戦国時代の九州北部は、群雄が割拠し、下剋上が日常と化した動乱の時代であった。その中でも肥前国(現在の佐賀県・長崎県の一部)は、長らくこの地を治めてきた名門守護・少弐氏の権威が地に墜ち、混沌の様相を呈していた 1 。この権力の空白を突いて平野部で急速に台頭したのが、後に「肥前の熊」と恐れられる龍造寺隆信である 3 。しかし、その隆信の前に終生にわたり立ちはだかり、肥前統一の野望を阻み続けた一人の武将がいた。彼の名は神代勝利(くましろ かつとし)。龍造寺隆信に「あの男さえいなければ」と言わしめたとされる、山間の独立勢力の雄である 4 。
神代勝利の物語は、彼が生きた特異な地理的・政治的空間である「山内(さんない)」を抜きにしては語れない。山内とは、佐賀、小城、神埼の三郡にまたがる脊振山系の広大な山間地帯を指す 6 。この地は、肥沃な佐賀平野とは対照的に、険しい山々と深い谷が連なる天然の要害であり、平野部の権力者の支配が及びにくい独自の文化圏と勢力圏を形成していた 7 。少弐氏の衰退後、この山内には二十六の主要な郷村を拠点とする在地領主たちが割拠し、「山内二十六ヶ山」として知られる連合体を形成していた 8 。本報告書は、この山内という舞台に颯爽と現れ、その頂点に立ち、強大な龍造寺氏と互角の戦いを繰り広げた神代勝利の生涯を、その出自から最期、そして後世に残した遺産に至るまで、徹底的に詳述するものである。
神代氏の出自は、諸説あるものの、遠く古代にまで遡る由緒ある家系とされる。『肥前国風土記』や後世の伝承によれば、その祖は人皇八代孝元天皇の孫にして伝説的な権力者である武内宿禰に連なるとされ、また、筑後国一宮である高良大社の大宮司を務めた名族・物部氏の流れを汲むともいわれる 8 。一族は古くは「熊代」と記し、高良山麓の神代村(現在の福岡県久留米市神代町)を本拠とした 12 。文永十一年(1274年)の元寇の際には、神代民部少輔良忠が増水した筑後川に船を繋いだ浮橋を架け、渡河に難渋していた諸国の軍勢を対岸へ渡した功により、幕府から感状を賜ったという逸話も伝わっている 13 。この伝承は、神代氏が古くから筑後国に根差し、軍事的な功績を立てるほどの有力な豪族であったことを示唆している。
しかし、戦国乱世の波は、この名門にも容赦なく押し寄せた。神代勝利の父、神代対馬守宗元の時代、筑後国では蒲池氏、草野氏、西牟田氏といった有力な国人領主が勢力を拡大しており、宗元は彼らとの抗争に敗れた 11 。ついに先祖伝来の地を追われた宗元は、一族を率いて肥前国へと流れ着き、千布村(現在の佐賀市久保泉町・金立町付近)に逼塞することとなる 8 。この地で宗元は陣内氏の養子となり、雌伏の時を過ごした 12 。
この没落した名族の再興という宿命を背負い、永正八年(1511年)、後の神代勝利が誕生した。幼名を新次郎という 12 。流浪の身の上ではあったが、彼の誕生は、神代家が再び歴史の表舞台に躍り出るための序章に過ぎなかった。
若き日の新次郎(勝利)は、武勇の才に恵まれ、15歳になると小城の有力国衆である千葉興常に仕え、武芸の研鑽に励んだ 12 。彼の非凡な器量と野心を物語る最も有名な逸話が、この時期に生まれた「夢買い」の物語である。
『北肥戦誌』によれば、勝利の家臣に武蔵国出身の江原石見守という者がいた。ある夜、石見守は不思議な夢を見る。それは、自らの身体が巨大化し、北にそびえる脊振の山々を枕とし、南に広がる有明海に足を浸すという、天下取りを暗示する壮大な夢であった。この話を聞いた新次郎は、その夢が持つ途方もない価値を見抜き、自らが大切にしていた金の笄(こうがい)を代価として、石見守からその夢を買い取ったのである 13 。この逸話は、単なる縁起担ぎではなく、自らの手で運命を切り拓こうとする新次郎の並外れた野心と、常人にはない先見の明を象徴している。
