戦国商人・石本了雲は朱印船貿易家。子孫はキリシタン弾圧を乗り越え、長崎の町乙名や豊後岡藩御用達として活躍し、近世商人像を確立。
本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期という激動の時代にその名を刻んだ商人、石本了雲(いしもと りょううん)の実像を、現存する断片的な史料から徹底的に再構築する試みである。彼について伝えられる「平戸の商人」という情報は、その壮大な物語の入り口に過ぎない 1 。了雲個人の生涯を直接的に詳述する一次史料は極めて乏しいのが現状である。しかし、彼が創始した「石本家」の数世紀にわたる足跡を丹念に追跡し、点在する記録を繋ぎ合わせることによって、創業者である了雲の人物像、彼が生きた時代の特質、そして彼が後世に残した遺産の重要性を立体的に浮かび上がらせることが可能となる。
本報告では、関西大学の学術論文や九州大学に所蔵される古文書など、石本一族に関する核心的な史料を分析の主軸に据える 2 。これらの記録を、国際交易の舞台であった平戸・長崎の郷土史、朱印船貿易史、キリシタンの受容と弾圧の歴史、さらには石本家が深く関わった豊後岡藩の藩政史料と照合し、多角的な視点から分析を進めていく。了雲という一個人の点から、石本家という歴史の線、そして近世日本の交易社会という広大な面へと、その視野を広げていくアプローチをとる。
本報告書の目的は、読者を石本了雲という人物への学術的探求へと誘い、彼の物語が単なる一個人の伝記に留まらず、日本の近世初期における社会、経済、宗教のダイナミズムを色濃く映し出す鏡であることを提示することにある。
表1:石本家略系図と主要な活動
世代 |
名前 |
活動時期(推定) |
主要な拠点 |
役職・活動内容 |
特記事項 |
初代 |
了雲 |
16世紀後半 |
壱岐、平戸、長崎 |
異国交易、朱印船貿易家 |
慶長三年(1598)没、法名「釋了雲」 2 。壱岐の豪族出身との伝承あり 3 。 |
二代 |
新兵衛 |
17世紀前半 |
平戸、長崎 |
異国交易 |
「ころびきりしたん」であったと記録される 2 。 |
三代 |
九郎右衛門 |
17世紀前半 |
長崎平戸町 |
異国交易 |
「ころびきりしたん」であった 2 。寛永二十年(1643)没。 |
四代 |
治兵衛 |
17世紀中頃 |
天草御領村 |
百姓 |
寛永年間に天草へ移住し、分家の祖となる 2 。 |
- |
(了円など) |
江戸時代中期 |
長崎、平戸 |
長崎平戸町乙名 |
長崎から平戸へ戻り、平戸町乙名に任ぜられる 1 。 |
- |
幸四郎 |
江戸時代後期 |
長崎平戸町 |
長崎平戸町乙名、豊後岡藩御用達 |
フェートン号事件(1808年)で活躍 3 。 |
- |
幸八郎 |
江戸時代後期 |
長崎平戸町 |
長崎平戸町代乙名 |
乙名10代目。豊後岡藩御用達を務める 5 。 |
石本家の歴史的アイデンティティの根幹をなすのは、その出自に関する伝承である。複数の史料において、一族は「壱岐の豪族出身」であり、始祖である了雲は「壱岐で生まれている」と明記されている 2 。この記述は、彼らが海と共に生き、大陸との交流が宿命づけられた一族であったことを強く示唆している。
古代より壱岐国は、卜部氏などの氏族が祭祀を司り、大陸と日本列島を結ぶ交通の要衝として独自の地位を占めていた 6 。時代が下り戦国期に入ると、平戸を本拠とする松浦党の勢力圏に組み込まれていく 9 。石本家が、壱岐土着の古来からの豪族の末裔であったのか、あるいは松浦氏の支配体制下で新たに台頭した新興勢力であったのかを特定する史料は現存しない。しかし、いずれにせよ「壱岐出身」という出自は、彼らが持つ海洋民としての気質と、国際的な視野の原点であったと考えられる。
石本了雲が商人として本格的な活動を開始した平戸は、16世紀中頃の日本において最もダイナミックな国際交易港の一つであった。領主であった松浦隆信が積極的に海外交易を推進した結果、天文19年(1550年)にポルトガル船が初めて入港して以降、平戸は南蛮貿易の一大拠点として未曾有の繁栄を遂げる 10 。
