神余親綱は上杉謙信の外交・経済を担った重臣。謙信死後、御館の乱で上杉景虎を支持し、上杉景勝と対立。三条城に籠城し抵抗を続けたが、謀略により討たれた。
戦国時代の越後を支配した「軍神」上杉謙信。その政権下で、外交と経済を一手に担い、比類なき手腕を発揮した「能臣」がいた。その名は神余親綱(かなまり ちかつな)。彼は、謙信の権威を中央に示し、その軍事行動を財政面から支えるという、極めて重要な役割を果たした人物である。しかし、謙信の死後、その後継者である上杉景勝の時代になると、彼は一転して「逆臣」として景勝に刃向かい、悲劇的な最期を遂げることとなる。
なぜ、謙信政権の根幹を支えたほどの重臣が、次代の主君の下で反旗を翻さねばならなかったのか。本報告書は、この問いを主軸に、神余親綱という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げるものである。彼の出自から、謙信政権下での輝かしい功績、そして御館の乱における苦渋の決断と壮絶な最期までを、現存する史料に基づき多角的に分析する。
親綱の生涯を追うことは、単に一人の武将の伝記をなぞることに留まらない。それは、上杉家の代替わりに伴う権力構造の劇的な変化、そしてその過程で引き起こされた深刻な人的損失という、組織変革の悲劇を解明する試みでもある。彼の行動原理を理解することなくして、越後を二分した大内乱「御館の乱」の本質、ひいてはその後の上杉家の命運を正確に理解することはできない。本稿では、神余親綱の多面的な実像に迫ることで、戦国という時代の非情さと、その中で生き抜こうとした人間の葛藤を明らかにしていく。
年代 |
出来事 |
典拠 |
大永6年(1526年)? |
誕生。父は神余実綱。 |
1 |
(祖父・父の代) |
祖父・昌綱、父・実綱が上杉家の京都雑掌として活動。 |
1 |
天文21年(1552年) |
長尾景虎(上杉謙信)の官位叙任に対する謝儀の使者として入洛。 |
1 |
天文22年(1553年) |
謙信の初上洛に際し、後奈良天皇への拝謁を実現させる。 |
1 |
永禄元年(1558年) |
将軍・足利義輝の帰京を祝う使者を務める。 |
1 |
天正5年(1577年) |
越後三条城主に任命される。 |
1 |
天正6年(1578年)3月 |
謙信が急死。会津蘆名氏の侵攻を警戒し、上杉景勝と対立。 |
3 |
天正6年(1578年)5月 |
景勝と手切れし、上杉景虎を支持して挙兵(御館の乱)。 |
5 |
天正7年(1579年)3月 |
上杉景虎が自刃。 |
4 |
天正7年~8年 |
景虎死後も三条城に籠城し、景勝方への抵抗を継続。 |
8 |
天正8年(1580年)7月2日 |
城内の旧臣の内応による謀略で討たれ、死去。 |
1 |
神余親綱という人物を理解するためには、まず彼が属した神余氏の来歴と、彼が上杉家に仕えるに至った歴史的背景を把握する必要がある。神余氏は、越後の土着国人ではなく、一度故郷を追われた一族が、その特殊な技能を以て新天地に再起したという、特異な経歴を持っていた。
神余氏のルーツは、越後ではなく、遠く離れた関東の安房国(現在の千葉県南部)に求められる 1 。平安時代末期には、既に安西氏や丸氏といった在地勢力と並び称される有力な国人としてその名が見え、室町時代にはその支配領域が「神余郡」と呼ばれるほどの勢力を誇っていた 10 。彼らは安房の地で、武士として確固たる基盤を築いていたのである。
しかし、15世紀中頃、神余氏の運命は暗転する。応永24年(1417年)あるいは嘉吉元年(1441年)頃、当主であった神余景貞(光孝)が、重臣の山下氏による謀反、すなわち下剋上によって攻め滅ぼされたと伝わる 10 。この内紛により、神余氏は安房における本拠地と権力を完全に喪失した。
この一族の没落こそが、神余氏が越後に現れる直接的な契機となったと考えられる。土地という物理的な力の源泉を失った神余一族の一部は、故郷を離れ、新たな仕官先を求めて流浪の身となった。彼らが再起の武器として選んだのは、武力ではなく、中央政界との繋がりや教養、そして交渉術といった、いわば「ソフトパワー」であった。親綱の祖父・昌綱の代に、彼らは越後へ移り住み、守護代・長尾氏(後の上杉氏)に仕えることになる 1 。安房での没落から数十年、神余氏は外交と実務の専門家集団として、越後の地で新たな活路を見出したのである。
