戦国時代の歴史を語る上で、神保氏張(じんぼう うじはる)という武将の名は、しばしば佐々成政の有能な家臣、あるいは上杉、織田、徳川と激動の時代の中で主君を変え続けた人物として、断片的に言及されるに留まる 1 。しかし、その断片的なイメージを繋ぎ合わせ、彼の生涯を丹念に追うとき、そこには越中という一地方の権力闘争を起点としながら、天下の趨勢に深く関与し、類稀なる生命力で生き抜いた一人の武将の立体的な姿が浮かび上がってくる。本報告書は、散逸した史料を統合・分析し、神保氏張という人物の生涯を網羅的に再構築することを目的とする。
氏張の生涯を理解するためには、まず彼が属した越中神保氏の歴史的背景を把握する必要がある。神保氏は室町時代、越中守護であった畠山氏の守護代として頭角を現し、射水郡放生津(現在の富山県射水市)を拠点に勢力を拡大した名族である 5 。応仁の乱では、当主の神保長誠が主君・畠山政長方の中心人物として活躍し、一時は将軍・足利義稙を越中に迎えるなど、その勢威は頂点に達した 6 。しかし、その後の神保慶宗の代に、独立を志向して越後の長尾為景(上杉謙信の父)と戦い、敗死。一族は壊滅的な打撃を受ける 6 。天文年間に入り、慶宗の子とされる神保長職が富山城を拠点に再興を果たすも、隣国の雄・上杉謙信との抗争の末にその軍門に降り、神保家は上杉氏への従属を余儀なくされた 6 。
神保氏張は、この神保宗家の栄枯盛衰という大きな潮流の中で、宗家とは一線を画す独自の道を歩み始める。本報告書では、第一章でその謎に満ちた出自を解き明かし、続く各章で上杉、織田、佐々、そして徳川という巨大勢力の狭間で彼が如何にして自らの活路を見出し、行動したのかを時系列に沿って詳述する。最終章では、彼が後世に残した遺産と、その評価について考察を加えることとしたい。
神保氏張の生涯を辿る上で、まず直面するのがその出自を巡る謎である。彼の生年は大永八年(1528年)、没年は文禄元年(1592年)八月五日、享年六十五とされる 1 。名は「氏春」あるいは「氏晴」とも記され、通称として宗五郎、清十郎、官途名として安芸守を名乗った 2 。しかし、その出自については史料によって記述が異なり、大きく二つの説が存在する。
第一の説は、彼が能登の名門、畠山氏の血を引くというものである。江戸幕府が編纂した公式系譜集である『寛政重修諸家譜』には、氏張は「能登守護・畠山義隆の次男として生まれ、越中守護代であった神保氏純の養子に入った」と明記されている 2 。この説は、氏張がそのキャリアの初期において、能登畠山氏の意向を受けて越中で活動していたという史実と符合する点が多く、有力な説として位置づけられている 10 。
一方で、第二の説として、彼が神保氏の庶流の生まれであるとするものも存在する。これは「神保氏重の子」とする記述に基づくもので、彼が神保一族の一員として越中の地に根差していたことを示唆している 1 。
これらの説の真偽を確定することは困難であるが、確かなことは、氏張が神保宗家の当主であった神保長職とは明確に敵対関係にあったという事実である 2 。当時、長職は越後に本拠を置く上杉謙信に敗れ、その支配下に組み込まれていた 7 。この状況下で、氏張は宗家に対抗するため、反上杉の旗幟を鮮明にする。具体的には、能登畠山氏の重臣であった温井氏や、当時上杉氏と激しく対立していた越中一向一揆と連携し、独自の勢力を築こうと画策したのである 2 。
この一連の動きから見えてくるのは、氏張の初期の政治的立場が、その出自そのものよりも、越中における神保宗家との深刻な内紛と対立関係によって規定されていたという事実である。宗家の当主・長職が上杉謙信に臣従する中、氏張が自らの勢力を伸張させ、生き残りを図るためには、その主筋である上杉氏に敵対する勢力と手を結ぶことは、必然的な戦略であったと言えよう。彼の波乱に満ちたキャリアは、越中という限定された地域内での熾烈な権力闘争から幕を開けたのである。
神保氏張の政治的・軍事的活動の拠点となったのが、越中国射水郡に位置する守山城であった 1 。この城は、松倉城、増山城と並び「越中三大山城」の一つに数えられる要害であり、日本海沿岸の重要港であった放生津を守る詰城としての役割も担っていた 10 。二上山に築かれたこの城からは、氷見・射水のみならず砺波・新川平野の一部までを一望でき、その戦略的重要性は極めて高かった 18 。この地理的優位性こそが、氏張が有力大名の狭間で確固たる存在感を示し得た物理的基盤であった。