当時の平戸の光景は、まさに混沌と活気に満ちたコスモポリタンそのものであった。後期倭寇の頭目として知られる中国人海商・王直(五峯)が「唐様の屋形」を構えて一大勢力を築き 14 、ポルトガル商人が珍しい南蛮の文物を運び込んだ。後の時代には、オランダやイギリスも商館を設置し、多様な国籍の人々が往来する国際都市となった 16 。
このような環境は、そこで活動する商人の気質を必然的に形成する。石本了雲が商人としてのキャリアを平戸でスタートさせたという事実は、彼の活動様式を決定づけた極めて重要な要素である。彼は単なる国内市場を相手にする商人ではなく、日常的に異文化と接し、国際的な商慣習や複雑な情報網の中で事業を遂行する術を体得したはずである。王直のような規格外の人物から、カトリックの宣教師、プロテスタントの商人までが闊歩する環境は、彼にリスクを恐れない大胆さと、多様な価値観を理解し利用する柔軟性を与えたと推察される。一族の事業が「異国交易」と記録されているのは、この平戸での経験が原点となっているからに他ならない 2 。
史料によれば、了雲は壱岐から平戸へ渡り、その後「長崎大村」に一時的に移動し、最終的に「平戸町」に居を構えたと記されている 2 。この「平戸町」が、平戸市の地名を指すのか、あるいは後に一族が本拠地とすることになる長崎市内の町名「平戸町」を指すのかは、史料からは断定できない。しかし、この記述は、ポルトガル貿易の拠点が平戸から長崎へと徐々に移っていく時代の流れの中で、石本一族の活動の中心もまた、長崎へとシフトしていく萌芽であったと解釈することができる。
石本家の由緒を語る上で最も重要な記述の一つが、彼らが「朱印船貿易家」であったという記録である 3 。これは、初代・了雲の活動の核心が、国家的な許可を得た海外交易にあったことを示している。
朱印船貿易とは、豊臣秀吉によって創始され、徳川家康の時代に制度として確立された、幕府が発行する朱印状(海外渡航許可証)を持つ船にのみ許された公式の海外貿易である 19 。この制度により、幕府は対外貿易を管理下に置き、海賊行為と区別した安全な通商ルートを確保しようとした。朱印船の主な渡航先は、交趾(現在のベトナム北部)、暹羅(シャム、現在のタイ)、柬埔寨(カンボジア)、呂宋(ルソン、現在のフィリピン)といった東南アジア各地であった 19 。
石本了雲が具体的にどの航路で、どのような商品を取引したかを直接示す記録は見つかっていない。しかし、同時代に活躍した京都の角倉了以や茶屋四郎次郎、長崎代官でもあった末次平蔵といった他の朱印船貿易家の活動から、彼のビジネスモデルをある程度再構築することは可能である 23 。
当時の日本は世界有数の銀産国であり、朱印船貿易家たちはこの豊富な銀を元手とした。一方、戦乱が終息に向かい社会が安定すると、国内では高級衣料の原料となる高品質な生糸や絹織物の需要が爆発的に高まった。しかし、明が海禁政策をとり、倭寇の活動もあって日中間の直接交易は著しく制限されていた 19 。この状況を巧みに利用したのが朱印船貿易であった。日本の商人は、東南アジアの港市へ赴き、そこへ来航する中国商船から生糸や絹織物を買い付けた。いわゆる「出会貿易」である 22 。
了雲もまた、日本の銀や銅、鉄、硫黄といった産品を東南アジアへ輸出し、その見返りとして、彼の地で中国産の生糸や絹織物、あるいは鹿皮や砂糖といった商品を仕入れ、日本国内で売却することで莫大な利益を上げていた可能性が極めて高い 23 。これは、国際的な需給の不均衡を突いた、高度な情報と航海術を要するビジネスであった。
石本了雲は、慶長三年(1598年)に没したと記録されている 2 。この年は、天下人・豊臣秀吉が死去し、日本が関ヶ原の戦いへと向かう、まさに時代の大きな転換点であった。彼の死は、戦国的な自由交易の時代の終わりを象徴するかのようである。
死後、彼は「釋了雲」という法名を与えられた 2 。「釋」の号は浄土真宗の門徒に与えられる法名に多く見られるものである。この事実は、彼が激しい競争を勝ち抜く抜け目のない商人であったと同時に、深く仏教に帰依していた側面を物語っている。
初代・了雲が築いた事業は、息子の二代目新兵衛(しんべえ)、そして孫の三代目九郎右衛門(くろうえもん)へと引き継がれた。彼らの時代を特徴づけるのが、キリスト教との関わりである。石本家の家伝によれば、この二人は共に「ころびきりしたん」(転びキリシタン)であったと明確に記録されている 2 。