なお、一部には親綱を越後の小領主の生まれとする伝承も存在するが 13 、これは一次史料に乏しく、安房からの移住説がより確実性が高い。おそらく、越後での親綱の活躍が後世に語り継がれる中で、より土着的な出自が物語として付加されたものと推察される。
越後に根を下ろした神余氏が担ったのは、武勇を誇る他の国人衆とは一線を画す、極めて専門的な役割であった。親綱の祖父・昌綱、そして父・実綱は、相次いで上杉家の京都雑掌(きょうとざっしょう)という役職を務めている 1 。
京都雑掌とは、主君に代わって京都に常駐し、朝廷や室町幕府との外交折衝、中央情勢の収集、そして主家の産品の売買といった経済活動までを担う、在京代理人のことである。これは、高度な交渉能力、幅広い人脈、そして中央の儀礼や文化に対する深い理解を必要とする、まさに専門職であった。
神余家は、この京都雑掌という役職を世襲的に務めることで、上杉家中で「外交官僚」としての独自の地位を確立した。彼らは、戦乱の世にあって、武力ではなく知力と交渉術で主家を支える存在だったのである。神余親綱は、この外交官としての家格、そして祖父と父が築き上げた中央政界との貴重なパイプを、そのまま継承してそのキャリアを歩み始めることになった。彼の生涯は、生まれながらにして、越後と京都、地方と中央とを結ぶ役割を運命づけられていたと言えよう。
長尾景虎(後の上杉謙信)が越後の国主として台頭すると、神余親綱の才能は遺憾なく発揮される。彼は謙信政権下で、外交と経済の両面からその体制を支える「懐刀」として、不可欠な存在となっていった。彼の活動は、派手な合戦の陰に隠れがちであるが、上杉家の国力そのものを構築する上で決定的に重要なものであった。
親綱の最大の功績の一つは、京都を舞台とした外交活動を通じて、地方の一国人に過ぎなかった景虎の権威を、中央が公認する「公的な権力者」へと高めたことにある。
その最初の大きな仕事が、天文21年(1552年)の官位叙任に関する交渉であった。景虎が従五位下・弾正少弼に叙任された際、親綱はその謝儀を伝える使者として入洛。将軍・足利義藤(後の義輝)に謁見し、御礼の品々を献上した。その返礼として、将軍直筆の御内書と名刀・備前国宗の太刀を賜り、無事に越後へ帰還している 1 。これは、景虎が室町将軍から正式な承認を得たことを内外に示す、極めて象徴的な出来事であった。
翌天文22年(1553年)、謙信が初めて上洛した際には、さらに大きな功績を挙げる。親綱は、その人脈と交渉力を駆使して奔走し、後奈良天皇への拝謁という、地方武将にとっては破格の栄誉を実現させたのである 1 。天皇との謁見は、景虎に絶大な権威と箔を付け、「義」を掲げて戦う彼の政治的立場を強力に補強した。
その後も、永禄元年(1558年)に将軍・足利義輝の帰京を祝う使者を務めるなど、親綱は幕府との良好な関係を維持し続け、謙信の政治的地位を盤石なものにしていった 1 。
親綱の役割は、外交官に留まらなかった。彼は同時に、上杉家の財政を支える優れた経済官僚でもあった。当時の越後は、青苧(あおそ、カラムシとも呼ばれる麻織物の原料)の一大産地であった。親綱はこの青苧の売買を取り仕切る奉行職を務め、上杉家の経済を実質的に掌握していた 1 。
彼は、京都に駐在する利点を活かし、公家の三条西家など中央の有力者と連携することで、青苧の流通ルートを独占的に管理した。この取引によってもたらされる莫大な利益は、上杉家の重要な資金源となり、謙信が幾度となく行った関東遠征をはじめとする大規模な軍事行動を財政面から支えたのである 1 。謙信が掲げた「義戦」は、崇高な理念だけでは成り立たない。それを可能にしたのは、親綱の経済的手腕によってもたらされた潤沢な軍資金であった。彼はまさに、謙信政権の「影の立役者」であり、その国家経営を担うプロデューサーであったと言っても過言ではない。
長年にわたる外交・経済両面での功績が認められ、天正5年(1577年)、神余親綱はそのキャリアの頂点を迎える。山吉豊守の死後、空席となっていた蒲原郡の要衝・三条城の城主に任命されたのである 1 。