反上杉派の旗頭となった氏張は、積極的な軍事行動を展開した。一時は神保宗家の本拠地であった富山城を占拠し、さらに上杉方の最前線である魚津城にまで攻め込むなど、その勢いは目覚ましいものがあった 2 。しかし、彼の前には戦国最強と謳われた軍神・上杉謙信が立ちはだかる。天正四年(1576年)、謙信自らが率いる大軍の本格的な侵攻を受け、氏張は本拠である守山城に追い詰められ、ついに敗北を喫した 2 。
翌天正五年(1577年)、氏張は謙信に服属。上杉家の将士の名を連ねた名簿『上杉家家中名字尽』にその名が記されることとなり、一時的にその軍門に降った 2 。これは単なる屈服ではなく、強大な敵の前で家名を保ち、再起の機会を窺うための、極めて現実的な政治判断であった。
氏張にとって最大の転機は、天正六年(1578年)三月の謙信の急死であった。越後の龍の死は、北陸の勢力図を一変させる。氏張はこの好機を逃さず、即座に上杉氏から離反し、西から怒涛の勢いで勢力を拡大していた織田信長に接近した 2 。
彼は織田方の武将として、同じく信長に仕えていた神保宗家の神保長住や、能登の有力国人であった長連龍らと共に、織田軍による越中・能登平定戦に協力する 2 。特に能登の長連龍との連携は緊密であり、天正七年(1579年)には自らの妹を連龍に嫁がせ、強固な姻戚関係を構築した 2 。この婚姻政策は、彼の政治家としてのしたたかさを示している。
氏張の織田政権内での地位を決定的なものとしたのが、天正九年(1581年)の出来事である。この年、彼は織田信長の妹(神保・稲葉夫人)を正室として迎えた 2 。これは、一地方の国人が中央の天下人の妹を娶るという異例の厚遇であり、氏張が信長から絶大な信頼と高い評価を得ていたことの何よりの証左であった。
この背景には、信長の極めて現実的な人材登用策があったと考えられる。信長は当初、神保宗家の嫡流である神保長住を越中に送り込み、富山城主として上杉方への抑えとしようとした 6 。しかし、長住は家中の内紛を収拾できず、最終的に信長の怒りを買って追放されるという失態を演じる 6 。一方で氏張は、謙信死後いち早く織田方に転じ、長連龍との連携を成功させるなど、着実に実績を積み上げていた。対上杉戦線の最前線である越中を任せるにあたり、信長が名門の家柄だけの長住よりも、実力と忠誠を示した氏張を重用したのは当然の帰結であった。信長の妹との婚姻は、長住の失敗が明らかになった後、氏張を正式な織田一門の武将として公認し、越中支配の安定化を図るための決定的な一手だったのである。
天正九年(1579年)末、織田信長は腹心の猛将・佐々成政を越中に派遣し、対上杉戦線の総指揮を委ねた。この成政の入部に伴い、神保氏張の立場はさらに向上する。彼は成政の与力筆頭として、その越中支配を支える中心的存在となった 12 。成政は氏張を深く信頼し、自らの娘を氏張の嫡男・氏則(清十郎)に嫁がせた 2 。これにより、両家は単なる主従関係を超えた姻戚関係で結ばれ、氏張は佐々家の一門衆として破格の待遇を受けるに至ったのである。
成政の腹心として、氏張は軍事・外交の両面でその手腕を遺憾なく発揮した。天正十一年(1583年)には、成政と共に上杉方の重要拠点である魚津城を攻め落とし、大きな武功を挙げている 2 。さらに翌天正十二年(1584年)、本能寺の変後の覇権を巡って羽柴秀吉と徳川家康が対立した「小牧・長久手の戦い」が勃発すると、成政は家康・織田信雄方に与して反秀吉の兵を挙げる。氏張も主君に従い、秀吉方であった前田利家の領国・能登へと侵攻。勝山城に拠点を構え、羽咋の一向一揆と結んで前田軍と激しく戦った 2 。
しかし、この反秀吉の戦いの中で、氏張は生涯最大の苦杯を嘗めることとなる。同年九月、成政は加賀と能登の連絡を遮断すべく、総勢一万五千の大軍で前田方の末森城を包囲した 23 。この時、氏張は父子ともに、金沢城から救援に駆けつけるであろう前田利家本隊の進軍を阻止するという、作戦の成否を左右する極めて重要な役割を担い、北川尻に布陣していた 2 。
交戦勢力 |
指導者・指揮官 |
兵力 |
役割 |
佐々軍 |
佐々成政 |
15,000 |
末森城を包囲 |
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神保氏張・氏則 |
