本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、神保相茂(じんぼう すけしげ)の生涯を、現存する多様な史料を横断的に分析し、その全体像を明らかにすることを目的とする。相茂の名は、戦国時代の終焉を告げる大坂の陣、とりわけその最終局面である慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣において、徳川方の武将として参陣しながら、味方であるはずの伊達政宗軍の攻撃によって部隊もろとも壊滅したという、特異な逸話によって知られている。
相茂は、豊臣政権から徳川幕府へと移行する激動の時代を生きた旗本である。彼の生涯は、戦国の遺風が色濃く残る中で、新たな支配体制へと組み込まれていく中小武士の一つの典型として捉えることができる。しかし、その悲劇的な最期を巡る「伊達の味方討ち」という衝撃的な伝承は、彼を単なる一旗本に留まらない、歴史研究上、極めて興味深い考察の対象たらしめている 1 。
本報告では、江戸幕府の公式編纂物である『徳川実紀』や『寛政重修諸家譜』を基軸としつつ、軍記物である『難波戦記』、さらには薩摩藩の報告記録である『薩藩旧記』といった、性質の異なる史料群を批判的に比較検討する。これにより、公式記録が語る「名誉の戦死」と、それに異を唱える「味方討ち」説の双方を検証し、神保相茂という一人の武将の死の真相に迫るとともに、その背景にある草創期の徳川幕府の政治力学と、伊達政宗という武将の特異性を浮き彫りにすることを目指す。
神保相茂の生涯を理解するためには、まず彼が属した神保一族の歴史的背景と、父・春茂の代における立身の過程を把握する必要がある。彼の家系は、由緒ある名門の血を引きながらも、時代の荒波の中で巧みに主家を乗り換え、新たな支配者の下でその地位を確立していった。
神保氏の源流は、室町幕府の管領家であった畠山氏に古くから仕えた譜代家臣であり、特に越中国(現在の富山県)の守護代として勢力を誇った名門武家であった 4 。応仁の乱においては、畠山政長の腹心として神保長誠が京都で活躍し、明応の政変で追われた将軍・足利義稙を越中の本拠地・放生津に迎えるなど、一族は中央政局においても重要な役割を果たした 6 。
相茂の家系は、この神保長誠から分かれた一派であり、主君畠山氏のもう一つの領国であった紀伊国(現在の和歌山県)有田郡を本拠としていた 2 。江戸幕府が編纂した大名・旗本の公式系譜集である『寛政重修諸家譜』においても、相茂の家系は神保長誠を祖とする、越中神保氏の正統な流れを汲むものとして明確に記載されている 2 。
徳川幕府の支配体制において、各家の「家格」や「由緒」は極めて重要な意味を持った。幕府が公式の系譜集に、相茂の家が越中の名門の血筋であることを公認したという事実は、神保家が単なる新興の旗本ではなく、敬意を払われるべき由緒正しい家柄として幕府に認識されていたことを示している。この幕府による「お墨付き」は、神保家の幕府内での地位を保証する役割を果たし、後に詳述する相茂の死後、その遺児に対して異例とも言える厚遇がなされる背景の一つとなったと考えられる。
相茂の父である神保春茂は、戦国末期の動乱を生き抜いた、機を見るに敏な武将であった。主家であった紀伊畠山氏が織田信長の勢力拡大の過程で没落すると、春茂は新たな天下人である豊臣秀吉、およびその弟で紀伊・大和などを支配した豊臣秀長に仕える道を選んだ 2 。
天正十三年(1585年)、秀吉が紀州征伐に乗り出すと、春茂は秀吉方に内通し、自身が守る城の開城に貢献したとする記録が残っている 10 。このような主家の没落という危機を、新たな支配者への迅速な臣従によって乗り切る処世術は、当時の多くの武士に見られた生き残り戦略の典型であった。
この功績が認められ、春茂は豊臣政権下で大和国高市郡(現在の奈良県明日香村周辺)において六千石の知行を与えられた 2 。この六千石という石高は、後の徳川政権下で旗本としてキャリアをスタートさせる上で、極めて重要な基盤となった。父・春茂のこの決断と成功がなければ、息子・相茂の歴史も、その後の旗本神保家の存続もなかったであろう。
神保相茂は天正十年(1582年)に誕生した 1 。文禄五年(1596年)、父・春茂の死に伴い、家督と大和国高市郡の六千石を相続する 1 。当初は父と同様に豊臣秀頼に仕え、伏見に居を構えていた 2 。