夢を手に入れた新次郎は、その野望を実現すべく行動を開始する。剣術や早業の鍛錬に一層励み、その武名は広く知れ渡った。やがて彼は千葉家を辞し、小城、佐賀、神埼の山々へと入っていく。そこでは、彼の卓越した武勇と、身分を問わず接する人徳に惹かれ、多くの者たちが弟子となり、付き従った。その様子は「風に草木の偃(ふ)すが如し」と記されるほどであり、彼は瞬く間に山間部で無視できない一大勢力を形成していった 13 。
神代勝利は山内地方の土着の領主ではなく、筑後からの流浪者であった。しかし、この外部性こそが、彼の飛躍の鍵となった。平野部で勢力を拡大する龍造寺氏という共通の脅威に対し、山内に割拠する諸豪族たちは、内部の小競り合いを超越した強力なリーダーシップを求めていた。既存の利害関係に縛られない勝利は、彼らにとって盟主として担ぎやすい存在であり、その傑出した武勇とカリスマ性は、彼を指導者として認めさせるに足る説得力を持っていたのである。彼の「アウトサイダー」という立場は、弱点ではなく、むしろ山内統一において有利に働く触媒となったのだ。
新次郎(勝利)が山中で名声を高める中、その器量をいち早く見抜いた人物がいた。三瀬城主・三瀬土佐入道宗利である 13 。三瀬城は、背振山地の中央部、標高560メートルの城山に位置し、佐賀平野を一望できるだけでなく、博多、唐津、佐賀へと通じる街道を押さえる戦略的要衝であった 15 。宗利は、勝利が「尋常の者ならず、大将にもなるべき者」と見抜き、自らの居城である三瀬城に留め置いた 13 。これは単なる客将としての待遇ではなく、次代の指導者としての資質を見込んだ戦略的な判断であった 17 。
宗利の期待通り、勝利は三瀬城を拠点とすると、その才能を遺憾なく発揮する。彼は智・仁・勇の三徳を兼ね備え、その采配と人徳によって、山内に割拠していた国人領主たちを次々と心服させていった 13 。こうして彼は、単なる一介の武芸者から、名実ともに山内地方の支配者へと駆け上がり、正式に「大和守勝利」と名乗るに至ったのである 13 。
神代勝利の権力基盤の中核を成したのが、「山内二十六ヶ山」と呼ばれる在地領主たちの連合体であった。これは特定の二十六家を指す固有名詞ではなく、佐賀・小城・神埼の三郡にまたがる山間部の主要な村や集落(「山」と称された)を拠点とする豪族たちの総称である 8 。彼らは、平野部の龍造寺氏の勢力拡大という共通の脅威に対抗するため、勝利という卓越したリーダーの下に結束することを選んだのである。
勝利の呼びかけに応じ、彼を総領として忠誠を誓った領主たちには、松瀬又三郎宗楽、畑瀬兵部少輔盛政、杠紀伊守種満、栗並伊賀守、名尾左馬允といった面々が含まれる 9 。彼らの強固な結束力こそが、後に強大な龍造寺軍と幾度となく互角に渡り合い、山内の独立を維持するための力の源泉となった。勝利の支配は、単なる武力による征服ではなく、地域の領主たちとの主従契約に基づいた、組織的な連合体であった。その勢力範囲は東西七里(約28キロメートル)、南北五里(約20キロメートル)に及び、その中に三瀬城をはじめとする数多くの城砦を構え、一個の独立した戦国大名とも言うべき体制を築き上げたのである 6 。
この勝利の勢力基盤を視覚的に理解するため、史料から確認できる「山内二十六ヶ山」の構成を以下に示す。
表1:山内二十六ヶ山の構成(推定)
地域区分 |
主要な「山」(郷村) |
確認される領主・一族 |
典拠 |
神埼七山 |
三瀬、藤原、広滝、机、久保山、腹巻、鹿路 |
三瀬氏、藤原但馬守、広滝新三郎 |
9 |
佐賀七山 |
畑瀬、菖蒲、松瀬、名尾、梅野、小副川、関屋 |
畑瀬兵部少輔盛政、菖蒲遠江守、松瀬又三郎宗楽、名尾左馬允、梅野源太左衛門、小副川因幡守 |
9 |
小城一二ヶ山 |