(上記の内数) |
前田利家救援軍の迎撃・阻止 |
前田軍 |
奥村永福・千秋範昌 |
300 |
末森城にて籠城 |
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前田利家 |
2,500 |
金沢城より救援に出陣 |
兵力では圧倒的に優位にあった佐々軍であったが、ここで氏張は致命的な失策を犯す。利家率いる救援軍は、氏張の警戒網をかいくぐり、手薄な海岸線沿いを疾走。末森城を包囲する佐々軍本隊の背後を急襲したのである 23 。不意を突かれた成政軍は混乱に陥り、撤退を余儀なくされた。この「末森城の戦い」での敗北は、佐々成政の反秀吉戦略を根底から覆す決定的な一敗となり、氏張の軍歴に大きな汚点を残す結果となった。
末森城での敗戦後、劣勢に立たされた成政に対し、氏張は起死回生の一策を進言する。それは、越中における一大勢力であった一向一揆を味方につけるというものであった 2 。かつて自らも一向一揆と連携して上杉氏と戦った経験を持つ氏張ならではの、現実的かつ大胆な献策であった。この進言を受け入れた成政は、天正九年(1581年)に自らの配下である石黒成綱に焼き討ちさせていた勝興寺の還住(再興)を許可する 14 。その際、氏張は自らの拠点の一つであった古国府の城地を勝興寺に寄進し、その移転を実現させた 2 。この一事は、氏張が単なる武辺者ではなく、地域の宗教勢力を動かす高度な政治力をも兼ね備えていたことを物語っている。
しかし、こうした努力も空しく、天正十三年(1585年)、秀吉は十万を超える大軍を率いて越中に侵攻(富山の役)。圧倒的な兵力差の前に成政は降伏し、氏張もまた、主君と運命を共にすることとなった 2 。
豊臣秀吉に降伏した佐々成政であったが、その武勇は高く評価され、越中を取り上げられた代わりに、天正十五年(1587年)の九州平定後、肥後一国を与えられた。神保氏張は、この主君の転封に際しても忠義を尽くし、長年拠点としてきた故郷・越中を離れ、遥か肥後の地へと随行した 1 。これは、彼の成政に対する忠誠心の厚さを如実に示すものであった。
しかし、肥後の統治は困難を極めた。成政は秀吉から性急な改革を禁じられていたにもかかわらず、入国後間もなく強引な検地を強行。これが肥後の国人衆の猛烈な反発を招き、大規模な一揆(肥後国人一揆)が勃発した 2 。一揆勢は数万に膨れ上がり、成政の居城である隈本城(後の熊本城)に殺到した。当時、成政自身はまだ九州遠征の途上にあり、城内の兵力は極めて手薄であった 27 。
この絶体絶命の危機において、城代として隈本城の守備を指揮したのが神保氏張であった。彼は歴戦の武将としての経験を活かし、わずかな兵力で一揆勢の猛攻を防ぎきり、城を死守するという目覚ましい武功を立てたのである 2 。この籠城戦の成功は、末森城での失態を雪辱して余りある、彼の武将としての能力の高さを改めて証明するものであった。
やがて秀吉が派遣した鎮圧軍の活躍により一揆は平定されたが、秀吉は一揆勃発の責任をすべて成政に問い、無情にも切腹を命じた 14 。天正十六年(1588年)、主君・成政が非業の最期を遂げると、佐々家は改易。その腹心であった氏張もまた、全ての地位と所領を失い、浪人の身へと転落したのである 1 。
肥後での一連の出来事は、氏張の生涯における大きな逆説を示している。主君である佐々成政の肥後統治は、政治的には完全な失敗に終わった。しかし、その失敗の過程において、氏張は隈本城を守り抜くという極めて困難な軍事的任務を見事に達成した。戦国時代において、個人の武勇や指揮能力は、仕える主家の浮沈とは別個に評価されることが少なくない。豊臣政権下で浪々の身となった氏張にとって、この隈本城での輝かしい実績は、次の仕官先を探す上での最大の「武功」となった。後に天下を狙う徳川家康のような人物が、このような経験豊富で有能な武将を見逃すはずはなく、彼の招聘は単なる偶然ではなく、この肥後での奮戦によってもたらされた必然であったと分析できる。
主君・佐々成政を失い、浪々の身となっていた神保氏張に、再び転機が訪れる。天正十七年(1589年)、関東に移封された徳川家康が、その武勇と経験を高く評価し、彼を召し出したのである 1 。