しかし、慶長三年(1598年)の秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康へと大きく傾いていく。慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、相茂は豊臣恩顧の武将でありながら、家康率いる東軍に与するという重大な決断を下す。この決断は、神保家の将来が豊臣家ではなく、徳川家にあることを見越したものであった。相茂は徳川主力軍に従い、会津の上杉景勝討伐のために下野国小山(現在の栃木県小山市)まで進軍し、その後の関ヶ原の本戦に至る過程では、諸将と共に西軍の拠点であった岐阜城の攻略に参加し、武功を挙げた 1 。
戦後、相茂の功績は家康に認められ、千石の加増を受けて合計七千石を領する徳川家の旗本となった 2 。これにより、神保家は豊臣大名の一員から徳川幕府の直臣へと、その立場を完全に移行させたのである。その後も相茂は幕府への忠勤に励み、慶長十五年(1610年)には丹波国亀山城の普請(城郭の建設工事)を務め、その働きを二代将軍・徳川秀忠から書状をもって賞賛されている 2 。この感状は、相茂が単に東軍に参加したというだけでなく、徳川幕府から信頼される旗本として、その地位を確実に固めていたことを示す動かぬ証拠である。
徳川家旗本として着実に実績を積んでいた神保相茂であったが、彼の運命は、戦国時代の最後を飾る大坂の陣において、劇的な形で暗転する。勇敢な戦いぶりの末に迎えた壮絶な最期は、幕府の公式記録では名誉の戦死として語られる一方で、その裏には全く異なる真相が隠されていると囁かれ続けてきた。
慶長十九年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、相茂は徳川方として約三百人の兵を率いて出陣した。彼の部隊は、徳川譜代の中でも特に勇猛果敢で知られた武将、水野勝成の指揮下に配属された 2 。
和議が破れ、慶長二十年(1615年)に大坂夏の陣が始まると、神保隊は再び水野勝成隊の一翼を担い、大坂方との決戦に臨んだ。五月六日、大和方面から大坂城へ進軍する徳川軍を豊臣方の後藤基次らが迎え撃った道明寺の戦いにおいて、神保隊は奮戦し、敵兵の首を九つ討ち取るという具体的な武功を挙げている 2 。
この道明寺での戦功の記録は、相茂の最期を考察する上で極めて重要である。なぜなら、翌日の悲劇的な全滅に至る直前まで、神保隊が臆することなく勇敢に戦い、徳川軍の一員として貢献していた事実を明確に示しているからである。この事実は、後に伊達政宗が味方討ちの弁明として述べたとされる「神保隊が敵に崩され、混乱していた」という主張の信憑性を検討する上で、有力な反証となり得る。
大坂夏の陣の雌雄を決した五月七日の天王寺・岡山合戦。神保相茂隊は、この日も水野勝成隊の配下として、徳川軍の最前線で戦った 2 。この日の戦いでも敵兵の首を十三討ち取るなど活躍を見せたが、豊臣方の猛将であり、熱心なキリシタンとしても知られる明石全登(あかし てるずみ)が率いる決死隊の突撃を受け、激戦に巻き込まれた 2 。
この時の神保隊の最期について、江戸幕府が後に編纂した公式の歴史書である『徳川実紀』(二代将軍秀忠の記録である『台徳院殿御実紀』)は、次のように簡潔に、しかし英雄的に記している。
「此の戦に大和組の神保長三郎は、主従共に三十六騎馬同枕に討ち死にす」 2
この記述によれば、神保相茂(通称・長三郎)とその配下の騎馬武者三十六騎、そして雑兵を含めた部隊約三百人は、明石全登隊との壮絶な死闘の末に、一人残らず討ち死にするという「名誉の全滅」を遂げたとされている。享年三十四。法名は宗範といい、その遺体は故郷である大和国の当麻寺(たいまでら)に葬られた 1 。
これは、徳川幕府による「公式見解」である。そこでは、神保相茂は徳川家のために命を捧げた忠臣として描かれ、その死は敵との正々堂々たる戦いの結果であったと結論付けられている。味方討ちという不名誉な疑惑については、一切触れられていない。この沈黙は、単なる記録の欠落とは考え難い。幕府の威信を保ち、かつ六十万石という強大な力を持つ外様大名・伊達家との間に無用の波風を立てることを避けるための、高度に政治的な配慮が働いた結果であると強く推察される。幕府にとって、譜代の旗本が外様大名に、それも戦の混乱の中で撃たれたという事実は、決して公にできない不都合な真実であった。そのため、相茂に「名誉の戦死」という物語を与え、事件そのものに幕を引こうとしたのである。
幕府の公式記録が語る英雄的な戦死とは全く異なる物語が、事件直後から囁かれていた。それは、神保相茂隊の全滅が、敵である豊臣方との戦闘によるものではなく、後方に布陣していた味方、伊達政宗軍の一斉射撃によるものであったという衝撃的な説である。この「伊達の味方討ち」説は、複数の史料にその痕跡を残しており、相茂の死の真相を解き明かす上で避けては通れない。
