にわたって重用された事実は、彼が単なる縁故者ではなく、実務能力においても高い評価を得ていたことを示唆している。彼の存在は、南部氏の津軽支配がある一定期間安定していた重要な要因の一つであり、中央から離れた津軽地方における南部氏の権威を支える柱となっていたのである 2

3. 津軽郡代としての石川高信

3.1. 石川城主としての津軽統治

石川高信は、天文二年(1533年)頃、南部氏による津軽平定作戦の一環として、あるいはその後に「津軽郡代」として石川城(別称:石川大仏ケ鼻城、現在の青森県弘前市石川)に入り、津軽地方の統治を開始したと伝えられている 5 。この石川城は、津軽平野の南の入口に位置する戦略的要衝であり、南部氏の津軽支配における中心的な拠点であった 6

「郡代」という役職は、本拠地から離れた領域を統治するために主家から派遣される代官であり、軍事指揮権と行政権を併せ持つ場合が多い。高信の津軽郡代としての任務は、南部氏の支配権を津軽の隅々まで浸透させ、在地勢力を掌握し、年貢の徴収や治安維持、さらには北方からの脅威(例えば安東氏など)への備えといった多岐にわたるものであったと推測される。津軽地方は、古くからの在地領主や、南部氏とは異なる系統の武士団(例えば浪岡北畠氏など 8 )も存在した複雑な地域であり、郡代としての統治は決して容易ではなかったはずである。高信の統治は、軍事的な圧力だけでなく、在地勢力との巧みな交渉や懐柔策も必要としたであろう。石川城を拠点とした彼の統治活動は、南部氏の勢力圏を実質的に拡大し、津軽地方の経済的・軍事的資源を南部氏が利用するための基盤を築く上で重要な意味を持っていた 6

3.2. 「智勇兼備の名将」としての評価と具体的な活動

石川高信は、後世の盛岡藩の古文書において「智勇兼備の名将」と称賛されている 1 。この評価は、彼が長期間にわたり津軽地方の統治を維持し、南部氏の勢力拡大に貢献した実績を反映したものであろう。しかしながら、彼の具体的な統治政策や、軍事指揮官としての詳細な戦術、あるいは「智勇」を示す具体的な逸話に関する一次史料は、現時点では乏しいと言わざるを得ない。

「智勇兼備」という評価は、後世の編纂物において有能な武将を称える際の定型的な表現である可能性も考慮に入れる必要がある。提供された資料の中では、具体的な活動として津軽為信による石川城奇襲の際の対応や、南部側の資料で彼が落ち延びたとされる記述 10 が見られる程度で、統治者としての善政や軍略家としての詳細な功績を具体的に示す記録は限定的である。これは、戦国時代の地方史に関する詳細な記録が散逸しやすいという一般的な傾向や、後世の関心が特定の劇的な事件(例えば津軽為信の台頭と南部氏からの独立)に集中しがちであることなどを反映しているのかもしれない。

しかしながら、高信の「智勇」が具体的にどのような形で発揮されたのかは不明瞭な部分が多いものの、彼が津軽の地で一定の求心力を持ち、南部氏の支配体制を支える重要な存在であったことは、彼の死後(あるいは津軽からの離脱後)に津軽地方における南部氏の支配力が急速に弱体化し、津軽為信の独立を許すことになったという歴史的経緯から逆説的に推測することができる 2 。もし高信が無能な統治者であったならば、彼の死を待たずして津軽地方は混乱し、南部氏の支配はより早期に揺らいでいた可能性が高い。彼が統治していた期間の相対的な安定が、その後の混乱と対比されることで、彼の存在の重要性を際立たせているとも言えるだろう。

4. 主要な軍事的活動と関連事件

4.1. 安東愛季との鹿角郡を巡る攻防

石川高信の活動期間中、南部氏の領国は、隣接する諸勢力との間で緊張関係にあり、しばしば武力衝突が発生していた。特に、南部領の西に位置する鹿角郡(現在の秋田県鹿角市周辺)は、出羽国の有力大名である安東愛季(あんどう ちかすえ)との間で領有権を巡る長年の係争地であった。鹿角郡は、両勢力の境界に位置する戦略的要衝であると同時に、鉱物資源なども存在した可能性があり、経済的にも重要な地域であったため、両者の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。