三条は越後の中心地の一つであると同時に、東の会津蘆名氏に対する国境防衛の最前線でもあった。この地を任されたことは、親綱が単なる文官ではなく、軍事指揮や領国統治においても、主君・謙信から絶大な信頼を寄せられていたことの証左である。外交官僚としてキャリアをスタートさせた彼が、一国の重要拠点を預かる城主となったことは、その万能な能力を物語っている。しかし、この栄光の座こそが、後に彼の運命を狂わせる悲劇の舞台となるのであった。
天正6年(1578年)3月、上杉謙信の突然の死は、越後に激震を走らせた。明確な後継者が定められていなかったため、二人の養子、謙信の甥である上杉景勝と、北条家から迎えられた上杉景虎の間で、熾烈な家督争いが勃発する。この「御館の乱」は、神余親綱の運命を決定的に変える分水嶺となった。謙信の忠臣であった彼が、なぜ新当主・景勝と袂を分かち、景虎方に加担するに至ったのか。その背景には、世代交代に伴う統治スタイルの衝突という、根深い構造的問題が存在した。
陣営 |
主な人物 |
備考 |
上杉景勝 方 |
直江信綱、斎藤朝信、本庄繁長、新発田重家、上田衆 |
謙信旗本の一部、上田長尾衆が中核。 |
上杉景虎 方 |
神余親綱 、本庄秀綱、北条高広、上杉憲政、上杉景信 |
謙信側近の一部、上杉一門衆の多くが支持。 |
外部勢力(景虎支援) |
北条氏政(実兄)、蘆名氏、伊達氏、武田勝頼(当初) |
景虎の実家である北条家が中心。 |
外部勢力(景勝と和睦) |
武田勝頼 |
後に景勝と甲越同盟を締結し、景勝方へ転換。 |
典拠: 4
謙信の死の直後、国境を接する会津の蘆名氏が、この機に乗じて越後へ侵攻する動きを見せた 3 。国境防衛の任にあった三条城主・神余親綱は、これを即座に察知。彼は、謙信時代であれば当然許されたであろう現場指揮官としての裁量権を行使し、独断で周辺から人質を集めるなど、臨戦態勢を敷いた 3 。これは、長年の経験に裏打ちされた、国家鎮護のための正当な防衛措置であった。
しかし、若き新当主の上杉景勝は、この親綱の行動を全く異なる視点で捉えた。景勝は、家中の権力を迅速に掌握し、自らの下に一元化することを最優先課題としていた。彼は親綱の行動を、主君の許可を得ない「独断専行」と見なし、強く非難した 5 。さらに景勝は、「弔問の使者を送ってきた蘆名氏が攻めてくるはずがない」という楽観的な情勢判断に基づき、親綱に対して忠誠の証として「誓詞(せいし)」、すなわち誓約書の提出を命令したのである 4 。
この要求は、長年にわたり上杉家に尽くし、謙信の厚い信頼を得てきた老臣・親綱のプライドを根底から踏みにじるものであった。自らの経験と国家への忠誠心に基づく行動を疑われ、若き主君から忠誠を試されるという屈辱は、彼にとって到底耐え難いものであった 4 。直後、親綱の予測通りに蘆名氏が実際に越後へ侵攻し、彼の判断の正しさが証明されたにもかかわらず、景勝が自らの非を認めて謝罪することはなかった 4 。ここに両者の溝は決定的となり、親綱は景勝との関係を断ち切る(三条手切)という、後戻りのできない決断を下すに至った 6 。
この一連の出来事は、単なる感情的な対立ではない。それは、偉大なカリスマ亡き後の組織に必然的に生じる、旧体制と新体制の構造的対立そのものであった。親綱は、重臣の自律性を重んじた謙信時代の論理で行動し、景勝は当主への権力集中を目指す新時代の論理で行動した。この致命的なすれ違いこそが、親綱を悲劇へと導く直接の原因となったのである。
景勝との決裂後、親綱は同じく景勝の強引な手法に不満を抱いていた栃尾城主・本庄秀綱らと共に、もう一人の後継者候補である上杉景虎を擁立し、対抗する道を選ぶ 1 。親綱のような、謙信の側近として外交・経済を担った重臣が加わったことは、景虎方の正当性と勢力を大きく高める効果があった。
親綱は、自らの居城である三条城を拠点とし、景虎方の中核として景勝方と対峙した。景勝方からの降伏勧告や調略にも一切応じることなく、近隣の黒滝城を攻撃するなど、積極的に軍事行動を展開した 1 。彼の行動は、もはや単なる景勝への反発ではなく、上杉家の未来を景虎に託すという、明確な意志表示となっていた。彼は、自らが信じる「上杉家のあるべき姿」を守るため、かつての同僚たちと干戈を交えるという、過酷な戦いにその身を投じたのである。
御館の乱は、外部勢力の介入もあり、越後全土を巻き込む激しい内戦となった。しかし、巧みな外交戦略で武田勝頼を味方につけた景勝方が次第に優位に立ち、乱の趨勢は決していく。景虎の死後も、神余親綱は降伏を拒み、孤独な抵抗を続けた末、壮絶な最期を迎えることとなる。