家康に仕えることになった氏張は、下総国香取郡内に二千石の知行を与えられ、徳川家直参の旗本として再生を果たした 5 。この知行地は、高津原村や桧木村など、複数の村にまたがる分散知行であった 31 。天正十九年(1591年)七月付で関東検地奉行の伊奈忠次・長谷川長綱から発行された知行割の書状が現存しており、翌天正二十年(1592年)二月には家康自らの朱印状によって、その領主権が正式に認められている 31 。
旗本としての氏張に対する家康の信頼は厚く、重要な役目も任されている。文禄元年(1592年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に際し、家康が肥前名護屋城へ出陣すると、氏張は内藤信成らと共に江戸城の留守居役を命じられた 7 。主君が本拠地を長期間空ける際にその守りを託されることは、最大限の信任の証であり、彼が徳川家中で確固たる地位を築いていたことを示している。
しかし、この江戸留守居役を務めていた文禄元年(1592年)八月五日、氏張は江戸の屋敷にて病のため没した。享年六十五 1 。その生涯は、越中の豪族として始まり、上杉、織田、佐々と主を変え、最後は徳川の旗本として幕を閉じた。まさに戦国乱世の荒波を体現した一生であった。
彼の墓は、かつての知行地であった下総国伊能村(現在の千葉県成田市伊能)にある曹洞宗の寺院、宝応寺に築かれた 5 。宝応寺には今も氏張とその子・氏長の墓が並んでおり、氏張の墓石には、彼の原点である「越中守山之城主」の文字が刻まれていると伝わっている 20 。
氏張の徳川家でのキャリアは、戦国を生き抜いた地方領主が、新たな統一政権下でどのように再編・吸収されていったかを示す典型的な事例と言える。彼はもはや越中守山城を拠点とする独立性の高い領主ではなく、巨大な徳川家の官僚機構の一員であった。知行地は故郷から遠く離れた関東に与えられ、主君の本拠地である江戸で奉公する。その姿は、在地性の強い中世的領主から、主君の命令によって配置される近世的な武士(家臣)への転換を象徴している。氏張の生涯の最終章は、戦国時代の終焉と、来るべき徳川幕藩体制の萌芽を色濃く反映しているのである。
神保氏張の生涯は文禄元年(1592年)に幕を閉じたが、彼が激動の時代を乗り越えて繋いだ血脈は、その後も存続した。子の氏則、氏長らは父の遺領を継ぎ、徳川家の旗本として江戸時代を通じて家名を保った 6 。これは、幾度となく主家を失う危機に瀕しながらも、自らの武勇と才覚を頼りに新たな活路を見出し続けた氏張の、生涯を懸けた最大の功績であったと言えるだろう。
ところで、神保氏張にまつわる話として、日本最大の古書店街として知られる東京の「神田神保町」の地名が、氏張の子孫の屋敷に由来するという説が広く流布している 4 。しかし、これは歴史的な混同に基づく誤解である。
詳細な調査によれば、神保町の地名の由来となったのは、元禄年間に同地に屋敷を構えた旗本・神保長治という人物である 6 。この神保長治もまた越中神保氏の血を引く人物ではあるが、その家系は神保宗家の当主・神保長職の子である長住に連なる系統である 4 。一方で、本報告書の主題である神保氏張の家系は、宗家とは対立した庶流であり、両者は全く別の系統に属する 6 。したがって、神田神保町と神保氏張の間に直接的な関係はない。この点は、歴史的事実として明確に区別されるべきである。
氏張の直接的な遺産とは言えないまでも、彼の活躍の主舞台であった越中の地、特に現在の富山県高岡市には、今なおその記憶が息づいている。例えば、高岡市内を流れる千保川には、彼の名を取った「神保橋」が架けられており、地域史における彼の存在の大きさを示している 4 。また、彼が佐々成政への進言によって再興を助けた勝興寺は、現在も伏木の地に壮麗な伽藍を構え、その歴史を伝えている 16 。
神保氏張は、出自の不確かさや神保宗家との対立という逆境からそのキャリアをスタートさせた。しかし、彼は時勢を読む鋭い政治感覚、主君の信頼を勝ち取る実務能力、そして窮地を打開する確かな軍事的能力を武器に、戦国乱世から徳川の世へと至る日本史の大転換期を、見事に生き抜いた。その生涯は、上杉、織田、佐々、徳川という巨大勢力の狭間で翻弄されながらも、決して埋没することなく、自らの価値を最大限に発揮して家名を未来へと繋いだ、稀有な武将の物語である。彼は、戦国時代における地方武将の、一つの理想的な生存戦略を我々に提示していると言えよう。