神保相茂の死が伊達政宗軍の鉄砲射撃によるものであったとする説は、同時代から広く流布していたことが確認できる 3 。この説を裏付ける主要な史料として、江戸時代中期に成立した軍記物『難波戦記』と、島津家が国元への報告をまとめた『薩藩旧記』が挙げられる。
『難波戦記』には、明石全登隊との戦闘で混乱した神保隊が、後方にいた伊達勢の陣に突っ込む形となり、これを伊達勢が敵と見誤ったか、あるいは意図的に射撃したという趣旨の記述が見られる 25 。軍記物であるため物語的な脚色が加わっている可能性は否定できないが 26 、事件の大枠を伝える史料として重要である。
さらに決定的とも言えるのが、『薩藩旧記』の記録である。これは、当時京にいた薩摩藩の留守居役(外交・情報収集担当)が国元の藩主へ送った報告書をまとめたものであり、同時代における事件の受容のされ方を知る上で極めて史料的価値が高い 28 。そこには、次のように生々しく記されている。
「伊達殿は今度味方討ち申され候こと。然りともいえども御前(将軍)はよく候えども、諸大名衆笑いものにて比興との由、御取沙汰の由に候」 8
この一文は、伊達政宗による味方討ちが、事件直後から徳川軍に参加していた諸大名の間で公然の事実として噂され、「卑怯な行いだ」と嘲笑の的になっていたことを示している。性質の異なる二つの史料が同じ事件を伝えている点は、味方討ち説の信憑性を大きく高めるものである。
事件後、生き残った神保家の家臣らは、上官である水野勝成や幕府の重臣・本多正純を通じて、伊達家に対して正式に抗議を行ったと伝えられている 8 。
これに対する伊達政宗の弁明は、彼の常人離れした性格を象徴するものであった。『大坂夏陣推察記』などの記録によれば、政宗は悪びれることなく次のように主張したという。
「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」 12
この「伊達の軍法に敵味方の区別なし」という、開き直りとも受け取れる主張は、諸大名の失笑を買ったとされている 12 。では、政宗の真の動機は何だったのか。これについては、いくつかの説が提唱されている。
これらの説は必ずしも排他的ではなく、複合的に作用した可能性が高い。政宗の持つ冷徹な合理主義、天下への野心を捨てきれない功名心、そして最新兵器への強い傾倒といった彼の複雑な性格 38 が、戦場の混乱という極限状況下で、「味方討ち」という常軌を逸した決断を導き出したと考えるのが最も自然であろう。
神保相茂の死因を巡る記録の相違は、事件の真相と、それを取り巻く政治的状況を考察する上で重要な手がかりとなる。以下の表は、主要な史料の記述を比較したものである。
史料名 |
成立時期 |
史料の性格 |
記述内容(死因) |
信頼性・特記事項 |
『徳川実紀』 |
江戸時代後期 |
幕府公式編年史 |
豊臣方の明石全登隊との激戦の末、名誉の戦死 2 。 |
幕府の公式見解。伊達家への配慮から、味方討ちの事実は意図的に隠蔽された可能性が極めて高い 41 。 |
『寛政重修諸家譜』 |
江戸時代後期 |
幕府公式系譜集 |
天王寺表にて奮戦し討死 15 。 |
『徳川実紀』と同様、公式の記録であり味方討ちには触れない。相茂の奮戦を強調する。 |
『難波戦記』 |
江戸時代中期 |
軍記物語 |
混乱した神保隊が伊達勢に突入し、射撃された 25 。 |
物語的脚色を含むため、細部の信憑性には注意が必要だが、味方討ちの伝承が存在したことを示す 26 。 |
『薩藩旧記』 |
江戸時代前期 |
藩政史料(報告書) |
伊達政宗による味方討ちであり、諸大名の笑いものになった 8 。 |
事件直後の同時代的な情報であり、噂の内容として非常に高い史料的価値を持つ。事件が公然の秘密であったことを示す 30 。 |
では、なぜ幕府は伊達政宗のこの前代未聞の行為を不問に付したのか。最大の理由は、相手が六十万石を領する外様の大大名であったという一点に尽きる 8 。元和偃武によって天下泰平が宣言された直後であり、幕府としては政宗のような有力外様大名との関係を悪化させることは、何としても避けたかった。家康は生前、政宗の野心を常に警戒しつつも、その実力を高く評価し、巧みに統制下に置こうと腐心していた 32 。この状況下で、七千石の一旗本のために政宗を処罰することは、幕府の政治的利益に合致しなかったのである。
以上の分析から、神保相茂の死の真相について次のように結論付けられる。直接的な物証が残されているわけではないため断定はできない。しかし、①幕府公式記録の不自然なまでの沈黙、②性質の異なる複数の史料が「味方討ち」の存在を伝えていること、③事件が同時代的に広く噂として流布していた事実、④伊達政宗の特異な性格と、鉄砲に極端に偏重した軍編成という状況証拠、これらを総合的に勘案すると、**「明石全登隊との交戦によって混乱状態に陥った神保隊に対し、伊達政宗が陣形維持や功名心といった何らかの意図をもって鉄砲射撃を命じ、結果的に壊滅させた」**という歴史的蓋然性は、極めて高いと言わざるを得ない。