史料によれば、永禄9年(1566年)から永禄11年(1568年)にかけて、安東愛季は数度にわたり鹿角郡へ侵攻した 4 。これに対し、南部晴政は石川高信の子である田子信直(後の南部信直)を大将とする救援軍を派遣し、激しい攻防の末に安東軍を撃退し、鹿角郡の奪回に成功したとされる 12 。この一連の戦いにおいて、石川高信自身が直接前線で指揮を執ったという明確な記録は多くないものの、津軽郡代として南部氏の重要な一翼を担っていた彼が、この鹿角郡を巡る攻防に何らかの形で関与していた可能性は高い。例えば、後方支援、兵站の確保、あるいは津軽方面からの安東氏の牽制など、南部氏全体の防衛戦略の中で重要な役割を果たしたと考えられる。このような境界領域での継続的な紛争は、在地武士団の軍事力を消耗させる一方で、外交戦略や他の勢力との同盟関係の構築を促す要因ともなった。

4.2. 大浦為信の台頭と石川城の戦い

石川高信の晩年における最大の事件は、南部氏の家臣であった大浦為信(おおうら ためのぶ、後の津軽為信)の独立と、それに伴う石川城の失陥であった。大浦氏はもともと南部氏の一族あるいは有力な被官であり、津軽地方西部に勢力を持っていたが、為信の代になると、南部宗家の家督継承を巡る内紛や、当主晴政と養子信直(高信の子)との不和といった南部氏内部の混乱に乗じて、津軽地方の完全な独立を目指す動きを活発化させた 4

為信は、周到な調略と武力を駆使して津軽地方の諸城を次々と攻略し、勢力を拡大していった。そして、元亀二年(1571年)5月5日(諸説あり)、為信は石川高信が守る南部氏の津軽支配の拠点・石川城を急襲した 5 。この石川城攻略戦の経緯については、いくつかの記録が残されている。例えば、為信が堀越城の落成祝いと称して高信を誘い出し、その隙に石川城を攻撃したという謀略を用いたとする説 14 や、ならず者を使って城下に放火し混乱させ、その隙に攻め入ったという非情な戦術を用いたとする説 15 などがあり、為信の「辣腕」ぶりを伝えている 8

この戦いの結果、石川城は落城し、城主であった石川高信の消息については後述するように諸説あるものの、南部氏の津軽支配は決定的な打撃を受けることとなった。石川城の陥落は、単に一城の喪失に留まらず、南部氏の津軽における権威の失墜を象徴する出来事であり、津軽為信による津軽統一と独立への道を大きく開いたと言える。この事件は、北奥羽における戦国時代の勢力図を大きく塗り替える重要な転換点の一つであった。

5. 没年に関する諸説と史料的検討

石川高信の没年については、確実な史料に乏しく、複数の説が存在しており、歴史研究上の大きな論点の一つとなっている 1 。これは、戦国時代の記録がしばしば勝者の視点から書かれたり、後世の編纂によって内容が変化したりすること、そして石川高信の死が南部氏と津軽氏の双方にとって重要な意味を持つ事件であったことなどを反映していると考えられる。

5.1. 元亀二年(1571年)説

最も広く知られている説の一つが、元亀二年(1571年)5月5日に、大浦為信による石川城奇襲の際に討死、あるいは自害したとするものである 1 。この説の主な根拠となっているのは、民間記録とされる『永禄日記』や、津軽側の編纂物である『津軽一統志』などの記述である 16 。『永禄日記』には、「大浦殿五百騎程にて石川大淵ヶ先へ押寄、大膳殿(高信を指すか)を落し候由」とあり、伝聞の形で高信の敗死を伝えている 2 。また、歴史講座「南部と津軽の秘史」に関する資料では、この元亀二年自刃説こそが、三戸南部氏によって隠蔽された史実であると主張されている 14 。この説は、津軽氏の立場から見れば、為信の独立と津軽統一の輝かしい起点となる戦果を強調するものであり、劇的な描写とともに語られることが多い。