合瀬、藤瀬、栗並、古湯、杉山、無津呂 |
合瀬因幡守、藤瀬藤左衛門、栗並伊賀守、古湯信濃守、杠紀伊守種満 |
9 |
この表は、勝利の支配領域の広範さと、彼を支えた人的ネットワークの多様性を示している。彼の力は、単独の武勇だけでなく、この広域にわたる組織的な連合体を巧みに束ねるリーダーシップにあったことが見て取れる。
山内の総領として確固たる地位を築いた神代勝利は、当時、肥前国で名目上の権威を保っていた守護・少弐冬尚に仕えた 8 。しかし、この少弐氏への忠誠が、結果的に彼の生涯を決定づける宿敵との因縁を生むことになる。
天文十四年(1545年)、少弐家の重臣であった馬場頼周は、同じく家臣でありながら急速に勢力を拡大する龍造寺家兼(隆信の曽祖父)の存在を危険視していた。頼周は、かつて主君・少弐資元が大内氏に滅ぼされたのは、家兼が降伏を勧めたためだと信じ込み、現当主の冬尚に「龍造寺家兼に自立の疑いあり」と讒言した 18 。これを信じた冬尚は、龍造寺一門の粛清を決意する。
この謀略において、神代勝利は馬場頼周に与し、実行部隊として重要な役割を果たした。冬尚の謀略によって龍造寺一族の多くが戦場で討たれた後、家兼は和睦を信じて孫の龍造寺周家(隆信の父)、家泰、頼純を使者として送った。しかし、彼らは神埼郡の祇園原において、待ち伏せていた馬場頼周と神代勝利の軍勢によって、ことごとく殺害されてしまったのである 18 。
この一件は、当時出家していたものの、後に還俗して龍造寺家の家督を継ぐことになる円月、すなわち龍造寺隆信にとって、父と一族を無惨に殺害した不倶戴天の仇として、神代勝利の名をその心に深く刻み込むことになった。勝利の行動は、主家である少弐氏への忠義の発露であったかもしれない。主家を脅かす家臣を排除することは、戦国の論理では正当化されうる。しかし、この忠義の行動が、結果として「肥前の熊」という恐るべき宿敵を目覚めさせ、自らの生涯をかけた死闘の幕を開けるという、悲劇的な皮肉を内包していた。
龍造寺隆信との対立が激化する中で、両者の器量や人間性を物語る数々の逸話が生まれた。これらは、単なる敵対関係を超えた、好敵手同士の駆け引きと互いへの複雑な感情を浮き彫りにする。
その一つが、弘治元年(1555年)の和睦交渉の席で起きたとされる毒殺未遂事件である。隆信は勝利を毒殺しようと謀ったが、勝利の近臣・馬場四郎左衛門の機転でこれを看破。しかし勝利は全く動じることなく、宴席を終えて帰る際、隆信が最も大切にしていた愛馬にひらりと飛び乗った。そして、呆気に取られる龍造寺の家臣たちを尻目に、即興で「おどま山からじゃっけんノーヤ、お言葉も知らぬヨウ、あとで御評判な頼みます(我々は山育ちの無骨者ゆえ、作法も知らぬ。後の世での評判はよろしく頼むぞ)」と歌いながら、悠々と引き上げていったという 8 。この「ノーヤ節」として知られる逸話は、勝利の豪胆さ、窮地における精神的優位、そして敵を煙に巻くユーモアのセンスを鮮やかに示している。
また、勝利の度量の大きさを示す逸話として、龍造寺家の猛将・小川信安との一件がある。信安は、主家の障壁である勝利を排除すべく、単身で勝利の居城である千布城に忍び込み、湯殿にいるところを暗殺しようと試みた。しかし、不審者の存在を侍女から知らされた勝利は、「そのような大それたことをするのは小河筑前(信安)しかおるまい。こちらへ呼べ」と平然と言い放った。そして、覚悟を決めて現れた信安と、敵味方の立場を越えて酒を酌み交わしたと伝えられている 8 。敵の勇気を認め、殺伐とした状況を余裕で受け流すその姿は、彼が単なる武勇の将ではなく、人徳を備えた大将であったことを物語っている。
神代勝利と龍造寺隆信の戦いは、山岳のゲリラ戦術と平野の総力戦という、対照的な二つの戦略の衝突であった。勝利は山内の複雑な地形を熟知し、それを最大限に活用した奇襲や伏兵によって、数に勝る龍造寺軍を幾度も翻弄した 6 。