父・相茂の悲劇的な死は、しかし、神保家の断絶を意味しなかった。むしろ、その死をきっかけとして、遺された一族は徳川幕府から特別な庇護を受け、大身旗本として幕末に至るまで家名を保つことになる。この事実は、草創期の幕府が駆使した巧妙な統治術を如実に物語っている。
父・相茂が戦死した時、嫡男の茂明はわずか数え五歳の幼児であった 2 。当時の慣習では、当主が若年で戦死し、跡継ぎが幼少である場合、家禄の減封や、最悪の場合は改易(家名断絶)となることも珍しくなかった。
しかし、神保家は異例の措置を受ける。茂明は、その外祖母(杉若無心の室)と共に、幕府の最高実力者の一人であった本多正信の取り計らいによって、駿府城にいた大御所・徳川家康に直接拝謁し、父の戦死を報告する機会を与えられたのである 2 。家康は幼い茂明の家督相続を直々に認め、父の遺領である七千石は一切減らされることなく安堵された 2 。
この一連の出来事は、単なる温情措置として片付けることはできない。これは、徳川幕府による高度な政治的パフォーマンスであった。表立って伊達政宗を罰することはせず、その大大名としての面子を保たせる一方で、被害者である神保家の遺児を破格の待遇で手厚く保護した。この措置により、幕府は複数の政治的効果を同時に得たのである。第一に、伊達家との無用な対立を回避した。第二に、取り計らった本多正信ら譜代家臣の顔を立てた。そして最も重要なことは、この一件を通じて、全国の旗本・御家人に対し、**「幕府への忠勤に励み、たとえ非業の死を遂げたとしても、その家は必ず幕府が責任をもって安泰にする」**という強力なメッセージを発信したことである。これは、武断政治から文治政治へと移行する過程で、全ての武士たちの忠誠心を徳川家へと確実に向けるための、極めて巧みな統治術であったと言える。
幕府の庇護の下、神保茂明は無事に成長し、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光に仕えて順調にキャリアを重ねていく。寛永十一年(1634年)の家光上洛の際には供奉の一員に選ばれ、寛永十七年(1640年)には甲府城の城番(守備責任者)を命じられるなど、幕府の要職を歴任した 46 。特に慶安三年(1650年)には、幕府の威信を象徴する巨大な御座船「大安宅船」の修理奉行という大役を拝命し、その功績により将軍から羽織を賜っている 46 。
さらに、神保家はその家格においても特別な待遇を受けた。すなわち、大名に準ずる格式を持ち、江戸在住を義務付けられる他の多くの旗本とは異なり、領地での居住と江戸への参勤交代が認められる特別な旗本「交代寄合」に列せられたのである 8 。七千石クラスの旗本が交代寄合となるのは異例であり、幕府が神保家をいかに重視していたかを示す動かぬ証拠である。
茂明は元禄四年(1691年)に八十一歳の長寿を全うして死去した。その亡骸は江戸の谷中にある大行寺に葬られ、以後、同寺が旗本神保家の菩提寺となった 8 。茂明の子孫はその後も大身旗本として家名を保ち、幕末まで存続した 4 。父・相茂の悲劇的な死は、皮肉にも、その後の神保家に幕府からの特別な庇護と高い家格をもたらす結果となった。これは、徳川幕府の支配体制が、個々の事件の真相追及という正義よりも、体制全体の安定と秩序維持という政治的合理性を優先する論理で動いていたことを、改めて示している。
徳川家旗本、神保相茂の生涯は、戦国乱世の終焉と徳川泰平の時代の到来という、日本の歴史における大きな転換点を象徴するものであった。紀伊国の有力武家の家に生まれ、父・春茂の代に豊臣政権下で地位を築き、自らは関ヶ原の戦いで徳川家康に与することで、新たな時代への適応を果たした。徳川家への忠勤に励み、大坂の陣では勇敢に戦ったが、戦国時代の混沌と力が支配する論理の最後の犠牲者の一人として、志半ばで非業の死を遂げた。
彼の死を巡る「伊達の味方討ち」説は、単なる歴史のゴシップとして片付けられるべきではない。この逸話は、第一に、敵味方が入り乱れる大坂の陣の戦場の実態、第二に、伊達政宗という武将の常軌を逸した行動原理と冷徹な合理性、そして第三に、草創期の徳川幕府が抱えていた有力外様大名に対する統制の難しさ、という三つの重要な歴史的要素が交差する、時代の転換点を象徴する事件として再評価されるべきである。幕府の公式記録が沈黙を守り、軍記物や他藩の記録がその真相を囁くという構造自体が、この時代の複雑な政治状況を物語っている。