5.2. 天正九年(1581年)説

一方、南部氏側の記録、特に『祐清私記』などでは、石川高信は元亀二年の石川城攻防戦では死なず、その後も生存し、天正九年(1581年)に病死した、あるいは津軽で死去したと伝えられている 1 。例えば、『祐清私記』には「天正九年二月十一日石川左衛門尉高信津軽にて病死」との記述が見られる 16 。この説は、高信の死を津軽為信による敗死ではなく、病死とすることで、南部氏の権威失墜の印象を和らげようとする意図があった可能性も指摘されている。ただし、 16 の記述によれば、天正九年説も確実な傍証史料に恵まれているわけではないとされる。

5.3. その他の説・史料

上記二説以外にも、高信の没年や晩年に関する断片的な情報がいくつか存在する。

  • 『奥南落穂集』では、天正八年(1580年)に石川城で病死したという説が採られている 2
  • 黒石市浅瀬石の星田家文書には、「石川左工門之介源高信は南部に行きて未だ還らず。城中支うる者なかりしかば為信は戦わずして攻略すること得たり」あるいは「南部高信が来たりて津軽を総監せしが、留守中為信に攻められ落城したり」といった記述があり、高信が石川城を留守にしていた間に為信が城を攻略したことを示唆しており、元亀二年の城中での討死説とは異なる状況を伝えている 2
  • 弘前市の大行院に伝わる元禄十五年(1702年)の書上帳には、「十一面観音堂 寺山館ニ石川大膳天正二年ノ本尊長サ一尺五寸木造石川殿安置仏云」との記述があり、これが事実であれば、天正二年(1574年)の時点で高信が生存し、仏像を安置した可能性を示唆するものとなる 2

これらの史料は、高信の没年を直接的に確定するものではないものの、元亀二年説に対して疑問を投げかける材料となりうる。

5.4. 石川高信の没年に関する主要説と根拠史料一覧

石川高信の没年に関する主要な説と、その根拠となる史料、および各史料の性格や留意点を以下の表にまとめる。

没年説

主な根拠史料

史料中の記述概要

史料の性格・留意点

元亀二年 (1571年)

『永禄日記』、『津軽一統志』

大浦為信の奇襲により石川城で自害・討死 1

津軽側記録、民間記録。『永禄日記』は伝聞の可能性(「候由」)。為信の武功を強調する傾向。 14 では南部氏による隠蔽説も。

天正九年 (1581年)

南部氏側記録 (『祐清私記』など)

津軽にて病死 1

南部氏側記録。敗死を避けた記述の可能性。 16 では傍証史料の不存在を指摘。

天正八年 (1580年)

『奥南落穂集』

石川城で病死 2

後世の編纂物。

その他

黒石市浅瀬石星田文書、大行院書上帳

1571年以降も生存の可能性を示唆 (石川城留守説、天正二年の仏像安置) 2

間接的な情報。没年を直接示すものではないが、1571年説への反証となりうる。

5.5. 総合的考察

石川高信の没年に関する諸説は、それぞれ異なる史料的背景を持っており、一概にいずれが正しいと断定することは現時点では困難である。元亀二年説は津軽側の視点が強く反映され、為信の独立を劇的に描く傾向があるのに対し、天正九年説は南部側の立場から語られている可能性が高い。その他の史料も断片的であったり、後年の編纂であったりするため、決定的な証拠とはなりにくい。

この没年の不確かさは、石川高信という人物の評価や、南部氏の津軽支配の実態、そして津軽為信の独立過程を詳細に解明する上で、依然として大きな研究課題となっている。もし高信が1571年に死去していたとすれば、その後の約10年間、南部氏は津軽に対して有効な手を打てなかったことになり、南部氏の統治能力の限界を示すことになる。逆に、もし1581年まで生存していたとすれば、その間の津軽地方の情勢や高信の具体的な役割について再検討が必要となり、為信の独立がより長期にわたる南部氏との抗争の結果であった可能性も出てくる。このように、高信の没年は、16世紀後半の北奥羽の歴史解釈に大きな影響を与える要素なのである。