その象徴的な戦いが、弘治三年(1557年)の 金敷峠(かなしきとうげ)の戦い である。山内に侵攻してきた龍造寺軍に対し、勝利は地の利を活かした戦術でこれを迎撃。この戦いの最中、かつて城に忍び込んだ因縁の相手である龍造寺方の先陣・小川信安と、馬一頭がやっと通れるほどの狭い山道で遭遇し、一騎打ちの末にこれを討ち取ったとされる 9 。この勝利によって、龍造寺軍は手痛い敗北を喫し、隆信は山内攻略の困難さを改めて思い知らされた 6 。
翌永禄元年(1558年)には、龍造寺方についた蓮池城主・小田政光が、少弐方の江上武種を攻めた。勝利は江上氏を支援して出陣し、 長者林の戦い で小田勢を破り、政光を討ち取るという戦果を挙げた 8 。興味深いことに、この時、政光は隆信に再三援軍を要請したが、隆信はこれを黙殺したと伝えられる。そして政光が戦死すると、すかさずその旧領を併合したという 24 。この一件は、隆信の冷徹な策略家としての一面を示すと同時に、勝利の局地的な戦術的勝利が、必ずしも肥前全体の戦略地図を塗り替えるには至らないという、両者の置かれた状況の複雑さを物語っている。
一進一退の攻防に業を煮やした龍造寺隆信は、永禄四年(1561年)、ついに雌雄を決するべく行動に出る。彼は勝利に使者を送り、「所詮、有無の一戦を遂げて両家の安否を極むべし」と、正面から決戦を挑む挑戦状を叩きつけた 6 。山岳でのゲリラ戦を避け、平野部に誘き出して大軍の力で一気に雌雄を決しようという隆信の狙いであった。これに対し、勝利も「かねてより望むところ」と応じ、両軍は9月13日に川上峡(現在の佐賀市大和町川上)で対峙することとなった 25 。
神代軍は約7,000、対する龍造寺軍は約8,000。両軍は川上川を挟んで布陣し、肥前の覇権を賭けた一大決戦の火蓋が切られた 25 。神代軍は山を背にした地の利を活かし、奮戦した。戦いは「千騎が一騎になる」と評されるほどの大乱戦となり、一時は神代軍が龍造寺本陣に迫る勢いを見せた。
しかし、戦いの趨勢は、予期せぬ裏切りによって一変する。神代軍の東方を守っていた都渡城の陣で、一人の将が変心し、自軍の大将を刺殺するという事件が発生したのである 6 。この内乱によって神代軍の一角が崩れると、それまで均衡を保っていた戦線は一気に瓦解した。混乱の中で、勝利の息子である神代種良や四男の惟利らが討死し、軍勢は総崩れとなった 6 。
勝利自身は家臣の制止によって辛うじて戦場を離脱し、山内へと逃げ帰ったが、神代軍が受けた損害は壊滅的であった。この川上峡での決定的な敗北により、神代勝利が抱き続けた肥前制覇の野望は、事実上、ここに潰えることとなったのである 23 。
川上峡合戦での大敗は、神代勝利と山内衆の勢力を著しく削いだ。もはや単独で龍造寺氏に対抗する力は残されていなかった。永禄五年(1562年)、龍造寺家の老臣・納富但馬守の仲介により、両者の間で和睦が成立する 27 。この和睦は、勝利の孫娘(当時4歳)と隆信の三男・鶴仁王丸(後の後藤家信)との婚約という形で結ばれ、長年にわたる両家の血で血を洗う抗争は、ひとまずの終結を見た 27 。
和睦後、勝利は家督を嫡男の長良に譲り、畑瀬の山中に城を築いて隠居した 27 。しかし、安息の時は長くは続かなかった。永禄八年(1565年)三月十五日、神代勝利は病のため畑瀬の城でその波乱の生涯を閉じた。享年五十五であった 8 。彼の死は、龍造寺氏という巨大な勢力に抗い続けた、肥前山内の一つの時代の終わりを告げるものであった。現在、佐賀市大和町にある彼の墓は、市の重要文化財に指定され、往時の姿を静かに伝えている 30 。