天正7年(1579年)3月、御館に籠もっていた上杉景虎は、追い詰められた末に自刃し、その生涯を閉じた 7 。これにより、御館の乱における組織的な抵抗は事実上終焉を迎える。景虎方の有力武将であった北条高広は越後から追われ 17 、共に挙兵した本庄秀綱もやがて城を捨てて会津へと逃亡した 19 。
しかし、神余親綱は降伏しなかった。彼は、大勢が完全に決した後も、三条城に籠城し、一年以上にわたって景勝への抵抗を続けたのである 8 。記録によれば、彼は一度和議の調停を申し出たものの、決裂に終わっている 1 。一度主君に刃を向けた以上、もはや生きて許されることはないという、戦国時代の非情な現実を、彼は痛いほど理解していたのであろう。彼の執拗な抵抗は、単なる意地やプライドだけでなく、降伏という選択肢が事実上閉ざされた者の、絶望的な戦いであった。
天正8年(1580年)7月2日、孤立無援の三条城に、ついに最期の時が訪れる。力攻めでは落ちないと見た景勝方は、謀略をもって親綱を討ち取る策に出た。この調略を実行したのは、景勝方の武将・山吉景長であった 1 。山吉氏は、かつて三条城主であったが、親綱が城主となる際に所領を移された一族である 2 。この因縁は、親綱の最期に一層の悲劇性をもたらすことになる。
山吉景長は、三条城内にいた山吉氏の旧臣たちに密かに接触し、内応を誘った。そして、その誘いに応じた者たちの手によって、神余親綱は城内で謀殺された 1 。謙信の時代、外交と経済の最前線で上杉家を支え続けた老臣は、かつての同僚の謀略によって、その生涯の幕を閉じたのである。享年は54歳前後であったと伝えられる 1 。
親綱が守り抜こうとした三条城(中世の三条島ノ城)は、現在の新潟県三条市にある三条乗馬クラブや三条市水防学習館の周辺にあったと推定されている 21 。彼の死は、単なる一武将の死ではない。それは、景勝による「旧体制の清算」と「新体制の確立」を象徴する、決定的な事件であった。謙信によって抜擢された重臣(親綱)が、彼によって所領を奪われた旧領主の一族(山吉氏)の調略によって排除されるという構図は、景勝が勝利の過程で、旧来の人間関係や秩序を一度完全に破壊し、自らに忠実な者たちで家臣団を再構築していくという、冷徹なプロセスを物語っている。神余親綱の死をもって、謙信時代の遺老は一掃され、名実ともに上杉景勝の時代が始まったのである。
神余親綱の生涯を俯瞰するとき、我々は二つの全く異なる顔を持つ一人の武将の姿を目の当たりにする。上杉謙信政権下においては、彼は外交と経済を支え、上杉家の国力形成に不可欠な役割を果たした比類なき「能臣」であった。彼の働きなくして、謙信の威光が全国に轟くことはなかったであろう。しかし、謙信の死という時代の激変期において、彼が長年培ってきた成功体験と旧臣としての矜持は、新当主・上杉景勝が目指した中央集権的な統治体制と激しく衝突し、結果として「逆臣」の烙印を押される悲劇を招いた。
彼の行動原理は、決して忠誠心の欠如から発したものではない。むしろ、それは長年にわたり培われた「上杉家に対する強烈な責任感」と、若き主君の統治能力や器量に対する「深刻な不信」、そして自らの功績と誇りを守ろうとする「老臣の意地」が複雑に絡み合った結果であった。彼は、変わりゆく時代の価値観や権力構造の変化に、最後まで適応することができなかった、悲劇の人物であったと言える。
神余親綱の生涯と死は、歴史的に極めて重要な意味を持つ。それは、御館の乱が単なる後継者争いに留まらず、上杉家の統治構造そのものを根底から変革する、血を伴う内戦であったことを何よりも雄弁に物語っているからである。この内乱によって、親綱のような有為な人材が数多く失われたことは、その後の上杉家の軍事力・国力を著しく衰退させる一因となったことは間違いない 22 。
彼の死後、神余一族が上杉家(後の米沢藩)で再び重用されたという記録は乏しい 23 。彼の系統は、この謀殺によって断絶したか、あるいは歴史の表舞台から完全に姿を消した可能性が高い。神余親綱は、戦国時代の組織変革期における、個人の悲劇と歴史の非情さを一身に体現した武将として、単なる「反逆者」ではなく、その功績と苦悩の両面から再評価されるべき人物である。