6. 石川高信と南部信直

6.1. 実父子関係と南部宗家への影響

石川高信の歴史的重要性は、彼自身の事績に加えて、彼が南部信直(なんぶ のぶなお)の実父であったという点にも求められる。南部信直は、後に南部氏第26代当主となり、豊臣秀吉による奥州仕置や九戸政実の乱といった困難な時代を乗り越え、近世盛岡藩の基礎を築いた人物として「南部家中興の祖」と高く評価されている 1 。信直は高信の長男(あるいは庶長子)として天文15年(1546年)に生まれたとされる 2

信直という南部氏にとって極めて重要な人物の父であったという事実は、石川高信の歴史的評価にも影響を与えている可能性がある。信直の輝かしい功績の陰で、父である高信の人となりや具体的な事績に関する記録が相対的に少ない中でも、信直の父祖として一定の注目が集まるのは自然な流れと言える。高信の津軽統治の経験や、大浦為信との対立といった出来事は、直接的あるいは間接的に息子である信直の人格形成や、後の南部家当主としての政治的判断、特に辺境地の統治の難しさや家臣団掌握の重要性といった点において、何らかの影響を与えた可能性が考えられる。

6.2. 南部晴政との関係性と家督問題への関与

石川高信は、甥にあたる南部氏第24代当主・南部晴政からも重用され、若年の晴政を補佐したと伝えられている 1 。晴政には当初男子がおらず、高信の子である信直を長女の婿養子として迎え、後継者と目していた時期があった 4 。しかし、元亀元年(1570年)に晴政に実子である南部晴継(なんぶ はるつぐ)が誕生すると、晴政は信直を次第に疎んじるようになり、南部家の家督継承を巡って深刻な対立が生じた 4 。この家督問題は、南部氏の家中を晴政・晴継派と信直派に二分するほどの事態に発展したとも言われる 14

石川高信自身が、この南部氏内部の家督問題に具体的にどのように関与したのかを示す直接的な史料は少ない。しかし、実子である信直が一方の当事者であったことを考えれば、高信がこの問題に全く無関係であったとは考えにくい。歴史講座「南部と津軽の秘史」に関する資料では、高信は信直派(石川党)に属していたと示唆されている 14 。もしそうであれば、晴政との関係も微妙なものとなり、津軽における高信の立場にも影響を及ぼした可能性がある。実際に、一部の記録では、晴政が実子・晴継を溺愛するあまり、信直やその父である高信への支援が手薄になったり、あるいは為信討伐よりも信直への警戒を優先したかのような記述も見られる 4 。このような南部氏の内紛が、大浦為信による石川城攻撃の成功、ひいては津軽独立の間接的な要因となったという見方も成り立つであろう。高信の死(特に元亀二年説を採る場合)と、南部氏の家督問題の深刻化は、結果として南部氏の勢力衰退と津軽氏の台頭という、地域のパワーバランスの変化を加速させる一因となったと考えられる。

7. 関連史跡と伝承

7.1. 石川城跡(大仏ヶ鼻城、現・大仏公園)

石川高信が津軽郡代としての拠点とした石川城は、現在の青森県弘前市石川にその跡地が残されている。この城は「大仏ヶ鼻城(おおふちがはなじょう、またはだいぶつがはなじょう)」とも呼ばれ、現在は「大仏公園(だいぶつこうえん)」として市民に親しまれる場となっている 13

城の築城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に津軽の在地領主であった曽我道性によると伝えられている 13 。その後、南部氏の勢力が津軽に及ぶ中でその支配下に入り、天文二年(1533年)に石川高信が居城としたとされる 6 。しかし、前述の通り、元亀二年(1571年)に大浦為信の急襲を受けて落城。その後は津軽氏の所有となり、家臣の板垣将兼らが守ったが、慶長十六年(1611年)に弘前城が築城されるとその役割を終え、廃城となった 13