父・勝利という偉大な支柱を失った神代家は、たちまち危機に直面する。家督を継いだ嫡子・長良であったが、父の死の直後、自らの二人の子が疱瘡で相次いで亡くなるという不幸に見舞われた 8 。この神代家の度重なる不幸と弱体化を見逃すほど、龍造寺隆信は甘くはなかった。隆信は和睦を反故にして千布城に攻め寄せ、長良は城を追われることとなる 8 。
長良は豊後の大友宗麟を頼り、なおも抵抗を続けた。元亀元年(1570年)の今山合戦では大友方として龍造寺軍と戦うが、この戦いで大友軍が鍋島信生(後の直茂)の奇襲により大敗を喫したことで、その望みも絶たれた 23 。万策尽きた長良は、ついに龍造寺氏に服属する。
その後、長良には後継ぎとなる男子がいなかった。一族の存続をかけた長良は、極めて現実的かつ戦略的な決断を下す。それは、当時龍造寺家中で実権を掌握しつつあった重臣・鍋島直茂の甥にあたる家良(直茂の弟・小川信俊の子)を娘婿として迎え、養子として家督を継がせるというものであった 7 。神代氏は、軍事的な独立を保つ道を断念し、新たな支配秩序の中枢を担う鍋島家との血縁関係を構築することで、家の存続を図ったのである。これは、過去の遺恨を乗り越え、未来の安泰を確保するための政治的決断であり、「武」による抵抗の時代から「政」による適応の時代への移行を象徴していた。
長良の政治的決断により、神代家は戦国の荒波を乗り越えた。龍造寺氏の滅亡後、肥前の実権を握った鍋島氏が佐賀藩主となると、神代家はその一門に連なる「親類同格」という破格の厚遇を受け、大身の重臣として江戸時代を通じて存続した 23 。
一方で、神代勝利という武将の記憶は、政治的な家系の存続とは別の形で、山内の人々の心に深く刻み込まれていった。彼の武勇と、領民を慈しんだとされる人徳を慕った山内の人々は、その死後、彼の霊を「勝玉大明神(かちだまだいみょうじん)」として三瀬城跡に祀り、篤く信仰したのである 16 。城跡の中央には今も石祠が残り、地域の守り神として崇められている 16 。
毎年五月七日には「ジョウ」と呼ばれる城まつりが地域住民の手によって催され、かつては山内全域から参詣者が集まる最も盛大な行事であったという 16 。時代と共にその規模は縮小したものの、神代勝利が単なる歴史上の人物ではなく、地域の文化的アイデンティティの中核をなす「山内の殿様」として、今なお敬愛され続けていることの証左である 32 。
神代勝利の生涯は、戦国乱世における地方豪族の気概と生存戦略を鮮やかに体現している。彼は、並外れた剣の腕前を持つ武人であり、山岳戦の妙を知り尽くした戦術家であり、そして何よりも、敵将さえも魅了する豪胆さと人徳を兼ね備えた、稀有なリーダーであった 13 。
彼が「肥前の熊」とまで呼ばれた龍造寺隆信という、当時九州で最も勢いのあった戦国大名の一人と、生涯にわたって互角の戦いを繰り広げることができた要因は、三つの要素の奇跡的な融合にあったと考えられる。第一に、山内という険しい山々に囲まれた「地の利」。第二に、平野部の脅威に対して固く結束した「山内二十六ヶ山」という「人の和」。そして第三に、それらを巧みに束ね、統率した勝利自身の卓越した「将の器量」である。
彼の存在は、龍造寺隆信の肥前統一を大幅に遅らせ、その後の九州の勢力図にも少なからぬ影響を与えた。軍事的には川上峡で敗れ、戦国大名として天下に覇を唱える夢は果たせなかった。しかし、彼の物語はそこで終わらない。嫡子・長良の巧みな政治判断によって一族は佐賀藩の重臣として存続し、彼自身は「勝玉大明神」として地域の守り神となり、人々の記憶の中に生き続けている。
神代勝利は、武力で独立を貫くという「戦国の勝利」は手にできなかったかもしれない。しかし、彼は自らの家名を未来に繋ぎ、その名を郷土の誇りとして永遠に刻むという、もう一つの「歴史の勝利」を収めた武将として、評価されるべきであろう。