当時の長崎は、日本初のキリシタン大名・大村純忠によって開港されて以来、イエズス会の布教活動の一大拠点であり、キリスト教文化が深く根付いた都市であった 27 。特に南蛮貿易に携わる商人にとって、取引相手であるポルトガル人や宣教師との関係を円滑にする上で、キリスト教への改宗はごく自然な選択肢の一つであった。新兵衛や九郎右衛門がキリシタンであったことは、石本家が国際交易の最前線にいたことの証左でもある。
しかし、徳川幕府が慶長17年(1612年)に禁教令を発布して以降、状況は一変する 27 。キリシタンに対する弾圧は年々厳しさを増し、長崎は殉教と棄教が交錯する悲劇の舞台となった 31 。多くの信者が拷問の末に信仰を捨てることを強要され、「転び」は決して珍しいことではなかった 35 。
新兵衛と九郎右衛門が「転びキリシタン」であったという事実は、単なる信仰の変節として片付けるべきではない。これは、一族が事業を継続し、徳川の治世という新たな時代に適応するために下した、極めて戦略的な選択であったと解釈できる。第一に、禁教令下で信仰を貫き通すことは、事業の存続を不可能にするだけでなく、一族そのものの断絶に直結する危険な道であった。第二に、「転ぶ」ことによって、幕府の監視下に置かれつつも、公式には「キリシタンではない」という身分を獲得できる。そして第三に、この「非キリシタン」という公的な立場こそが、後に石本家が幕府直轄地である長崎の行政を担う「町乙名」という公職に就くための、絶対に不可欠な前提条件となった。彼らの棄教は、迫害から逃れるための消極的な行為であると同時に、新たな支配体制の中で公的な地位を築き、一族の繁栄を確かなものにするための、最も重要な布石だったのである。
三代目九郎右衛門は、寛永二十年(1643年)に没した 2 。この時期は、大規模なキリシタン一揆であった島原の乱(1637年-1638年)が鎮圧され、寛永18年(1641年)には平戸のオランダ商館が長崎の出島へ強制的に移転させられるなど 12 、いわゆる「鎖国」体制が完成へと向かう激動の時代であった。彼の死は、戦国時代から続いた自由闊達な交易の時代の終焉と、幕府による厳格な管理貿易時代の本格的な到来を象徴する出来事であったと言える。
三代目九郎右衛門の死後、石本家は大きな転換期を迎える。四代目治兵衛の代に一族の一部は肥後国天草へと移住し、新たな道を歩み始めるが 2 、本家は日本の対外交易の唯一の窓口となった長崎に、より深く根を下ろしていく。彼らが拠点としたのは、長崎内町の一角、「平戸町」であった 3 。
長崎に「平戸町」という町名が存在したという事実は、極めて示唆に富んでいる 37 。幕府がオランダ商館を出島に移転させ、貿易の中心を平戸から長崎へ強制的に移行させた際、経済基盤を失った多くの平戸商人が、新たな活躍の場を求めて長崎へ集団的に移住したと考えられる。この「平戸町」は、そうした平戸出身の商人たちが形成したコミュニティ、いわば「平戸ディアスポラ(離散民)」の拠点であった可能性が高い。石本家がこの町の指導的立場である「乙名」になったということは、彼らが単に移住しただけでなく、同郷出身者コミュニティの中でその実力と名声を認められ、中心的な存在へと上り詰めたことを意味する。
近世の石本家を特徴づけるのが、長崎平戸町の「町乙名」という役職を代々世襲したことである 1 。町乙名とは、長崎奉行という幕府中央の権力機関の支配下で、市政の実務や貿易の現場を担った地役人(町役人)を指す 38 。
その職務は多岐にわたった。出島や唐人屋敷に出入りする日本人役人や商人を管理し、貿易品の荷揚げや代金決済といった重要な取引に立ち会った 39 。さらには、商館員の交代や、出島内の建物の修繕工事の監督、外国人の日用品の購買の世話まで、その責任範囲は広大であった 38 。彼らは、幕府の対外交易政策の末端を支える、不可欠な実務官僚だったのである。
町乙名への就任は、石本家にとって決定的な社会的地位の飛躍を意味した。これにより、彼らは朱印船を駆って大海を渡る一介の貿易商人から、幕府の統治機構に正式に組み込まれた「官僚商人」へと変貌を遂げたのである。この公的な地位は、一族に安定した社会的信用と経済的基盤をもたらし、近世を通じて長崎の有力町人として繁栄を続けるための強固な礎となった。