現在の石川城跡(大仏公園)には、城の歴史を記した案内板が設置されており、往時の姿を偲ばせる段郭状の地形が一部確認できる 20 。しかし、公園としての整備が進み、特にアジサイの名所として知られているため、城郭遺構としての保存状態や歴史的景観の維持については、必ずしも十分とは言えない状況も指摘されている 22 。石川城跡は、石川高信の活動拠点としてのみならず、津軽地方の古代から近世に至る歴史の変遷を物語る重要な史跡であるが、その歴史的意義が地域社会において十分に共有・活用されているかについては、今後の課題と言えるかもしれない。

7.2. 墓所や供養塔に関する情報の現状

石川高信の明確な墓所や供養塔に関する情報は、現存する史料や調査からは乏しいのが現状である。例えば、青森県南部町が発行する「奥州街道文化財マップ」などでは、高信の兄である南部安信の宝篋印塔や、息子である南部信直夫妻の墓石についての言及はあるものの、高信自身の墓に関する直接的な記述は見当たらない 17

戦国時代の武将、特に合戦で討死したり、政争に敗れたりした人物の墓所が不明確であることは決して珍しいことではない。記録が散逸したり、敵対勢力によって墓が破壊されたり、あるいは後の時代に改葬されて場所が分からなくなったりするケースは数多く存在する。石川高信の場合、その最期について諸説あること自体が、彼の死後の扱いが曖昧であった可能性を示唆している。もし大浦為信によって討たれたのであれば、手厚く葬られたとは考えにくい。また、南部側の記録に従って病死したとしても、その後の津軽地方の情勢を考えると、石川城の周辺に大規模な墓が築かれたとは考えにくい。

墓所の不明確さは、石川高信という人物の歴史におけるある種の「影」の部分を象徴しているとも言えるかもしれない。華々しい活躍や明確な最期が記録として残りにくい武将の一人であった可能性も否定できない。息子である南部信直の墓は明確に存在し、手厚く祀られているのとは対照的であり、歴史の中で光が当たる人物とそうでない人物の差を示す一例とも考えられる。

8. 結論:石川高信の歴史的意義

石川高信は、戦国時代の陸奥国北部、特に南部氏の津軽支配において、その安定期から大きな転換期にかけて重要な役割を果たした武将であった。盛岡藩の古文書に「智勇兼備の名将」と記されるように、南部氏惣領家からの深い信頼を得て津軽郡代という重責を担い、一定期間、広大な津軽地方の統治を維持した実績は評価されるべきである。しかしながら、彼の具体的な統治政策や広範な軍功に関する詳細な記録は限定的であり、その人物像の多くは断片的な史料や後世の編纂物を通して推測するほかない。

石川高信の歴史的意義を考える上で最も重要なのは、彼の死(あるいは津軽からの離脱)が、南部氏の津軽支配の終焉と、津軽為信の独立という、北奥羽の戦国史における一大転換点と深く結びついているという事実である 2 。特に、元亀二年(1571年)に為信の奇襲によって石川城が落城し高信が討たれたとする説は、この歴史的転換を象徴する出来事としてしばしば語られる。彼の没年や最期に関する諸説が今日まで存在し続けていること自体が、当時の史料が抱える限界や、南部氏と津軽氏という双方の立場による歴史解釈の違いを色濃く反映しており、石川高信という人物を多角的に考察する上で避けて通れない論点となっている。

また、石川高信は、近世盛岡藩の基礎を築き「南部家中興の祖」と称される南部信直の実父であり、その意味では間接的に近世南部藩の成立にも影響を与えた存在と言える。彼の生涯は、中央の政治動向から距離のある辺境地域において、一族の維持と勢力拡大のために奮闘した戦国武将の典型的な姿を示すと同時に、個人の能力や努力だけでは抗しきれない時代の大きなうねりの中にあったことを物語っている。

石川高信に関する研究は、単に一個人の事績を追うに留まらず、戦国期北奥羽の地域史、南部氏と津軽氏の関係史の深層、さらには歴史記述における史料批判の重要性を再認識させる上で、今後も重要な意義を持ち続けるであろう。

引用文献

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  20. 石川城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/249
  21. 石川城攻め - 青森県の歴史街道と史跡巡り http://aomori-kaido.com/rekishi-kaido/contents_tu/10.html
  22. 石川城の見所と写真・100人城主の評価(青森県弘前市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2069/