そして、相茂の死にもかかわらず、その遺児・茂明の家系が大身旗本、さらには交代寄合という破格の待遇で厚遇され存続した事実は、徳川幕府の支配体制の巧妙さを見事に示している。幕府は、個別の事件の是非を曖昧にすることで伊達政宗という有力大名の面子を保ちつつ、忠死した家臣の遺族を手厚く保護することで、全ての家臣団に対する無言のメッセージを発し、その求心力を高めるという、高度な政治的判断を下した。神保相茂の個人的な悲劇は、結果として、二百六十年に及ぶ徳川の泰平の世を盤石にするための、一つの礎となったのである。
西暦 |
和暦 |
神保相茂の動向 |
神保茂明の動向 |
関連事項 |
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1582年 |
天正10年 |
誕生 1 。 |
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1596年 |
文禄5年 |
父・春茂の死により家督相続。大和国高市郡6,000石を領し、豊臣秀頼に仕える 1 。 |
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1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い で東軍に属す。戦後、1,000石を加増され、7,000石の徳川家旗本となる 2 。 |
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1610年 |
慶長15年 |
丹波国亀山城の普請を務め、将軍秀忠より賞される 2 。 |
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1611年 |
慶長16年 |
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誕生 46 。 |
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1614年 |
慶長19年 |
大坂冬の陣 に水野勝成隊に属して参陣 2 。 |
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1615年 |
慶長20年/元和元年 |
5月6日、 道明寺の戦い で戦功を挙げる 2 。 |
5月7日、天王寺・岡山合戦にて討死。享年34 1。 |
父の戦死(当時5歳)。本多正信の計らいで家康に拝謁し、家督相続を許される 2 。 |
豊臣氏滅亡。元和偃武。 |
1625年 |
寛永2年 |
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7,000石の知行を改めて賜り、正式に旗本となる 46 。 |
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1634年 |
寛永11年 |
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将軍家光の上洛に供奉する 46 。 |
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1640年 |
寛永17年 |
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甲府城の城番を命じられる 46 。 |
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1650年 |
慶安3年 |
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大安宅船の修理奉行を命じられる 46 。 |
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1682年 |
天和2年 |
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致仕(隠居) 46 。 |
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1691年 |
元禄4年 |
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死去。享年81。江戸谷中の大行寺に葬られる 46 。 |
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