石本家は、町乙名という公的な役割に加え、もう一つの重要な顔を持っていた。それは、豊後岡藩(現在の大分県竹田市周辺、藩主は中川家)の長崎における「御用達(ごようたし)」という役割である。この関係は、近世前期から幕末に至るまで、長期間にわたって継続された 3 。
史料によれば、この関係は遅くとも寛永五年(1628年)には既に始まっていることが確認できる 3 。これは三代目九郎右衛門の時代にあたり、石本家が非常に早い段階から西国大名との間に強固なパイプラインを構築していたことを示している。
御用達商人の第一の役割は、藩が必要とする物資を長崎で調達することであった。オランダ船や唐船がもたらす薬種、織物、砂糖、あるいは海外の珍しい文物など、長崎でしか手に入らない品々を買い付け、藩へと納入した 26 。
しかし、彼らの役割は単なる物品の調達代理人には留まらなかった。より重要なのは、「情報ブローカー」としての機能である。日本唯一の海外への窓口であった長崎には、海外情勢から国内の政治・経済の動向まで、あらゆる情報が集積した。御用達であった石本家は、これらの貴重な情報をいち早く入手し、藩主である中川家へ定期的に報告する、極めて重要な役割を担っていたのである 3 。
石本家が単なる情報の伝達屋ではなく、高度な分析能力を持つ戦略的パートナーであったことを最も雄弁に物語るのが、文化五年(1808年)に発生したフェートン号事件である。この事件の際、当時の当主であった石本幸四郎が、天草の同族や豊後岡藩へ送った書状の内容は驚くべきものである 3 。
彼は、長崎市中が「ロシア船来航」の噂でパニックに陥る中、「此節之船ハ決てヲロシヤニてハ無御座、阿蘭陀敵国エケレス国之船ニて(今回の船は決してロシア船ではなく、オランダの敵国であるイギリスの船である)」と断定。さらに、「全く阿蘭陀え打掛り可申心得ニて渡来いたし候得共、幸ひ哉当年ハおらんだ渡来無之先無事ニ相済(目的はオランダ船の拿捕であったが、幸いにも今年はオランダ船がまだ来航していないため、大事には至らずに済んだ)」と、来航の意図と今後の見通しを極めて冷静かつ正確に分析し、報告している 3 。
これは、単なる噂の伝達ではない。情報の真偽を多角的に検証し、相手の意図を推測し、状況がもたらすリスクを評価するという、高度な情報分析(インテリジェンス)活動そのものである。この能力こそが、石本家を他の御用達商人から一線を画す存在にしていた。彼らは豊後岡藩にとって、物資を調達する便利な商人である以上に、国際情勢を分析・提供してくれる不可欠な戦略的パートナーであった。その対価として、一族は長期にわたる安定した庇護と経済的利益を享受し続けることができたのである。
本報告書で詳述してきた石本一族の歴史は、日本の近世社会における商人のあり方の変遷を見事に体現している。始祖・石本了雲は、戦国の荒波の中、国家の統制がまだ緩やかであった時代に、自らの才覚と度胸で朱印船を駆って大海に乗り出した「冒険商人」であった。彼の活動は、リスクと隣り合わせの自由な気風に満ちていた。
対照的に、彼の子孫たちは、徳川幕府による厳格な身分制と管理貿易体制、すなわち「鎖国」という新たな社会秩序の中で、巧みにその活路を見出した「体制内商人」であった。彼らは、町乙名という幕府の統治機構の一翼を担う公的な地位と、豊後岡藩御用達という有力大名との強固なコネクションを両輪とし、安定した繁栄を築き上げた。
石本一族の数世紀にわたる興亡史は、近世日本の豪商が成功を収めるために必要とした三つの重要な要素を凝縮して示している。第一に、時代の変化を鋭敏に読み取り、拠点を移し、時には信仰さえも変えることで危機を乗り越える 適応力 。第二に、朱印船貿易、町乙名、御用達と、常に国家や大名といった公的な権力と結びつくことで自らの利益を最大化する 政治力 。そして第三に、海外情勢や国内の動向を正確に収集・分析し、それを独自の付加価値として提供する 情報力 である。
謎に包まれた一人の商人、石本了雲の探求から始まった本報告は、結果として、彼が創始した一族が、日本の近世社会においていかにして成功を収め、その影響力を維持し続けたかという、壮大かつ示唆に富む歴史物語を明らかにした。彼らの軌跡は、変化の時代を生き抜くための普遍的な戦略を内包しており、現代を生きる我々にとっても貴重な歴史の証言と言えるだろう。